悪夢からの祈り
染み込んで、混ざって。
溶けて融けて解けて。
堅い固い硬い何かが、
厚くて暑くて熱くて。
もう見たくない観たくない視たくない。
放して話して離して。
近づいてくる足音に目を閉じ、耳を塞いで、すべてを無かったことに出来たら。ドアが開く音に顔を上げられない。うずくまっていた背中に手が触れる。
仁。
……ほら、また呼んでる。
「………………」
眉を八の字に下げた新と目が合った。あれ、部屋じゃない。ここどこだ? 仁の疑問に答えるように開け放たれた窓から運動部のかけ声が聞こえて、カーテンが風にそよぐ。HRを居眠りしてた間に放課後に突入していたらしい。
起こそうとした手をそのままに、君、どうしたんだと尋ねられる。いつもの無表情と違って心配そうに。
「何が?」
「ひどい顔をしてる」
机にうつ伏せていた顔を上げた途端これだから、よっぽど血の気が引いてたんだろう。
「そう断言されても、俺寝てただけだし?」
あやふやに微笑って誤魔化すと、新もそれ以上は深く訊けない。視線を俯かせシャツの胸元を掴む。正直気分は最悪だったが彼に言えることは一つもない。さっさと帰ってしまおう。
帰ろうぜ、と席を立つ仁の背中を引き止める声。
「本当に帰っていいのか?」
「もちろん帰るに決まってるだろ。お前そんなに鳩胸に叱られたいわけ?」
「そうじゃない、そうじゃなくて……あんな顔をしてうなされてた原因が……家にあるなら帰るのは」
帰りたくないと、以前仁が溢したことを覚えていて心配してくれてる。その心遣いは有り難くて迷惑だ。いくら帰りたくないと願ってもどうしようもないのだから。学校に通ってバイトに身を投じられるだけ、まだ状況は絶望的じゃない。引き取られてすぐの小さい頃に比べたら本当に助かってる。
だからお前が顔を曇らせる必要はないんだよ。
「帰るよ。帰らない訳に行かないだろ? 俺の家はあそこしかないんだし」
「……そうか。余計なことを言って悪かった」
「別に謝る必要ないって」
空元気に笑って教室の扉に手をかけようとした仁が動きを止める。隣に並んだ新も足を止める。
廊下を抜けていく足音。普段なら気にも留めない音に全身が総毛立つ。近づいて遠ざかって行くまで扉の前から一歩も動けなかった。
「仁」
「…………あ、ごめん何? 聞いてなかった」
「まだ言ってない」
「そう」
「俺に何か出来ることはないか?」
静かな声が教室に響く。改めて扉を引こうとした手を遮るように。冷たい汗が頬を滑り落ちて、やっと気づいたように仁が唇を噛んだ。目の前で顔を歪ませる新を見るに、ずっと痛々しい顔を晒していたことに違いなくて。
今なら、たすけてとその小さな肩に縋りつくのは簡単だろうと思った。
「出来ることってお前、じゃあキスしてって言われたらどうするんだよ。やるの?」
例えにしてもさすがにこれはないだろ。目を丸くして困ってるじゃん。ああもう頭ぐちゃぐちゃだ。
逡巡してから妥協したのか、
「…………口以外なら何とか」
「それじゃ首筋、耳たぶ、肩、鎖骨、それに胸元」
新が眉をひそめる。気にせず口からはすらすらと単語が通り抜けた。
「へそに腰、太股、膝の裏、ふくらはぎ、爪先、背中……それと性器、」
「……」
「にしてもいいの?」
頬やおでこくらいになら、そんな目論見を仁の言葉はあっさり通り過ぎて踏み抜く。瞬きも忘れて絶句している新と向き合う仁も指一本動かさない。疲れた眼差しで新を貫くだけ。
「それは……」
「ほらな。軽はずみなこと言わない方がいい。結局どうにもならないんだし」
ここで笑って、いつもの冗談ってことにしとこう。新を苛めても何にもならない。仁が口角を上げる前に先に新が動いた。固まっていた両手をほぐし、包みこんだ上から両手を組み合わせる。巡礼者が神にかしずき、祈りを捧げるように目を伏せて。
これ、ある意味キスより恥ずかしくないか?
「……お前キザだな」
頬を赤くして呟く仁にそうだろうか、と新は首を傾げた。
2015.4