兄さんは心配性
声はしなくなりましたか、と斜め下から見上げてきたのは弟のAだ。夕陽で眩しい部屋の中、首を捻る。外から帰ってきた早々一体何だ? ピンと来ないが恐らく近所の野良猫か何かのことだろう。
軽く頷いた兄に向かって彼は薄く微笑む。
「よかった。これで兄さんの『弟』は俺だけですね」
漂ってくる不穏さに顔をしかめてももう遅い。認めてしまったからにはそれが真実だ。現にあれだけまとわりついてきた潰れた声は聞こえない。
黒いビンはどうなった? 底に詰まった淀んだあの空気も入れ換えたように消え去ってはいないか?
「Aに何かしたのか?」
「俺は尋ねただけですよ? Aの声が聞こえなくなった、そう判断したのはあなたです。彼の声だと判断したのはね」
「奴がいなくなってうれしいと言っているように聞こえた」
「そんな人でなしみたいに言わなくても。兄さんのご想像にお任せします」
二人の仲が良かったとまでは言わないが、見える範囲でいがみ合ったりするほど険悪ではなかったはずだ。常日頃、兄と一つに繋がりたがるAを窘め、間を取りなしていたのが目の前のAではなかったか。少し意地が悪いが控えめで温厚な少年、それが彼に見ていた弟像。
ずっと間違っていたのだろうかと認識が崩れ出す。彼らが語った怪談通り、恐ろしい存在に過ぎないのか。人に懐いた怪物は笑って背中を押し、淵から突き落とす――本当に彼がそんなことを?
見極めるにはビンがあるか確かめればいい。体を傾け、棚の上を仰ぎ見る。たったそれだけで証明は完了する。
深呼吸を一つ。悪い想像を振り払って雑多な棚を振り返った。日光の中、ビンの代わりに埃が舞う。
「あのビンならここにはありませんよ」
至って普通の口調で告げるAの顔が見れない。その顔が笑っていようが無かろうが彼がAを始末したのは事実で……いや待て、ここには?
「洗浄してベランダに日干し中なんです。中身が中身だから匂いとか色々気になって」
「中身はどうした?」
「そっちもベランダに。そういえばまだ降りてこないな……タッパーの中で日光浴でもしてるんじゃないですかね。犬猫に喰われてなければ」
一応蓋はしてるんですけど、と天井に視線を向けた目線を兄に戻し、丸い頭を傾けた。思えば今日は朝からいい天気で、兄が出かける前から彼は上機嫌で布団を干していた。
騒ぎ立てる犬猫の鳴き声や、鳥の羽音は聞こえて来ない。それを危惧した言葉だったのかと背中から力が抜けた。
「……様子を見てくる」
「程々にして下さいね、そろそろ夕飯ですから」
「もう一度聞くが、本当にベランダにいるんだな?」
立ち上がり、ドアノブに手をかける寸前で振り返る。窓をバックに背負ったAの目は鋭くこちらを見据えてから、はい。と微笑んだ。
「俺が嘘をついているとでも?」
「さっき、よかったと言っていたからな。少し疑った」
「兄さんの中の俺ってひどい人ですね。もしAがいなくなったらいつでも兄さんと二人でいられるのか……悪くないな」
「物騒な物言いを」
「ただの願望ですってば。三割くらいは本気だけど」
さっさと回収してくるか。改めてノブを握りしめた服の袖をちょいちょいと引っ張ってくるA。小柄な体が横に並ぶ。兄さんと呼び掛ける声が弾んでいる。
「何だ」
「呼んだだけです。ふふ、独り占めって楽しいですね。Aにはずっと日光浴でもしてもらおうかな」
「よせ、喰われたらどうする」
「自由に歩き回れるのに?」
「そうだったな……うっかりしていた」
「兄さんは心配性ですね。どうです、Aは? 声は聞こえますか」
Aは。今度ははっきりとそう言った。黒々と照り返した目から不穏さは感じられない。今度こそ飲まれることなく、ああと低く呟いた。
2017.3