鬼は笑う
落ちて堕ちて、どこまで堕ちたらお前に辿り着くだろうかと考えながらきっと知っていた、辿り着く日がないことを。だから、伸ばした手があっさりと届いてしまったことに困惑して、鬼は目を丸くせざるを得なかった。
「君は去年の……鬼の怪異か」
「珍しいな、人間が逢魔ヶ時のこと忘れないで覚えてるなんて」
「君の方こそ怪異にしては物覚えがいいな」
「気合いだよ気合い」
掴まれた腕と鬼の顔を交互に見た少年はあくまで無表情に努めて、いつでも斬れるように鞘から刀を抜き放つ。一年前と同じ鈍い光に負けじと掴んだ腕に力を込めて。
「戻っても覚えてたんだ? ずっと呼んでた甲斐あったな」
「誰かに呼ばれてる気がしていたが君だったか、そんなに人間を引き込みたいのか」
「ああ」
「悪いが怪異になる気は毛頭ない、諦めてくれ」
去年と何も変わらない。冷たい光を走らせるそれは敵を見る目だ。兄と自分を陥れ、異界に誘おうとした害悪に今度こそ因縁を渡そうとする瞳に震えが走る。
そんなに嫌わなくても危害を加えたりしないのにな。
「やっぱり怪異になるのは嫌、か」
「……当然だ」
「じゃあどうして逢魔ヶ時に学校に居残ったりしたんだよ? 近づかなければこうして会うこともなかっただろ」
「それは……声がしたから」
「はあ? お前、呼ばれたら危険な場所でもノコノコ来るのかよ」
馬鹿げてる。逢魔ヶ時の世界がどんな所か分かっててそれでも飛び込んでくるなら、それはもう愚かとしか言い様がなかった。しかし、彼は目を伏せて、忘れてたんだと首を横に振る。
「声を聞いて、今日やっと思い出したんだ。去年、逢魔ヶ時の世界に迷い込んで、少女を探していたあの時のことを」
「それでついでに俺のことも思い出したってわけか」
「違う、真っ先に君を思い出したんだ。どうしてか君の苛立つ顔が思い浮かんで……憎かったはずなのに」
歯に衣を着せない言い方に好感度の低さが窺える。鬼からため息が洩れて、腕の力が緩んだ。でもまだ指は離さないで、小柄な体の頭の天辺から足の先まで視線を滑らせて。
「前よりちょっと背伸びた?」
ビキッと青筋が浮かぶ音が聞こえてくるようだ。無表情なその顔を引きつらせて睨み上げる少年を笑い声で煽ると、小さく肩を震わせて握った刀が音を立て始める。
「君に言われるとすごく苛立つんだが何故だろうな……」
「こんなの挨拶みたいなもんだろ。マジ怒んなって」
「そうだな、大人げなかった」
「で、伸びたの?」
「…………二センチだけ」
心底無念そうに丸い頭が俯いて呟く。背が小さいことを気にしているらしい頭を見下ろして、気にしなくてもこれから伸びてくだろと背中を叩いた。不可解そうに少年の眉が眉間に寄って皺を作る。
「君はこちら側に人間を引き込みたかったんじゃなかったのか?」
「そうだな」
「……。君の目的は何だ?」
「……祭り」
「え?」
「せっかく来たんだし祭りで遊んでくよな? どうせなら一緒に遊ぼう。な、そうしよう」
開いた口が塞がらない彼の腕を引っ張って、紅い校舎の中を祭り探して彷徨く。そして見つけた祭りの参道に彼は懐かしそうに目を細めて、いつ来てもここは楽しそうだと一人呟いた。
屋台を回り、目についた金魚すくいや射的で遊んで、美味しいたこ焼きやジュースで腹を満たす。子どものようにはしゃいで、頬を赤く緩ませる横顔は見てるだけで微笑ましくて、ずっと隣で手を繋いでいたかった。
「ずっとここにいてもいいんだけど?」
あまりに楽しそうだから、からかい半分で笑いかけると、それは無理だと顔を引き締める。そんな顔しなくても分かってるよ。
存分に屋台を楽しんだ後、奥にそびえる赤い鳥居に目を向けた。ぽっかりと開く異界へのトンネルに怯んだように少年が鬼の腕を引く。足が戻ろうと踵を返して。
「むこうに何があるか知ってる?」
「行きたくない」
「知ってるんだ、じゃあ話は早いな」
「むこうは……」
「心配しなくても無理に連れて行こうとはしない。行ってくれるなら止めないけど」
「……」
「そろそろ朝だな。じゃ、戻るとするか」
鳥居とは逆に少年を引っ張って、鬼はその場から離れていく。結局その赤い鳥居をくぐることはなかった。
「君は、一体何がしたかったんだ?」
「祭りで遊ぼうってちゃんと言っただろ? で、遊び終わったから帰るだけ。何か文句ある?」
「いや……でも」
「何なら約束でもする? 来年もまたここに来て、祭りで遊んでから」
怪異になるって。
目を見開く彼の頬を指でつついて、顎まで伝わらせる。そのまま喉仏を撫でると小さく喉を鳴らした首筋には僅かに汗が滲んでいた。
約束する? と耳に顔を近づけてもう一度繰り返す鬼に少年はかぶりを振った。
「怪異(君)と約束は出来ない」
「残念。でも俺は諦めないから。絶対にお前は戻ってくるよ、そして今度こそあの祭りのむこうに行くんだ」
「……」
「絶対に。その時をずっとここで待ってるから」
少年の手を離す。正面から向き合ったお前は再会した時のように眉を寄せて、それでも俺は行けないからと言い残し、大事な人が待つ昇降口に身を翻した。
……ずっと待ってる、俺の傍へ戻ってくる日を。
鬼の口に深く笑みが刻まれる。廊下に伸びた影はいつまでも少年の背中を見送っていた。
2015.4