雨降る夜に会いましょう
求む計測時間は、彼が白いガードレールに手を突いて道路を食い入るように眺め始めてから、ほっと息を吐くまで。どれだけの間そうやって見守っていたのか、黒い髪からスニーカーの先までずぶ濡れになっている事にまったく気付いてないのだろう。頭上に差し出された傘に不思議そうな顔をして振り向く。
「君か。偶然だな」
「ほんっと偶然」
「それじゃ俺は買い物の途中だから」
「じゃあな……ってちょっと待て。どこ行くんだっての」
「そこのスーパーまで」
何事もなくガードレールの前から踵を返して、落ちていた傘を拾い上げた新の腕を掴んで、強引に連れ帰った事は言うまでもない。
「で、何やったらそうなるんだよ?」
タオルを投げ渡した仁は怒ったように腕を組んで、床に染みを作り続ける足下に目を落とす。
夕飯の買い物がまだだったのに、とむくれるのは勝手だがそんなずぶ濡れの格好でうろつかれたら店も迷惑だろ。部屋に通しただけでこの有り様なのに買い物とか、周りに気を配る新らしくない。
「せっかくのタイムセールが」
そういう理由かよ。仁の家に来るのを渋ったんじゃなくてタイムセールを逃すのが嫌だっただけ。それにしては長い間あそこに突っ立っていたような素振りだったけど。
事情はともかく先に体を乾かさないと。雨水を存分に吸い上げたシャツとGパンが寒々しい。来て、と腕を掴んでバスルームの前まで連れてくる。
「そこまでは悪い」
「いいからほら、早く入って。お前見つかると絶対に煩いから」
適当に持ってきた自分の服とタオルを押し付けて、濡れた彼の服と交換。洗っていい? と尋ねると、帰れなくなるとさすがに断られた。
「じゃ部屋に干してくるから俺が戻るまで絶対に出るなよ」
「鶴の恩返しみたいだな」
「機織ってくれる?」
「むしろ誘拐犯に拉致された気分だが」
残念、と笑ってドアを開いた。
戻ると、濡らした髪を上げた所で、袖の余ったTシャツを捲ってタオルで頭を拭いていた。
ドライヤーで乾かせばいいのに変なとこ無頓着だな。
来た時と同じように足早に部屋に戻ってドライヤーを髪に当てた。
濡れた体も乾いた所でいざ説明タイム、と思いきや部屋の隅に小さく正座して部屋を見回す新は促さないと喋り出しそうにない。案外綺麗にしてるんだなとぽつりと呟いた。
「お前はこんな雨の中、ガードレールの前で何してたわけ?」
「大した事じゃない。買い物に出たら一匹で雨宿りしてる猫がいたんだ」
「うん」
「まだ小さい黒猫で、おそらく野良だったんだろう。放っておけなくて、雨が止むまでと一緒に屋根の下にいたんだが」
稲光が新の言葉を遮った。窓の外では止む所か更に激しさを増した雨が地面を叩きつけている。
雷に驚いたんだろう、と窓の向こうに向けた顔は遠い目をして、道路に飛び出して行った黒猫を思い返していた。
新は追いかけようとしたが、小さな黒猫は道路を行き交う車体ですぐに見えなくなって、立ち去る事も出来ずにガードレールの前で姿を探した。轢き潰された黒い跡がないように祈りながら、無事に道路を渡りきった猫を見つけた時は本当によかったと安堵したらしい。
思ったより何でもない理由で、ちょっと拍子抜けした感は否めない。そこが新らしいと言えばらしいがあの思いつめた横顔は、もっと切羽詰まった大層な何かがあるような気がしたから。
「彼は親猫の元に無事に帰れたかな……」
「大丈夫だろ、野良なんだからたとえ一匹でもすぐに仲間が出来るよ」
そうか、と小さく微笑んだ新に頷き返す。それきり黙り込んだ彼に特に気を払う事もなくにはベッドに寝ころんだ。
「ところでさっきから気になってたんだが、これは一体何だ?」
……部屋に何かあったっけ?
打って変わって険しい顔をした彼の視線は無造作に散らかった机に注がれて。他と比べそこだけ雑多に物が積まれてるから余計に目が行くんだろう。
ヤバい、あれ片付けてなかったかも。悪寒が的中した時の恐怖と言ったら、並みのホラーよりよっぽどスリリングだった。
思った通り、彼の指が机からそれを拾い上げる。
「ただの写真だよ」
「それは見たら分かる。問題は、撮られた覚えがない自分の写真が当たり前のようにこの場所に存在している事だ」
「隠し撮りだから覚えがなくて当然……って待て待て、落ち着け」
「ネガは」
「スマホとデジカメだからネガじゃなくてプリント……わーっ、破くのはやめて、俺の収入源!」
写真が新の手の中で潰れて無残にも一枚逝ってしまわれた。あああ、俺の数少ない稼ぎが。
収入源? と振り返った小さな般若と目が合う。ロ走った内容に慌てて口を閉じてももう遅い。握りつぶした写真を突きつけて、今度は新が仁に詰め寄る番だった。
「説明しろ」
「……怒んなよ、お前の写真を売ってました」
「誰に」
「学校内で希望者募って一枚三百円から、お得なパックも用意して……」
「人の写真を無断で勝手に売るんじゃない!」
「だって売れるんだもん!」
最初は軽い出来心だった、まさかこんな安定した商売になるとは思ってなかったし。決して目立つタイプじゃないが、意外に顔が広い彼だからこそ隠れたファンも多かったとそういう事。
「……いつから、何枚売った?」
ベッドの上で脱力した新から長いため息が押し出された。
「お前が転校してきてすぐだよ。五月くらいだったかな。女子からお前の事相談されてさ、写真ほしいって言うからスマホにあったデータあげたのが切っ掛け。売り上げはー……」
こんな感じ、と保存してまとめていた顧客リストをスマホの画面に映し出して見せた。一見したら一年から三年まで並んだ名簿にしか見えないそれをざっと逆算してしまったらしく、頭痛がする……と言ってうなだれてしまった。
「えっと、ごめん。許して?」
「……出来れば全員から回収したい所だが、それは無理だから、ここにある分だけでも処分してから帰る」
「ちょっと待って、もう黙って売ったりしないから」
信用出来ない、と俯いた声は震えていて、てっきり泣かせたかと心配になって現き込んだ仁は後悔した。真の般若がそこに降臨していた。
「あの先輩、これは一体どうなって」
「どうした?」
何で怪異の世界にいる先輩が自分の写真を持っているのか。隠し撮りはやめさせて、思い当たる売り上げ筋は全部潰したはずなのに。
「最近現れた露天商が売り歩いてるらしい」
「案内してもらえますか」
同じ場所にいるとは限らないがと前置きした先輩に連れられた場所は目立たない四階の教室。中から人の声がする。
「五枚セットで千円ね」
覗くと、軽薄そうな男の怪異が毎度ありと客に手を振っている所だった。教室に踏み入ると声を上げて指を差された。
「あれっ、本当に存在してたんだ」
「どういう意味だ」
「儲けさせてもらってるけど、人間の顔なんて区別付かないからなー。もういないモンだと」
「どうやって写真を手に入れた」
「どうって、こう……」
彼は一枚の白い紙を指に挟んで取り出した、かと思ったら瞬く間にそれは新の写真に早変わりする。飴屋の青年がやったのと同じように人間には到底出来ない芸当だ。
つまりこれはこの怪異自身が写真のネガで、彼をどうにかしないと無限に複製可能だと。
そんなの無理じゃないか、と肩を落とす新を警備帽の少年が頭を撫でて元気付ける。
「……先輩はどうして俺の写真を買ったんですか」
「何故だろうな……買わなければいけない気がした」
「?」
はあ、と首を傾げる新の前で写真を手にした少年がぽつりと呟いた。
2015.4