ありえたかもしれないいくつかのお話_GiftWohl(イクト玲) イクト王子は口が悪い。決して性格が悪いわけではなく――ないはずだ。あくまでも心根は優しく、ただ少し素直じゃないというか言葉の使い方が独特なために、時折私の心がダメージを受けるだけで、基本的には面倒見がよく親切な方だと思う。
言葉だけを聞いていれば嫌われているとしか思えないのだけれど、あの一件以来ギフトヴォール国を自由に行き来できるようになった私が、時折訪れるたびに文句を言いながらも何故か相手をしてくださるのだから不思議だ。薬草を取りに行くと言えば付き合ってくれ(迷った挙句野垂れ死にされたら迷惑だと言われた)、文献を見せてほしいと言えば一緒に探してくれた(任せておいたら日が暮れるお前はここに住み着くつもりかと言われた)。
今日も今日とてギフトヴォールにしかない薬草を頂きに森に入れば、何故か城と森奥への分岐路に仁王立ちしていらっしゃった。茂みから突然現れる鹿には慣れたけれど、森に突如現れるイクト王子には慣れるはずもない。思わずぴょんと跳ねたら「お前は穴から追い立てられた野兎か」と蔑むような眼で見られた。心外である。
「あの、イクト王子」
「なんだ」
「その……お忙しいのでは、と」
「この俺が暇に見えるようならその理由を簡潔に述べたあと反省文を提出しろ」
(こうして付き合ってくださっていることがこれ以上ない理由ですが)
ガサガサと湿った葉を踏みしめ、転ばないように気を付けながら歩く。
「前回の件含め、貸してやった恩を返してもらうまでは忘れてもらっちゃ困るからな。お前のスカスカな脳みそでも覚えていられるよう、こまめにリマインドをかけてやってる俺に感謝しろ」
「いえいえいえ、忘れるだなんてとんでもないことです! ハトリ王子と通じてヴェリール国に便宜を図ってくださったことも、セキ王子に書簡を届けていただいたことももちろん覚えておりますし」
涼やかな半眼に睨まれ、慌てて言葉を足す。
「この国を訪れるたびに、なにかとお付き合いくださっているイクト王子へのご恩ももちろん忘れておりませんとも」
「フン。どうだかな」
前者はともかく後者は半ば押し売りめいたものを感じないでもないけれど、助かっていることは事実なので黙っておく。いまいち信用していただけていない気配を感じるのは、イクト王子との最初の出会いを私が覚えていないことに起因しているのだろう。
(森を迷っていたところを助けてくださったって仰ってたけど……うーん)
これだけ旅を続けていれば、あちらこちらで道に迷うこともある。正直全部の出来事を覚えていられるはずもないけれど、とはいえギフトヴォールだ。スパーチアほどではないとはいえ、魔法使いが治めるこの国に入るのはそれなりに緊張する。その森で迷ったとすれば相当の恐怖と共に記憶に植え付けられているはずで、だのに記憶にないとなると首をひねるばかりである。
とはいえ、私よりよほど記憶力(特に貸し借りに関して)が優れているイクト王子が仰っていることだ。そもそも反論できる根拠も鞭撻もないし、出来たところでなんの得もない。ならばこれからの信用を得るために、借り受けた恩を返すべく邁進するしかない。
そこでふと気付く。返すってどうやって?
現にこうして、今日も恩が積み重なるばかりで返す暇もない。あれ? もしかしてこれは負債の泥沼にハマっているのでは。
「おい!」
「へ? ――うわっ!」
などとぼんやり考えていながら歩いていたからだろう。気を付けていたはずの足元がおろそかになり、湿った枯葉に靴裏を滑らせて下半身だけが先に進む。
(転ぶ!)
衝撃を覚悟してぎゅ、と目をつぶる。と、同時に背中から脇に回された何かが転びかけた私の身体を受け止め、傾斜が止まった。密度の高い木々で埋まっていた視界が半分ほど空に変わり、けれどすべてを空に奪われることなく済んだのは。
「…………」
空からさらに、視線を上にあげる。視界に入り込んだ美しい顔は、上下逆さまでもバランスが崩れることはないのだなあ、なんて。
うっそうとしたギフトヴォールの森の中で、かすかに入り込む光を頭上から受けたイクト王子の顔。目を丸くした間抜けそのままの私がしっとりとした黒曜に映りこんでいて。
(映りこむ?)
「ヒッ!」
「おい。助けてもらっておいてそれか」
イクト王子の瞳の中の自分と目が合ったということはイクト王子ともばっちり至近距離で目が合ったということ。それを脳が認識した瞬間に反応したのは身体より先に言語中枢だった。驚きのあまりにあげた悲鳴は誰が聞いてもときめきより恐れを帯びているもので、けれどこの恐れは怯えというより恐縮がゆえだと分かっていただきたい。
「ももも申し訳ございません! あの、ありがとうございました」
「いいから慌てるな。二次災害を起こして俺を巻き込もうものなら今すぐ腐葉土の一部にしてやるからな」
苦々しくひそめられた眉根にだらだらと内心冷や汗をかきつつ、とりあえず離れなければという思考を落ち着かせてゆっくりと体制を整える。厳しすぎる口調とは裏腹に、身体を支えてくれる腕は優しく、再び落ち着いて地面を踏みしめなおすまでエスコートしてくださった。
脇に回っていた腕が背に添えられる手のひらに変わり、やがて静かに離れていく。
「……ありがとう、ございました」
「足を捻ったり痛めたりはしていないだろうな」
「あ、はい! おかげさまで」
「フン。当然だ。俺が助けてやったのに怪我なんかしたら承知しないからな」
(理不尽……!)
とはいえ助けていただいたのだし、実際怪我もせずにすんだ。先の発言も言葉のチョイスはともかく、私を心配してくださってのこと。
並んで歩きながら、先ほどより少し遅くなった歩調に気づく。半歩未満、見逃してしまいそうなほどの距離を後ろに下がったイクト王子の目的にも。
(優しい、んだよね)
言い方は厳しい。求められるものも同じくらいに厳しい。けれど。
『イクトはね、空間魔法は苦手なんだよ』
迷子になるならこの国を出てからにしろ、と、私が住まうイニシェントの街の入り口まで毎回送ってくださるのはイクト王子だった。
その日も遠慮する私を言い負かし、少し待っていろと言いおいて場を外したイクト王子と入れ替わるように現れたハトリ王子は、意味ありげな笑みを口元に浮かべながら突然そんなことを言った。
『直接聞いたわけじゃないけど、前に俺が移動魔法を使ったときに『よくこんな神経をすり減らす魔法をヘラヘラ笑いながら使えるな』って褒められちゃった』
それは褒められたと言うのだろうか。相槌を打つのもはばかられ、曖昧な笑みを浮かべるにとどめる。
ハトリ王子はそんな私を楽しそうに見つめ、琥珀色の瞳をわずかに細めて首を傾ける。赤い髪が肩先を撫で、促されるように肩章が揺れた。
――『なのに、君のことは自分が送るって言ってきかないんだから、おもしろいよね』
「おい、聞いてるのか」
「ファッ」
「なんだその鳴き声は。ぼーっとしてるとまた転ぶぞすっとこどっこい。そんなおとぼけあんぽんたんだから、あちこちで厄介ごとに巻き込まれそうになるんだ」
(すっとこどっこいもあんぽんたんも、日常会話で使う人いるんだ)
なんだか新鮮な感動を覚えてしまったが、それが顔に出ていたのだろう。イクト王子の顔が一層苦々しいものに変わっていく。ああ、これはよくない流れだ。
「その、ですね、巻き込まれたくて巻き込まれているわけでは……」
「お前みたいなチンチクリンでも女なんだ。貞操くらい自分で守れ」
「貞操って!」
「頼まれたら誰にでも許すのかお前は」
「誰でもということもありませんし、そもそも、て、貞操はですね……ちょっと、いやだいぶ誇張されてませんか」
「似たようなものだろうが」
キスとそれ以上は大分隔たりがあると思いますけど? という正論は通じそうにない。深さを増していくばかりの眉間の渓谷に私のメンタルが削られていく。なまじきれいなお顔立ちのせいで、不機嫌の圧が強いのだ。
「少なくとも、セキ王子のことでしたらあれは自分の意志で決めたことです」
『助けたいんだ、どうしても』
満月の青白い光のせいだけじゃない。キョウ王子から伝わる悲壮なまでの懇願は、その願いと決意がどれだけ強いのかを把握するには十分で。
迷って、迷って、そのうえで決めた。私で力になれるのなら、彼が望む願いの代償が本当に女性の――私のキスでよいのなら、と。
ざわざわと森が騒ぐ。ぬるい風が頬を撫で、イクト王子と私との間をすり抜けていった。
「……頼まれたら、誰にでも許すのか」
「誰にでもというわけでは……ただ、頼まれた方に対してどれだけ力になりたいと思うかによって、お受けできる内容が比例するかと」
気軽に出来ること。頑張れば出来ること。単純な労力としてだけではなく、精神的なためらいを伴うものはそれこそ相手との関係性次第だ。もしくは、受けた恩の大きさも。
けれど自分の身代わりとなった兄を、皆から忘れられた第一王子を助けたいというキョウ王子の願いはそのどちらをも超えたうえで私に届いた。もちろん出会ったことのない赤の他人なら、あれほどまでには響かなかったとは思う。あのときに頷いたのは、私の願いに親身になってくださったキョウ王子の優しさと、それ以上の熱意にだ。そして、それほどまでに切望する願いであっても、決して無理強いはしなかった王子の誠実さにも。
後ろめたいことなどなにもない。問われたことに対して返した言葉はけれど、イクト王子のお気に召すものではなかったようで、冷ややかな顔つきが変わることはなかった。
「じゃあ、お前は」
一瞬、王子が言葉を言いよどんだ。何事もはっきりと口にするイクト王子にしては珍しい。
迷いを示すように一度だけさまよわせた視線が、再び私をとらえる。
「俺だったとしても、頷いたのか」
「え?」
「キスを許す対象がだ。キョウではなく、俺でもお前は」
思わずぱちりと瞬いた。おそらく、出会ってから一番の間抜けた表情をお見せしているに違いない。普段のイクト王子なら、私がこんな顔をした瞬間にあらゆる言葉を研ぎ澄ましてぶつけてくるだろうに、その薄く整った唇は軽く結ばれたまま開かれることはなかった。
普段放たれる言葉以上に何かを訴えかけるような眼差しに押されるように、自らの心に問いかける。もしイクト王子に望まれたとして。そうすることで彼の願いが叶い、セキ王子が、この国が救われるのだとしたら。
(私、は)
「嫌です」
「ハァッ?」
勢いよく顔をあげ、心のままに口にした。ざわざわする。もやもやしてぐちゃぐちゃで、それでも『あのとき』と同じようには出来ないと思った。
「お前ふざけるなよ」
「じ、自分で守れって仰ったのはイクト王子じゃないですか!」
「なんでキョウは良くて俺は駄目なんだよ、世話で言ったら俺のほうがよっぽど見てやってるだろうが!」
「誰も駄目とは申し上げてないです、嫌だと申し上げただけで」
「同じことだろうが!」
「違いますよ!」
不本意だと言わんばかりのイクト王子の勢いに負けじと言い返す。とてつもなく不敬だと頭の片隅で認識し、けれど自分で自分を守れといいながら矛盾した叱責をよこす王子にわずかばかりの反抗心も覚えながら、理解が追い付かないまま胸に湧き上がる感情を必死に言葉へと変換した。
「なにが違うんだ」
「イクト王子の願いなら、自分に出来る限りのことはします。でも……キョウ王子が望まれたことと同じことをしろと言われたら、同じ気持ちで受けられるとは思えません」
自然と止まった歩みに、時間の流れも遅くなった気がした。申し訳程度に吹き抜ける風が、地面の湿った匂いを鼻先に届ける。暗い、暗い、ギフトヴォールの森。そんな中でさえ、イクト王子の周りには涼やかな空間が守られている気がする。
軽く閉ざされていた唇が、一度だけ硬く引き結ばれる。いつも強気な姿勢を崩さない王子の空気が揺れた。まるで、何かに傷ついたかのように。どうして?
(だって)
そういう意味でなんとも思っていない人になら出来る。それはただの作業だ。唇同士とはいえ、ただの皮膚接触。そう割り切るようにして、多分、頑張れば割り切れる。頑張った以上の報いがあるのなら。
でも、そうでないのなら。
(――あれ?)
「おい。急に挙動不審になるな。見ていない間に拾い食いでもしたのか」
「ヘッ、いや、あのっ、ちょっと自分でも予想外の事実に気付いてしまったと言いますか気付かされてしまったと言いますか、とにかく少々お時間を頂きたくですからあの、ち、近い! 近いですイクト王子!」
「ハア? 人を痴漢扱いするのもいい加減にしろよ。お前が急にヘンテコな舞を踊り始めたから、転ばないように――」
「む、無理です!」
「駄目で嫌の次は無理か。これだけ親切にしてやってる俺様に対していい度胸だ」
絶対零度の笑みを浮かべた姿は、どう見たって親切とは程遠い。一国の王子と言うよりは魔王と言ったほうがふさわしいのではないだろうかと、再び不敬な思考に偏りつつだから私はどうしてそんな人のことを。
「顔が赤いぞ。体調が悪いなら今日はもう送ってやる」
かと思えば、青と赤を行き来する私の顔色を慮って即座にハリセンを顕現させた。私の国への移動魔法を発動してくださろうとしていることに気付き、思い浮かぶのはハトリ王子に言われた言葉。
『イクトはね、空間魔法は苦手なんだよ』
「い、イクト王子。あの、大丈夫です。送っていただかなくても一人で帰れますので」
「冗談は寝て言え。そして寝るのは家に帰ってからにしろ。今更何を遠慮なんかしてるんだ、図太いのがお前の取り得だろうが」
一歩詰められ、一歩下がる。ああ、イクト王子のお顔が険しい。
「ですが、その」
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言えまどろっこしい」
「イクト王子は空間魔法がにが……得意ではないと伺いましたので! まだ日も高いですし、ご心配いただかなくても一人で帰れますのでこれ以上お手間をおかけするには」
眉がぴんと跳ねた。思わずまた一歩下がってしまう。
「誰に聞いた」
「だ、誰と仰られましても」
「言っておくが俺に苦手なものなど存在しない。順番付けした際に、より得意なものが他にあるというだけだ。いいからお前は黙って送られてろ」
イクト王子は損得に厳しい。主に自分の、そして国の益になるものならいくらでも労を惜しまない方だけれど、そうでないものには指一本、視線のひとつすら動かさない方だ。
そして損得以外で動くとしたら、彼がその内側に入れている、もしくは入れたいと願っている者に対してだけ。例えば兄弟であるセキ王子やハトリ王子、そしてキョウ王子。それから旧来の縁があるというアンドリーニアのセオ王子など。
無論私がそこに入るわけはない。こんな最近出会ったばかりの、しかも助けていただいたという過去すら忘れているような私が何か益を届けられるわけでもなく、心を向けていただけるような覚えもない。
(なのに)
向けられる言葉の強さこそ異なるけれど、向けられるこの優しさは。
『なのに、君のことは自分が送るって言ってきかないんだから、おもしろいよね』
(違う違う、勘違いダメ、絶対!)
「か、勘違いするなよ! 前も言ったが俺の国で野垂れ死にされても迷惑だという一点で面倒を見てやっているだけだ。それに端くれとは言え薬師に恩を売っておけば何かと便利だからな」
「それはもう二点では」
「なにか言ったか」
「ナンデモゴザイマセン」
頬が熱い。頭の内側がちりちりする。大丈夫だと言い張った私の腕をつかんでイクト王子が広げたハリセンが風を生み、この森ではありえない温かさをまとわせながら私を包んでいく。もう、ちっとも大丈夫なんかじゃない。
だから気付かなかった。自分のことに精一杯で、魔法を発動するイクト王子がどんな顔をされていたのか。彼の頬や耳にのる色が、私と同じであったことにも。
――魔法使いは嘘つきだから気を付けて
(分かりません師匠!)
ぎゅう、と目をつむり、イクト王子の魔法の流れに身を任せる。
普段向けられる言葉や眼差しとは違い、時折感じるイクト王子の優しさそのままの温もりが今日はなんだかとても、気恥ずかしくてたまらなかった。
Fin