それは何度でも繰り返して
触らないで、名前を呼ばないでと言えたらどんなに楽だったかしれない。でもそんな逃げ道なんかどこにも用意されてなくて、終わるまで口を固く閉じて声を押し殺すしかなかった。声を出しても追い出される立場はこっち、弱さはひたすらに追い詰められて。
「こんな家、逆らって追い出されてたらよかったんだ」
こんな結末になるなら、最初に腕を押さえつけられた時に暴れて騒いでればよかった。そうしたら、いくら奴が弁解しようとも聞き入れないで義母と義弟は喜んで叩き出してくれただろう。
こんな事態(こと)になるのなら俺、ひとりでよかったよ。
暗闇で手を振りかざす、何度も何度も。何度でも。
親父だった塊はとうに何も言わなくなって、ひたすら路地に鮮血を湧かせて撒き散らすだけだった。それでも振り上げる手は止まらない、肉が潰れる音を立て、暖かい血飛沫はいくらでも赤く巻き上がる。
その体が干からびるまで。
……仁、と男の声がそう呼んだ。
「……呼ぶな、呼ぶなっ……」
腕を振り上げて、光が煌めく。
腕を振り下ろして、紅が飛び散る。
「俺の名を呼ぶなよ……っ」
アンタはもう死んでるんだから、名前を呼べない筈だろ。屍が気安く呼ぶんじゃない、あの時みたいに腕を押さえて、名前を呼ばないで。
「こんなの嫌だよ……」
謝っても泣いても許してくれなくて、ただ名前を繰り返し呼ぶ親父が怖くて、大きな体の下で震える事しか出来なかった。あの時一声でも叫んでたら、何か変わったのかな。
こんなに憎まなくて殺さなくても済んだのかな……
あの時に……
「違う」
ゾッとするくらい冷たい声が内側から湧き上がって再び手を振りかざす。応えるように黒い霧が周辺に湧いて、路地に転がった塊に刃を突き立てる。手から滑り落ちた刃の代わりに、それは何度でも突き立てては抜いて恨みを晴らした。
「違う、違う……どうにもならなかったんだよ……そうだよな……? なあ、答えてくれよ」
親父から返事はなくて、濡れた音だけが路地に響く。
血で塗れた顔を手で覆ってうずくまる中、肉を裂く音はいつまでも響いていた。いつまでも、いつまでも。
汚い血を浴びるのにも飽きて、もういいと小さく呟いた。動きを止めた黒い霧はゆらりと揺らめいて辺りの暗闇に溶け込んでいく。
地面に落ちた刃物を拾い上げ、立ち上がって肉塊を見下ろす。
ほら、もう名前を呼ぶ声はしない。
「こうすればもう名前は呼べないだろ……? なあ……親父」
唇は三日月の形に歪んで、今すぐに大口を開けて笑ってやりたいのに、目から流れるそれが邪魔をした。はらはら、と頬を濡らして地面の血溜まりに混じり合っていく。
何でこんなものが出るのか分からない、でもそれは止まらないで流れ続ける。
血でむせ返る路地裏の奥で、仁は立ち尽くしていた。
いつまでも、いつまでも。
2015.4