恋だの愛だの
キスしたことある? と形の良い口からさらりと流れる突拍子のない質問。反射的に首を振った俺に仁の瞳が楽しそうに揺れる。
「俺もまだ。新、キスしたくない?」
「彼女でも紹介してくれるのか?」
「あれ、意外と乗り気だな。好きな相手とするものだとか説教しないんだ?」
「高校生だし興味くらいは……」
「やっぱり男なら興味あるよな。じゃあ試しにしよ?」
無表情だと言われる自分のリアクションを見るためのお得意の冗談だろう。前後の席になった気安さから仁と喋るようになって以来、特にそんな素振りを見せたことも感じたこともなかったから。
言葉の意味を探るような対応も彼を喜ばせるだけの無用な反応も必要ない。そう、無言で口を閉じていれば、向こうから呆れてつまらなそうに眉をしかめるだろう。
そんな目論見を見事に破って、柔らかい感触がいざ口に触れて離れていくと、さすがに唖然として体が強張ってしまう。これじゃ彼の思うツボじゃないか……。頭上から降ってくる哄笑を覚悟した時、じゃあまた明日な? と別れ道に向かって仁は自転車を漕ぎ出した。遠ざかる彼の真意を図り切れない。背中が見えなくなってようやく唇を拭った。
それが六月の終わり、本格的に暑くなる前のこと。以来、交わすようになったキスがお互いの体への交渉に変わるまでさほど時間はかからなかった。たった三ヶ月足らずで終了する友情とは一体……
「なぁなぁ新、ここ」
「……焼きそばの海苔なら口に付いてないぞ」
「キスしろって言ってんだよ、このニブチン」
「何でキレ気味なんだ」
気紛れに触れるだけのキスを受ける時もあれば、せがまれてこっちから彼の唇に触れる日もあった。具体的に好意を言葉にしたこともないし、休日に会って出かけたりもしない。こんな関係でも付き合ってると言えるのかどうか首を捻りながらも、傍から離れることは考えなかったから彼の好意は別に嫌ではなかった、そういうことだろう。
唇以外に初めて仁の指が触れた時も恥ずかしさが顔を噴き上げても嫌悪はなかったし、手探りの中、恐々と交わってみても背徳感を感じこそすれ、彼に対する思いに躊躇いが滲み出ることもなく。
だからこそ、余計にこう思うのかもしれない。
「……君のは恋じゃないと思う」
「今更それ言っちゃうんだ?」
「図星だろう?」
まあな、と一つの布団にくるまった仁が隣で寝転がった。誰も入ってこない俺の部屋、自分のベッドに初めて彼を招いた日。
七月に入った今、これからますます暑くなるに至って屋外であれこれするには限度がある。放課後の教室で隠れて背中に腕を回すのも、公園や神社の境内の陰で声をかみ殺すのもいい加減疲れる。だからと言って、この家に連れてくるのはかなり覚悟が要ったが。
シーツの上でクシャクシャに乱れた茶髪は毛並みが荒れた野良猫を思わせ、手櫛で整えながら丹念に頭を撫で付ける。
「でもさ、キスしたり触ったりすんの気持ちよくない? 止められないのはお前も一緒だろ?」
「ああ」
「ならそれでいいじゃん? 恋だの愛だのこだわって目逸らすの勿体ないしさ。今更、不誠実だって目くじら立てるのはおかしくない?」
「別に立ててはいない」
手を止めた俺の向かいでほっと仁が息を吐いた。
「何だよかった。俺ら両思いじゃん。じゃあ一緒にいても何も問題ないな」
「君さえよければ」
「それはこっちの台詞だっての」
口を尖らせた仁はいつもより数段幼く見える。自信たっぷりに怪談を語る君も、尊大に人を見下ろしてからかってくる君も今はいない。
友情じゃなくて恋でもなく、愛とは程遠い。親の愛情に飢えた者同士の傷の舐め合いに過ぎなくても、二人なら寂しくない。それを幸せと言い換えることも出来るんじゃないか?
これと言ったもっともらしい理由がなくても傍にいたいからいる、それもまたいいじゃないか。たかだか高校生の身空で、真剣に恋だの愛だの言ってられない。
君と過ごせる高校二年の夏は一度きりしかないのだから。
指を絡ませてくる仁の手を握り返し、二人で笑い合う。いつもは腹立たしいくらい高い背丈も横になったらこんなに近い。不誠実な唇に口付けるのもほら、簡単だ。
自分からするのはまだまだ慣れないけど、君がうれしそうに笑うからそれでいいかと思う。
2016.9