夕暮れどきの魔物
その日の夕焼けはやけに紅くて眩しかったのを覚えている。帰り道途中にある神社へ続く階段で買ってきた中華まんを頬張って、他愛のない話を始める。静かに聞き、相槌を打つ新との時間はひどく穏やかで、こんな時間がずっと続けばいいのにと柄にもないことを願ったりもした。同時に知っていた、そんな穏やかな日は二度と訪れないことも。
「これ結構いける。ほら」
「味は?」
俺が差し出した中華まんの端をかじった彼がぐっと喉を詰まらせる。激しく咳き込むその目には涙が滲んで、何だこれと口元を押さえて呻いた。
「激辛とうがらしまん」
正体を知るとますます口の中が辛くなったのか咳が復活する。丸めた背中を擦りながら、美味しいのにと一口かじりついた。
大丈夫か? と微笑いかける俺を小さく睨んで、もう平気だ。と新は姿勢を正した。
「まだ口の中が辛い、と言うか痛い」
「あらら、この辛さが旨いのにな。辛いの苦手かー」
りんご飴が好物だから味覚がお子様なんだろう。顔を逸らしてお茶で口直しする彼の頬は少しむくれて見えた。
振り仰いだ夕焼けが端から深い藍色に染まっていくのを物悲しい気持ちで見送る。
「……もう陽が落ちるな」
「そうだな」
隣で新も同じように塗り替えられる夕焼けを振り仰いでいて、その横顔があんまり寂しそうに呟くので少し泣きたくなってしまった。
帰りたくないなと呟いたのはどちらの声だっただろう。お互いに少し困った顔を見合わせて笑った。
いつまでこんな風に穏やかに過ごせるのか、そんなささやかな祈りを無粋な機械音が打ち破る。
ああ、またか。
鳴り響く電話に手を伸ばす気にならない俺を不思議そうに見上げるだけで、彼は何も言わなかった。
カバンの中で反響する音が消えた頃、頭上はすっかり冷たい空気に包まれて、塗り替えられた藍色の空に白い星が瞬いていた。
暗い夜空にすり替わった今、もう二度とあの優しいオレンジ色は自分の前に訪れない気がして。
「そろそろ帰ろう」
階段から立ち上がったのは新が先だった。渋りながら自分も立ち上がり、二人で神社を後にする。
最後の石段を降りて何気なく鳥居を振り返るとそこには紅い空が広がっていた。藍色に染まっていく夜空の中でそこだけ切り取られたような不自然な夕焼け。しかし今まで見たどれよりも眩しくて。
鳥居のむこうに広がる異質な紅(あか)に恐れながらも惹き付けられる。あの夕焼けは異界だ、帰りたくない子どもを手招いて、おいでと呼び寄せる魔物。
むこうに行けば帰れない、それでも誘惑から目が離せない。帰りたくないならいっそ――
「仁?」
袖を引く新の声に気づいて鳥居から姿勢を逸らした。眉をひそめた小柄な体に引きずられるようにして神社から離れる。
「むこうに引きずられるんじゃない。君のいる場所はこちら側だ、むこうじゃない。しっかりしろ」
新にも見えていたのか、少し怒って聞こえた。家に帰りたくないのはコイツも同じで、むこうに惹かれるのも当然一緒。だからむこうへ行きたがった気持ちは痛い程解っただろうにそれを止めた。鳥居のむこうに広がる異界はきっと良くない物で溢れているから。
でもあんなに紅い夕焼けの前では立ち止まらずにいられない。一人ならきっと鳥居をくぐっていた。これから先あの夕焼けを見ることは出来るだろうか。
振り向いた神社は薄暗い静寂に包まれて、どこにも夕焼けは見られなかった。
2015.3