🍃🌹 それはいつもなら通りすぎてしまいそうな風景のひとつで、賑やかな背景の一部として見逃してしまいそうな、そんなニューミリオンの日常の街並み。
アキラたちとバーベキューを心の底から楽しんで、笑って、腹いっぱい肉とケーキを食べて、もうこれ以上はビールの一滴だって入らないってくらい満腹だった。今は飲食店の看板を見るだけで腹がはち切れそうなくらい。
西日が水平線に溶けかけた頃には海辺のパーティーはお開きになり、大荷物のアキラたちを迎えに来たブラッドの車を見送って、今夜のパーティーの準備の続きをするというレンたちが乗ったタクシーに手を振ってから、ガストは少しでも腹を空かせようと、海辺の道をぶらぶら歩きながら帰っていた。期待以上の休日に気分は高揚する一方で、前髪を揺らす夏の匂いの潮風に、上機嫌な口笛を吹く。
そんな心地よい時間に、それはふと目に入ったのだ。海沿いの道に鮮やかに立ち並ぶ店々の中にあっても、どうしようもなくそこが色づいて見えて、ガストはジェラートショップの前で足を止めた。パステルカラーの店構えは、ガストにとってはひとりで入るのがなかなかハードルが高い。こんな時、すぐ隣に彼がいてくれたら。いや、もし彼を知らなければ、今日もここは道路沿いの景色のひとつに過ぎなかっただろう。そんなくすぐったい気持ちにいきあたって、ガストは表情を緩める。
『本日ジェラートの日のため、シングル→ダブルのサイズアップ無料!』
シングルをダブルに。もしもマリオンだったら、目を輝かせてその誘惑を見つめただろう。一見すると冷静な風を装って、けれども一瞬きらりと目を大きくして、ほんとちょっとだけ口を開けて頬を染める。そんな幸せで愛らしい姿を想像しながら、ガストはジェラートショップのドアを開けた。
店内はよく空調が効いていて、海辺の日差しで火照った肌に心地がいい。流行りのポップスが流れるそこは内装までしっかりパステルカラーで揃えられていて、ジャクリーンを連れてきたら飛び跳ねるくらい喜びそうだなと思って小さく笑う。
色鮮やかなジェラートが並ぶショーケースに、一際目立つ文字で『ジェラートの日限定!』と書かれているのは、チェリー味のアマレナとシチリア産ピスタチオのフレーバー。さてどれを買って帰ろうかと悩むガストは、パーティーの準備をして待つ3人と、それから愛しい彼の親愛なる家族たちがどの味なら喜ぶかを考えている自分に気づいて、なんともくすぐったい気持ちになる。ずらりと並んだジェラートたちを前に白旗を挙げたガストは、メッセージでお伺いをたてようとスマートフォンを取り出した。つい先ほどバーベキューの最中に撮ったばかりの写真が設定されたロック画面には、マリオンからスタンプが届いたことを知らせる通知がひとつ。ジャクリーンが描いた絵を使ったスタンプは、最近のマリオンのお気に入りだ。赤とピンクのパプリカみたいな絵に添えられているのは『待ってるノ』、のひとこと。ガストは目を細め、ピーマンみたいな絵の『大好きナノ♪』を送ると、すぐに既読がついた。きっと今頃、網の上で焼いたパプリカみたいに赤い顔をしながら、スマホの画面を見つめているんだろう。そんな様子を、愛おしい気持ちで熱く焦げそうなほどの胸に思い描きながら、ガストはスマホをポケットにしまう。みんなもサプライズで自分を喜ばせてくれたのだ、だからこっちもそうやってあいつらをびっくりさせたいと思った。
思案顔のガストを見かねたのか、ショーケースの向こうから店員が声を掛けてくる。聞けばこの店では、誕生日当日はジェラートをひとつ購入すると、もうひとつおまけでもらえるらしい。ありがたいことに、ここニューミリオンでルーキーであるガストたちのことを知る人もだんだんと増えてきた。それでも誕生日まで覚えていてくれているとは、と目を丸くすると、どうやらエリチャンの投稿を見て知っていてくれたようだ。店員が可愛らしいパステルカラーのカバーがつけられたスマホの画面をこちらに向けて見せてくれる。そこには、ガストの誕生日パーティーの準備風景を写した写真が添えられた、マリオンの投稿が表示されていた。
こんなにも胸が満たされる誕生日を迎えたのは、いったいいつ以来のことだろうか。
ガストはショーケースに並ぶジェラートを端から端まで眺めてから、全部のフレーバーをダブルで注文した。誕生日のサービスの分で選んだのはアマレナのフレーバー。ご馳走とケーキが用意されたパーティー会場に、両手で持てないほどのジェラートを持って帰ったら、きっとみんな呆れ顔で、けれどもどこか今日という日に浮かされた笑みを浮かべて、ガストを歓迎してくれるだろう。
1時間だけジェラートを守ってくれるらしい、ずしりとした重みの保冷バッグを両手に提げて、ガストは肩で押すようにして店のドアを開けた。湿気を帯びた夏の夕暮れ時の風に、じわりと額に汗が滲む。折よく前を通ったタクシーを走って停めて、ガストは後部座席に乗り込んだ。
ジェラートが詰められた保冷バッグをシートに置いて、ポケットの中で熱くなったスマホを手に取る。車窓に流れていく夕焼けのニューミリオンの街並みを写して、エリチャンの投稿画面を開いた。
『すっげぇ楽しかったBBQパーティーから帰ってるところ。夜はノースセクターのみんなが祝ってくれるらしいぜ♪ そういえば今日はジェラートの日なんだって知ってたか?』
その後に『俺はマリオンに教えてもらったんだけど』と続けて書いてから、少し考えてそれを消し、投稿ボタンを押した。
ガストの誕生日はジェラートの日だから覚えやすいと言ったのはマリオンだった。
ふたりきりのポップコーンパーティーの夜、上映されたのは『ローマの休日』。ガストが飲んでいたアルコールの匂いに酔ったのか、モノクロで紡がれるラブストーリーにあてられたのか、隣に座るマリオンがガストの肩に頭を預けてぽつりと、そう呟いた。あの瞬間の幸せな温度は、距離がほんのちょっと縮まった記念すべき夜の思い出は、ガストの胸の中だけに大切に閉まっておけばいい。
窓から見える風景が、ネオン瞬くビルの群れに変わっていく。
帰る場所まであと少し。その時、メッセージアプリのスタンプがふたつ届いたことを通知が知らせた。たぶん赤いパプリカの『待ってるノ』と『大好きナノ』だろう。見なくたって想像がついた。
「俺も、大好きだぜ」
陽が落ちたセントラルスクエアの眠らない光が、夏の夜の雲を照らす。その雲を突き抜けるようにそびえ立つエリオスタワーを遠くに眺めながら、ガストは左薬指にそっと口付けた。