【瓶底の澱】 玄関先、インターホンが鳴っている。何のことはない呼び鈴がいやに鼓膜を揺らした。宅配便は頼んでいない。もちろん、ピザも。となると来訪者の心当たりはただ一人しかいなかった。
急かすかのよう続け様にベルが鳴る。仕方なく重い体をベッドから起こす。重力に抗えば頭蓋の内が痛んだ。体を引きずり何とか立ち上がって控えめにドアを開ければそこには予想通りの人物が立っていた。
俺はそっとドアを閉じる。しかし無礼な訪問者は扉が閉まり切るより先に僅かな隙間に靴の先を差し込み、阻んだ。
「おい! 閉めるな」
「なんで来た……」
「お前がそんな状態だからだ」
それなのにどういうつもりだと言いたげな赤い瞳が鋭くこちらを睨んだ。それは少なくとも病人に向けられるべき視線ではなかった。
「大人しく私に看病されろ」
「自分のことは自分が一番分かる……俺だって医療従事者の端くれさ、大丈夫だ」
ハイドを自宅に招き入れる気はなかった。今自分が患っているのはここ最近の流行病だ。医療事務として病院に勤務している以上、罹患のリスクは高いことも分かっていた。厄介なことにこのウイルスは感染力が高く、簡単に人にうつってパンデミックを起こす。一般の風邪よりも深刻な症状が出ることもあるらしい。しかし不必要に他者と接触せず、きちんと養生すればどうということはないこともこの間の職場での患者対応、そして日々の報道から分かってきていた。
「おい、何を強がっている……こんなことで体力を使っている場合じゃないだろう。それとも私の看病ではご不満か?」
「……確かに、お前に世話を焼かれるのはちょっと不本意だな」
「なんだと」
押し問答の末、痺れを切らしたハイドは遂に諦めたようで
「強情な奴め……」
捨て台詞と共に玄関先から立ち去った。彼の気配が完全に消えたのを確認してからそろりと戸を開けば、そこにはボトル飲料とレトルト食品、瓶詰めのハニージンジャーの詰め込まれた紙袋が置かれていた。
頭を掻く。ハイドはここしばらく撮影続きで忙しいと言っていた。下手に部屋に上げてこの厄介なウイルスを移しでもしたら……
「お前さんを待ってる人たちに怒られちまうだろ」
ずっしりと重い紙袋を抱え上げ、自宅に引き入れる。その重量にハイドの想いを見たような気がして、狼男はひとりはにかんだ。喉の奥が苦く、痛い。体はだるくて堪らない。それでも火照った頬に外気がひんやりと心地良かった。
◆
通りに不機嫌な足音が響いている。一人の吸血鬼が風を切り、とあるアパートから遠ざかって行く。
「あとで泣いて連絡を寄越したって知らないからな」
右手に握ったままのスマートフォンが震えることは無い。今日の仕事の予定は無理を通してグローリーにキャンセルさせてしまった。スーパーモデルの一日を無駄にして、高くつくぞ、と胸の内で悪態をつく。
今回の流行病は体に堪えるともっぱらの噂だ。トモダチルの投稿を見て遂にガラも罹患したのだと知った。独り者の、ましてや遠慮がちな性格のあの男は誰にも頼ることなく床に伏せていることだろうと踏んで押し掛けたのだ。それなのに、結局追い返されてこのザマである。
慣れないお節介だったと分かっている。相手が……ガラが求めていないことを無理に押し付ける気だって本当はなかった。それでも自分をあんな風にさせたのは、何故だろうか。今こうしてムキになっているのは。
視界に、転び、大声を上げて泣く幼児が目に入る。泣きながら母をしきりに呼び、痛いと訴えている。駆け寄った母親と思しき人物は子を抱き抱え、甲斐甲斐しくあやした。
ガラは高潔な男だ。その高潔さゆえに肝心な時に私には何もさせてくれない。彼は子どものように声を上げることも、誰かに抱き締められるのを待つことも、ない。
遥か先の未来、いつか来る最期の時でさえあの男はこんな調子なのではないか。
仄暗い未来予想が一瞬、しかし確かに私の胸を支配した。そうだ、きっと私は
「ねえ、あれ、ハイドじゃない?」
「かっこいい〜! サインもらえないかな!?」
自身の名を呼ぶ声で我に返る。帽子を目深に被り、サングラスをしていてもなお気付かれるものかと感嘆する。色めき立つファンの方を見やり、微笑んで見せると黄色い声がわっと上がる。
パーキングメーターに停めていた愛車に乗り込み、柔くアクセルを踏んだ。車を発進させてから考える。
何処へ向かおうか。
ふと、この車を買った日のことを思い出す。この車上で何が行われたかを。そういった"昔馴染みの友人たち"に連絡を入れてみることは、この行き場の無い気持ちを手っ取り早くいなす方法に思えた。けれど。
あの時、何を勘違いしたのかお姫様抱っこで救い出してくれた人狼は。鬼の形相で私を諭したガラという男は。やはり今、熱にうなされているのだ。
私は首を振るとコーヒートークの方角へと車を走らせた。
◆
「……と、言うわけさ。これを飲み終えたら友人のところへ向かってしまおうと思っている」
カウンターの上のコーヒーカップ。その中身が1/3ほどになるのを見てとって、バリスタは常連客へひとつの提案を口にする。
「ご迷惑でなければ僕から一杯、ご馳走させていただいても?」
「まさか私を引き止めようというのか? 先を急ぎたいところだが……親愛なるバリスタの厚意とあっては無碍には出来まい」
くっくと揶揄うように笑うハイド。ガラのアパートを後にした彼は同じくシアトルの街の一画に開く喫茶店、コーヒートークへと訪れていた。狭い店内にはハイドと店主の二人しかいない。
ハイドの了承を受けたバリスタはじっくりとコーヒーを抽出するとカップの上へ慎重にラテアートを施していく。そして「良い出来だ」と面前の客へ一杯のコーヒーを差し出した。
一方で、提供されたカップを見るなり吸血鬼は露骨に表情を歪め、怪訝をあらわにした。
「バリスタ……私の話を聞いていたか?」
「聞いていたとも。だからこその一杯さ」
提供されたのはガラハッド。同じくこの店の常連であるガラが特に好んで飲んでいる。人狼の怒りを抑えるジンジャーの風味が特徴的な一杯だ。
「ハイドさん。お友達のところへ向かわずにここに立ち寄ってくれたのはどうしてだい」
「……私はただ、喉を潤したくて来ただけだ」
「あんな話をすれば僕が引き止めることなんか安易に想像出来ただろう。それでもあなたはここに来て、話をしてくれた」
バリスタはにっこりとカウンターの客にはにかんだ。ハイドはといえば浮かない顔で手元のカップを見つめている。
「少なくとも今のあなたを……そんな顔のままでは帰せなかったよ。通行人に目撃されてあのハイド氏を心底がっかりさせた喫茶店、なんて評されたらいよいよこの店は立ち行かなくなるからね」
そう笑って店主はウインクした。吸血鬼は言葉を返さない。
「分かっているんでしょう。ガラさんがあなたを無碍にしたわけではないことも、あなたがガラさんのことを自分で思う以上に心配していることも。そしてだからこそ、寂しかったことも」
「バリスタ、君はいつも正しい」
吸血鬼が沈黙を破る。
「だが、正しさが全てではないのさ」
細くしなやかな指はティースプーンを手に取るとカップに施された模様を割き、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜた。
「気が変わった。友人のところへ遊びに行くのはよそう。代わりに」
吸血鬼の美しい赤い瞳が一瞬、ワインボトルの底の澱(おり)のような昏さを纏って濁った。
「もう少し、私に付き合ってくれ。……首を突っ込んだ君が悪いんだぞ、バリスタ」
使い古されたコーヒーマシンの音がシアトルの街に響いていく。