恩讐の狂想曲(カプリチオ)
昔から母親は新の部屋には入って来れない、それは始が異界から帰還してからも変わらなかった。この家の中で唯一の聖域だ。存分に部屋に閉じこもって、母に当てつける兄に弟はあまりいい顔をしなかったが、追い出したりもしない。昔から兄の方に懐いていた以上、彼に隷従して次第に言いなりになっていくのも、ある意味当然と言えた。
階下にいる母の耳に届かせるためだけに背徳的な行為に身をやつして。最初は渋った弟も今は抵抗なく、ベッドに兄を招き入れては甘い声を立てる。苛々する彼女が歩き回る足音を想像するだけで始の胸は空いて、彼の口角を持ち上がらせた。
兄が歪んだ笑みを浮かべても、弟は心配そうに見つめるだけで何も言わない。黙って彼の腕の下で己の体を悶えさせる弟に、いい子だと頭を撫でる。
兄さんは間違ってる、こんな風に仕返しても何もならないと彼は何度も止めようとした。弟にとっては母も兄も大事な家族で、みんなで仲良く暮らしたいと常々願っているのを知っていた。
「兄さんが戻ってこれたのは、母さんも兄さんの存在を忘れてなかったからだよ。俺だけじゃきっと七年も保たなかったと思う……だから」
始がいない間彼らがどんな風に過ごしてきたか知る由もない。きっと寂しい思いをしただろうに、新は母を信じて頑なに家族の再編を諦めない。
そんなもの何処にもありはしないのに。
「新、俺が帰ってこれたのはお前のお陰だ。他の誰も関係ない、お前がいたから成し遂げられた」
「俺だけじゃない、母さんもずっと待ってた」
「お前は母のことが苦手じゃなかったのか、何故あの人を庇う?」
「兄さんが帰ってくる前に少しだけ二人で話したんだ、この家にいた『家族』の話を。あの時母さんは笑ってくれた、初めて俺を見てくれた。だから兄さんが戻ったら、きっと家族に戻れるって信じられたんだよ」
「幻想だ。そんなもの最初から在りはしない」
「どうしてそんなに冷たいことが言えるの? 家族で仲良く暮らすことの何がいけないんだ」
「……あの人が俺にどんな風に接していたかお前は知らないだろう? なら教えてやる」
どれだけ願っても家族になんか戻れはしない。最初からあの人は始を息子として見てなかった。一人の人間として愛され、親情なんか一つも与えてくれなかった末路がこの偏愛だ。愛しい弟を苦しませることになると解っても、この歪みを教えなければ。
「兄さ……」
そうして伸ばした手は彼の手首を捕らえて、あんなに忌み嫌った母と同じ所に堕ちる。過剰に愛された子どもは弟を使って母に叫び続ける。あなたは必要ないのだと。
「――どうして怯える必要がある? これがお前の望んだあの人の本当の姿なのに。知って尚、本当に家族だと言えるなら大した間抜けだな」
一生言うはずのなかった罵倒や、無闇に傷つける言葉をこれでもかと吐き続けて、幼い体に黒く染み付けていく。あの人が愛を囁く時と同じように、一つ一つ丁寧に言葉を紡いで。
見たことのない兄の形相に弟は固唾を飲んで黙っていた。裏切られた顔とはあの顔のことを言うのだろう。
掴まれたままの腕が震えて、悲しそうに伏せた睫毛からは今にも涙が零れそうで零れない。人は堕ちる所まで堕ちたらとことん下衆になれるものだ。
部屋に置かれたベッドが呼んでいる。押し倒した腕が行き着く先に何の背徳も感じなかった。
「…………新」
丸くなった新の目が状況を飲み込んで、次第に恐怖に変わっていくのはむしろ痛快だった。苦痛に歪む弟の顔をいつでも思い出せる、あの時の細い腕を、小さいながらも筋肉の付いた体を。反発する声全てが鮮明に。
無理に辱しめられた体からは血が流れて、事が終わるまで静かにすすり泣いていた。
「解ったか、家族なんて何処にも存在しない」
光沢の失った瞳はぼんやりと天井を見上げるだけで何も言わない。この時、彼の中で家族という幻想は決定的に壊れて失われたのだ。
二階の奥の部屋から出た途端、始と呼ぶ声と共に階段を上ってくる母の姿。毎度毎度懲りないな、とわざとため息を吐いて階下に下りる。廊下でヒステリーに付き合う気はない。
「待ちなさい始。あなた、どういうつもりなの」
後を付いてくる足音さえもヒステリックに金切り音を上げて。
「何のことだ」
「あの部屋に閉じこもって一体何をしているの? あんな……」
「あなたには関係ない」
「何を言うの、あなたは私の大切な息子なのよ? 子どものことを気にしない母親がどこにいるのよ」
「……お人形遊び」
尚も食いかかろうとした母に先制を打つ。その言葉は意外だったらしく、勢いを削がれた彼女の腕は息子の腕を掴もうとした形で止まっている。
「昔、母さんが言ったことだろう、俺はお人形遊びが好きなんだ。あの部屋で人形と戯れて何が悪い? あなたに何か迷惑をかけたか? ないだろう」
「ああ、可哀想にずいぶんと疲れているのね……もっと私に甘えていいのよ? そうだわ、二人で何処か旅行にでも行きましょう。それがいいわ」
「触らないでくれ」
腕に伸びた細い指を払いのけて、キッチンに向かいコップ一杯の水を呷る。冷蔵庫からペットボトルを取り出すと母の横を通り抜けて階段に足をかける。
その背中を呼び止める媚びた女の声。
「――ねぇ始。新しいお人形は要らない?」
決して離さないと、自分に関心を向けさせるために囁きかける魔性の声。うれしいでしょう? と買ってきた人形でも渡すかのように、新を寄越した日と全く同じ、優しげだが醜悪な笑みを向ける。
「そんなものは要らない。俺の弟は新一人だけだ」
言い捨てて二度と振り返らなかった。
お人形って俺のこと? シャツを羽織っただけの新がベッドの上から間延びした声を上げる。二階に届く声ではなかったからわざわざ聞きに下りて来たのか。何のために?
「すまない、気に障ったか」
「そんなことない。兄さんがそう言うなら俺は一生お人形でいい」
一生、と愉しそうに細められた目で嗤うのを始は冷めた目で眺め下ろす。始から注入された呪いの澱は順調に新を蝕み、歪ませて。ああ、こんなに簡単に人は壊れるのかと壊した自覚のないその手で、愛しい黒髪を撫でる。
「兄さんはこれからも俺を愛してくれるよね? ずっと」
「ああ、お前が望むなら一生傍にいよう」
ひとりにしないで下さいね、約束ですよと首に縋りつく愛しい新の体を抱き締めながら、始は嗤う。
今度こそひとりにしない、もう二度と離れないと小柄なその体に誓って。
「……たとえ死んでも離さないから」
壊れた弟から零れた恨みの声を黙って受け止めた。
2015.4