いとしかなしの惑い指
教室に戻ってきた俺を待っていたのは、机に伏せられたままの見慣れた黒い頭。みんなとっくに出払い、あるいは帰宅した後の放課後、窓際の最後尾の席だけが気づかず時を止めていた。
まだ居残ってたのか。静かに椅子を引いて、窓を背に横向きに腰掛ける。
「……新、寝てんの?」
天辺のつむじをつついてもさわさわと風に沿って揺れるだけ。僅かな寝息と上下する肩は完全に夢の中に沈んで、起きてる時より安心して近づける。普段からコイツに関しては距離なしだけど、他人に近づくのはまだ色々としんどい。
つむじから流れる髪を首までなぞってまた天辺に戻る。細い髪一本一本に寝入った熱を感じ、何度も何度も指で梳く。初夏に滲んだ肌に吸い付いた指はなかなか離れない。
――新の近くは平気なんだけどな、人間っぽさが足りないからか。
首の後ろを撫でられ小さく唸る新に、うなされてる×2とほくそ笑んで、また一房ごと掻き分ける作業に戻る。猫と遊ぶのってこんな感じなのかな。
撫で続けた頭が時折小さく震える度、こっち向かないかな、と期待してしまう。髪越しじゃなく、柔らかそうな頬を撫でたり、耳くすぐったり色々したいけどそれは俺だけの叶わない予定。
「……ちゃん」
閉じていた唇が震えて、呟いた一言に指が固まる。誰? 名前は聞こえなかった。けど俺の知らない誰かを呼んで、大好きって。
それは心を許した相手に甘えるような声。
「……そりゃそうか」
チビだから、女っ気がないからといくら俺がからかった所で好きな相手の一人くらいいるに決まってるよな、新だって健全な男子高校生なんだから。知り合ってまだ数ヶ月、知らない時間の方がずっと長い。でも、やっぱり。
せめて名前が判れば諦めるなり何なりと出来るのに、面と向かって尋ねる勇気すら持ち合わせていない。
腕に埋もれて見えない顔はきっと見たことないくらいに柔らかく微笑んでいることだろう。一緒にいる誰かを見上げて。
「……ここにいるんだけどな。俺のことは呼ばない?」
耳を近づけても寝言は聞こえない。つむじに口付けると夏の日向の匂いがした。これから初めて過ごす夏が来て、秋も冬もいっぱい遊んで馬鹿やって、一緒に笑って。
これから先、ずっと隣にいるのはお前がいい。
こんなに近くにいるのに、お前の中に俺はいないんだって分かるのが寂しい。
「なあ、新」
丸い頭を撫でつけて、櫛で梳くように指を絡めても返事はない。安心して頭上から呟く。
「俺の名前も呼んで」
もし微笑って仁(じん)って呼んでくれたら、その時はお前の好きな子だろうが誰にも渡さない。もう絶対に離さないから。
俺のこと欲しがって。
「……仁?」
「なっ……」
……んで起きるかな、このタイミングで? 頭を振ってパチリと開いた目から視線を外す。駄目だ、恥ずかしくて居たたまれない。
とっとと帰っちまえ、と音を立てて椅子から立ち上がる。背中を向けた途端に投げかけられる声。
「呼んだのに何もなしか」
「……聞いてたのかよ」
「違う、聞こえてきたんだ」
追い討ちをかけられて背中にじわりと汗が浮かぶ。ますます顔が上げられない。一人言だったんだよ、頼むから勘弁してくれ……
それで続きは? とシャツの裾を引いてくる指先に結局何も言えなかった。
2016.9