🍃🌹 夏の終わりにやってきたハリケーンは、今晩ニューミリオンを直撃するらしい。
マリオンは強い風に煽られたレインコートのフードを被りなおして、リニアのターミナルを目指した。悪天候の中のパトロール、朝から降り止まない雨に濡れたブルーノースの石畳は滑りやすく、近距離戦を得意とするマリオンはいつもよりも脚に疲労が溜まっているのを感じた。加えてハリケーン接近に伴う、憎らしいほどに強くて不規則なこの風だ。操る鞭が幾度となく横殴りの風雨に翻弄されて、戦闘中舌打ちをしそうになってしまった。こんな日にガストと組んでいたらアイツの能力をぶつけて突風を相殺させたのに。そう思いながらパトロール帰りの道を歩くマリオンの横を、大型バスが派手な水飛沫を上げながら走っていった。マリオンは咄嗟に一歩後ずさって跳ねる水を避けたが、もうとっくに膝から下は絞れそうなくらいに濡れていて、今日何度目かのため息が溢れる。
バスは少し先の小さなバス停で停まった。多くの客はあと2ブロック先のターミナルまで乗るのだろう。降りてきたのはたったひとりで、それはマリオンがついさっき頭に思い浮かべたチームメイトだった。
「アイツ、なんであんなところに」
そうぽつりと口に出してから、ガストの背中のバックパックを見て、マリオンははっと空を見上げた。分厚い雲、今の時刻がちっとも分からないほどに暗い空。ガストは今日から週末の二日間だけ、南の島に飛ぶはずだった。けれども、彼が乗るはずだった飛行機はこの荒天で離陸することができなかったのだろう。リゾートでバカンスを楽しむ家族の元に弾丸スケジュールで二日間だけ合流することになった、と話したガストの、無理に口角を上げてみせたなんとも言えない顔をマリオンは思い出していた。
サンドイッチを売る店の軒先に立って空を見上げているガストは、ほんのちょっとの時間で頭から脚までびしょ濡れになっていた。この強い風雨ではどこもかしこも店先のオーニングは畳まれていて遮るものはないし、こんな日に道を歩く人はみんな足早に家を目指していて誰もガストのことは気にも留めない。ただひとり、マリオン以外は。
マリオンは水溜りを無視して歩きながら、レインコートを乱暴に脱いだ。心を遠くに飛ばしてしまったみたいなガストの前に立って、ばさりとレインコートを広げて、シャツの色がすっかり変わった肩と、きっと中まで濡れてしまったであろうバックパックに掛けてやる。それから少しだけ背伸びをして、シャワーを浴びた後みたいにセットが崩れた頭にレインコートのフードを被せた。
「帰るぞ」
「飛行機、飛ばなかったな」
そういって苦笑いを浮かべたガストの顔は、まるで迷子の子どもみたいで、雨が降り出す前の湿った空みたいにも見えて、マリオンはガストの腕を掴んだ。
早仕舞いして灯りを落とす店の並びに、一軒だけ看板が明るいドアを見つけて、マリオンはガストの手を引いて飛び込んだ。そこは映画の中でしか見たことがないような古めかしい映画館で、毛足のへたったカーペットが敷かれたロビーは、効き過ぎた空調で濡れた肌には寒いくらい。マリオンはシャツの袖を捲って、雨で頬に張りついた髪を耳に掛けた。ブルーノースの洗練された街の中、ひっそりと息を潜めているような、時間の流れがここだけ違っているような、そんな不思議な趣のある場所だった。
「初めて入った、ここ」
「……ブルーノースにこんなボロい、じゃなくて、歴史がありそうな映画館があったなんて知らなかったぜ」
「自分が担当する街くらい、隅から隅まで、どんな建物があるのか頭に入れておけ」
ガストは頬に滴の滴る髪と苦笑いを貼り付け、レインコートを羽織ったままで立っていて、マリオンは何も言わずそれを脱がせてやった。
ビロード張の両開きのドアの隙間から、かすかに光と音が漏れてくる。マリオンはレインコートをざっと畳んで腕に掛け、客席へのドアを開いた。中は30席ほどしかなくこじんまりとしていて、モノクロの映画が上映されている。フィルムが回る音と、居眠りをする映写技師のささやかないびき。少し擦れたような役者の声とちらちらと安定しないスクリーンの光。マリオンが吸い込まれるように中程の座席に座ると、程なくしてガストもすぐ隣に腰掛けて、バックパックを床に置いた。座席がじわりと濡れてしまったけれど、エンドロールの後にふたりで謝ればいい。
上映されている映画は、英国紳士があちこちの国を巡りながら、世界一周に挑戦する話だった。
「……この頃は、世界が今よりもっと広く見えたんだろな」
上映中だぞ、しゃべるな、という気にはなれなかった。飛行機がない時代に80日間で世界を一周しようと悪戦苦闘する主人公たちをじっと見ながら、誰に聴かせるでもなくそう呟いたガストのひとことは、映画の登場人物たちのセリフよりもマリオンの心を揺さぶる言葉だった。久しぶりの家族旅行のために南の島へ飛ぶと決めた時に、二日間分の荷物をバックパックに詰めた時に、そして空港で『欠航』の文字を見た時に、ガストは何を思っていたのだろう。
マリオンはスクリーンを見つめたまま、隣に座るガストの手に自分の手を重ねた。
「……世界は、昔より狭くなったと思うか? 結局広くて遠いままなのか、それかボクたちが大きくなっただけなのか……いろいろなことを知って、それで、考えすぎるようになったのかも」
血の通いやすいマリオンの手は温もりを取り戻し始めていたが、ガストの手は今なお、雨と空調に冷やされた温度のままだった。温まらないガストの大きな手が無性に悔しくて、マリオンはぎゅ、とその冷えた手を握りしめた。
「どっちにしても、ボクにとっては相変わらず世界はほとんどが映画の中のお話だけど」
「……今日、考えなしにあのバス停で降りてよかったよ」
「びしょ濡れになったのに?」
「びしょ濡れになって、雨宿りできたからな」
ガストがマリオンの手を握り返す。その指先はまだ冷えていたけれど、かさついた指には意思のある力が込められていて、マリオンは息を吐きながら座席の背もたれに身体を委ねた。
映画は今やクライマックスを迎えていた。ほんの2、3時間の上映で世界をひと回り。雨に濡れた服は乾かないままで、ふたりはただ、手を繋いで隣にいただけだった。外は先ほどよりもさらに強い風雨に見舞われているだろうか。それならガストに風を起こしてなんとかしろと言ってやればいいし、もし許されるなら、もう少し雨宿りを続けたっていい。手のひらに温かい重みを感じながら、マリオンは少しだけ晴れやかな気持ちでスクリーンを見つめた。