永遠にいつまでも
鈍色の雲から雫が落ちてきても自分の体を抱き締めたまま彼は動こうとしなかった。立ち尽くした体は瞬く間に雨粒の餌食になる。傘でもあればまた話は違っただろうが、無い物を嘆いても仕方ない。問題はいつこの腕を放してくれるかと言う事だ。このまま雨晒しになる趣味はないし、風邪も引きたくないからどうにかして彼を説得しないと。
「どこか、雨宿りに入らないか」
「……」
「このままだと風邪を引くから……」
「……」
風邪を引くから……何だろう。体が濡れるのは嫌だけど、彼はそうとは限らないんじゃないか。俯きがちに泣いてたから、泣き顔を洗い流せる通り雨はむしろ都合が良かったんじゃないかと勘ぐってしまって、言葉は先に続かなかった。
俯いた顔から幾筋も雫が頬に垂れて、もう涙と雨の区別は付かない。ようやく上向いた彼の顔に生気はなく、合わせた視線に少年は言葉を詰まらせる。
「……一緒に行こう?」
口は張り裂けそうに開いて、ひどく冷たい手で頬を撫で上げる。どこに、と訊く暇も与えられず、手を引かれて歩き出し、着いた先は学校だった。
臆する事なく裏口に回って、鍵のかかっていないドアはあっさり開かれる。土足で校内を進むのかと思いきや、上履きに履き変える姿に少し笑えた。
「どこに行くんだ?」
しんと静まり返る校舎内を進む足取りは確かで、明らかに目的地に向かっていた。教室には目もくれずひたすら廊下を前へと突き進んで。やがて彼は立ち止まった。
「一緒にいよう、ひとりは怖いから」
「……」
「ひとりは、寂しいから」
「……君は」
「一緒に……ひとつになろう?」
その言葉は人が吐くものじゃなかった、それは異界を寂しく彷徨う彼らの口癖で、彼が軽々しく口にしていい類のものじゃない。
目の前にいるのが誰で、ここが何処だか分からなくなった。口元を歪めて笑う彼は自分の知ってる友人でなく、忍び込んだ学校はいつもの学校じゃなくなっていた。
自分に向かって伸びた手が白く霞んで見えて、彼の脇をすり抜けて走り出した。走って走って走り抜けて、靴箱の並ぶ昇降口にたどり着いた。
「……何で」
吹き抜けの一面のガラス張りに映るのは目に鮮やかな夕焼けの紅(あか)。窓に叩きつける雨音も空に響く雷も何も聞こえない。聞こえる筈の音が聞こえない恐怖に頭が真っ白になって、昇降口の扉に背を付け、力なくもたれかかる。
「……ひとつに、なろう」
しゃがみ込んだ少年に彼の声が降り注いだ。近づいてくる上履きのラインは、追ってきた影はいつの間にか友人ではなくなっていた。
いつから迷い込んでいたんだろう、この逢魔ヶ時の世界に。夕暮れでもなく文化祭の時期でもないのにどうしてあちら側に行ってしまったのか、考えてもきっと答えは出ない。
あるいは最初からずっと彷徨っていたのか。この異界から出られなくて、日常に戻った振りをして自分を誤魔化して、慰めていたのか。
「……俺と、ひとつに」
「ひとつになったら楽になれますか」
「一緒に還ろう……」
「一緒に溶け合ったらもう彷徨わずに済みますか」
「……ひとりはさびしい」
「寂しいと泣かずにいられますか……? 先輩」
白く霞んでしまった警備帽の少年を見上げて、新はその頬に手を伸ばす。その手のひらもまた白くぼんやりと霞んで。
文化祭は終わって逢魔ヶ時の世界から戻ったと思い込んでいた、それは間違いでこうして裏の学校に捕らわれたままだった。戻れなかった少年はやがて自分の姿を忘れて学校を彷徨い始める、出口を求めて。人の温もりを求めて。
雨に濡れていた体は幻で、一緒にいた友人も少年が最後に見た夢。もう一度彼と一緒に学校に来たかったのだ、楽しかった日常に戻って家に帰りたかった。
何故雨が降っていたのかは解らないけど、きっと最後に人として泣きたかった。この先輩の手を取ればもう泣く事すら出来なくなるから。
「……ひとつにはなれないけど、一緒にいましょう。ずっとずっとこの世界で、この身が消えて失くなるまで」
「一緒、に」
「はい。あなたと永遠にいつまでも」
警備帽に隠れた白い顔を引き寄せて、唇を触れ合わせた。
不意に目が熱くなって指先で目元を拭う、拭い取った指先が濡れていた。
何故か分からない、ただ無性に泣きたくなって空を振り仰いで逆に笑ってしまった。
こんな空じゃ泣くに泣けない。雲一つない夕焼けは鮮やか過ぎて、きっと泣いても泣き顔を隠してはくれない。
「仁、どしたー?」
何でもない、と笑って仁は二人の友人に駆け寄った。
2015.5