回廊の外はいつも雨【サンプル】1
エントランスポーチの傍らの植え込みでは、オルレアが可憐な花を咲かせていた。
「どうぞ」
大きな大きなドアを開けて中に入ると、広い広いエントランスホールがあった。見るからに上等な分厚い絨毯が敷いてあり、床に飾ってある天使のオブジェがひどく小さく見えるほど天井が高い。三階分ほどをぶち抜いてあるように見えた。
ここは、西の国と中央の国の国境近くにある、貴族の屋敷である。
「まずはラウンジに案内いたします。こちらへ」
頷いて着いていくと、依頼人は不安そうにこちらを伺いながら次の扉を開ける。
「ああ……」
いくつもある大きな出窓からは太陽のひかりが差し込んでいる。明るい応接室に入って、まず最初に目に入ったのは巨大なソファの背だった。ゆったりした二人がけのソファだが、座面が俺の肩くらいまであり、背もたれのてっぺんには手を伸ばして届くかすら怪しい。その向こうには俺の顔の高さよりやや高い〝ローテーブル〟があった。部屋の中は万事その調子で、サイドテーブルも、クッションも、キャビネットも、全てが異様に大きい。それらが収まっているラウンジ自体もかなり広かった。
「ラウンジは二間あったのですが、間の壁をとっぱらって一室にしたようです」
「間取りもリフォームしてるってことか」
「はい」
中央の国のさる貴族から、依頼が魔法舎に舞い込んだのは数日前だ。息子の住む家の内部がおかしくなっていて、息子本人も失踪しているので調査をしてほしいのことだった。派遣された俺とファウストは依頼人の持っていた合鍵で屋敷の中に入れてもらい、今に至る。部屋をいくつか回ったが、全ての部屋が同様に普通のサイズからかけ離れていた。ドアや天井といった部屋の造りから家具までもが常識はずれに大きく、普通の人間が生活できるようには思えない。
「いささか大きいな」
周りを見回すと自分の体が縮んだような錯覚に陥って落ち着かなくなる。
「そうでしょう? 家具のデザインや内装は息子が好みそうではありますが、どれも見たことがない新しいものです」
確かに家具はどれもまっさらで、ほのかな塗料の香りがした。侵略者であるくせに、ここに置かれるべくして造られたのだという顔をして鎮座している。依頼人は今一度家の中を確認したことで改めて衝撃を受けたらしく、憔悴しきった顔をしている。だが、空気だとか気配だとか匂いだとか、目に見えない部分も含めて家具が大きい以外に変わったところはなく、主人のいない家は、とろとろと午睡をとっているようにさえ感じられた。
「家の変化にはいつ頃気づいたんだ?」
「一週間ほど前かしら。本当に、たまたま。おばあちゃんの誕生日会をするのを知らせに、手紙でも良かったけれどそばまで来た時にちょっと寄ったのよ。そうしたら玄関のドアがもう理解できないくらい大きくなっていて」
「ああ」
「改築したなんて聞いていないから、びっくりして中に入ってみたらこうで、誰もいなくて」
依頼人はすっかりしょげていた。この屋敷は息子が成人した時に贈ったもので、これほどまでに変わり果てた姿になっているとは夢にも思わず、中を見て大層なショックを受けたのだという。息子とは仲も良く、何か改装するのであれば教えてくれるはずらしい。
「でも、家なんてどうでもいいの。可愛いあの子はどこへ行ったの?」
そして沈痛な面持ちで組んだ自分の手に視線を落とした。
屋敷の中はどこもしんと静まり返っていて、人の気配は全くない。家の中はよく片付いており、生活感もないではないのだが、それが誰のものであるかはわからない。
「この右手は宿泊用の客室で、廊下の先は書斎や書庫があります」
広い広い客間から出た依頼人の右手には客室エリアに続く廊下が、前方には奥のプライベートエリアに続く長い廊下が続いていた。やはり床にはどこも上等な絨毯がきっちりと敷いてある。
「隠し部屋の類はあるか?」
「ありません。後から造ったということもないかと」
「ありがとう。この先は我々だけで見て回らせてもらっても?」
「ええ。私はラウンジで待っています」
依頼人はこれ以上破壊された息子の家を見ていられないらしく、沈痛な面持ちでラウンジへ引き返していった。依頼に先駆けて、全ての部屋を見たりはしていないのだという。もしかすると奥のエリアに籠っているだけかもしれないが、この先一室一室を見ていって、全ての部屋を見終わった時、見たくないものを見てしまうかもしれないからだそうだ。
宿泊用の客室群は、天井をぶちぬいた部屋と普通のサイズの部屋が混在していた。数部屋はものすごく大きく改装されているが、当初建築されたまま放ってある部屋もかなりある。では長い廊下の奥の書斎はどうだろう。そこには何があるのだろう。
「普通だな」
書斎らしき部屋のドアを開けてみると、拍子抜けするくらい何の変哲もない普通の書斎だった。サイズ感もごく普通の人間用だし、使いやすそうに片付いている。つい最近まで、一族がやっているホテル経営の仕事をこなしていた形跡もあった。
結局、屋敷の中をすべて見て回ったが、血の匂いもなければ魔法を使った痕跡もなかった。それはいいが、家主も見つからず、ある日突然空気になって消えてしまったのかとすら思わされる。ふと書斎の窓に目をやると、広い庭が見えた。建物の中に設えられたコルティーレで、結構な面積がある。周囲を白亜の回廊がぐるりと取り囲み、一面に芝生が敷いてあった。庭には、書斎のすぐ隣の階段から降りられそうだったので、ファウストと目くばせをし、行ってみることにした。
2
「乾杯」
屋敷の調査から帰って数か月ほどが経っていた。それは空気の澄んだ、少し肌寒い、気持ちのいい夜だった。
「シェフ、今日のメニューは」
「サーモンのマリネ、ミックスナッツ、ベーコンのキッシュを、いただきものの赤ワインで」
「すごく美味しそうだ。メニューもいい。今日もありがとう」
「いいえ、あんたはいつも礼をいってくれるから作り甲斐があるよ」
「礼くらい、いわなくてどうする」
俺が微笑みかけると、ファウストも微笑んでくれた。
テーブルの上にあるものをすっかり腹に収めてワインも飲みほし、ほろ酔いになったところで、俺はファウストに口づけた。そっと唇をなめる。
「なあ、いい?」
恋人としての関係はうまくいっていたし、拒否はされないと思うが、一応。ファウストは一瞬何のことかわからないと言いたげに瞳を丸くしていたが、すぐに何のことか思い至ったらしく、おそるおそる頷いた。
「……かまわない」
なんとなく、今の反応からファウストに経験がないか、ないしは少ないことはわかった。うんと優しくしよう。あんたが大事だと伝えたい。
そっと服を脱がせて、抱きしめて。無作法だと思われないよう慎重に。ゆったりと深く口づけ、体の境界線をなぞる。裸の肌と肌が重なれば、熱を生んでいく。注意深くファウストの様子を見つめながら、体をほぐして、極力苦痛を与えないように挿入した。互いに汗だくになってことを進める。
ゆっくりした調子で、腰を動かす。ゆるゆるとなじませるように。
ファウストは、一度も喘がなかった。というか、戸惑いが大きいらしい。ずっとびっくりしたような、困ったような顔をしていた。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫」
「痛くねえ?」
「全然、どこも……」
不思議そうに目を丸くして、物珍しげにあたりを見回している。可愛い。はじめてなのだとしたら、まだ快感を感じられなくても仕方がない。痛くなければ十分だ。
その後、粗暴な動きにならないよう苦心しつつ腰を動かして、俺はファウストの中で果てた。
「……どうだった?」
事後、体を拭き清めてから、だいたい答えは予想できたが念のために聞いてみる。
「どうって……」
困惑。そうだろう。初めての感覚や事態に、全くついていけなくてあたふたしているみたいな感じだった。正直それも可愛くて好ましかったのだが。
「うん、だよな。じゃあ、これがいやだったとかあれが痛かったとか、そういうのあれば教えてよ」
「わからない」
困ったように眉を下げてから、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「ごめん、何もわからないんだ。感想がない。なにせ、初めてだったから。……でも、君は優しかったと思う」
それから、言いづらそうに尋ねてきた。
「だけど……あまり気持ちよくはなかった。……こういうものかな?」
心底ばつが悪そうで、見ているこっちが気の毒になる。
「気にすんなって。はじめはそんなもんだよ。普段はしないことなんだから。慣れたら気持ちよくなるはずだぜ」
やっぱりファウストは最初は気持ちよくないタイプか。わかったわかった。なら、のんびりすすめていこう。なんだか、ファウストのイメージ通りで嬉しくなってしまう。見た目優等生で中身めちゃくちゃエロいのは確かにいいけれど、清楚なタイプが見た目通りエロには興味がなくても素敵だ。
「……本当にそんなものなのか?」
ファウストが困惑まじりに疑いの目を向けてくる。実際は素質によるとしかいえず、今感じた感覚がすべてだ。〝本当はこうだ〟だとか〝こうじゃないとおかしい〟だなんて事あるわけがないし、言ったところでどうにもならない。ファウストを傷つけるだけだ。
「ああ。そんなもんだよ」
俺は頷いて断言した。ファウストは困惑が消えないようで眉が下がったままだったが、やがて自分に言い聞かせるように頷く。
「……わかった。じゃあ、君は気持ちよかった?」
「え……聞く?」
「よかったのか?」
「よかったに決まってんじゃん。……めちゃくちゃ気持ちよかった。ありがとな」
真っすぐ尋ねられると恥ずかしい。顔が熱くて思わず目をそらしてしまう。
「そうか。なら、良かった」
ファウストはやっと表情を緩めて微笑んだ。
3
中庭に降りてみると、先ほどは気付かなかったがラウンジやその他の部屋の窓からも庭を見ることができた。依頼人はこちらには気付かず、肩の高さほどもあるソファの座面に不安そうに腰かけている。どうやってあそこに上ったのだろう、とか、ソファが大きすぎて叱られてしょげている子どものようだ、とか、いっそ失礼な考えが浮かんできて、気の毒なはずなのになんだかおかしかった。
「でもやっぱなんもねえな」
「というか」
ファウストは一面芝生が敷かれただけの庭を見まわした。
「何もなさすぎる」
樹木もまばらに数本植えられており、端の方に花の植え込みもあるが、申し訳程度といったところだ。客人が通されるラウンジやグレイトルームから見えるなら、貴族の邸宅の中庭としてはかなり貧相であるといえるだろう。
「手入れはされているだけに……どうして?」
芝生の高さは一様だし、少ない植え込みの花の色や配置には規則性がある。手入れの必要性を知っているなら、庭師に頼んで適当に庭を造ってもらえばいいだけのこと。にもかかわらず庭には何もない。どうして。そうとしか思えない。そこへ、俺たちに気付いた依頼人が庭に降りてきた。
「何もない庭でしょう?」
「失礼ながら」
ファウストが返すと、依頼人は暗い表情をして足元の芝生に目をやった。
「以前はこんな風じゃなかったんです。家の中でここが一番様変わりました」
「かつては普通の庭だったのか?」
「普通どころじゃありません。素晴らしい庭でした」
依頼人が涙を浮かべていることに少し狼狽えてしまう。急に、どうして。
「息子は庭を愛していました。いつでも花が咲き乱れていて、虫やトカゲたちの命の気配があった。木々の緑は茂っていて、地上の楽園と言ってもいい場所だった。……息子は花と植物を愛し、庭に簡易の仕事場だってあったの。ガーデンテーブルで仕事をした後、日陰に吊るしたハンモックで本を読むのが好きだったみたいだわ。風通しもよくて、本当に心地のいい場所だった。けれど、このありさまは何? どうしてこんなことをするの? ここをこんなにした誰かに説明していただきたいわ。息子の大事なものを返して!」
依頼人は心底怒りを感じているようだった。家の中の変容の方が問題が大きいと思うのだが、母親は庭に対して猛烈に怒っていた。
「……それはお辛いことだ」
ファウストは依頼人を落ち着かせるように頷き、依頼人の話を聞いてやった。怒りは徐々に不安へ変わり、涙を交え息子への想いを語っていたが、やがて凪いでいった。
「ん」
ラウンジに彼女を帰らせた後、ファウストの背中にいたわるように触れると、小さく首を横に振る。優しい男。
二人並んで芝生を進んだ。どう調査をしたらいいのかわからないくらい何もない庭だが、ふと一本の樹木に近づいた時、みずみずしい葉の香りが鼻を掠めた。それはありふれた香りで、つまり剪定した後の、薄い死を含んだ植物特有の香りだった。樹木をぐるりと見てみると、きれいに形が整っているような気がする。
俺とファウストは顔を見合わせた。この庭は、破壊され打ち捨てられた庭ではない。つい最近も手入れをされた、生きている庭だ。
「誰が刈ったんだろう」
「そりゃあ庭師だろ」
「だよな」
書斎に戻ってデスクの引き出しをあさってみれば、庭の手入れをした領収書と簡単な作業の報告書が出てきた。庭木の剪定、五本。おおむね中庭の木の数と合致している。日付もつい一週間ほど前だった。
そこに名前のあったお抱えの庭師に連絡を取ってみれば、なんのことはない。庭師は以前と同じく庭の手入れをしているし、木を抜いて芝生を植えたのもその庭師なのだという。
息子に口止めされているので詳細は言えないが、一週間ほどすれば彼は帰ってくるとのことだった。
4
初めての夜以来、何度か体を重ねた。いつもゆっくり丁寧に。口には出さないが、愛を囁くつもりで。
「ここは大丈夫?」
「ああ」
ファウストは戸惑いながらも、俺の指を受け入れていた。
「ここは?」
「わからない。でも、なんだか変な感じ」
「そっか。だったらここが気持ちよくなるんだと思う」
開発されていない性感帯は、違和感しか感じられないことが多い。何度も触れていけば、そのうち気持ちよくなるだろう。
「そうか」
「もうちょっと触らせて」
「うん」
ファウストに覆いかぶさり、ゆったりとキスをしながら体を拓いていく。オイルをたっぷり注ぎ、きつくないように何度もなぞって内壁をゆるめる。この後ひとつになるために。
ファウストの体は回数を重ねるにつれてだんだんとろけていくだろうと思っていたのに、そうはならなかった。どれだけ優しく繊細に触れても、反応は芳しくならない。喘ぎをこぼすこともなくされるがまま横たわって、観察をするような落ち着いた視線をこちらに投げかけていた。部位によって多少は気持ちいいらしく、とろんとした表情になることもあるが、挿入すれば真顔に戻ってやっぱりただ不思議そうに俺を見ているのだった。エロに興味がないにしても、これほどまでとは。
身勝手なこととはわかっている。こんな風に思うのは本当に申し訳ない。だが、そのくもりなき視線に俺はだんだんと息苦しさを感じるようになってしまった。俺って、こんなに下手くそだったのだろうか? もっとうまくやれる、気持ちよくしてやれると最初は信じていたのに、予想が外れて焦燥感が生まれる。一体何が足りないのだろうか? 愛情だとか思いやりだとかそういう感情面のものなのか、それとも純粋に技術の問題なのか。ファウストは性行為を嫌がらないし、表面上何も問題はないように見えるが、反応からは快感を得ていないことが明らかだった。もう、俺にできることはこれ以上ない。どれだけ言葉を尽くしても、柔らかくそっと触れても、行為の進度に気を付けても、ファウストは苦痛以外で呼吸を乱すことがなかった。持てる限りを捧げて、それでも全然足りないのだとすれば、俺はどうしたらいいのだろう。これ以上なんて、ない。
それに気付いて、俺ははたと手が止まってしまった。
5
庭師に言われた通り、一週間後、俺たちは再び屋敷を訪ねた。玄関のドアを叩くと、扉は簡単に開かれた。ドアを開けたのは三〇歳前後の若い男で、焦茶の髪に思慮深そうな深い緑の瞳は、聞いていた特徴や見せられた肖像画と合致している。依頼人の息子本人で間違いがなさそうだ。
「こんにちは、俺たちは賢者の魔法使い。おたくの親御さんが、あんたのこと心配しててさ」
「うちの両親が? どうしてだろう」
青年は気まずそうな顔をした。とぼけている。
「屋敷の中が以前と違うんだと言っていた。……少し、中で話を聞かせてもらえないか?」
俺たちは、先日も通された全てが大きくなってしまった客間に通された。大きすぎるソファに大きな脚立を使って上がり、お茶をいただく。お茶のティーカップは普通のサイズだった。
大きすぎるテーブルの向かいに腰掛けた息子は落ち着かない様子でお茶を啜っている。
「で、ご用件は?」
「いい家だな」
息子の言葉を遮るようにファウストが言った。
「サイズがやや大きくなっているが、住みやすそうだ。家自体が綺麗に手入れされているし、風も通って心地いい。中庭が少し寂しいように思うけれど。自慢の邸宅なのでは?」
ファウストが穏やかに言うと、青年は緊張していた顔をほころばせた。
「はい、私のお気に入りです」
「……だったら、どうしてこんなことに? ちょっと困らないか?」
ファウストが穏やかに尋ねた。
「おおむね、困っていません」
「暮らしにくくないか?」
「暮らしにくくないと言うと嘘になります。けれど……」
青年は目を反らして中庭を見た。変わり果てた庭を見ると首を横に振り、観念したように微笑んだ。
「聞いてもらえますか?」
「ああ、なんでも聞く。君が嫌なら口外もしない」
「ありがとうございます。両親には言っていませんが、私には恋人がいるのです」
恋人。新情報だ。親御さん曰く、息子は気が弱くて、恋人がいたこともない。だから、思い切ったことなどできるわけがない、こんな風に屋敷が変貌してしまったのも息子の意思ではないはずだ、と言う話だった。いささか偏見ではないかと思ったが、本当に穏やかそうな青年で、両親の言いたいことも理解できないではない。
「最近できた恋人です。彼女が」
騙されているのだろうか。しかし、騙して家の家具のサイズを大きくさせる女ってなんだ?
「彼女がとても大きい人で」
「大きい人」
「……出てきて」
青年が声をかけると、巨大なドアがゆっくり開いて隙間から大きな女性がちらりと見えた。背丈は俺の倍か、下手したら三倍ほどもあるだろうか。女性としては華奢だが、とにかく背も、骨格も、すべてが大きい。すべてが大きいが、薄い金髪に、優しそうな表情、可憐でかわいらしい印象の女性だった。特注であろうドレスは清潔で、皺などひとつもない。
女性は警戒しながら、ドアの隙間からこちらを伺っていた。
「ジュリエット、大丈夫。入ってきて。賢者の魔法使いさんだよ」
青年が声をかけると女性は小さくうなずき、中に入ってきた。ソファに腰かけると、確かに、家具は全て彼女の体にぴったりのサイズであることがわかった。
「どうも、お邪魔してます……」
「彼女は呪いのせいで大きくなってしまったんです。もともとは私たちと同じ大きさだったそうです」
青年が女性に笑いかけながら言うと、女性は警戒を解かず、非礼にならない程度に表情を緩めて頷いた。
「半年ほど前に、出かけた先でたまたま出会って恋に落ちました。どうしても一緒にいたくて。無理を言って彼女を連れて帰ってきたんです」
柔和そうな青年は、伏し目がちに微笑んだ。
「普通の家ではもう生活できないといって断るから、だったらと思って改築しました。ただ、それだけなんです」
ただ、それだけ。ただそれだけのためにいくらの財が必要だったのかと考えてしまう。
「ええ、その通りです。ご迷惑だから、私もお断りしたんです。だって、こんなに大きいのに、変でしょう? なのに、もう家の工事は終わったよ、と言われて」
女性は気丈な姿勢を崩さぬまま、うっすら涙ぐんでいた。あるわけない奇跡を起こしてしまった恋人。大人と子どもどころか象と人間くらいの大小差があるが、青年は女性と目を見合わせ、二人して恥ずかしそうに、だが幸せそうに笑った。
「彼女は仕事場に住み込んでいたのですが、やはり窮屈そうで。いい環境とはとてもではないが言えませんでした。もっとふさわしい場所があると、見た途端思えてしまって……」
大きな女が働けるところとは、なんだろう。サーカスや見世物小屋の類だろうか。あるいは、農業や畜産といった一次産業か。だとしたら、なんとなくこのラブストーリーの筋書きも描ける。美しいが巨大化してしまった女を、バケーションだか何だかでやってきた貴族の若者が見初め、貴族ならではの力を駆使して連れて帰る。それは憐憫や物珍しさか?
「先日不在にしていたのも、旅行に行っていただけなんです。海を見たことないって彼女が言うから。うちの両親は心配性ですね」
大きな大きな馬車を誂えて、一族が所有するプライベートビーチにお忍びで行っていたのだという。
「そういうことなら……親御さんに言ってやんな。おまえさんを心配して依頼してきてるわけだし」
二人は表情を硬くした。
「お母さまとお父さまに」
「父と母か……なんて言うだろう。少し不安だな。うちの両親は柔らかい方だと思いますが、やはりあの年代の貴族は誰しも前時代的なところがありますから」
青年は神妙な顔をして俯いた。
「身分の差を気にするかもしれません。ジュリエット、君は普通の一般家庭出身だといったけれど、親戚に貴族とかいないのかい? どれだけ遠縁でもいいし、没落していてもいいから」
青年は申し訳なさそうに女性に尋ね、女性は首を横に振って否定する。が、俺たちは呆気に取られていた。
「身分?」
身分の差? 俺とファウストの声が重なった。そこではないのではないか?
「ええ、貴族にとって身分は非常に、非常に重要です。母はいいのですが、父はやや権威的なところがありまして。私としては、たまたま今日つけてきた指輪の値段を自慢しあうような馬鹿馬鹿しい話に感じますが、今までずっと血統を気にして生きてきた者に、それには価値がないと伝えるのもまた酷でしょうから」
「はあ」
「あのねえ、血統だとかそういうことよりも、わたしが大きいことがダメだと思うわ」
ずっと思っていたことを彼女がズバッと言ってくれてほっとした。
「どうして? なにがダメなんだい?」
「ダメでしょう。我ながら悲しいけれど、大きすぎて変よ。常識的に考えて。あなたは良くてもお父さまとお母さまは良くないと思う。貴族だからこそダメだって言うわ。こんな変な恋人ありえない」
「大きいのが変?」
「そうよ」
「自分を悪く言うのはよして。きみは普通だ。この家で普通に暮らしてる。……ああ、いや、きみの言いたいことはわかるよ。他の、君がいうところの”常識的な”女性よりは確かに大きい。でも、きみは賢いし、優しい、ごく普通の人間だ。パートナーの私がいいって言ってるんだから別にいいと思うんだけどな。何か今困っているかい?」
この話になるといつも平行線なのだろう。彼女も口ごもってしまう。
「僕の曾々々々々々々々おじいちゃんは西の男だからね」
惚れ込んだものに情熱を一心に傾けると言いたいのだろう。照れ笑いでもみ消されてしまったが。
「ジュリエット」
一気に彼の周囲の雰囲気が硬くなった。有無を言わさぬ物言いに、皆がしんと静まり返る。
「もしかしたら、貴族の、余剰を持て余したお坊ちゃんの、気まぐれの慈善活動か何かだと思ってるかもしれないけれど」
青年は穏やかに、しかし厳として言った。
「違うよ」
彼の最初の気弱そうな雰囲気はどこかに霧散していた。
6
「今日はしないの?」
晩酌が終わってお茶で喉を潤している時、ファウストが少し恥ずかしそうに尋ねてきたので少し驚いた。気持ちよくないのに、行為には誘ったりするのだろうか。わからない。
「その……ええと、あの、ほら……性行為のことだけど」
俺が驚き逡巡していると、顔を赤くして、重ねなくてもいい言葉を重ねてくる。
「ああ……うん、わかってる。わかってるよ。言わせてごめんな」
確かに、したいといえばしたいのだが、どうしても躊躇してしまう。ファウストを気持ちよくすることができないとわかっているのに、したいなんて言ってもいいのだろうか。そう考えはじめると、それまでのペースは崩れ、前回から結構日が空いていた。
ファウストの顎にそっと触れると、ベッドに腰かけた俺の膝に掌を重ねて瞳の奥を覗き込んで笑ってくれた。それはうっとりするくらい親密な微笑みで、一気に迷いが消えていく。ファウストの周りの空気が揺れて、ふたりを取り囲むようにカーテンが引かれる錯覚を覚え、俺は許されているのだと悟る。
「じゃあ悪いけど……」
頬をなぞって、優しく体を撫でて、服を脱がせていく。
いつも黒い服に包まれたからだはどこも白くて、くちびるや胸や性器だけが淡く血色がさしているのも煽情的で、どうしようもなくそそられる。肌は舐めれば甘く、きめが細かくていつまでも触れていたくなる。ひかりさすエナメルみたいな髪はよく櫛を通して油で整えてあって、艶っぽくてほれぼれするほど美しかった。髪を指ですくのも好きだし、頬を寄せてファウストの匂いと混じったオイルのいい香りをかぐのも好きだ。
ひとたび自分の腕に抱きしめて、ファウストも抱き返してくれて、彼が絶対に他の誰にも触れさせないようなところに触れれば、もう止まることなどできない。体を重ねることをファウストがどう思っているのかは知りたくない。知りたくないが、ファウストが拒否しないので、俺もそれに甘んじている。今日など、溜まっているのではないかと気を使って誘ってくれた。それを断ることをしない俺はファウストに甘えきっている。甘やかされて、甘ったれている。どうしようもない。
「ネロ」
「……ん?」
足元で熱心に陰茎を咥える俺の頭をさらりと撫でて、ファウストは言った。
「次は僕が」
ファウストを口でするのは、もはや俺の快感のためといっていい。ファウストはきっと喜んでなんていない。だって、俺の前で射精するのすら見た事がないから。
「ネロ、おいで」
ベッドの上から声をかけられると、いけないとわかっていながらも体が勝手に動き出す。ベッドに横になると、ファウストは何度か俺の頭を撫でた後、そっと覆い被さった。上に乗られるだけでむらむらむずむずしてしまう。ファウストは鎖骨をちゅうと吸うと、胸を口に含んだ。
「ッ……は……っ」
片方は口で、もう片方は指先で弄られる。刺激されると抑えきれない喘ぎが溢れてしまう。
胸はいけない。勝手に腰が揺れる。気持ちよくて、たまらなくて、びくびくとみっともなく震えるのを止められない。跳ねる腰を捕まえると、ファウストは次に陰茎を口に含んだ。暖かく滑った舌が敏感な部位に触れる快感がすごくて、喉の奥に突き入れてしまいそうになって焦る。体の中心が熱くて、あまりに良くて、ふるえてたまらない。しかも、ファウストが小さな口でペニスを頬張っているのが視界に入ると、それだけでいつも出てしまいそうになる。やばい。それは我慢しなければ。
ファウストはどんな気持ちで眺めているのだろうか。自分は気持ちよくないのに、俺が涙混じりに喘ぐのを。
もしかすると、あらかじめ俺を口である程度高めておくことで、挿入の時間を短くしようとしているのかもしれない。挿入は苦痛なので、早く終わった方がいいに決まっている。
快楽に流される一方で、俺はいつの間にかファウストの振る舞いを悪い方へ悪い方へ考えてしまうようになっていた。本当はしたくないけれど、いやいや俺に合わせている。それは俺が恋人だから。恋人に誘われれば行為に応じるべきだから。ファウストは真面目すぎるところがあり、そういうものだと心から信じているせいで自分の拒否感を押し殺している可能性は大いにあった。俺といるときはおおむね機嫌も良さそうなので、セックスさえなければもっとよかったのに、と思っているのかもしれない。
そっと滑り込ませた指で、おなかの内側の粘膜をくちゅくちゅと撫でる。少しは快感を感じているらしく、ややぼんやりとした表情をしている。
もっと気持ちよくしてやれないのかな。もう少しくらい、どうにかならないのかな。同じ時間を過ごすのだから、できるだけ気持ちよくなってほしい。……欲を言えば、あふれる快感にとろけ、破壊され、みだらに変容するファウストが見てみたかった。
くい、と指に少し強めに力を入れてみるも、これといって反応はなかった。気持ちいいとか悪いとかより、感覚が鈍いのだろうか。実は力加減が足りなくて、全体的にもう少し強めの方がいい可能性はないだろうか。それは盲点だった。これまでは優しく触れることだけを心掛けてきたから。
「ん……」
じわじわと強く押してみると、ほんの少し悩ましい声が上がった。もう少し。もう少しだけ強く刺激してみよう。確かに、体が高ぶっている時などは、強くした方が気持ちいいこともある。そう考えて、胎のざらざらした部分をぎゅっと押して擦る。
「っ……!」
その瞬間、痛ましく顔を歪ませ、体をびくりと震わせた。
「……痛い! それはやめろ」
「ごめん……!」
「……」
ファウストは呼吸を乱しながら、つらそうに俺の顔をじっと見た。今の、ぺらぺらに薄い謝罪を信じていいのか決めかねているようだ。
「悪かった。ごめん。もうしない……」
ファウストは重ねられた謝意を聞き、自分を納得させるように頷いた。というか、やっぱり痛いことすると痛いんだ。難しい。薄々感じてはいたが、ここまでくると俺の手には負えないかもしれない。困惑、迷い、手詰まり感のすべてを振り払うように、「いれていい?」と俺は尋ねた。
「ああ」
いつだって、ファウストの中はものすごく気持ちが良い。本人が快感を感じていないとは思えないほどきゅうきゅう吸いついてくるし、擦れる時の感覚は腰がとろけるかと思うほどだ。体の相性がいい、とはこういうことなのだと心底感じる。ふたりの全部の境界が、吸い付くように隙間なくぴったりと重なって、この体に巡りあうためにここまで流れ着いてきたのかもしれないと思えるほど。嬉しさからファウストにそっくりそのまま伝えてしまいたい気持ちになるが、そんなことをすれば、ファウストにセックスに対する義務感を今以上に感じさせるだけだろう。
俺がそんな風に感じる理由は一つしかない。ファウストに惚れ込んでいるから。思うところはあれど、彼と肌を重ねられることをこの上なく恵まれたことだと考えているからだ。他の誰かでは駄目だ。他の誰かとは、こんな気持ちにはならない。そう思っているのは俺だけなのだが。
「ファウスト、ありがとな……気持ちいいよ、あんたのこと好き。好きだから、めちゃくちゃ気持ちいい」
言えないことは伏せて、愛情だけでも知ってほしい。俺の言葉が終わった瞬間、ほんの一瞬だけファウストの顔には不安の表情が現れた。変なことを言ってしまったかと思っているうちに、穏やかに笑ってくれたからほっとした。だが、あの一瞬はなんだった? どうして。どうして?
久々に好きだと言ったのが行為の時だったから、体目当てだと思われたか。それとも、俺の好意は嬉しくないのだろうか。考え始めると薄暗い想像が止まらなくなってしまうので、頭を振って目の前の快感に集中することにした。中折れすることだけは避けなければ。ただでさえ無理をさせているのだ。これ以上ファウストを傷つけてはいけない。
「もっと動いていい?」
「ああ」
息を深く吸って、吐く。ゆるゆるとした動きをもう少し早めると、こちらを注視していた目が閉じられた。見つめてくる瞳が見えなくなって、少しほっとする。いいや、そんなこと思っていいわけがないのに。やはりファウストの中はとてつもなく気持ちがよくて、思わず調子づいてピストンを早める。気持ちいい。めちゃくちゃいい。それなのに、どうして。
今日はさっさと射精して終わりにしよう。いつもは奥をつついたり、内壁をねっとり嬲ったりして反応を見たりするのだがやめだ。申し訳なく思いながら、やや乱暴に腰を振る。
「ごめん、出そう」
「ん……出して」
どんどん動きが早くなってがくがく揺れると、ファウストは苦痛からぎゅっと顔をしかめた。いつも一番最初と一番最後は苦しそうだ。挿入時はきついし、射精の前はどうしても激しくなる。それ以外は反応が薄いか、笑ってくれているけれど、この時だけは取り繕うことができないようで、やはり本当のところはセックスが苦痛なのだと思い知らされる。
その時、ぱち、と目が開いた。汗ばんだ額には髪がふたすじ張り付いている。ひらいた目の奥には星がきらめいていた。セックスの終盤にしては、あまりに正気だ。俺らは、二人して正気を失うのは難しいらしい。いつもおかしくなっているのは俺だけ。体の熱は上がっているのに、墜落していくような心地になる。
けれど。
ファウストが苦痛の合間にふっと目を細めて微笑んでくれた時、たまらなくなって俺は射精した。
7
「だったら、全部言わなくていいからとりあえず顔見せて親御さんを安心させてやんな。庭だって、あんたが気に入ってたのに様変わりしてるから、絶対おかしいんだって言ってたぜ」
「ああ、庭。庭ですか……」
「立派な庭だったと聞いた。何もなくなっているのはどうして?」
ファウストが訪ねると、青年の表情に陰りが差した。口ごもる青年に代わって女性が説明をした。
「……あそこは私が散歩する場所です。私が外を出歩きたくないと言ったから。からかわれたり怖がられたりすればやっぱり傷つくから……だからそうしてくれたの」
「ああ、そうだね」
「お気に入りの庭だったのね? とてもきれいで、眺めているだけで癒される庭があると言っていたのに、ここに来たら何もなかったから変だと思ってた」
彼女は心底申し訳なさそうに青年を見た。
「運動する場所は必要だろう。だって君にも以前と同じように、普通にのびのび歩いてほしい。人目を気にしてこそこそするなんて、そんなのおかしいよ」
「でも、だからといって、あなたの大切なものを投げ打ってほしいなんて私は思ってないわ」
女性が不満そうに返すと、青年は首をゆるく横に振った。
「またどこか別の場所に作るつもりだから安心して。植木鉢も、ハンモックも、物置に全部取ってある。だって、たまたまだけれど、僕なら君に色々なものを与えてあげられるんだよ。腕のいい大工や家具職人や庭師だって知っている。代々の付き合いがあるおかげで、彼らにすぐに仕事を頼むことができる。私は、今は君に与えられることを、幸運だと思いたいんだ」
だんだん、西の血が出てきたように思えた。強い意思のこもった目で彼女を見る。
「それに、彼女の大きさは全然迷惑なんかじゃないんです。高いところの掃除が簡単にできるし、僕より力も強いから、頼りになる場面がたくさんある。どんな瓶だってすぐに開けられるしね」
庭のことなどすっかり忘れた様子でネロとファウストにいたずらっぽく小さく微笑む青年を見て、彼女の勢いも削がれたようだった。
「あなたは、男の人としては力がなさすぎるわ」
「普通だよ。私も普通」
違いを指摘しあいながら笑っている。仲睦まじく、見ているだけで心が温かくなる二人だ。体の大きさの差などものともせず、お互いを想いあっている。
「呪いか。俺の隣にいるセンセイは呪いの専門家なんだ。元に戻せないか聞いてみようぜ」
「呪いの専門家?」
「ああ……そうだ。細々と呪い屋を営んでいる。嫌でなければ、少し君にかけられた呪いについて話を聞かせてもらえるか?」
ファウストが尋ねると、女性は頷いて話し始めた。大まかに言うと、悪意のあるいたずらの類に運悪く巻き込まれてしまい、すぐ元に戻ると思っていたら戻らず、そのまま現在に至るとのことだった。青年は気遣わしげに一言一句を聞いている。
呪いにかけられたことは不憫としか言いようがない。ご愁傷様である。その一方で、依頼の顛末としてはほのぼのした終局だったことに俺はひそかに安堵した。息子は多少恋にのぼせているかもしれないが、五体満足、正気で発見できたわけだ。屋敷内で殺されている、という最悪の結末とは程遠かったのだから御の字ではないか。サイズがかなり大きいが、気立てのよさそうな恋人ができ、本人も大層幸せそうだ。何も言うことはない。
めでたしめでたし。
ファウストはひとしきり話を聞き、彼女の肩に手を当てたりして、ためつすがめつしている。彼は呪いがどのようなものであるか、そして元に戻す方法がないか、持てる知識を総動員して考えているのだろう。優しい男だ。真面目に話を聞いて、時たま相槌を打って、質問は鋭く、呪い屋としての矜持を感じる。……先生が、好きだ。俺、先生のことすげえ好き。いつも真面目で優しくて、でも時々厳しくて、深い傷を負っても背筋を伸ばして立っているこの人が。隣にいながら抱きしめたい衝動に駆られて困ってしまった。今はダメなんだって。ああ、でも、俺、先生のことめっちゃ好きじゃん。帰ったらぎゅってしよ。なんか、すげえ嬉しい。人をこんなに好きになれたことが。
8
「ネロ」
名前を呼ぶ声がして、ちいさな衣擦れの音がした。昼下がりに部屋にひっこんできてから、ベッドに腰かけてぼんやりしていた俺を、ファウストがそっと後ろから抱きしめてくれた。少しぎこちなくはあるが、気遣いがふんだんにこもった仕草だった。
「あ……ほったらかしててごめんな」
そういえば、部屋に戻ってからほとんど会話がなかった。顔だけでファウストの方を向くと、照れながら心配げに眉を下げる。
「疲れてる? 大丈夫か?」
ファウストはじっとこちらをみて、俺の様子を伺っている。気にしてくれていることを知ると、急に気分がよくなる。
「今元気になったよ」
「嘘をつけ。年寄りのくせに。そんなにすぐに良くなるわけがない」
唇をつんととがらせる。
「はは、たしかに。でも嬉しいのは本当だよ。ずっとこうしてたいくらい」
「そうか」
ぶっきらぼうな言い方だったが、ファウストは俺から離れようとはしなかった。嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。普段スキンシップに積極的ではない彼の方からこうしてくれるなんて、舞い上がってしまう。
「こうすんのは嫌じゃない?」
「ああ、嫌いじゃないよ」
「そっか……。俺も好き。めちゃくちゃ癒される」
セックスするのは駄目でも、くっつくのは大丈夫なのだろうか。違いがわからない。スキンシップに関するファウストの行動や許容範囲は、俺には理解できなかった。
徐々に、俺はファウストを好きでいるのはやめた方がいいのかもしれないと考えるようになっていた。確かに、ファウストの俺に対する態度は他の人に対するそれとは全く違っていて、道ですれ違った見知らぬ猫と、自ら飼っている猫くらい対応に差はある。だが。こんな風に考えると心がちぎれそうになるが、はじめての恋人だから気付いていないだけで、俺のことは実はそれほど強く想っていないのではないだろうか。ファウストは理性が強いので、恋人とはセックスするべきだと頭で考えて服を脱ぐ。だが、体はそう単純にはできていない。相手をそれほど好きではないために、何をしても気持ちが高まらず快感を感じない。そういう事はあるはずだ。理屈としてはおかしくないと思う。
いつか、ファウストの前にもっともっと愛おしい人が現れて身も心も夢中になったとする。その時、俺との時間を振り返って、なんだったのだろうと思うに違いない。さらにいうと、俺が向ける感情の方が大きいのは明らかで、どこまでいっても孤独な独り相撲に思えてしまう。ふたりでいても寂しい。なのに、やっぱり顔をみればときめくし、一緒にいれば好きだという感情が胸いっぱいにあふれてしまう。それはやっぱり、結構つらい。
しばらくたっても、変わらずファウストは俺の体に腕をまわして抱きしめてくれていた。かわいらしくてつい笑いが出てしまう。ファウストの匂いがほんのり香って、体がぽかぽか暖かくて、心地いい。ファウストの手の甲に手を重ねてじっとする。明かりもつけない狭い自室でファウストとくっついて、一つの肉のかたまりみたいになって時間を過ごすなど、なんと得難いことなのだろう。
ずっとずっとこうしていられたらいいのに。この時間が永遠に続いたらいいのに、と思った。永遠なんてないことはよく知っているからこそ、永遠に焦がれてしまう。俺が生きてきた中で、確かだと思ったものは軒並み崩れ去っていった。だからこそ何事にも期待せずに生きていけるのかもしれないが、つまり、この関係もいつか終わる。
…
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