🍃🌹 甘い、甘い、小麦粉と砂糖と卵の匂い。
ノースセクターの共同スペースが焼きたての空気で満たされている日は、マリオンの機嫌がいい日だ。
昼までのパトロールの後、弟分たちとのランチと買い物で束の間の休息を楽しんだガストは、陽が落ちる前にタワーに戻った。マリオンから明日も早い時間のパトロールなんだからあまりハメを外さずに早めに帰れと釘を刺されていたし、配属から一年半ほど経って、早出のパトロールの前の晩にアルコールを入れるものではないということくらいガストももう分かっている。
帰りに寄ったスーパーマーケットで買ったものを冷蔵庫に入れようとキッチンへ行くと、そこには真剣な面持ちで鍋をかき混ぜるマリオンの姿があった。マリオン・ブライスは真面目で几帳面なようで、意外と大雑把なところもある。シンクには半分に割れた卵の殻がいくつも転がっていて、なんとなくガストは微笑ましい気持ちになった。時折マリオンがポケットにものを入れたまま洋服をクリーニングに出してしまって、ジャックに注意されているのを見ることもある。隙のない見た目とは裏腹に、マリオンにはそんな抜けたところもあることを、共に生活する中でガストは知った。
そういえばマリオンは、今日はパトロールの後にトレーニングに行くと言っていたはずだ。今はシャワーを浴びて私服に着替えたようで、シンプルでこざっぱりとしたTシャツとエプロン姿でキッチンに立っていた。午前中のパトロールではサブスタンスを巡ってイクリプスと小競り合いになり、昼までの短い勤務でもガストはすっかりくたびれてしまった。そこからさらにトレーニングだなんて本当にマリオンはストイックだ。レンもトレーニングについて行ったようだったが今は自室で本でも読んでいるのか、リビングには姿がなかった。
「何作ってるんだ?」
「タルト」
そうそっけなく応えるマリオンの手元を覗くと、鍋の中ではきっとカスタードクリームになるのであろうものがとろりとかき混ぜられていた。
「今日って何かのお祝いだったか?」
「別に、なんでもない日に作ったっていいだろ。タルトが食べたい気分だっただけだ。ジャクリーンとも近々のんびりケーキを食べる時間を作りたいって話していたし」
そういえばノヴァ博士も研究の息抜きで、家族やノースセクターのヒーローたちに焼き菓子をよくふるまっている。なんでもない日にケーキを焼くなんて、さすが甘いものに目がない家族の一員だなとガストは思った。マリオンの家族は誰かの特別な日には盛大にお祝いをするし、部屋で映画を見るだけの日もパーティーにしてしまうし、時々こうやって甘いものを作って誰かと分け合う。
「マリオンの家族ってほんとに仲がいいよな」
「楽しいこととか美味しいものは、家族で共有したらもっと嬉しいだろ」
そう言って鍋を見つめるマリオンの横顔は、鍋から立ち昇る熱気にあてられたのかほんのり色づいていて、なぜだかガストは目を離すことができなかった。
こんがりと焼き色がついたハロウィンのクッキー、誰かの誕生日やクリスマスのケーキ、アイスとクリームに飾られたハニートースト、バターが溶けてとろとろと滑り落ちるパンケーキ、マリオンとその家族はみんな甘いものが好きだし、お菓子作りが結構うまい。一巡りと半分の季節をノースセクターの研修チームで過ごし、ガストは甘いものを囲むマリオンたちの姿を幾度も見てきたし、そこに加わらせてもらうことも度々あった。
「タルト作ってるのは初めて見たぜ」
マリオンがカスタードクリームを木べらでとろりとすくって、鍋を火からおろす。
「……昔、ボクたちおままごとでケーキを作った」
「そうだったか?ままごと遊びをしたのは覚えてる。マリオンが庭に落ちてる花びらを集めろって俺に言ったよな。ままごとの材料にするからって」
ガストはその時何を作って遊んだのかをはっきりとは覚えていなかったが、マリオンが言うならそうだったんだろう。なにせマリオンは抜群に記憶力がいい。先々週の水曜日の朝に、ガストがいったい何分何秒洗面所を使ったのかも覚えているくらいなのだから。
「あの時、ボクたち誕生日ケーキの話をしたんだ。もしかしたら誕生日が近いかもしれないってわかって、ボクがどんなケーキを食べたのか聞いた。ボクはチョコレートケーキだったって言ったら、オマエはフルーツがたくさんのったタルトだったって言ってた……だからいろんな色の花びらを集めて、花びらをフルーツみたいにしてケーキを作る遊びをしたんだ」
言われてみるとそうだったかもしれない。ガストの人生を変えてしまうほど可愛い子に出会ったあの日、言われるがままに一緒に作ったそれが、いろんな色してたのはなんとなく覚えている。
ガストは小さな頃から甘すぎるものがあまり得意ではなくて、誕生日にはフルーツのタルトを母が作ってくれた。イチゴ、オレンジ、ブドウ、さまざまなフルーツがのった甘すぎないタルト。それを前にして屈託のない顔で笑う小さな頃の自分を写した写真が、実家の応接間の暖炉の上に飾ってあった気がするけれど、今はもう朧げにしか思い出せない。長いこと実家には帰っていないし、帰ってこいとも言われない。その写真に写ったタルトに何本のロウソクが刺さっているのかは、アカデミーに入った時に忘れてしまった。
「マリオンはそういうのちゃんと覚えててすごいよな。家族との思い出もちゃんと覚えてるしさ。不良やって家族に心配をかけてばっかりだった俺とは大違いだ」
「……美味しそうなイチゴがあったんだ」
「ん?」
「家族に心配かけるなんて凡人のやることだ」くらい言われると、ガストは思っていた。けれども唐突に、マリオンがそう、ぽつりと零した。
「春になってから毎日スーパーマーケットの前に並べられていて、つやつやしていて、とっても美味しそうだった。他のフルーツも探したけれどなんでだかそんなに美味しそうに見えなかったし、あんまり種類もなかったから……イチゴだけ買ってきた」
カスタードが余熱で焦げ付かないようかき混ぜながら、マリオンはこちらを見ずにそう言った。しばしふたりの間に流れるのは、木べらが鍋底を擦る音だけ。マリオンが次にどんな言葉を紡ぐのか、ガストはじっとそれを待った。
「夏にイチゴとかブドウを用意するのは大変だっただろうなって……そう思った。きっとオマエのために何軒も店をまわって探したんだろうな」
マリオンの手でくるくると混ぜられている甘くて温かいバニラの香りを漂わせるカスタードは、艶があって美味しそうで、舌の上ですぐに溶けそうで、ガストの胸にじわりとロウソクみたいな温かさが灯る。
「そのフルーツタルト、甘すぎてあんまり美味しくなかったんだよ…………前の年までは、めちゃめちゃ美味かった。そう思っちまったんだ、」
「でも、その次の年はおいしかったんだろ。きっと」
ここ最近、やたらと冷蔵庫の中で卵を見かけていたのだ。誰も朝食に目玉焼きなんて食べないし、マリオンも毎朝パンケーキを焼くわけじゃないのに妙だなと初めは思った。けれども眠い目を擦ってパトロールに出動するなんでもない日の朝、卵のことはすっかりガストの頭の片隅に追いやられてしまって、いつしか気にも留めなくなったのだ。
「あの日、誕生日はフルーツタルトだったって言ったオマエは、嬉しそうで、少しだけ寂しそうな顔をしていて……だから、ボクが今すぐフルーツタルトを作ってあげられたらって思ったんだ」
まるで独り言のようにそう言ったマリオンは、満足そうにやわらかく微笑んで、カスタードクリームをかき混ぜる手を止めた。甘くて優しい色をしたクリームが、とろりとろりとガラスボウルにうつされていく。鍋底はちっとも焦げ付いていなくて、漉し器を通ったクリームはどこまでも滑らかだった。そういえばジャクリーンが、今のマリオンの体重は54.2キロだと言っていたのは一昨日のことだったか。マリオンが慌てた様子でジャクリーンを抱き上げて、おしゃべりなレディの口に人差し指を当てている様子をガストはふと思い出した。
「別に、オマエのためだけってワケじゃないからな!ジャクリーンがイチゴのデザートが食べたいってここのところ毎日言うから……!」
マリオンがふい、と踵を返して冷蔵庫を開ける。そして冷蔵庫のドアを開けたまま、紫色の澄んだ目を丸くして、じぃっと中を見た。
「俺も今日、イチゴ買ったんだ。綺麗な形で行儀良く並んでる赤いイチゴが、なんだかマリオンみたいでさ」
なんでもないことみたいにガストがへらりと笑ってそう言うと、マリオンの頬がイチゴみたいに赤く色づいた。
「……っボクは、最初にジャクリーンの顔が浮かんだ……それからオマエのことをほんの少しだけ思い出しただけだ……」
マリオンは自分で買ったイチゴと、ガストが買ったイチゴを両手に持って、少し考えてから、それをどちらも持ってきた。いくらか血が昇ってしまった様子で、頬も、小さな耳も、目尻も、花が咲いたように赤くなっている。ふたつのパックにお行儀良く並んでいたイチゴは、ザルの上で山盛りになって混ざって、もうどれがマリオンみたいに見えたイチゴだったのかわからない。いつもは鞭を振るっているマリオンの手が、大事なものに触れるように優しく、イチゴをひとつひとつ丁寧に洗っていく。蛇口から流しっぱなしの水にかき消されてしまうくらいの声で、マリオンが呟いた。
「あの日のボクが心配なんかしなくても、オマエも家族に愛されていたんだな」
ゆっくりと振り返ったマリオンの視線が、ガストのそれと重なる。その綺麗な瞳がほんのわずか戸惑うように揺れて、それからマリオンは少しだけ背伸びをして、ガストの頬にキスをした。
それは本当にほんの一瞬のことで、咄嗟にガストは自分の頬に左手を添えたけれど、指に触れるのはあたたかですぐに消える雫だけ。掠めた温度を思い出そうとした時には、もうマリオンはイチゴのことしか見ていなかった。
「…………だって、両手が濡れてたから……もし泣きそうになっていたら、頭を撫でて抱きしめたくなるのが家族だろ……別に、オマエのこと家族だって言ってるわけじゃないけど……」
「……なぁ、マリオン。オレンジとかブドウの季節にもタルト作ってくれたり」
「っ、調子にのるな!」
マリオンが洗ったばかりのイチゴを一粒、黙れとばかりにガストの口に押し付ける。血色の良いマリオンの唇はまるでイチゴみたいな色をしていて、きっと本当は、今が一番美味しい時なんだろうなと思ってしまった。
「……でも、オマエがタルトに合う紅茶を淹れてくれるなら……考えてやってもいい」
胸に灯った春みたいな温かさを、この先一生忘れることはないだろう。今を写真に撮って、暖炉の上に飾らなくたって、頬に触れた優しい温度を生涯覚えていられる気がした。
オレンジの季節になって、ブドウの季節が訪れて、それからまたイチゴの季節が巡ってきても、ずっとずっと。