よるの不安
朽ちかけた廃屋の中でユーリは息を飲み、立ち尽くした。埃っぽい薄闇には生臭い匂いが充満し、何かを啜る音だけが静かな空間を支配する。
入口で立ち尽くすユーリに無邪気な顔が振り返った。
「ユーリ? どうしたの」
カロルはいつもの笑顔で近づいてくる。腐敗した屍肉がぬちゃり、と床に崩れ、流れ出した血の匂いが一層濃くなった。
半月の下に血に塗れたカロルの顔が映し出される。「食事」を終えた吸血鬼(カロル)をいつものように迎える気は、今は起こらなかった。
酷い匂いは鼻を押さえても遮れなかった。
ユーリの様子に気付いて、少し傷ついた風に足を止め、カロルは赤いスカーフで口元を拭った。
「あんなに食事しろって、口を酸っぱくして言ってたのに、やっぱり怖がるの?」
ユーリが望んだ事でしょ、と紅い瞳が責める。違うと言いたかったが、舌は凍りついて上手く回らなかった。
「……食事は摂ってほしかったが、殺してまで食えとは言ってない」
「だって殺さなきゃ逃げられるよ。どうせあとで死ぬんだから一緒じゃない」
「そういう問題じゃねぇだろ」
声を荒げ、知らない間に後退っていた。吐き気が喉の奥から込み上げる。目の前にいるのは本当にカロルなのか。
あまりに言ってる事が違いすぎる。
「怖がらなくていいよ、ユーリの血はもう要らないから。やっぱり直接飲む方がおいしいしね」
「……」
「やっぱり『食べ物』は新鮮なモノが一番だよね。ユーリの言う通りにしてよかった、これからはちゃんと食事出来るから安心して」
言葉は以前とすっかり変わっているのに、明るい笑顔は以前のまま。
唇を舐め、爛々と生きた目をするカロルはもう立派な「吸血鬼」だ。青白い顔も血色を取り戻し、苦手な生き血も克服し、何も心配は要らなくなった。
なのに、全然喜べない。
二人の棲む世界は完全に決別し、もう歩み寄る事は無いのだと思い知らされた。
ユーリの戸惑いを察し、カロルの紅い目が普段の茶色い目に戻っていく。
「…………嘘つき」
一度俯いてから、カロルは最後に微笑って言った。
「今までありがと、さよなら」
「まっ……」
ユーリが手を伸ばす前にコウモリに変化してカロルは飛び去ってしまった。暗闇の中、伸ばした腕は何も掴む事は無かった──
*
反射的に飛び起きた。掴めなかった手は宙を必死に掻いていた。夢だと知ると、冷や汗がドッと噴き出して止まらない。
隣には小さな寝息を立て、毛布にくるまるカロルがちゃんといる。
まだ外は明るく、日差しが壁の隙間から差し込む。
陽を避けて、人知れず建つ廃屋を寝床に選んでからそう時間は経っていないようだ。
「……ジョーダンじゃねぇぞ」
額に浮く汗を拭い、悪態をつくユーリの口元は半笑いに歪んでいた。質が悪い夢に毒されて、落ち着かず、水を探して荷物を漁る。
リボンの付いた手のひらサイズの包みを見つけ、指でつまんだ。立ち寄った街で貰った包みだ、中には一口大のチョコが5、6個ばかし。
好きな相手に贈り物をする日がどうの言ってた気がする……
「…………」
気持ち良さそうに眠るカロルの髪を撫でると、寝返りを打って転がる。
好きだから一緒にいたいと願った。種族とか関係なく、カロルだから傍にいて楽しく過ごしていける。
夢ぐらいで揺らぐなら、最初から旅になんか出ない。
顎を上向かせ、唇を割って、ユーリは乾いた舌を深く飲み込ませた。口の隙間から微かに漏れる息に錆びついた血の匂いが混じっていて、死臭を思わせた。屍肉の血はもっと濃い、果実のような味がするのだろうか。
吐く息が熱くなるまで口内を貪り、チョコを口に含むと軽く歯を立て、もう一度カロルの口に舌をねじ込んだ。
「…………んっ?」
舌で溶かしたチョコの破片はあっさりと喉の奥に流されていく。
「ビックリしたぁ……な、何なのさっもう」
「ん、別に。おはようさん、カロル」
跳ね起きたカロルの顔は夢とは違って青白く、ちょっとだけ安心した。夢の中の血の匂いがしこりのように胸にこびり付いて、取れない。
ぎこちなくユーリは唇を持ち上げると、もう一つ、チョコを口に含んだ。
2012.2