1LDK,0距離希望 普段は仲良くやっている方だ。付き合いたての頃こそ相手が相手だけにこの恋は長くは続かないだろうとトレイは思っていた。それがどうした事か予想は外れに外れて、今となっては同じ屋根の下で同じ物を食べて生活しているのだから恋だとか愛だとかいうものは本当に解らない。
両思いだと解った時は嬉しかったけれどそれ以上に不安の方が大きかった。姿があれば目で追い話が聞こえれば耳を傾けていたトレイはフロイドの気性を知っていたからだ。いつか飽きられる恋なんだろうと、感傷的になって泣いてしまった夜も何度かあった。
少しでも長く一緒にいたくて、トレイは最初の頃彼の機嫌を伺っている事が多かった。人の機微を察するのが得意、とまでは言わないが空気は読める方だと思っている。注意深く観察して、勿論相手に気取らせる事なく、波風立てずにこの恋を一秒でも長く続けていたかったのだ。
「だからッ!俺はそんなつもりはなかったって言ってるだろう!」
「こっちにそんな気がなくても向こうにあんのが問題なんだよ!」
「向こうにだってそんな気はない!聞いたのか聞いてないだろう!あるかどうかは解らないじゃないか!」
「わっかんのあんた鈍いから解んねぇんだよ!」
「俺のどこが鈍いんだ!」
「鈍いじゃん!俺がずっと求愛してても気付かなかったじゃん!」
「人と人魚は違うんだ!」
「気持ちは一緒だろォがよ!」
カウンターキッチンにくっつけた小さな正方形のテーブルで向かい合って、感情のままに声を荒げる。あれだけフロイドの気を損ねないように怒らせないようにとしていたトレイは今は昔。綺麗に消え去ってしまっていた。喧嘩は多い方ではない。けれど少ない方でもない。住んできた環境が違えば文化も違う。お互いどれだけ歩み寄ろうとしたって摩擦は生じてしまうし、どちらかが譲歩したって喧嘩に発展することもある。
いつもはとろりと垂れさせてる瞳を鋭くしたフロイドが天板を叩いて舌戦が中断する。振動は机の上のマグカップを不安定にし、堪えきれなかったそれが哀れにも転がった。半分程残っていたブランデーを垂らしたココアが広いところへと流れ出て、拡がるそれにトレイは盛大な溜め息を吐いた。
「あ、オイ、話終わってねぇんだけど!」
「拭かないとだろ。あと俺はオイなんて名前じゃない」
手を伸ばせば届くキッチンペーパーを、わざわざ反対側へと回り込んで取りに行ったトレイにフロイドの喉が鳴った。名前を呼ばなかった事は申し訳ないと思っているらしい。お互い頭に血が昇っていて、これではまともに話なんて出来そうもない。時間を稼ごうにも1LDKの狭い部屋ではキッチンからテーブルまでの距離も短くて、トレイはすぐに戻ると千切ったペーパーでココアを拭きながら溜め息を吐いた。
「なにそれ」
「何がだ」
「溜め息」
「別に」
平均よりもでかい男二人で住むには狭すぎる家だ。防音とセキュリティはしっかりしているがそれだけで、最初こそ良かったが最近では些か不便さも感じている。主にこうして、言い合いになった時頭を冷やす為に距離を置くことが出来ない面だ。
「なぁ」
「……………なに」
茶色に染まったペーパーを直ぐ側のゴミ箱に投げ入れる。返事に時間がかかるのはまだ仲直りは出来ないという意思の現れだろう。
人魚は一途な種族のせいか、トレイの度を過ぎる世話焼きにフロイドはしばしば物申した。今回の喧嘩の原因もそれだ。学園を出てアズールが経営する飲食店に二人並んで籍を置いているが、フロイドはそこで同僚や部下に親切にするトレイが気に食わないらしかった。勿論全員に対してそうではない。彼も暇ではないからだ。ただ頼られれば応えてやりたくなるし、なつかれれば面倒をみたくなる。それはトレイ・クローバーという男の生来の質であって、今更変えられるものではない。
フロイド曰く譲歩はしている。噛みつく相手も見極めているし牽制だって頻繁にするわけではない。トレイが嫌がるからだ。自分の我儘よりも番の意思を尊重する彼は、ジェイドとアズール曰く大人になったらしいがやはり時々は我慢が利かなくなってしまうらしい。主に今回の口論の原因のように、誰かが明確に邪な意図をもってトレイに近づいた時だ。いつまで経っても自分への好意に鈍感な男が、番として心配を通り越して腹立たしくなってしまうのだ。
「やっぱり引っ越そう」
「え……」
「あっ。いや、別々に暮らそうとか別れようとかそういうんじゃなくて、」
「ああ、うん……」
ついでに言うのであれば、トレイという男は言葉の選び方も何かを提案するタイミングを見極めるのも不得手な男であった。本人に自覚がない事がまた問題で、彼はいつだって戻せなくなってからどうしたものかと頭を悩ませる。今回もまた、言葉にした後で学生の頃よりも伸びた髪の毛先を床に向けた恋人を見てから気づいたのである。ただでさえ猫背気味の背中を更に丸め、肩を落とすフロイドを見ながらトレイは天井を見た。今日はもう無理だ。こうして、塞ぎ込むように顔を見せなくなってしまうともう話は出来ないし、おそらく聞こえてすらいないだろう。
トレイは小さく溜め息を吐くとリビングと寝室の境目に引いてあるカーテンと、玄関へと続く廊下への扉を見比べた。少しだけ、距離を置いて時間を空けた方がいい。短く思案して、さすがに外に出ていけばフロイドがまた勘違いをしてしまうと判断したトレイは先に寝室へ行こうと床を軋ませた。二人が住むマンションはフロイドが見つけてきたものだ。トレイが入居した時にはそこにあったであろうリビングと一つしかない部屋の境目は取り払われていた。今引かれているミントクリームの遮光カーテンは、話し合いに話し合いを重ねて設置したものだった。
「どこいくの」
低い体温の手がトレイの手首を掴む。振り払ってさっさとカーテンの向こうへと消えてもいいが、それが出来る程の感情はもう残っていない。自分を見つめてくるオッドアイを見返して、トレイは今度は判りやすく嘆息した。
「先に寝るよ」
「だめ」
「……一緒にいない方がいいだろ?」
「だめ」
気遣いを無下にするような口調の強さに、外でなく室内を選んだ自分の慈悲を一瞬にして放りやった。舌打ちをして手を振り払おうとするが、捕食者の手がそれを許さない。明日は久し振りの重なった休日であった。本当なら、ココア味のキスをして、そのままベッドに雪崩れ込んで体温を分けあっていただろう。狭い風呂に二人で入り、歯磨きをしてお休みのキスをねだる恋人を交わして、拗ねるなよと宥めながら眠りにつく。それがいつもの休日前夜の過ごし方だ。今日それが出来なくなったのは少なからず、今、自分の大人の対応を妨げるこの男にも非がある。どちらか一方が悪いなどと、そんな子供染みた主張をする気はトレイにはない。けれども申し訳なさそうな色も乗せず、ただ自分の行動を否とし、断固として受け入れようとしない鋭さすらある視線に再びトレイの血液が沸いた。
「少し考えれば解るだろ!今一緒にいたって、話にならない!」
「解っけど!でもだめ!」
「なんでだよ!」
「トレイくんはここにいないとダメ!」
「隣の部屋に行くだけだ!お互い感情的になってるから少し落ち着こうって言ってるだけだろ!それともフロイドが向こうに行くか?!」
「いかない!トレイくんが向こうに行くなら俺も行く!一緒にいないとダメだって言ってんじゃん!」
「それの意味が解らないって言ってるんだろ!」
「だーッかーッらッ!一緒にいないとッ」
振り払おうとするトレイを許さず、椅子を倒して立ち上がったフロイドは威圧するように距離を詰めてトレイを見下ろした。が、言葉を途中で止め、逸らされず投げられる視線から逃げ出そうと半歩足を下げる。倒れた椅子の足にぶつかって、逃げられないと悟った人魚はなんだよと不機嫌そうに続きを急かす恋人から顔を逸らし、俯いて情けない声を出した。
「……一緒にいてくんないと、仲直り、したいって思ったとき、すぐできねぇじゃん……」
一つ二つ。瞬きをしてぽかんと口が半開きになる。言いたくなかったのにと、情けない声が好きだ好きだと叫んでいてトレイは自分より身長の高い小さな男を見て唐突に理解した。
初めて喧嘩をしたのは、二人が在学中トレイがインターンに出てからだ。お互いなんだか余裕がなくて、電話越しに八つ当たり紛いの言い合いをした。久し振りに会った時に喧嘩をして、デートの途中で帰ったこともある。謝るタイミングを逃して、有耶無耶に出来ない癖に約束だからと電話やメールをしてまた喧嘩をして。思うように会えない二年の間に、何度もそういう喧嘩をした。
防音もセキュリティも確りしている癖に広さだけが無いマンション。どこにいたって相手が何をしているのか解る室内は、フロイドの気持ちを明確に鮮明に表していた。
「……なに」
上目で睨む恋人に、トレイは頭からじわりと染み渡る幸福に俯いた。頑固な自分の性格が禍して直ぐには謝れず、離れている間喧嘩をしてはもうこのまま終ってしまうかもしれないと不安になった。フロイドだって、きっとそれは同じだったのだ。
ケーキやタルトのレパートリーはあるくせに、今の感情を上手く表す言葉を知らずトレイは唇を引き結んだ。ちらりと見た彼は僅かに頭を傾けてこちらを不満そうに見つめている。仲直りをしたい気分になるにはもう少しかかるようだ。
「なんでもないよ」
「嘘。なんでもないって顔じゃねぇもん」
「ほんとに、なんでもないんだ」
「ねえ、なんでそんな嬉しそーな顔してんの?俺まだ怒ってるんだけど」
「うん」
「うんじゃなくてさ」
「うん」
唇を尖らせた恋人の機嫌がなおるのにも、もう少しかかるかもしれない。トレイは小さく笑うと手を離さないままで背中を向けた。くんと咎めるように腕が引かれたので、言葉の代わりに同じ様に手首を掴む。するりと手だけを引けば、素直に力を抜いてくれた可愛い恋人と手のひらを合わせることが出来てそのまま手を握った。
「一緒にいればいいんだろ?」
「そう言ってんじゃん」
「じゃあ場所はどこでもいいな」
「は?」
ついさっきまで、大声で捲し立てていた男とは思えない。困惑気味の表情で判りやすく首を傾げたフロイドは引かれるままに遅れてスリッパを鳴らす。背中からでも解る程機嫌を良くしたトレイが、逆の手でミントクリームのカーテンに手をかけたのを黙って見ていた。