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    フロトレ
    ※オメガバース
    ※モブトレ要素

    結構前のやつを再掲

    愛に流されて恋に生きろ言いなりになる事を嫌うフロイドは初めてそれと対峙した時に沸き上がった相反する感情を今でも詳細に思い出すことが出来る。楽しいけれども苦手で嫌いになりかけている飛行術での一、二年合同授業。教える事によって自身を高めるだかなんだか知らないが、要は教材にされているような物だろうと不機嫌極まりない状態で彼は箒を握っていた。おもちゃ扱いしやがって。天に向かって真っ直ぐに伸びる青々とした狩り揃えられた芝生を踏み折ったり箒で薙いだりしていた時、それは現れた。
    一つ心臓が大きく打って、そのままの勢いで鼓動が速まる。初めて立った砂浜よりも熱い何かが身体中を駆け巡りフロイドは箒を握っていた手で自身の左胸を掴んだ。疑問を音にしようとした口からは言葉は出てこず、何かが飛び出してきそうな胸を見れば幾つも雫が落ちている。それが曖昧に開かれた口からだらだらと垂れ流される自身の唾液だと気づいた時に彼は漸く周囲の喧騒に気がついた。隣で肩に手を置き背中を支える片割れと幼馴染みの声は遠くぼやけているのに、数メートル離れた人だかりの中心にいる人物の息遣いだけが鮮明だ。膝を折って背中を丸め、顔を上げようとしている彼の傍にいる人間を全員蹴散らしたい衝動に駆られる。どうした大丈夫かと、名前を呼ぶ声が遠い。集団の中心の男がゆっくりと顔を上げて悲壮感のある欲を孕む溶け落ちそうな黄金色と視線があった瞬間、フロイドは沸き上がる泣き出したくなるような自己主張を振り払うようにふざけるなと声を上げた。

    弱肉強食の世界で生きている癖に、人魚はどこか夢見がちな種族だ。海の中のエレメンタリースクールで、第二性については学んでいる。第六感が教えてくれる運命の番についての話を聞かされた時、お綺麗な人魚達が溢した感嘆の声に舌打ちしたのをフロイドはしっかりと覚えていた。運命だとか、そんなよく解らないモノに決められる事の何が嬉しいのか理解できなかったのだ。父と母は運命ではないらしいがそれはそれは幸せそうである。一生を添い遂げるべき相手をそんな不可解なものに決められて嬉しいのだろうかと、フロイドは片割れと幼馴染みに不満そうに話した。もしもそんな奴が本当にいたとして、出会ったとして、俺はそんなのには流されない。人と形を見て愛したいと思った奴と恋をするんだと、幼いフロイド少年の決意は固く誓いは軽く百を越えた。散々聞かされ続けたジェイドとアズールは、まあ頑張れと彼のそれを潮の流れに任せ続けたのであった。

    「ウッミガーメくん!」

    そんな時代が俺にもありました。十七歳のフロイド・リーチは誓いを聞かされ続けた二人に背中を指されて爆笑されている。『誓約書を残していなくってよかったですね』なんて、幾ら笑われたって構わない。彼は今となっては一つ上の運命に夢中なのだ。

    「っうわ!フ、フロイドか?急に飛び付くのはやめてくれって言っただろ。」
    「は?なにそれ。俺以外の誰がウミガメくんに飛び付いてンの?」
    「お前以外いないよ。」
    「なぁんだよかったぁ。じゃーいいじゃん。」

    後ろから回した腕を顎の下で組み、見た目よりも柔らかい緑の髪に頬擦りする。今日もかわいいね、大好きとフロイドが愛の言葉を囁けばトレイはそれをはいはいと雑に流しながら彼の緩い拘束から逃げ出した。

    「今日はお菓子は持ってないんだよ。ごめんな。」
    「だからぁ、俺が欲しいのはお菓子じゃねぇんだって。」
    「なら何が欲しいんだ?次のテストの過去問とかか?」
    「いらねーし!てかアズールが持ってるし!」
    「だろうな。」
    「ねぇ、解ってんでしょ。」

    寂しくなってしまった両手をポケットに突っ込んで、フロイドは斜めに立ったままトレイを見つめた。彼が作るお菓子はみんな好きだけど、フロイドが欲しいものは甘くバターの香りがするそれではない。穏やかな空気を纏うトレイは困った様に眉を寄せて笑うと一つ謝罪を口にする。

    「あげられないよ。」
    「なんでぇ?いっつもそれじゃん。ウミガメくんも解ってるんでしょ?え、解ってるよね?」
    「解ってるさ。でもお前、言ってたじゃないか。ふざけるなって。」
    「それはもー謝ったじゃん!ごめんなさいって!」

    一年前の合同授業で運命に抗ってやるという意思表明をしたフロイドだったが、今となっては何故そう思ったかも解らない程彼の胸中はトレイへの想いで溢れていた。案の定好きかもしれないとお馴染みの二人に話した時は腹を抱えて笑われからかわれ結局ですかと言われてしまったが、フロイド曰くこの感情はキチンとトレイを知ってから芽生えたもので決して運命に流されたわけではないと主張している。出会いから一年が経とうとした頃、新緑の影の落ちる植物園。フロイドは意を決して謝罪と告白をしたがトレイは応えてはくれなかった。

    「冗談だよ。意地悪言ったな。」

    トレイの大きな手のひらが伸びてくる。彼がそうしやすいように頭まで垂れて、大人しく撫でられながら表情を窺った。フロイドには解らない。自分が映る蜂蜜色の瞳はこんなにも喜びと幸福と好意を訴えているのに、受け取ってもらえない。蕩けるような表情で見詰めてくる癖に、首を縦に振らない理由が解らなかった。
    実のところを言えば例えトレイが自身の想い人であろうと年下扱いされる事はあまり嬉しくない。放課後の廊下、遠くから吹いてくる微風と分厚い手に髪をすかれながらフロイドは壁際ギリギリを通りながらチラ見してくるスカラビア生を威嚇した。大体、どちらかといえば人魚の雄は甘やかす方が好きなのだ。フロイドだって例外ではない。危険や汚いものから遠ざけて甘やかし、嬉しい事や楽しい事だけの世界で生きていて欲しいしその場所は自分の隣がいい。ああでもたまにはこう、例えば悪漢から格好よく助けてやったり守ってやったりして。惚れ直してくれたら尚更いい。王子様になりたいとは一切思わないけれど、毎分毎秒自分に恋して欲しいしそんなトレイを愛でくるみたい。
    大人しく頭を撫でられてやりながら、耳の方から差し込まれる手のひらへ頭を傾ける。気持ち悪いわけではない。ふわふわとしてきてとても心地が良い。これはプライドの問題なのである。雄にとっては重要なことだ。けれどもどうしてもその手を振り払えない理由がフロイドにはあった。綺麗だと評してくれるターコイズの細い髪の毛や似合っていると言ってくれたピアスのぶら下がる耳。極め細かい肌の頬に触れる時、トレイは彼が所属するサイエンス部や寮の後輩達を甘やかす時と全然違う顔をしている。長男だから甘やかすのが癖なんだと笑っていたが、自分の弟や妹の頭を撫でて宥めたり褒めたりする時もそんな顔をするのだろうか。そうだとしたら至急閉じ込めてしまわないと。薄い薔薇色に染めた頬を惜し気もなく曝して、丸い黄金色は他のものを一切映さずただ幸福だと告げていた。

    「ね、今日部活休むんでしょ。」
    「何で知ってるんだ?言った覚えはないぞ。」
    「聞いた。」
    「誰に、とは聞かないでおくか。」

    トレイは最後に曲がったフロイドのシャツの襟を直し、瞳を細めてから手を引いた。自分が正した襟元を満足そうに眺めて一つ頷きエース辺りか?と大袈裟に考える素振りをして見せる。

    「誰でもいーじゃん。ね、どっか行こ。」
    「どっかって、どこにだよ。購買部とかか?」
    「ちげーし。でもウミガメくんが行きたいなら行こ。」
    「うーん用事はないな。」
    「じゃあ街。明日学校休みだし、外泊届出してさ。」
    「付き合っても無いのに、…二人きりで泊まりか?」
    「は、ハァ?!な、いや、ウミガメくんが思ってるような事じゃねーし!」
    「何だ意気地がないな。」
    「ウミガメくんのえっち!」
    「アハハ!かわいいなぁフロイドは!」

    腕を組んで上目遣いをしてくるトレイの言葉にフロイドは顔を紅くして二歩後ろに下がった。信じらんねー。声を上げて楽しそうに笑うトレイはいつもよりも幼く見える。眼鏡を押し上げて親指で滲んだ涙を拭うトレイはやっぱり可愛くて、フロイドは壁に寄りかかりながら熱い顔を手で隠しまた自分ばっかり恋をしていると苦虫を噛んだ。

    「ウミガメくんが、うんって言ってくれるまではしないよ。」

    呼吸を整えて落ち着かせ、呟くような真剣な音は笑うトレイの耳にも届いたらしくそうすれば彼はまた寂しそうにした後で困ったように笑った。

    「ごめんな。」
    「ごめんじゃわかんねー。」

    稚魚みたいだ。決して困らせたいわけでもこんな姿を見せたいわけでもないのに。拗ねたように吐き捨てたフロイドを、トレイは今度は撫でる事はしなかった。みぞうちの辺りで右の腕を左手で掴みながらトレイは履き古した自分のローファーの爪先を見つめる。手入れはしているが、草臥れているしそろそろ買い換え時かもしれない。
    珍しい溜め息にフロイドの肩が跳ねる。俯く男は酷く悲しんでいるように見えて、フロイドは狼狽えた。

    「ごめんね…」
    「なんだ、今度はお前が謝るのか。」

    顔を上げたトレイはフロイドの想像通りの顔で笑った。眦を下げて口角を一ミリでも上に上げようとしながら一所懸命に笑顔を作る。その表情でフロイドの胸はいつも締め付けられてしまう。そんな笑顔をさせたいわけじゃなかった。

    「明日は、午後から部活に行かないと。」
    「休めねーの?」
    「水遣りとかしにな。」
    「夕方でもいーじゃん。」
    「……いいんだけどなぁ。」

    乾いた声で笑うトレイにフロイドは首を傾げた。背中に背負っていた夕日は落ちて空は群青色へと染まり始めている。一番星が瞬き始めたその中で、トレイはもう無理かと溜め息混じりに呟いて胸ポケットからスマホを取り出した。

    「付き合ってる人がいるんだ。」

    振るえた声と共に見せられた液晶にはマジカメのダイレクトメール画面が映し出されていた。明日は暇かという簡素な誘いの後にはトレイの前のめりの返信が続いている。

    「もう直ぐ二年になる。今日の部活の休みは、彼の為に取った。今から行ったら門限には間に合わないし、多分帰っても来れないから外泊届は昨日の内に出してある。」

    帰ってこれない、というのは多分そういう意味なんだろう。フロイドは空気を噛んでから違和感に首を傾げた後で視線を下に向けた。尾びれは割けているし磨いたばかりの靴は確りと地に着いている。見渡した周囲の風景は見馴れた学園内のもので、それが納得できなくて今度は逆へ首を傾げる。

    「ごめんなフロイド。いくらお前が俺の運命でも、俺はお前とは番にはなれないんだ。」

    どうしてこんなに寒いんだろう。革靴の中で足の指を曲げ伸ばししてみたが感覚が鈍い。流氷に覆われた故郷の暗く静かな冬よりも寒い。本当にごめんと、詰まりながらもう一度謝られてから見たトレイはレンズの向こうの瞳に膜を張らせていた。唇を引き結んで、その奥で必死に何かを堪えている。トレイが一体何を謝っているのか何を考えているのかフロイドには一つとして解らない。ただ今にも崩れて泣き出しそうな運命を、抱き締めてやれる資格が無いことだけは解っていて、それがこの上無く悲しかった。

    重力なんて要らなかった。
    客のいないラウンジでぼろぼろと涙を溢しながら事の顛末をアズールとジェイドに語ったフロイドは制服のスラックスに水玉模様を量産しながらそう言った。涙の解らなくなる海水が恋しい。それよりもっと、自分を撫でてくれるあの手が恋しい。

    「それで戻ってきたんですか。」
    「だって、ウミガメくん嬉しそうだった。」
    「貴方の頭を撫でている時より?」
    「………………うん」
    「素直なのは良いことですけどね。」

    知らぬ男の存在を聞かされた後、重たい沈黙を振り払ったスマホの振動にトレイは花咲くような笑顔を見せた。遅刻は厳禁だからと苦笑いした彼は頭を下げてもう一度ごめんと謝った。その後はもうトレイはフロイドの方をちらりとも見なかった。すぐにジャケットを翻して、大股で逃げるように走り去ったのだ。

    「諦めるんですか?」
    「……だってさぁ…」

    汗で湿った前髪をジェイドに避けられながらフロイドはトレイの顔を思い返した。本当に、嬉しそうだったのだ。たまたま覗いた窓の向こうにトレイを見つけたり、廊下ですれ違ったり、誰かに聞く彼の姿だったり。多分そういうのを自分が見聞きしていた時と同じ気持ちで今彼は恋人と共にいる。

    「人のものを取るのはマナー違反ですからね。」
    「解ってる。」
    「トレイさんも頑固ですね。運命に流された方が楽でしょうに。」
    「ですが、それをしないのがトレイさんらしいと言えばらしいです。」
    「うん。そーいうとこも好き。」
    「ゾッコン、というやつですね。」
    「稚魚の頃のフロイドに見せてやりたい程に。」

    アズールのわざとらしい野暮ったい言い方にもジェイドの嘲るような言葉にもフロイドは反応しなかった。詰まった鼻は啜っても空気を取り込まず、彼は仕方なく口で溜め息を吐くように呼吸した。
    流されれば楽なのは、きっとオメガの方が顕著だろう。話でしか聞いたことはないが運命の存在を知ったオメガはそれ以外のアルファに酷い拒否反応を起こすという。そうじゃなくとも番がいるオメガは自身のアルファの匂い以外受け付けなくなるのは有名な話だ。トレイにそれが起きているのかどうかは解らないけれど、少なくともそれで彼がサバと呼んでいる一年生はバスケ部を覗きに来るときフロイドを避けているのは事実だ。

    「諦め、たくねーけど、」
    「ないけど?」
    「トレイ君に、泣いてほしくねーし。」

    自分の存在がトレイを苦しめているのではないかと思うと、フロイドの瞳からはまた涙が溢れた。あだ名ではなく名を呼んだことに彼の覚悟が現れていてアズールとジェイドは瞳を合わせる。

    「諦める。でも、でもさあ、悲しそうにしてたり寂しそうにしてたら、俺が助けていいと思う?」

    スラックスの色の変わったところを見つめながら、フロイドは悲痛な声を絞り出した。彼等は無言でフロイドへ身体を寄せると四本の腕で赤い目をした男を抱き締めた。

    「好きな人には幸せでいてほしいものですから。」
    「貴方が納得できるように生きなさい。」
    「「頑張って。」」

    身内からの激励にフロイドはひきつった声で返事をすると、彼らの腕を掴んで慟哭した。心臓が引き裂かれるようだ。他の男の幸せの為に運命である自分が身を引かなければならないなんてどこの世界の話だろう。紛う方無きバッドエンドを受け入れた人魚は、引き裂かれた心臓の代わりに愛を拍動させて生きていくことを誓った。

     
    稚魚の頃の誓いを指差して笑われなくなったフロイドは、それから宣言通り一歩引いたところでトレイを見ていた。とはいえ相変わらずトレイを見たら破顔してしまうし、廊下で会えば五回に一回は抱き締めてしまう。好きだと伝えることはしなくなったが、やはり彼には甘ったるい言葉を捧げた。
    学外へと繋がる鏡の前で私服姿のトレイに会った時はさすがに飛びつけなかったが、それは担ぎ上げて自身の部屋へ監禁したくなる衝動を抑えていたからだ。余談だが一部始終を見ていたジェイドは片割れの成長にえらく感激しその夜はアズールの部屋でたこ焼きを山程焼いてやった。

    そういう生活を暫く続け、アズールの部屋にたこ焼きの臭いが染み付いた頃。ある日の早朝。フロイドは学外での仕事を終えて欠伸をしながら鏡舎へと降り立った。汚れてしまった革靴と返り血の付いたジャケット。また怒られるなぁと二度目の欠伸を口から溢す。身体は疲れていてベッドか寮を囲む海かに直ぐにでも飛び込みたかったが、何となくまだ戻る気にはならなくて彼は一つ背伸びをしてそのまま植物園へと向かった。
    休日が訪れると、フロイドはたまに植物園へと足を向ける。当然深夜や早朝は特別な施錠魔法が施されているが、回数を重ねる内に解除の仕方を覚えてしまった。薄暗い空の下で靴を引きずって、いつものようにペンを取り出そうとした手を止める。中の窺えるアルミ枠のガラスの扉には施錠魔法が施されていなかったのだ。

    「あれぇ?」

    閉め忘れだろうか。まあ、別になんでもいいけど。無駄に魔力を消費しなくて済むのは良いことだ。無遠慮に開いた扉から身体を滑り込ませると彼は独特の空気に眉を寄せた。樹と花と土の臭い。海にはないその香りがフロイドは好きではない。それでも彼は真っ直ぐに足を進めていく。スコールタイムの後なのか、踏み固められた土の道は湿っていた。革靴が余計に汚れていくのに舌打ちをしてフロイドは目的もなく天へ向かって堂々と枝葉を伸ばす樹木を眺める。
    と、嗅ぎ馴れた香りにフロイドは一瞬足を止めようとして唾を飲んだ。そのまま勇気を出して歩を進め、匂いを辿るように草葉を掻き分ける。ぽっかりと空いた一角に、私服姿のトレイがぼんやりと芝生に尻をつけていた。

    「ウミガメくん見ーっけ。」
    「……フロイドか。」

    寂しそうだな。迷うことなく声をかけたフロイドは大股歩きで近づくと許可なく隣へと腰かける。どうしてここにと尋ねられた言葉に、ウミガメくんがいるからだよと冗談めかした返しをして後悔した。彼は今、自分と同じように私服なのである。昨日は顧問であるクルーウェルが出張で部活は休みになっていた。今日は日曜で休日。それに私服と来れば、彼が昨日どこで何をしていたかなんて想像に難くない。

    「ア~~~………」
    「ど、どうした?」
    「なんでもなぁい……」

    頭を抱えたフロイドはなるべく呼吸しないようにしようと盛大に溜め息を吐いた。トレイに付く他のアルファの臭いなんて嗅いだ日には胃がひっくり返るし返り血が増えてしまう。よし、と意を決した瞬間彼は無意識に息を吸い込んでしまって、そして違和感に気づく。

    「なんで?」
    「ん?なにがだ?」
    「臭いしない。」

    訝しげな表情をして、フロイドは疑問を解決すべくトレイへとすり寄った。これでもかと鼻を寄せて臭いを嗅ぐ。やっぱり無い。アルファの臭いどころか、知らない臭いはほとんど無い。いつも通りフロイドを動かしている甘い香りしかしないのだ。バターに小麦粉、洋菓子の様な華のある甘さとその奥にある透き通るような清涼感。花と樹の香りが混ざってフロイドを誘っている。

    「ちょ、ちょっと、嗅ぐな!離れろ!」
    「あ、ごめん。」
    「悪いと思ってないだろ…。」
    「ちょっと」
    「ちょっとか……」

    慌てたトレイに押し退けられて、フロイドは渋々元の位置に戻るともう一度鼻をならした。親指と人差し指の間にほんの少しだけ隙間を作って見せる。トレイは溜め息を吐いて伸ばしていた膝を折り畳んだ。

    「そのかっこ可愛い。」
    「そうか?ありがとう。似合ってるか?」
    「うん?うん。服?」
    「逆に服以外の何なんだ?これ、着やすくて気に入ってるんだ。」
    「ふーん。似合ってるよ。」
    「ははっ、ありがとう。」

    お前はいつも急だな。賛辞を素直に受け取るトレイは照れ臭そうに笑っている。膝を抱えたトレイを見つめながら、フロイドは疑問を言葉にするか悩んだ。胡座をかき腕を組み首を傾げ唸り始めた男にトレイが慌てふためく。どうした、腹減ってるのか?と自分の姿から仕事後だろうと想定してくれたのだろう。気遣いができて優しさを惜しみ無く与えることの出来るトレイが自分の運命だという事実に頭の中で喝采する。まあ、彼の一番近くにいけることは無いのだけれど。

    「あ、そうだ。マフィンがあるぞ。」
    「え~?」
    「マフィン。甘さは控えめにしてるんだけど、食べるか?」
    「食うけどぉ…」
    「ちょっと待ってろよ。」

    今だ首を傾げるフロイドは紙擦れの音に片目を開いた。小さな紙袋から綺麗に焼き上がった個包装のマフィンを取り出してトレイが差し出す。音符とクローバーの印刷された紙のマフィンカップから膨らむそれは、所々生地が赤い。ラズベリーを混ぜたんだというトレイは嬉しそうに緑の針金で口を塞いだそれを見せ、そうして直ぐに何かに気づいたように笑顔を曇らせた。

    「……あ、いや、すまん。やっぱりこれは、やめとこう。」
    「へ?なんで?食うよ。ちょーだい?」
    「いや……あの、な。これは………」
    「あー……」

    言い淀んで自分の方へとマフィンを戻したトレイは視線を揺らしている。その姿に察したフロイドは内心で舌打ちした。

    「カレシさんの?」
    「………まぁ」
    「ふーん。あげなかったの?」
    「いや…まぁ……」

    過剰とも思える程俯いたトレイを見詰めて、フロイドは美しく焼きあがったマフィンを睨み付けた。自分の番が自分の為に作ってくれたものを断るとは一体何様のつもりなんだろうか。トレイはそんな男のどこがいいんだろうか。俺だったら嬉しくてその場で直ぐに全部食べるけどな。いややっぱり持って帰って自慢しながらゆっくり味わって食べるかもしれない。

    「……会えなかったんだ。」
    「は?」

    顔をあげた男は吹っ切るように笑っていた。別に初めてじゃないから馴れてるよと、続けた言葉の後にビニールが歪む音が鳴った。

    「忙しいみたいでさ。仕事。言ってなかったな、歳上なんだ。」
    「……そーなんだ。」
    「うん。まあ、甘いものも苦手みたいで。そんなに貰ってくれた事もないんだけど俺はほら、お菓子くらいしか作れないから。」

    いらねー情報だなと思うフロイドの前で、つい作ってしまうんだとトレイは自身を嘲った。
    どうして、好きな人と付き合っているはずのトレイがそんなに寂しそうな顔をしないといけないのか。フロイドには解らない。陸は難しい。フロイドはトレイに隣にいるのが自分でごめんねと、謝ろうかどうかを悩んで止めた。彼を困らせてしまうことが解っていた。

    「…ちょーだい。」
    「うん?マフィンか?でもこれは、」
    「いいから、それ。ちょうだい。」
    「いいけど…マフィンが食べたいなら今度作り直したやつを、」
    「それがいい。」
    「っ、腹が減ってるなら…育ててる苺とか…」
    「それが食いてーから、俺気にしないからちょーだい。」

    真っ直ぐに自分に向けられた手にトレイは長く悩んでから溜め息を吐いて観念した。目の前の男が言い出したら聞かないことは、日々の学園生活で身をもって知っている。

    「甘さ、大分控えめだぞ?」
    「ウミガメくんのお菓子はなんでも美味しーよ。」
    「……そっか、そっかぁ。」

    寂しさの残る顔のトレイはそれでも僅かに嬉しさを滲ませて、フロイドの手のひらにマフィンを乗せた。律儀な謝礼の言葉におかしそうに笑う。フロイドは袋を開く間も綺麗に焼けてるだの美味しそうだのと言い続けた。紙のあわせから開いていき、丁寧な仕草でそれを剥き出しにするとにっこりと笑ってから天辺から躊躇うことなく真っ二つにする。歪な断面の波紋のような紅が可愛らしい。

    「見て。」
    「ん、……なんだ?」

    半分に割ったそれを両手に持ったフロイドは、遠くを見ていたトレイを呼んで視線を向けさせた。目線の高さに上げたそれを穏やかに笑いながらトレイへと見せる。

    「こっち。」
    「え、うん…」
    「こっちには、ウミガメくんがウミガメくんのカレシのこと大好きーとか嬉しーとか楽しーって気持ちが入ってます。」
    「え……ぇえ?」

    右手に持った半分のマフィンを見つめながら困惑するトレイを放置して、今度は左手のそれを僅かに高く上げてから説明を始めた。

    「んでこっちには、ウミガメくんのお菓子食べて貰えなかった悲しー、とか、会えなかった寂しーとかっていう気持ちが入ってんのね。」
    「ん、ふふ…なんだそれ。」
    「いーから。」
    「ごめん、うん、わかった。それで?」

    吹き出して笑うトレイを真剣な声で嗜めると、人のよい彼はおかしな話だと理解していたが謝罪をしフロイドへと向き直る。その姿勢に満足したのか、フロイドは一つ頷いて大きく口を開いた。赤い口の中へ片方のマフィンを放り入れる。瞼を下ろし、何度も顎を動かして無言で咀嚼し続けると顎をつきだして喉を晒す。喉の動きをトレイに見せながらそれを飲み下し満足そうに息を吐くと右手をトレイへ突き出した。

    「ん。」
    「え?」
    「あげる。」
    「あげるって、俺があげたんだろ?」
    「俺が貰ったんだから、もう俺のじゃん。」
    「はは、…はいはい。食べるよ。」

    苦笑いしながら受け取ったトレイは、小さく口を開けて自作のマフィンを齧った。二口三口と消費する様をフロイドは黙って見詰めている。

    「うん、美味しい。」
    「食べた?」
    「うん。食べたよ。」
    「じゃーもう平気だね。」
    「え?」
    「ウミガメくんの悲しーとか寂しーとかは俺が食っちゃったからね。ウミガメくんの中には今もうカレシのこと好きーとか楽しかったーって気持ちだけだよ。」

    トレイの胸を指先でとんと一つ突いてから、フロイドは嬉しそうに笑った。

    「フロイド…」
    「大丈夫だよ。俺が何回でも食ってあげるからね。」
    「……ん、ごめん、俺、お前には何も「お菓子あんがと。すっげー美味かったからまたちょーだい。」

    マフィンカップをビニール袋へ入れると、次の催促を快く笑顔で了承したトレイに顔を見られたくなくて、フロイドは下を向いて袋を結んだ。この笑顔が見れるんだったらやっぱり、自分はその場で全部食べてしまうだろうなと腹を抑えた。
    それから彼は契約でも無い紙切れの保証も無いただの口約束を律儀に守った。毎日のようにふらりと植物園へ赴いて、あのぽかんと開ける芝生の上でトレイの作るお菓子を半分にして悲しみを引き受けた。毎日毎週ということはない。一月近く空くこともある。当然その間植物園に行ってもトレイはいないわけだが、フロイドはそれで良かった。社会人というのがどれだけ忙しいものなのかフロイドには解らなかったが、トレイが一瞬でも悲しい思いをしなくていいならどちらでもいい。

    トレイの作るお菓子を暫く食べてないなぁと何気なく考えながら、その日フロイドはお気に入りのミントキャンディーを買うために購買部へ足を向けた。フロイドはミステリーショップがあまり好きではない。学園で生活している以上そうも言っていられないので行きはするが、本音を言うなら極力近寄りたくはなかった。日用品から薬、飲食物まで無いものは無いとも言われる店内はなんやかんやと混ざって複雑な臭いがするからだ。入店と同時に臭いと言って舌を出すフロイドに気がついて何人かが手ぶらで外へと出ていった。営業妨害だと笑って言った店主の真意は解らないが、買ったら直ぐに帰るつもりのフロイドは目当てのミントキャンディーを目指し迷わず進んだ。

    「よっ。珍しいとこで会うな。」
    「あ?あ~!ウミガメくん!何してんのぉ?」
    「何って買い物だよ。小麦粉とかを買いにな。」
    「今日は初めて会うね。」
    「確かに、今日は会わなかったな。」
    「今日もかわいいねぇ~」
    「聞いてるのか?」

    剣呑な瞳と声を瞬き一つで甘ったるいそれへと変えると、予想外の遭遇にフロイドは花を飛ばした。ミントキャンディーを取りもせず、はいはいと言葉を受け流すトレイにくっついて店内を移動する。いつの間にか店の中には彼等とサムしか居らず、フロイドは複雑な臭いの中に混ざった一等好きな香りの為に鼻をならし、ふむとトレイの綺麗な項を見つめる。

    「ウミガメくん、もしかしてもうすぐヒート?」
    「お前な、陸ではそういうのストレートに聞かないもんなんだぞ。」
    「俺人魚だし。」
    「そうだとしても、今は陸にいる人魚だろ。」
    「ごめんなさぁい。」
    「全く…」

    いつまでたっても変化の無いトレイの匂いを嗅ぐ度に、フロイドは不思議になる。どうして彼のオトコはこの項をそのままにしているのだろうか。自分なんてヒートだろうと無かろうと、トレイが普通にしているだけでいつだって歯をたてたくて仕方がないのに。

    「会いに行ったりすんの?」
    「いや。普通に部屋で過ごすつもりだ。」

    トレイが使用している抑制剤は普通のものである。名門の寄宿学校に在学という事もあって一般に処方されるものよりも一段階強いものではあるらしいが、七日続くヒートを半分程しか抑えることは出来ない。飲むと飲まないでは雲泥の差があるらしいけれど、真偽はオメガと番持ちのアルファくらいしか知れないだろう。フロイドは勿論このどちらにも当てはまらなかったので、いつもこの時期はただただ辛そうだなと憂いてやるしか出来なかった。

    「ふーん。」
    「そうだ、なあフロイド。好きなお菓子はなんだ?」
    「俺?俺はねぇー……、たこ焼きが好き。」
    「それはお菓子じゃないなぁ。」

    たこ焼き美味しいもんな、と笑うトレイの瞳には既に欲が見え隠れしている。ここで喉を鳴らそうものならきっと金輪際近づかせてはくれない。頭の後ろで手を組んで、努めて普通に振る舞いながらウミガメくんのお菓子が好きと答えればトレイは嬉しそうに陳列棚から小麦粉をとった。

    「ありがとう。特にどれ、とかあるか?」
    「え~選べねぇよ。ウミガメくんも妹と弟どっちが好きとか聞かれても選べねーでしょ?」
    「そんな壮大な話はしてないよ。」
    「俺にとってはソーダイな話だもん。」

    結局会話の中でフロイドは答えを見つけることが出来ず、彼はトレイの買い物に一から十まで付き合い支払いを終えた彼から小麦粉や砂糖、チョコレートやキャラメルの入った袋を掠め取って店を出た。自分で持つから大丈夫だと言うトレイをのらりくらりかわす鏡舎への道すがらとりとめの無い会話を繰り返す。二人でいる時に、話をするのはフロイドの方が多かった。あれを聞いてくれこれを聞いてくれと何度も話題を変えて、その全てをトレイは笑ったり同情したり時にフロイドを窘めたりしながら聞いていた。

    「あ~もう着いちゃった。」
    「ああほんとだな。荷物、持たせて悪かったな。」
    「いいよぉ。ウミガメくんは特別。」
    「はは、ありがとう。」
    「いつでも呼んでくれていーからね。走ってくから。」
    「そこは飛んでじゃないのか?」
    「走った方がはえーもん。」
    「まあフロイドはそうだろうな。」

    あからさまに拗ねた風を装ってビニール袋を突き出せばトレイは声をあげて笑った。謝罪を二度繰り返して腕を軽く叩かれる。謝意の感じられないそれでも、フロイドは優しいから許してあげると瞳を細めた。

    「何か困ったことあったら言ってね。」
    「うん。ありがとな。」
    「いーよ。ヒートの時とか欲しいのあったら連絡して。」
    「……出来ないよ。」

    重たい沈黙が下りてきて、フロイドはどうしようもない痛みを腹の奥の方へと押し込んだ。小さな声の拒絶の真意を掘り起こす術なんてものは持っていない。彼は自分の為になるものなんて何も持っていなかった。そうだね、ごめんね。トレイが小さく首を横に振って、沈黙から逃れようと自寮の鏡へと向かって歩き出す。抱き締めることすら出来なくなった自分の生き方を恨んだ。

    「ちゃんと準備してね。」
    「……解った。」
    「施錠魔法も、ちゃんとかけねーと駄目だよ。」
    「かけるよ。」
    「薬もちゃんと飲んで。」
    「大丈夫だよ、何年付き合ってると思ってるんだ。俺の方が先輩なんだぞ?」
    「そーだったね。」

    ああよかった。ほんの少しだけ綻びた空気にフロイドは安堵して、その切っ掛けがトレイが吹かせてくれた先輩風だった事に情けなさを覚える。
    鏡の波紋が消えるまで見送って、一人きりの鏡舎でフロイドは俯いた。これから暫くの後に一人っきりで自室に籠らなければならない彼に、余計な心配をさせてしまった自分が酷く惨めだった。


    「最近さぁ、俺に甘えすぎだと思うんだよね。」
    「売り上げ計算一つで随分ですね。」
    「お前。そういうのを何というか知っていますか?棚上げ、というんですよ。」
    「ちげーって。ウミガメくん。」
    「ああ……」

    時間があるとフロイドは二人にトレイと過ごした内容を何度も繰り返し話した。肩を落としたトレイを見つけたので走っていった。今日のお菓子はなぁにと顔を覗けば瞳を合わせて嬉しそうにしてくれた。三回目か、四回目だった。向こうから声をかけてくれた。
    お茶会というには質素な逢瀬を、フロイドは語った。人魚は色恋沙汰の話が好きな場合が多いが、まさかフロイドもだったとは、というのはジェイドの言である。怒ったり消沈したりしながら語って、そうして最後は幸せそうに小さな願いを口にした。

    「それで?」
    「ちょーうれしい。」
    「ア、そうですか。」
    「冷たくねぇ?」
    「平熱です。ご心配なく。」
    「フロイド、たまには現物も持って帰ってきていいんですよ。僕も食べたいです。」
    「ぜっっってぇーーやだ。」

    感嘆の吐息を吐いたフロイドは手で顔を覆うと、本人には言えなくなった大好きを呟いた。そうして直ぐにジェイドの軽率な願いを睨み付ける。殺気のみのそれを笑い飛ばせるのは仕入れ伝票を記入しているジェイドと企画を煮詰めるアズール位のものだろう。

    「その甘えん坊のトレイさんは暫くはお休みなんでしょう?」
    「そー。ヒートだかんね。相手なんで噛まねーんだろ。」
    「お前の立場から言えば彼がフリーなのは良いことなんじゃないですか。望みがありますよ。」
    「本気で言ってんの?アズールでも怒るよ。」

    冷ややかな怒気をアズールは肩を竦めて受け流した。冗談ですよと言った声は嘘臭かったが、フロイドはそれ以上なにも言わなかった。彼が報われない恋に献身的な愛を捧げる事に、二人は背中を押している。けれども本心が望むのは勿論、そんな男のハッピーエンドだ。
    トレイが恋人とまだ番関係を結んでいないという事を知った時、フロイドは酷く驚いた後で喜び、そうしてそんな自分を嫌悪した。トレイが自分ではない男を好きだということも解っているし、その相手と幸せになりたいと考えていることも察している。理由を尋ねる事は出来なかった。そこはおそらく踏み込んではいけない領域だったからだ。どこか寂しそうなトレイの顔も、踏み込まないでくれと語っているようで、結果彼の卒業を待っているのではないかというのが人魚達の見解である。

    「僕には考えられませんね。」

    優雅な所作で紅茶に口をつけたジェイドは、馬鹿にするような顔で小さく笑った。全くもって同意見だ。首肯すらしないフロイドはレモンソーダが入っていたグラスのストローに口をつける。空虚に氷だけが鳴って、男は不愉快そうに飲み口を噛んだ。

    「番でなくとも恋人が苦しんでいるというのに放置だなんて。」
    「案外フロイドの名前を呼んでいるかもしれませんよ。」
    「ふっ、それはそれは。随分不誠実な話ですね。」
    「先に誠実さを欠いてるのは向こうでしょう。目には目を歯には歯をというやつでは。」
    「実際どうします?こうしてる今トレイさんが貴方の名前を呼んでいたら。」
    「え~?」

    それはもう、嬉しいに決まっている。ボールペンを指で回しながらラウンジの天井からぶら下がるシャンデリアを見つめた。装飾のガラス玉がキラキラと光る。初めて見た者は綺麗だと口にするが、それよりも美しいものを男は知っている。けれどあれ以上に美しくなるところは知らない。きっと知ることも無いんだろう。額に玉汗を浮かべ白い肌を朱に染めて、黄金を蕩けさせて自分の名を呼ぶ姿は海面から落ちる光よりも美しいはずだ。
    フロイドは普段世話になっている自分だけのトレイ・クローバーに扇情的に名前を呼んで貰った後で、盛大な溜め息を吐いた。

    「言わねーで。虚しくなっから。」

    前屈みになって頭を抱える男を、アズールとジェイドは腹を抱えて笑ってやったのであった。
     
    数日後。虚しい男はグラウンドに発情期を終えたトレイの元気そうな姿を見つけて教室から手を振った。遠い距離だったのに、自分に気がついて手を振り返してくれる。それだけで堪らなく嬉しく、子供のような恋をしている自分がおかしかった。バスケ部の後輩である男から、トレイは今日は部活を休むらしいという情報を得ている。多分外泊届を出していて街に出るのだろう。
    自分勝手で気儘で、我儘放題の男だと言われるフロイドの献身さを人は誰も信じなかった。男が所構わず求愛したせいでフロイドがトレイに好意を寄せていることは学園の誰もが知るところだ。同じ生活を繰り返す惰性の多い学園生活に置いて他人の色恋の話題などはいいチャウケになる。生徒達は柱の影で、時折トレイ本人の目の前で振り回されて大変だなあと同情するのだ。

    「そんな事ないさ。我儘でもないし、振り回されてもない。気遣ってくれるし優しい奴だよ。」

    トレイの言葉を聞いた下世話な輩は変な薬でも飲まされたんだろうと邪推した。とはいえそれは実際事実なのである。フロイドは彼に恋人がいると知ってから好意を口にすることは無かったし、むやみやたらに抱き締めたりもしない。一方的に取り付けた約束を反故にもせず、悲しみを腹に収め喜びを渡してくれる。トレイから見ればどこまでも誠実で真っ直ぐな男だった。

    どうせ外泊届は出しているからと、トレイに誘われたフロイドは夜へと近づく植物園の始めて会った繁みの中の一角で並んで座り込んでいた。どうせ食べてくれないからと作られた菓子を開いて、フロイドはいつものようにそれを割った片方をトレイへと渡した。作った生地をたこ焼き機で焼いたらしいそれを半分に割れば中からチョコレートやジャムが飛び出してフロイドを驚かせる。

    「えー!すげぇ!これたこ焼きみたいじゃん!」
    「さすがにたこは入ってないけどな。楽しくていいだろ?」
    「うん!俺これ好き!」
    「そっか、良かった。」
    「……ねー、あのね、ウミガメくん……」
    「んん?どうした?嫌いなものでも入ってたか?」

    丸い菓子の入った袋から三つ目を取り出したフロイドは、申し訳なさそうな顔でそれを見つめると戸惑いがちに名を呼んだ。変なものを入れただろうか。慌てる脳裏に夕方使った材料を並べ立てていれば窺うような視線が投げられた。

    「おれ、これ全部食べたいなぁ。残り俺が食ってもいい?」

    半分に割られた断面からジャムが覗いている。トレイは吹き出してから笑うと、勿論だと頷いた。律儀に約束と欲の間でせめぎあったのだろうフロイドに破顔して、キャラメルだと頬を脹らます男を見ながら喜びを口へと放り入れた。

    「フロイドの恋人になれる子は、幸せだろうなぁ。」

    ぽろりと口から出た言葉に驚いて、トレイは後悔から心臓を走らせた。丸い菓子が、茫然としたフロイドの指から転げ落ち座るトレイへとぶつかって立ち止まった。

    「………は?」
    「ごめん、今のは、」
    「どういう意味?」
    「違う、すまん、無神経だった。ごめん、おれが、」
    「なんで、」
    「ちが、痛ッ!」

    狼狽えるトレイの肩を強く掴むと、フロイドは感情を顕にした表情でトレイへと迫る。痛いと訴えるトレイに構わず、一度彼を大きく揺さぶると瞳を歪ませ眉を寄せて悲痛そうな声をあげた。

    「ウミガメくん、今幸せじゃねぇの?」
    「フ、ロイド……」
    「なんで?好きな人と、付き合ってるんだよね?コイビトなんでしょ?」
    「フロイド、」
    「幸せじゃねぇの?なんでそんな事聞くの?そんなの聞くってことは、今幸せじゃないって事だよね?」

    何かあったのか、喧嘩でもしたのかと矢継ぎ早に尋ねるフロイドは何を焦っているのか何が悲しいのか瞳に涙すら浮かべながらトレイへと質問を重ねた。肩を揺らされながら瞳を逸らすことすら出来ないトレイは、目の前にあるフロイドの沈痛そうな表情に一つ唇を開閉させると歯軋りして荒い声を発した。

    「……ッお前が!」

    トレイがこうして、自分の事で声を荒げる姿をフロイドは初めて見た。惑うように下を向いたかと思えば直ぐに顔をあげ、キツい眼差しで再びフロイドを睨む。かと思えばまた直ぐに瞳を伏せ、いからせていた肩の力を抜いた。掴まれていた肩を続きを促すように撫で擦られる。トレイは喉をならして冷たい空気を食むと、強く瞼を落としてフロイドを呼んだ。

    「フロイドなんだ……」
    「………は?」
    「今までは我慢できてたのに、もうずっと我慢できない。」
    「え?待って。わかんねぇよ。何が?俺のせいなの?」
    「お前のせいだよ!」

    山場から始められた語りにフロイドは片割れに天才と称させる頭脳を余すところなく使ったが、何が自分のせいなのか一切解らなかった。トレイからしてみれば誠実な男であったが、他人が称するように本人からみても自分は奔放な男なのだ。やりたい事はやるしやりたくない事は一切やらない。心当たりがありすぎる。

    「ご、ごめん。俺またなんかしちゃった?ごめんね、ウミガメくん。謝るから、ごめんね、」
    「ちが、違うんだ、お前が、フロイドは悪くない。悪くないのに、」

    違う違うと繰り返し、瞳を合わせようとしない男はしきりに首を振り続ける。もげそうだ。そうでなくてもその大きな瞳が落ちてしまわないか、涙が溢れてしまわないか不安でフロイドは振るえる手で背中をそっと撫でた。

    「うん……、違うの?俺、悪くないの?でも俺のせいなんでしょ?」
    「悪くない、悪くないけど、お前がそうやって、俺に優しくするから」
    「ごめんね。でも、」

    言い淀んだフロイドに対しトレイは何も反応しなかった。トレーナーの袖を引っ張り鼻を押さえる。腹の辺りの余った布を掴んで黙っている男をみて、フロイドは悩むように落としていた瞼を開いた。

    「…でも、だってさ、俺好きな人には優しくしたいし大事にしてぇんだもん…ごめんねウミガメくん。俺ワガママだね、ごめんね。」
    「ッだから!それが!」
    「ね、ちょっと落ちつこーよ。俺ちゃんと聞くから。ね。」

    尖った視線にフロイドは気圧され上体を引いた。咎めるような言葉と視線に晒されても、新しい表情が見れて嬉しいと心のどこかで思ってしまっている。恋とはどこまで人を浮き足立たせるものなのか。膝に乗せていた袋から、中身がこぼれ落ちてしまわないよう避難させる。口の中に残るキャラメルの甘さを飲み込んで、フロイドは手を止めた。そうしてゆっくりと、フロイドは浮かれ立ちそうになる自分を深呼吸で御して改めてトレイへと向かい合う。

    「……もう、ずっと……この間も、」
    「うん。」

    躊躇いがちに開かれた唇から落とされた小さな声に耳を傾ける。普段海でも陸でも他人から恐れられることが多い自分を知っていたフロイドは、穏やかな声と優しく見つめるように努めて頷いた。

    「ずっと、お前なんだ。」
    「うん?」
    「発、情期のとき…、フロイドに、いてほしくて……。嘘じゃないんだ。恋人のことは好きなんだ。本当に、でも、お前が優しいから……」

    掠れるような声を吐き出すとトレイは自身の両手で頭を抑えた。一度溢れ始めた思いは止まらず、小さいけれどその確かな音はフロイドへと流れ込んでお互いの気持ちを溢れさせていく。

    「俺のお菓子食べてくれて、抱き締めてくれて、」
    「うん、」
    「好きだって言ってくれて、」
    「…」
    「俺が欲しかったの、フロイドがくれた。」
    「……うん」
    「発情期の、時だけじゃない……約束、すっぽかされた時もお前なら破らないんだろうなとか、ホテルに入るときもフロイドとならどこに行くんだろうなとか」
    「ん、うん、」
    「あの人が帰った後も、お前なら、朝まで側にいてくれるのかなって、」

    甘すぎる菓子が答えだ。フロイドは空いている片手で芝生ごと土を握り込んで初めてトレイと会った時よりも拍動し衝動的に動こうとする身体を抑えた。

    「考え始めたら止まらないんだ。でも、こんなの裏切りだろう?俺は、運命に逆らわないといけないのに、なのに、こんなの、……なあ、俺どうしたらいい?裏切りたくないんだ。だって、優しかったんだ……」

    両の手のひらをジ、と見つめたトレイは自分自身を追い立てていく。振るえる声は段々と動揺を表すかのように大きくなっていった。

    「話を聞いてくれて、会おうって言われて、優しかったんだ。それで、好きになったんだ。子供の俺なんか相手にされないだろうって、思ってたけど向こうも頷いてくれたのに、でも、何でだろう。遠い…」

    もう解らないと握り込んだ手のひらは何も掴んでいない。フロイドの目の前でパタリと滴が落ちた。

    「こんなのは…ずるい…ずるだ……きたない……」

    もう解らないと言ったトレイは繰り返し自分自身を責め立てた。フロイドの方へ一切の視線を向けずただただ自分自身を傷つけながらその瞳から静かに涙を流していく。

    「恋人がいるのに、優しい方に、運命に流されるのはズルだ。そんなの……」

    泣かせないで欲しい。たったそれだけの感情でフロイドは堅く握られたその手を掴むとトレイを自身の方へと引き寄せた。抵抗なく腕の中へと収まったトレイが小さく男の名前を呼ぶ。彼への愛で動いている心臓が一際速く走っていた。

    「……うれしい」

    たった一言の言葉がトレイの喉を詰まらせ堅く結ばれていた手を開かせる。下りていく二人の手に呼応するようにフロイドは抱き締める力を強くした。

    「ごめんね、辛いよね。でもごめん、嬉しい。すごく、嬉しい……」
    「フロ、イド……おれ、」
    「好きだよトレイ。大好き。」
    「っ、ごめ、ごめん、おれ、」
    「いいよ、大丈夫。返事は、……要らない。だから…ごめん。ごめんね、好きでいさせてね…しんどい思い、させてごめんね。」

    ゆっくりと伸ばされたトレイの片手がフロイドの制服の裾を掴む。フロイドは涙と共に溢れそうな想いを唇を噛んで堪えていた。どうして俺は十七歳なんだろう。どうしてこの人は陸に生まれたんだろう。何年早く生まれていれば、誰に隠れる事もなくこうやって、この人を抱き締めることが許されたんだろうか。植物園のどこからか、葉を撃つ雫の音が響いた。ガラスの天井の向こうには満天の星空が拡がっている。幸せは確かにここに在るのに、同じ程の無力感に押し潰されてしまいそうでただ抱き締めあっていた。

    フロイド・リーチがトレイ・クローバーに飽きたらしいという噂は瞬く間に学園内へと広まった。横暴で一方通行な恋の行方の終着点は誰しもが予想していた通りのものだった。生徒達は暫く運命の番を諦められるものなのだろうか、本能の誤作動だったのではないか、そもそもフロイドの勘違いだったんじゃないか、トレイが手酷く振ったんじゃないかと論争を繰り広げたが、最終的にはやっぱりなと尾ひれをつける事をやめた。

    あの日トレイは初めて自分の方から恋人との約束を破った。夜が深まっていく植物園で、フロイドはただずっとトレイの話を聞いていた。手を繋いで植物園の中を隅々まで回り、もうすぐ実になる果樹や蕾を付けた苗。薬になる草、育つ環境の違い。その全てにフロイドは興味が無かったが、目元を紅くしたトレイが嬉しそうに話す姿が愛しくて遮ることなく耳を傾けた。見るものが無くなると二人は芝生の上へと戻って、隙間なく身体を寄せてやはり話をした。一年前の飛行術の授業を基準にして、過去に戻ったり今に帰ったりしながら時間を共有した。深夜になってさすがに喉が乾いたと、二人でコソコソと学園内を移動し閉店後のラウンジへ忍び込む。持ち帰りの容器にドリンクと軽食を用意して、そうして二人はまた見廻りを交わしながらわざわざ植物園の芝生の上へと戻っていく。会話の種が無くなればトレイの鞄に入っていた冒険小説を二人で読んで感想を言い合った。ページを捲って、戻って、また捲る。子供のように笑いあっていればまた話したい事が溢れて、そうやってまた二人は穏やかに語り合っていた。愛の言葉もなければ唇を合わせることもしない。未来の話すら出来やしない。ただお互いの腕の中にお互いを閉じ込めて、たったそれだけだったがこの世の誰よりも幸せだと思いながら眠りについた。
    翌朝、木洩れ日で目を覚ました二人は鳥の囀ずりに少しだけ涙を流して額を合わせる。ゆっくりと起き上がって、交わした瞳は引き留めてくれと語っていた。それでもそうできない理由が彼等にはあった。繋いでいた手を植物園から出たところで離して、降り注ぐ陽射しの中無言で鏡舎へと歩いていく。どちらが言い出した訳でもない。ただこれで終わりにしなければならない事を二人ともが理解していた。

    「……じゃあ、ばいばい。」
    「ああ……うん、」

    ありがとうと、言おうとしたのだろう。トレイは開いた唇を途中で閉じて俯き、乞うように男を見た。フロイドはオクタヴィネルへの鏡の前から微動だにしなかった。

    「……うん」

    結局彼は頷いただけで、首を横に振ると銀の鏡面へと飛び込んでいく。一つの運命から目を背ける、二人だけの想いが波紋と共に消えた。

    学園生活は終始穏やかに進んでいく。フロイドは植物園に近づかなくなったし、トレイは余ったお菓子を一人で食べるようになった。自分という存在のせいで、これから先お互いの生活に影響を及ぼすこともあるだろうと。それだけが二人の気掛かりだった。無関係となってしまった人物に迷惑をかけてしまう事が申し訳なく、それしかない事実はお互いの胸を酷く抉った。けれど彼等は他よりも少しだけ知っている先輩後輩というスタンスを崩さない。学園内で話すことは一切無くなった。わざわざ自分から寄っていく用事が出来ることもない、本来ならば遠い存在だったからだ。そうやって時間を浪費し続けていく。彼等の近くにいた者達だけが、不意にお互いの事を泣きそうな瞳で見ている事に気づいていた。

    近頃のフロイドは休みの度に辛気臭いとアズールに言われ、寮を追い出される。仕事はきちんと出来ている、らしい。少なくとも減給はされていないし依頼者に話をしに行くことだってある。けれど休日になると全てのスイッチがオフになって、もう駄目だった。

    「あ~ぁ。」

    フロイドは街が好きではなくなっていた。店先やショーウィンドウを眺めていればトレイの事を想ってしまうからだ。一度浮かんだ思考を消して、他の事を考えてを繰り返すのは酷く疲れる。考えないようにと思い直しても五感は勝手に四方へと散らばって、そうして勝手に落ち込んでしまうのだ。
    大体、休みなんだから自分が何をしていようと自由の筈だ。ラウンジのカウンター席を陣取ってメロンソーダのストローを噛みながら溜め息を吐いていたって文句を言われる筋合いはない。金は払っている。こっちは客だ。

    「たこ焼きでも食おーかなぁ。」

    とは言ってみたが腹は減っていない。時刻は午前中。朝食のトーストとスクランブルエッグが緩やかに消化されている最中だ。そもそも食欲もない。学園のそこかしこでされている大きな陰口ともとれる噂話はフロイドの耳にも入っていた。トレイは勿論フロイドも否定も肯定もしていないが、彼は歴とした失恋の痛みに堪えている最中なのである。
    結局、愛だなんだと言ってはみたが独りよがりだったのだろう。愛も、恋も、なにもかもフロイドには難しいものばかりだった。男はこれから先他の誰かを好きになる事は無いと確信を持っていた。表に出すことは勿論、何もできなくなってしまったがきっとずっとトレイの事だけを好きなのが解っていた。

    休日の街は賑やかで、それはフロイドの心を更に寂しくさせた。アイスが食べたいと地団駄を踏む子供に待ち合わせ中の女。手を結んで歩く男女の間を割って通って溜め息を吐く。ガキ臭さと女々しさには涙も出なかった。
    結局彼は街を三周してから適当なカフェに入った。手当たり次第カップルの間を通る虚しさに堪えきれなくなり、エアコンの利いた店内でアイスカフェオレの氷を溶かした方がまだマシだと思ったのだ。トレイの瞳のようだと思って注文した蜂蜜のたっぷり使われたパフェはスプーンを入れられる事なく白い汗をかいている。アズールに見られたら勿体無いことをするなと叱られるだろう。茶色のエプロンを付けた店員にキャンセルを告げる事も出来たが、トレイのようだと思ってしまった以上要らないなんて事は言えなかったのだ。

    「……これどーしよ……」

    溶けていくアイスクリームでコーンフレークが膨張していく。隣ではカフェオレが二層になり始めていた。現実から目を逸らすように視線を投げた先では、四つあるテラス席の一つに男女が腰掛けていた。お洒落なテーブルで腹を膨らませた女といけ好かない雰囲気の男が一冊のメニューを仲睦まじく眺めているのを眺めて舌打ちする。二人の左手の薬指には揃いの銀の指輪がはめられていて、フロイドは解りやすく不愉快になって背凭れを軋ませた。他人の幸せは今の彼にとって劇薬以外の何物でもない。緩やかに左手を挙げて店員を呼び止めると、パフェの持ち帰りは可能かどうかを尋ねた。
    涼やかな鐘の音と共にフロイドは無理を言って飲料の容器に移して貰ったぐちゃぐちゃのパフェを持って帰宅の一途を辿る。もう帰ろう。時計によれば今はラウンジのピークタイムのはずだ。無給でもいいから仕事をしていた方がマシだと思ったのだ。
    駅へは公園を突っ切った方が早い。プラスチックのカップに収まったパフェはフロイドの人より低い体温でもどんどん溶けていって、どうしたものかと彼は緑の多い公園へと向かう。クリームが垂れないのはいいが、温度で生まれた滴が手に付くのが不快だった。

    「…フロイド……」

    喧騒の中で、小さな声で呟かれた名前は真っ直ぐにフロイドへと届いた。立ち止まって我慢が出来なくなった結露をパンツで拭っていたフロイドはパッと顔をあげて声の方を見る。灰色の石像は街に所縁のある芸術家が作ったらしい。何を表しているのかよく解らないオブジェがフロイドの目に映るのは初めての事だった。否、やはり目には入っていなかったかも知れない。

    ああもうやっぱりだめだ。

    オブジェの前で驚いた顔をするトレイを目にした瞬間、フロイドは膝から崩れ落ちそうになった。私服姿のトレイは待ち合わせの時にいつも暇潰しにしていると言っていた文庫本を強く握った。フロイドは彼に近づいてはいけないことを知っていた。アルファは他のアルファの臭いを嫌う。自分だってそうだ。けれどもあの日以来呼ばれなかった名前を彼の唇が紡いだと思うと、そんな事はどうだって良かった。

    「……こんにちは、ウミガメくん。」
    「……こんにちはフロイド。」

    重たい足を真っ直ぐに動かして、他人行儀な挨拶を交わせただけでもう堪らないほどに嬉しくなる。自分の為に選ばれた訳ではない衣服を身に纏い戸惑いがちに目を伏せたトレイを抱き締めたくて仕方がない。衝動を抑えるように握っていたものに力を込めると、左手から情けない音が響きどろりとした物が手に伝った。

    「あっ!うわっ!やべ!」
    「えっ?え?どうしたんだ?」
    「あ~…やっちゃったぁ……」

    垂れてくるアイスクリームと生クリームの混ざったそれを右手で受けて、フロイドは消沈した。格好悪い。けれどもこれは好機と言えるだろう。このままトレイといるわけにはいかないのだ。どんなに名残惜しくても、男はその場を去らないといけないことを明確に理解していた。

    「え…なんだそれ……」
    「これねぇ、パフェ…そこのカフェの。」
    「カフェ?ああ……あそこのか。行ってみたかったんだよな。テイクアウトもしてるのか?」
    「ヤ、してねぇけどぉ…」

    怪訝な顔をしたトレイがおかしかった。二人の間に流れた微妙な空気を白い液体が絡めとり、左手を伝い右手へと流していく。なんだ、普通にできるじゃないか。フロイドは胸中で安堵の溜め息を吐くと本物の瞳を見て曖昧に笑った。

    「えーと……じゃあ俺、手洗って帰んね。」
    「え、」
    「え?」

    緑の香りを孕んだ生温い風が二人の間を駆け抜けていく。トレイの反応がどういう物なのかフロイドには解らない。

    「……一緒にいこうか?」
    「えッ!」
    「なんだ、嫌なのか?」
    「嫌じゃない!」
    「じゃあ行こう。トイレはこっちだ。」

    果してこれは顔見知りの先輩と後輩の関係として正しいのかどうか、フロイドは考える前にトレイの後を追っていた。
    公園のトイレにしては綺麗にしてあるだろうとトレイが笑う。公園のトイレに入ったことが無かったフロイドには比較対象なんて物は無かったが、久し振りに自分へ与えられるトレイの声が嬉しくてそうだねと頷いた。

    「それ、もう捨てたらどうだ。食えないだろ?」
    「捨て……うーん…どうしよっかなぁ…」
    「そんなに食べたかったのか?」
    「イヤ、そうじゃねぇんだけどぉ…」

    隅に置かれたヒビの入ったゴミ箱を顎で指したトレイが首を傾げる。正直ついさっきまで処遇に困っていたものだ。いやむしろこうなってしまった以上捨てるべきだろう。ただ当然の事ながらフロイドはそのパフェだったものがここにある理由を知っていたのでただ首を捻って捨てることを躊躇っていた。

    「わかった。じゃあこうしよう。」
    「えー?」
    「俺が新しいのを買ってやるから、それはもう捨てろ。」
    「……へ?」
    「その代わり、フロイドは俺の暇潰しに付き合ってくれ。」

    ぽかん、と。そういった擬音がぴったりだった。丸く口を開けたフロイドは遂に右手からも溢れ始めた液体をトイレのタイルに垂らしながら茫然とトレイを見つめる。彼はゴミ箱への道を空けると緑色の髪をくしゃりと一つかき混ぜてから溜め息を吐いた。

    「……顔見知りでも、街で一緒に買い物くらいするだろ。」
    「……する。する!チョーする!すげぇする!!」
    「ふッ、あはは!」
    「え、なに。何で笑うの?今笑うとこ無くねぇ?」
    「いや、はは!あったよ。」
    「えー?どこ?どこにあんの?」
    「はいはい、いいから。ほら、さっさと手洗え。」
    「洗うけどさぁ…」
    「あ、そういえばお前さっき帰るって言ってたな……」
    「言ってねぇし。」
    「いや言ったよな?」
    「言ってねぇって。ねーそれより何で笑ったの。」

    なんでどうしてと聞くのを宥められながらフロイドはパフェだったものをゴミ箱へと落としてから手を洗った。その間もトレイは小さく笑っている。備え付けの石鹸で隅々まで洗いながら、フロイドはぐるぐると考えを巡らせる。多分、今日彼は恋人に会いに来ている。そうして自分はトレイの話を聞いて完全に身を引くつもりだった、筈だ。筈なのだ。彼が自分の事で悩むくらいならあの日の事を思い出にして何もせずにただ黙ってトレイの幸せを願い続けようとお互い干渉せずに生きていこうと決めた。それは多分トレイも思っていたことの筈だ。
    俺だけだったのかなぁ。

    「ほら行くぞ。朝から何も食べてなくて腹減ってるんだ。」

    どうでもいいか。雲間からの光に照らされたトレイにフロイドは笑った。こんなにも綺麗なものを見れない彼の恋人に同情と優越感を覚えていた。色とりどりの花の揺れる花壇を並んで横切りながら、無意識の内に手を握ったら不味いなとポケットで拘束する。朝からって、何時間待ってたのとは聞けなかった。聞いてこの柔らかで弾むような、踊り出したくなる空気が壊れてしまうのは嫌だった。

    「何のパフェだったんだ?」
    「んっとねぇ、蜂蜜のやつ。あとカフェオレ飲んだ。ケーキとかもいっぱいあったよ。」

    小さなテーブルに並んでいたカフェオレと蜂蜜のパフェ。それらが載っていたメニューを思い出しながらフロイドは言葉を繋ぐ。もう少ししっかり見ておけばよかったなと思って、今から一緒に見れるならいいかと独りでに踵が跳ねる。

    「ケーキか。でも今はケーキよりがっつり食べたいな。」
    「ピザとかパスタもあったよぉ。一緒に食お。」
    「いいな。フロイドがいるなら色んな種類食べれそうだな。」
    「言っとくけどさぁ、俺ジェイドみたいに食えないからね?」
    「そうなのか?人魚だろ?」
    「人魚が全員大食らいって思ってんの?」
    「見かけ倒しか。」
    「風評被害じゃん。ジェイドにクレームいれよ。」

    拳で口元を隠しながら声をあげて笑うトレイに心が温まる。前から歩いてくるカップルの間を通るなんて思い付くこともせずにフロイドはトレイだけを見ていた。関係はただの先輩と後輩でしかないが、ずっとこうやって二人で街を歩いてみたかったのだ。

    「っと、あそこ……」
    「そー。テラス席もあったよ。空いてるみてぇだし、天気いいから外で食うのも…ウミガメくん?」

    赤茶色の煉瓦道の角を曲がり、街路樹の並ぶ通りに出るとトレイの足が止まる。真っ直ぐと延びた視線の先にあるカフェのテラス席は、フロイドが店にいた時と殆んど変わっていない。相変わらず妊婦の妻であろう女とそれを気遣う夫であろう男が二人きりで座っていた。

    「ウミガメくん?どうし、」

    男の手が女の腹へと伸びる。膨らんだその中にある命を慈しむ顔をしていた。幸せそうな男女に反してトレイの顔がゆっくりと色を失っていくのを見てフロイドは息を飲む。ハニーゴールドが歪んでいき、涙が一つ頬に伝った。

    「……今日、仕事が、入ったって…」
    「ウミガメくん、」
    「だから、会えないって…」
    「ウミガメくん」
    「…俺、」
    「他のとこ行こ。」
    「解りました、頑張って、くだ「ウミガメくん!」

    その身体で隠すようにフロイドはトレイを抱き締めると彼の視界を遮った。ひきつるような音に奥歯を噛んで、怒りをやり過ごす。トレイを一度強く抱き締めてから、穏やかな声を彼の耳に吹き込む。大丈夫だから、と。何一つとして大丈夫ではない。そう思いながらフロイドはその場からトレイを連れ去った。

    あてもない二人はその場を離れたは良いものの、どこへ行っていいかも解らなくてとりあえず学園へと戻った。休日の学園内には人はおらず、フロイドは俯くトレイの手を引いて考えあぐねた末に以前と同じように植物園へと向かった。そこだけが彼との時間の全てだったからだ。
    トレイを胸に抱き寄せたままフロイドは黙っていた。何と声をかけるべきか迷って、何もかけられないと答えを出した。胸の中のトレイは身動ぎ一つせずただ黙ってフロイドの鼓動を聞いている。強く握り締められたシャツが歪にシワを寄せていた。

    「……ごめ、ん。」
    「…だいじょーぶ?じゃないよね、ごめんね。」
    「ん、いや、……大丈夫だ。…実はさ、薄々、思ってたんだ。」

    青草の臭いがフロイドの鼻を掠める。腕の中のトレイが離れようとしたので彼はそれを拒むようにもう一度抱き寄せた。懇願にも似た抱擁だった。

    「何か、ほら、……やっぱりわかるだろ?臭い、とか。フロイドに会ったからかな、とかも思ったけど。」
    「……うん。」
    「そんなわけないんだよな。ごめんな、言い訳に使って…」
    「いーよ。」

    本心だった。彼の為になれるのならば、矢にでも盾にでもなる。口実に使ってくれても構わない。どんな災厄に自分が見舞われようと構わない。それでトレイが笑って幸せになれるのならそれを自分の生きた証にするんだと彼は泣きながらそう誓っていたのだ。

    「ね、ウミガメくん……」
    「…うん?」
    「これから、どーすんの?」

    一瞬の迷いは見ない振りをして、フロイドは問う。心臓は破裂しそうなくらいに動いている。きっとトレイにはもう知られてしまっているだろう。唾を飲み込もうとしたが口内は渇いていて、頭の中は焼けるように熱かった。

    「…わか、……れるよ。」

    不倫はさすがに不味いだろ、と。軋むような笑顔が痛々しく、トレイは自分で解っていたのかそれとも取り繕えないくらいなのかどちらもなのか。とにかく彼は直ぐにそれを崩して溜め息を吐いた。

    「正直、最近はもうよく解らなくなってたんだ。」
    「……え。」
    「そりゃあ俺だって……あれだけ蔑ろにされたら、傷つく。」

    ぽすんとフロイドの胸に頭を寄せたトレイは疲弊して溜め息を吐いた。にわかにフロイドの頬が熱くなる。一縷の光が見えた気がして、勇んで彼は唇を開いた。

    「じゃあッ「でもやっぱり、お前とは付き合えないよ。」

    心臓が意思を持っていたら、いい加減にしろと抗議されていただろう。喜んだり落ち込んだり相反する感情で走らせてばかりで、きっと頭が上がらなくなっている。

    「こんなの、フロイドに失礼だ。」

    じゃあなんでそんなにすがるように俺のシャツ握ってんの。身体も、瞳も、声音も。全部が全部離れないで側にいて自分を見てと訴えかけているのに、どうしてこの男はこうまでして抗おうとするのだろうか。血液が逆流するような怒りがフロイドを満たしていく。全てに腹が立っていた。立ち竦んでいるトレイも、彼を騙していた男も、何も知らずに笑っていた女も、動いている気でいた自分に一番腹が立っていた。

    「………違う」
    「え?」
    「ウミガメくんが、今までしてたのは、恋じゃない。」
    「フ、フロイド?急にどう「ッ恋じゃねぇよ!」

    気がついたら叫んでいて、咆哮とも言える叫びにトレイの身体が揺れる。強張った彼を痛い程強く抱き締めた。こうすれば気持ちが伝わればいいのにな。どこか冷めているところでそんな事を考えて、そんな事は有り得ないと解っていたから、フロイドは腕の中の幸せをもう逃がしてやらないと腹を据えた。

    「泣くこともあるかもしんないけどさぁ!それだけじゃないじゃん!嫌だったり、痛かったり、辛かったり悲しかったりしかないのは恋じゃねぇよ!」
    「ふろ、」
    「ウミガメくん我慢ばっかして一人で傷ついて……俺の大事な人これ以上傷つけんな!」
    「…フロイド……」

    戸惑う声が自分を呼んだ。返事をしなければと息を詰まらせて、けれど今までどう返事をしていたかは忘れてしまっていた。

    「俺、……こんなんだしウミガメくんが嫌なことするかもしんないけど、でも世界で一番大事にもするよ……」

    駄目だ格好悪い。海の中にいるわけでは勿論なくて雨が降っているわけでもない。なのに自分の頬が濡れるのが解ってフロイドは眉を寄せた。格好悪い格好悪い。多分俺今世界で一番格好悪い。身を捩って伸ばされたトレイの右手が頬に伸びる。甘い香りのする手のひらが男の涙を拭った。

    「ねぇ、俺トレイのこと好きだよ。大好き、愛してるよ。……トレイは?」

    鼻先が着くほど近くにいるのにトレイの顔は歪んでいた。視力は普通よりも飛び抜けて良い方なのに、次々と水の溢れる瞳ではトレイがどんな顔をしているかフロイドには解らなかった。

    「だ、……て、そんな、の…ず「ズルくない!」

    遮られた言葉に次に息を飲んだのはトレイだった。涙を拭う手が止まる。振るえる手を支えるようにフロイドの手が掴んだ。

    「フロイド、でもそんな、流され「流されろよ」

    息継ぎのような呼吸をしたフロイドは俯いて再びトレイの言葉を遮った。強く瞼を落とせば二人の間へ雫が落ちていく。奥歯を噛む歯軋りの音がし、男は潤む瞳に強い光を宿して顔をあげた。

    「流されろよ!…運命じゃなくてッ!俺の愛に流されろ!」

    吸い込むようなでは生易しい。呑み込んで食らい尽くすような瞳だった。真っ直ぐに向かい合ったオッドアイとハニーゴールドでお互いの姿を交わす。似ている所など何一つとしてない二人は同じように涙を溢していた。

    「…絶対さぁ、今までより、絶対たのしいよ……」

    懇願する声がトレイの鼓膜を揺らす。胸の奥がじんわりと温かくなって、その温もりの正体をトレイは知っていた。もうずっと、最初から、フロイドが注ぎ育てトレイがしまい込んできたものだった。

    「……流されてよ、流されて、それで…俺と恋しようよ……」

    怯えにも似た表情がトレイの何かを次から次に溢れさせていく。引き寄せるように腰に回された腕と逃がさないと掴まれた手のひらから伝わる体温にトレイは微笑んでそうして結局取り繕えずに笑顔を崩した。枷の壊れた瞳から雫が溢れて同時に沸き上がった感情のまま捕まえるようにフロイドを抱き締める。衝撃のままフロイドは後ろへと倒れ込みそうして強かに後頭部を打ち付けた。覆い被さるトレイが嗚咽混じりの言葉で繰り返し頷いている。木洩れ日を背負うトレイの美しさを、表す言葉はきっとまだこの世には存在しない。

    世界で一番格好悪い人魚が、愛に流され続け恋に生き、誓いを叶えた瞬間である。

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    PASTフロトレ
    ※オメガバース
    ※モブトレ要素

    結構前のやつを再掲
    愛に流されて恋に生きろ言いなりになる事を嫌うフロイドは初めてそれと対峙した時に沸き上がった相反する感情を今でも詳細に思い出すことが出来る。楽しいけれども苦手で嫌いになりかけている飛行術での一、二年合同授業。教える事によって自身を高めるだかなんだか知らないが、要は教材にされているような物だろうと不機嫌極まりない状態で彼は箒を握っていた。おもちゃ扱いしやがって。天に向かって真っ直ぐに伸びる青々とした狩り揃えられた芝生を踏み折ったり箒で薙いだりしていた時、それは現れた。
    一つ心臓が大きく打って、そのままの勢いで鼓動が速まる。初めて立った砂浜よりも熱い何かが身体中を駆け巡りフロイドは箒を握っていた手で自身の左胸を掴んだ。疑問を音にしようとした口からは言葉は出てこず、何かが飛び出してきそうな胸を見れば幾つも雫が落ちている。それが曖昧に開かれた口からだらだらと垂れ流される自身の唾液だと気づいた時に彼は漸く周囲の喧騒に気がついた。隣で肩に手を置き背中を支える片割れと幼馴染みの声は遠くぼやけているのに、数メートル離れた人だかりの中心にいる人物の息遣いだけが鮮明だ。膝を折って背中を丸め、顔を上げようとしている彼の傍にいる人間を全員蹴散らしたい衝動に駆られる。どうした大丈夫かと、名前を呼ぶ声が遠い。集団の中心の男がゆっくりと顔を上げて悲壮感のある欲を孕む溶け落ちそうな黄金色と視線があった瞬間、フロイドは沸き上がる泣き出したくなるような自己主張を振り払うようにふざけるなと声を上げた。
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