【眠らぬ街】「こんばんは! 飲み会帰り?」
ロサンゼルス、ユニオンステーション。終電間際とあって構内は人でごった返している。ただでさえ煩わしく思える喧騒の中、無遠慮に顔を覗き込まれる不快感。視線だけ遣れば何者かが熱心に話し掛けてくる。ハイドの視界、その端に映ったのは一人の若い男だった。
「飲み足りないって顔してる。良かったらこの後一緒にどう?」
ナンパか、と吸血鬼は辟易する。と、同時に、この若造は人間で、だとすればせいぜい20代半ばだろうと静かに見定めた。永遠にも等しい寿命を持つヴァンパイア族からすれば、子か、下手をすれば孫の世代だ。男は器用に歩幅を合わせ、斜め後ろをついて来る。いつもであれば無視を決め込むところだが、若い彼の思考があまりに明け透けで、少しからかってやろうと吸血鬼は口角を上げた。
「そうだな。どこで飲み直そうか考えていた」
若者はギクリとし、目を泳がせた。彼を動揺させたのは吸血鬼の鋭い牙ではなく──発された、その声色によるものだった。次の一言をいつまでも言い淀む口元は、ハイドを女性だと思い込み声を掛けて来たことを物語る。間の抜けた表情を満足げに眺め、吸血鬼は肩の下まである髪を指先に絡ませた。
ハイドは最近始めたモデル業の都合で髪を伸ばしている最中だった。午後、バーに立ち寄る前まではまさにモデル契約したブランドとの打ち合わせに出席していた。ブランドイメージを考慮しユニセックスな服装を選んでいたことも相まって、今こうして勘違いを助長させる結果となった。ハイドは足を止め、初めてその人物と視線を合わせた。
「私はこの通り男だが……分かっていて声を掛けたのか? それともなにか、勘違いさせてしまったかな?」
「マジかよ、女の子だとばかり……いや、気を悪くさせたらごめん」
「……君、年は幾つだ?」
「年? 23だけど」
素直に詫び、そしてこちらの質問に応じた青年の姿を改めて目に入れる。ワックスで髪先を遊ばせている。童顔で、背はハイドよりも少し高かった。着こなしている、若者らしいファストファッションにはある種の羨ましさを覚えた。そして上から下まで視認して、思う。これはとって喰うにしても若過ぎる。
「……思うに、私では性別も、歳も、君の狙いからは外れている。もっと相応しい相手を見つけると良い」
この街には人がわんさかいるのだから、と群衆を親指でさして見せた。週末だ、ここが駄目でもクラブ街まで足を延ばせば今夜の相手くらいは見つかるだろうといなせば、もう、彼はハイドの後を追うことはしなかった。ただ一歩、また一歩と遠ざかるレースアップの背に向けて、青年は雑踏の中、衝動的に呼び掛けていた。
「キレーなお兄さん!」
調子はやはり軽薄だった。だが同時に、そこには嘘偽りもまた、無い。
「気をつけて帰って! 良い夜を!」
振り返ってしまおうか、ハイドは悩んだ。
振られて憤るでもなく、吸血鬼を、それも、君の何倍もの時間を生きているこの私を。君は心配しようというのか。
今ならこの青年と飲み直しても良いと思った。彼は同性愛者ではないだろうがyesと言わせる自信があった。教え込んでその先を楽しむのも面白そうだと思った。
しかし、吸血鬼は思い留まった。ついぞ振り返ることはない。代わりに、彼の足先はとある場所を目指す。
「ああ、君もな」
そろそろ、口うるさいボディーガードが今晩泊まるホテルのロビーで待ち構えている頃合いだろう。以前、遊びが過ぎて激怒した彼に無理矢理取り決めさせられた「門限」には僅かに間に合いそうにない。
……が、きちんと帰ってくるだけいいだろう。そう、上機嫌で笑うと、吸血鬼は約束のホテルへとほんの少しだけ、急いだ。