どっちを選ぶの?
……兄さんですよね? と廊下から彼は呟く。震えるような切実な響きに振り返りそうになったがYの怪談を思い出してとどまった。彼の話通りならAの姿は……
「Y先輩の……まだ彷徨いてたのか」
すぐ近くから同じ声がしてそちらに目をやってしまい、後悔するより先に唖然とする。廊下には二人の少年の姿があった。Yが語った通り、目と髪と爪が宙に浮かんでいる。片方は人間の形を失った異形だから全く同じとは言い難いが、とにかく性質的には同じ人間が二人、立っていた。
帰ろうとした矢先に一体何だこれは。お前たちはなんだ? と口にする前に四つの瞳がこちらを向く。剥き出しの二つの眼球を直視してしまい、体は勝手に仰け反っていた。
「その、驚かせてすみません……あなたが俺の兄さん、ですよね? やっと見つけた……会えてうれしい」
「……」
「耳を貸さないでいいですよ、行きましょう。兄さん」
近づいてきた異形のAから遠ざけるように怪談のAに腕を引っ張られ、そのままAは自分の腕を絡めてくる。
「君は誰だ? どうして俺の姿を」
「初めまして。俺はこの度めでたくこの人と兄弟になったA。ですよね、兄さん?」
絡ませた右腕にピッタリ寄り添い、同じAに当て付ける怪談のA。辺りに険悪な空気が流れ始める。
「ちょっと待て、お前は何を言ってる」
「俺のAになれって言ってくれたじゃないですか」
「兄さん、これは一体どういう事? 弟は俺だよ」
不愉快な色を声に滲ませて、カタカタと歯列が鳴る。
それはこっちが訊きたい事なんだが。せっかく怪談を乗り切って帰宅しようとしていたのに、いきなり現れて揉め事を起こすんじゃない。
異形の姿に怯える暇もなく、静かに睨み合う二人は言い争いを始め、少年を巻き込んでいく。
「ずっと探して、やっと見つけた兄さんにこんな悪い虫が……」
「俺が虫なら君も虫だ」
「……偽物のくせにずいぶんと態度が大きいな」
「生憎兄さんが選んだのは俺の方だから。偽物は君の方じゃないのか?」
「コラ、煽るんじゃない。そっちのお前も……その、落ち着け」
「兄さんが目を合わせてくれない」
「そんな姿じゃ無理もない」
「……好きでこんな姿になった訳じゃないのに」
はらはらと眼球が涙を零し、床に滴る血と混じり合う。一体どうやってその涙を流しているんだ、そもそも声帯もないのに喋るなと言いたい。
泣くんじゃないと口を挟むと、反論してきたのはブレザーを着たAの方だった。
「兄さんはどっちの味方なんです? わざわざ創ってまで選んだ俺ですよね?」
「所詮造り物の偽物じゃないか。血を分けた本物の兄弟は俺だよね? 兄さん」
ああもう、そんな事俺が知るか。勝手に出て来たのはお前らの方だろう、何で俺が巻き込まれなきゃならない。
再び睨み合う二人にいい加減にしろと声を張り上げると、二人のAがビクッと肩を震わせた。おかしな話だが体のないAも何故かそう見えた。
「どちらが本物かなんてどうでもいい事で争うんじゃない。どっちも弟、それで話は終わりだ。俺は帰る」
『俺も一緒に……』
「二人共付いてくるな」
ピシャリと言い切ってさっさと昇降口に向かう。足音は聞こえてこない。あのまま二人にしておいて大丈夫だろうか、取っ組み合いの喧嘩が始まらないか気になって仕方ない。
『兄さん……』
「…………」
寂しそうな二人の声が静かな廊下に木霊する。背中に二人分の視線が突き刺さり、後ろめたさが加速する。やめろ、そんな捨てられた子犬のように呼ばないでくれ。
何とか振り返らずに廊下の突き当たりまで歩を進め、角を曲がろうとした時だった。
「これから君はどうする?」
「しばらくは学校に……そういえば俺が入ってたビンはどうしたんだろう」
「アレか。兄さんが持ってる筈だけど違うのか?」
「兄さんが持ってるにしては動いてない気がする」
しまった、すっかり忘れていた。流れるように準備室から出て来たから置き去りにされたままだろう。あんな危険な物を放っておいて、もし誰かが触れでもしたら。
グルリと体を回転させると足早に彼らの横を通りすぎ、図書室までやって来た。戸を引くと引っ掛かって動かない。一体誰が施錠したのか。
「とっくに施錠されてますね」
「中身はここにいるんだし、放っておいても別に構わないと思いますが。君も兄が見つかった以上、もう無闇に他人を連れてく事はしないだろう?」
「そうだな、兄さんさえ見つかれば他人に用はないし」
それはつまり、この目と髪と血を連れて歩けとそう言っているのか。ビンの中に詰めて持ち歩くのとは訳が違い過ぎる。
「それは……」
「ちなみに兄さんが拒否したら?」
「兄さんが居れば校舎内を彷徨く意味もないし……どうしよう?」
だからこっちを見るなと言うのに。
左右から見上げる視線を感じる。戸に引っかけた指に目を落としたまま逡巡し、どれだけ経っただろう。観念して呟いた。
「……明日迎えに来るからビンの中で大人しく待っていろ」
「本当に?」
「ああ」
「よかったなA。それじゃ俺たちは一足先に帰ってるから」
「何でお前まで来る事になってる、了承した覚えはないぞ」
「そんな。Aはよくて俺は駄目なんです? あなたから呼んだのに要らなくなったら捨てるんだ……」
「兄さんひどい」
「何で俺が責められるんだ……」
左右から責め立てられて項垂れる少年の耳に、おい、早く帰れ~と教師の声が響いてくる。顔を上げると異形のAは姿を消して、生身のAだけが隣に残っていた。その手に銀色の鍵を持って。――なるほど、閉めたのはお前か。
視線を向けると彼は顔を傾けて静かに微笑む。……もう勝手にしろ、と口からは疲れたため息しか出なかった。
2015.4