ここにいればそれでいい。「イヌピー、今日何時まで?」
「今日か? ドラケンが客先から帰ってきたら上がれる」
「んー、そっか。じゃあ終わったら連絡くれる?」
「ああ」
仕事場に突然現れたココはそう言うと、そのままどこかへ行っちまった。相変わらず自由なヤツだ。
離れて、オレがこうやってヤンチャするのをやめて仕事を始めてしばらくしてから再会して。まるで何事もなかったかのように変わらない接触をしてくるココが、不思議でしょうがなかった。
メシを食いに行こうと誘われ、部屋に来いよと誘われ、挙句の果てには職場まで来る。バイクショップだし来ることに文句はねえけど、普通にそうするから本当に、謎だった。
「ただいまー」
「おかえり、ドラケン」
「おー。待たせて悪かったな、修理に手こずっちまってさ」
「仕方ねえさ、もう上がっても平気か?」
「ん、おつかれ」
何年も二人でこうしていれば、多少応対が雑になることはある。それはココ相手で十分にわかってたつもりだから不思議じゃなかった。だけどココと再会してからは、ココじゃない相手にそうできる自分、が少し不思議な生き物にも感じる。
別に、ココに依存してたわけじゃねえし、ココじゃなきゃだめだと思ったことも、それはまああるけど、そこまでじゃねえと思う。ただ、やっぱりココがいいんだって、そう感じることが増えた。
「そういえばイヌピー」
「うわ」
「わりぃ、邪魔したか?」
「メールだから、いい」
「そっか。いや、さっきココに会ってよ。なんかいいお茶っ葉くれたわ」
「いいお茶っ葉……」
アイツは本当に、なんなんだ。店への差し入れならさっき渡せばいいじゃねえか。堂々としてる不審者に、オレは今日こそその真意を問い詰めようと思った。
さっき会ったなら、きっと店のそばで待ってるはずだ。オレはメールを打つのをやめた。さっさと帰り支度をしてドラケンにまた明日と挨拶をする。ドラケンは『いいお茶っ葉』を戸棚にしまって返事をくれた。
裏口から外に出れば表の通りに、ほんの数十分前に見た姿と同じココがいた。オレは少しだけ駆け足で近寄ると「ココ」と、名を呼んだ。
「イヌピー、おつかれ」
「待ってるなら中で待ってろ」
「いや、そういうのはいいんだけど」
不審者は、妙な遠慮をして苦笑いを浮かべる。どっちにしろ帰る道はこっちじゃねえし、バイクも裏だ。ココは未だに相棒がいない。だからふらふら歩いてるんだと思うが、コイツの家からここまで、それほど近くもねえのに、よく来るよな。なんならココの家からならオレんちのほうが、きっと近い。
「乗るか?」
「乗る」
俺の愛車は変わらずコイツで、現役の時より装飾も塗装も控えめにした程度。後ろにココを乗せてたのは昔からだけど、あの頃とはもう違う。乗るっつうならメットは必要で、店の裏に置かれたメットをひとつ取って、ココに投げ渡す。素直に被るのは、それがココ用だと分かってるからだ。ココを乗せた次の日、オレはまたここにメットを戻すから。
「ココもバイク買えばいいのに。安くするぞ」
「イヌピーのお見立ても悪くねえけど。オレはナナハンのケツ乗ってる方がいいから」
ココは、そんなことを言ってオレの腹に腕を回した。
そんなこと言って、オレの前からいなくなったくせに。オレは口に出す前に、エンジンをかけてナナハンを走らせた。愛機『RZ350』は走り屋向きで、日常生活には過剰な馬力だ。でも慣れた排気音、エンジンの振動、これがなくちゃ落ち着かないのはもう何年もこいつといるから。それはココも同じだった。
とはいえ少し離れちまえばなんとなく、違ったんだなと思うようになるのかもと考える時期もあった。実際今ココがどこでなにをしてようとも気にならなくて、別にいてもいなくてもいい。ただそれは、ほんの少し前まで。
走らせてる最中はお互いに無言で、服越しに伝わる体温だけで語り合う。それが意思疎通の図れるもんじゃなくとも、今のオレには、オレたちには、それだけで良かった。
少ししてたどり着いたのはオレの部屋で、ココの部屋よりも小さい、らしい。再開してから一度たりともココの部屋には行ったことがなくて、別に行こうとも思わなかった。
「食うもんある? 買ってこようか」
「冷凍庫になんか入ってるだろ」
狭くて、なにもない。ただ少しのバイク雑誌と昔の思い出が置いてある程度の部屋。ココは勝手知ったる我が家のように冷蔵庫を開けて、ペットボトルのスポドリを勝手に飲む。飲みかけだってことなんて、オレも、ココも気にも止めない。
コイツは晩飯までいる気だ、とわかってた。ベッドの上に腰掛けたオレの横に座って、なにも言わずそこにいる。オレも、なにも言わずに。
しばらくそうしていた。ココはなにもせず、オレは雑誌を見ながら普段と変わらない時間を過ごす。今のココはオレにとってイレギュラーな存在だとしても、ココの存在がイレギュラーなわけじゃねえから。そこにいて、なにもおかしいことはない。
「……なんで、」
だが、この状況に落ち着かないのはコイツのほうだった。どこか泣きそうな声で小さく、声を上げて。
「なんでイヌピー、なんも聞かねえんだよ」
まあ、もっともな疑問だった。オレにとっても謎なことで、きっとココにとっても聞かれて吐いちまったほうが楽になるだろうことくらいわかる。だけどそれはココの勝手だ。
「ココがいれば、オレはそれだけでいい」
ココが選んだ黒龍のためじゃない、オレのためじゃない人生を否定するわけでも認めねえわけでもなくて、それでもこうしてオレの元へ戻ってきたことへの罰。忘れたままでいさせてくれればよかった。忘れたことなんか、ねえけど。
それにココのことが決してなにも気にならないわけじゃなくて、いつか、話してくれればいいと思うだけだ。そしていつか、オレを、選んでくれたなら。
「……意地悪い」
「なんとでもいえ。オレんちの食材食い荒らしてくくせに文句言える立場か?」
「だから買ってくるって言ってんだろ」
「……いや、それはオレがココにしたいことだからいい」
「なんだよそれ。イヌピーオレのこと好きすぎかよ」
「当たり前だろ」
いつかオマエがオレを選べるように、手だけは差し伸べてやってもいい。刈り上げた側の耳に触れてそっと引き寄せれば、そっと、触れる。
オレはココがいればそれでいいんだ。だからいつか、オレの元に帰ってきてくれ。