【暗殺者より愛を込めて】 鱗粉が舞う。モスマンが荷を置くや否や逃げるように飛び去っていく。
ヴァルバトーゼ宛に時折届けられる小包み。中身のほとんどは貢ぎ物と銘打った嫌がらせの品──具体的にはニンニクや鏡、ロザリオの類いであるが、中にはごく稀に真なる「貢ぎ物」も紛れている。
「拝啓 ヴァルバトーゼ様」
今回届けられた荷物のひとつには手紙の添えられたワインボトルがあった。フェンリッヒには酒の良さが分からない。アルコール特有の匂いはとかく鼻につくし、何より「気持ち良く酔う」という感覚が理解出来なかった。火照って頭が働かなくなり、じきに気分が悪くなるのが関の山である。
だが、酒の中には極めて価値のあるものがある。この世には酒を好む者がごまんといて、味の良さ、ボトルの装飾、希少性その他次第では目が飛び出るような高値で取引されることもあるのだ。
それを知っているフェンリッヒの目を引いたのが古い年代の赤のワインボトルだった。手に取り、ぼけたラベルの文字をなんとか読み取って驚く。酒を知らぬ者ですら名前くらいは聞いたことのある、それくらいの上物のワインであった。これはひとえに主が畏れられ、敬われるからに他ならない。少しは分かっている者もいるではないか、とシモベは得意気に鼻を鳴らした。
瓶口は魔力をきつく込めたコルクで塞がれており、製造から数百年の時を経てもコルクおよび中身が劣化することはないという。開栓するにはコルクに込められているだけと同等以上の魔力を込めなければならないが、我が主にかかれば造作もないことだろうとフェンリッヒはひとり頷いた。
「このまま処分しても良いが……上等な品ではある。一度ヴァルバトーゼ様のお耳に入れておくか」
フェンリッヒは貢ぎ物の報告をすべく主を探しに部屋を後にした。誰も居なくなった部屋は僅かに静寂を取り戻す。が、それも長くは続かなかった。入れ違いでヴァルバトーゼがやって来て、きょろきょろと室内を見渡した。求める人物の姿が無いと分かりドアノブに手をかけた時、マントから飛び出した眷族、その一匹がテーブルの上に止まり鳴いた。
何事かと歩み寄れば自分宛の手紙、そして傍には古いワインボトルが置かれている。この後ヴァルバトーゼがとった行動は言うまでもない。棚にしまわれていたソムリエナイフを取り出すと瓶口に宛てがい、易々と栓を抜き、中の液体をグラスに注ぎ、口をつけた。そしてグラスが傾きかけたところで木製の扉が音を立てて乱暴に開く。血相を変えて飛び込んできたシモベが暴君から強引にグラスを引き剥がした。
「む、お前も飲むか?」
「……良い報告と悪い報告をいたします。良い報告はこちらがヴァルバトーゼ様に宛てられた申し分無い貢ぎ物であるということです。悪い報告はこのワインには毒が仕込まれているため、お飲みにはならないでいただきたいということです」
「なに!? 危うく飲んでしまうところだったぞ。さすがはフェンリッヒだ。やはり人狼は鼻がきくのだな」
「差出人不明の食品を口にするなど不用心にも程があります。ヴァル様クラスの悪魔ともなれば名誉欲しさに首を狙うものは幾百とおりましょう。少しはお立場をご自覚ください」
いえ、幾百では済まないかもしれませんね、とこれまでに届いては無断で処分してきた小包の数を思い返してフェンリッヒはため息を吐いた。
「こちらはわたくしが処分しておきま……おっと」
手元が狂い、ワイングラスが中身を伴って落下する。ガラスが割れた音、それと同時に地鳴りのような音が辺り一面に響き渡った。先程までワインだったはずの何かが急速に蒸発すると共に床が隆起し捲れ上がったのを二人の悪魔はその足元に目の当たりにした。
「……」
「ほう」
残りの酒、そして差出人もろとも処分するための手はずを頭の中でゆっくりと思い巡らせながらフェンリッヒは指を鳴らした。
「すぐに掃除道具を持って参ります。……決して触ったりなさいませんよう」
苛々とした面持ちで部屋を出て行ったフェンリッヒ。一方、部屋に取り残されたヴァルバトーゼはシモベの言いつけをよそに早くも食指を動かし始めていた。テーブルの上、小包みの中から今度はウイスキーの瓶を見つけると、蓋を外し、とろけるような琥珀色の液体をそのままにあおった。フェンリッヒが席を外した、僅か一瞬の出来事であった。
「ヴァル、様、そちら……お飲みに…なられ……??」
「うむ、美味いな! あまり飲んだ試しのない味だ。樽の中で長い歳月をかけ熟成させたのだろう。どこの魔界の酒だろうか」
「……」
顔色(元々血の通わぬ肌である)、呼吸音(この方に心拍はあるのだろうか?)、その他見てとれる限り何の異常もきたしていないヴァルバトーゼ。フェンリッヒはそれを見て、毒が仕込まれていたのか、いなかったのか、どちらか考え、しかし考えるだけ無駄だと気付き、やめた。どちらにせよこの方に毒は効かない。それをフェンリッヒは身をもって知っていたはずだった。それでも心臓はやかましく、彼の動揺を示していた。
「これでは命がいくつあっても足りません……」
「何を心配している。俺がそう簡単にくたばると思うのか?」
「あなた様の命の話をしているのではなく、わたくしの命の話をしているのです」
「?」
「……今のは忘れてください」
首を横に振るフェンリッヒ。その顔には疲れの色が浮かんでいた。
「分かった、お前が言うなら忘れよう。……ところでフェンリッヒ。お前、酒は飲めるか?」
「酒ですか? いえ、わたくしは……」
フェンリッヒの返答よりも先に白手袋の手がウイスキーを注いでいた。テーブルの上にはグラスが二つ。暴君が次に何を言い出すかは火を見るよりも明らかだった。
「嫌とは言わせんぞ? 毒は入っていないのだ、少し付き合え」
向けられる真っ直ぐな期待の眼差し。主人の好意を無碍にも出来まいと従者は差し出されるままグラスを受け取った。ただ純粋なアルコールの香が鼻を通る。ヴァルバトーゼの言う通り、確かに毒の混入はなさそうだ。
「一杯だけですよ」
二人はグラスを交わし、酒をあおいだ。
夜がグラスの底に溶けていく。
◆
暴君ヴァルバトーゼは初めて目にする友の姿に戸惑いを隠せないでいた。あんなにまで恭しかった男が今、酒に酔ってべろべろになり、更には不機嫌を露わにしているのだから当然だ。泥酔するほどの量は勧めていないし飲んでいる様子も見受けられなかったが……とヴァルバトーゼが控え目に隣の席の様子をうかがうと、視線に気付いたフェンリッヒから呂律の怪しい悪態が飛んで来る。
「大体、毒が効かないってなんなんれすか!? 崖から突き落としても爆発に巻き込んでも死なないってもう……めちゃくちゃですよ……」
「あ、ああ……それは……気の毒だったな」
フェンリッヒの背中をさすり、宥める羽目になった暴君は心の中でそっと思う。俺はいつの間にか崖から突き落とされていたし、爆発に巻き込まれていたし、毒を盛られていたらしい。と。
「わたくしが……どれだけあなた様を想って近付いたのか……ひっく……あなた様のためにいくつの暗殺プランを練り上げたのか……ご存知ないのでしょうけれど」
水を飲むよう勧めても、フェンリッヒは首を横に振って一向に聞き入れようとしない。酔っ払いは何故か頑なに酒のグラスを握り続け、周りが促しても決して水を飲まないものだ。
「ヴァル様は何故あの時、素性も知れぬ青二才を受け入れてくださったのです……?」
狼男は完全に酔っていた。もう、彼を誰にも止められはしなかった。肩を寄せ迫ってくるシモベの勢いにさすがのヴァルバトーゼもたじろいだ。視線を逸らし、どうしたものかと言葉を詰まらせているとフェンリッヒがぽつり呟く。
「もしわたくしと同じように配下にしてくれと頼む者が出てくれば、あなた様は同じように簡単に受け入れてしまわれますか」
それはどういう意味だと振り向けば、そこには額を卓に付け、寝息を立て眠る若い人狼の姿があった。
存外酒に弱いのだな、こいつは。まだ齢1600歳そこそこだと言ったか。それではさしたる酒の経験もあるまい。無理もない。
恐々と銀の髪を撫でる。無意識なのだろうが尻尾が僅かに揺れ、動いた。
「安心するが良い。俺に付き従おうなどというもの好き、他にはおるまい」
友の寝顔を肴に、暴君の夜は更けていく。