12月新刊「Super Star」・転生現パロ
・一般人月島×アイドル鯉登
・月島だけ前世の記憶あり
・まだ推敲が甘いので、本になる際に大幅に書き直す可能性があります。誤字脱字などもあるかと思いますが、ゆる〜い気持ちで見守ってもらえたら嬉しいです🫶🏽
——見つけた、私の一等星。
最近この曲よく聞くなあ、と月島基は思っていた。営業職のサラリーマンである彼が、客先の訪問終わりに新宿の大きな交差点でぼんやり赤信号を眺めていたときのことだ。ある曲が、交差点の向こうのビルに備えつけられた巨大ビジョンから流れてきた。CMや店の有線放送なんかでもよく耳にするそれは、サビの「見つけた、私の一等星」というキャッチーなフレーズと、それを口ずさむ男の張りのある声が妙に耳に残った。
どんな人が歌っているんだろう。そんな些細な興味が、月島の視線を信号機から巨大ビジョンへと動かす。曲の雰囲気からして、若いアイドルかなにかだろうか——と思ったそのとき、煌びやかな衣装を纏ったひとりの男が、巨大なビジョンへと映し出された。
ハッと、息を呑む。特徴的な眉毛の下に覗く意思の強そうな目元は、曲調に合わせて憂いを帯びたように伏せられていた。それを長いまつげが繊細に縁取っている。そうして「見つけた、私の一等星」と紡ぐ形のいい唇を、月島は食い入るように見つめていた。手から滑り落ちていったビジネスバッグが、地面にゴトンと音を立ててぶつかっても、それを気にする余裕もないほど、月島の心は騒めいていた。まるで春の嵐で白波立つ、故郷の冷たい海のように。
「見つけた、のに」
その瞬間、信号が青に変わる。雑踏の中、月島は鞄を拾い上げて交差点を渡った。頭上からは「もう二度と手に入らない」そんな歌詞が聞こえてくる。月島は一度逸らした視線を、二度と画面に向けることはなかった。
遠いところに行ってしまった、あなた。巨大ビジョンの中にいたような、美しく精悍な顔で部下に指示を出すあなた。子どもみたいにきらきらと瞳を輝かせた笑顔で小動物に駆け寄るあなた。画面の中の姿よりもずっと大人になって、その御髪に白髪が混じりはじめたのを気にしていたあなた。それから俺の前でだけ、無防備な姿で愛を囁くあなた。
——せっかくふたたび見つけられたのに。もし見つけられたら、ほんのわずかな望みだったとしても、ふたたびあなたの恋人になれたらと思っていたのに。いまのあなたは、もう二度と手の届かない、夜空に輝く美しい一等星となってしまった。
物心ついたころから、月島には「前世の記憶」としか説明のつけようがない、もうひとつの人生の記憶があった。粗暴な父親と、自分を捨てて出ていった母親。なんの因果か二度目の人生でも同じような両親のもとに生まれついたと気づいたとき、それでもなんとか生き延びて、この狭い世界をまっとうに抜け出したいと思わせてくれたのは「彼」だった。掛け値なしに、生涯自分を愛してくれた存在を、この心が忘れていなかったから。
「月島ァ!」
巨大ビジョンから流れる歌声に、心惹かれた理由がいまならわかる。俺は自分の名前を呼んでくれる、その太陽みたいな声をいつも愛おしいと思っていた。
前世の記憶の中で、月島は大日本帝国陸軍の軍人だった。「彼」は、そんな月島の上官だった。といってもエリートの彼は野良犬みたいな月島とは違い、若くして将校になった男だった。月島より十三も年下で、ふとした瞬間に見せる言動は年相応の幼さを感じさせる人だった。
けれど彼は——鯉登音之進は、素晴らしい人だった。本人には恥ずかしくて、そんなことを直接言えたことはないけれど。しかしいまなら言える、彼は人の上に立ち、人を率いるにふさわしい人だった。本当に多くの部下に心から信頼され、愛されていた。そして月島自身も、彼の右腕として歩んだ五十年を誇らしく思っていた。軍人としての「公」も、そしてひとりの人間としての「私」も、そのどちらでもお互いが大切な存在だった。
つまるところ月島と鯉登は「私」において、恋人同士であった。ただし当然、当時の立場として他言無用の関係である。可愛らしくいうならば、「秘密の恋人」とでも言おうか。そうしてその関係がまたふたりを自然と燃え上がらせた。例えば摂生中に隠れて食べる蜂蜜やバターのように、禁じられたものほど美味しく感じる現象にも近い。さらには、当時ふたりが身を置いていたのは非常に特殊な環境である。むさ苦しい男所帯、血みどろの戦場とそれに耐えうるだけの厳しい教練、凍てつくような銀世界。その環境がきっと、本来なら惹かれ合うはずのないふたつの心をひとつにした。
彼らは、上官の思惑に振り回されてがむしゃらに金塊を追いかけた日々を皮切りに、ふたつの世界大戦と、軍の解体までも乗り越えた。そうして互いの手を取り合って生き抜いた先の慎ましやかな人生の終末は、月島にとって、「鯉登音之進」と出会う前には考えられなかったほど穏やかなものだった。
そんな「鯉登音之進」の名前を検索エンジンで調べると、いま一番に表示されるのは「セブンスターズ」というボーイズグループの情報である。仕事を終えて、夜遅くにひとり暮らしのマンションへ帰宅した月島は、昼間巨大ビジョンで見た映像を反芻しながらスマホの画面を触った。
グループの公式HPを開くと、やはりメンバーの中に見知った顔がいる。特徴的なL字の眉毛と、切長ながらも黒目の大きな目元。それから、健康的な糖蜜色の肌。見紛うはずがなかった。かつてあんなにも愛した人なのだから。歳は、現在二十歳のようだ。前世で自分たちが出会ったころと、だいたい同じ年齢だった。
そのグループで、鯉登は「オト」という芸名で活動していた。だが一方本名を隠していることもなく、「鯉登音之進」で調べても情報は出てくる。学生のころから練習生として事務所に所属し、現在デビューしてから三年目。検索結果に現れるSNSの反応を見る限り、グループも、そして鯉登自身も、きちんと若い女性たちに人気があるようだった。
月島はこのときほど、テレビをほとんど見ず、芸能人に疎い自分を後悔したことはない。もし普段からもっとテレビを見ていれば、きっといまよりも早く画面の向こうの鯉登音之進に再会できていたはずなのに。つい最近も彼らはゴールデンタイムの歌番組に出演したようで、その様子がSNSに載せられていた。
今度は動画サイトに飛び、ミュージックビデオを見てみる。最新曲は今日巨大ビジョンで見かけた「見つけた、私の一等星」でお馴染みのアレだった。再生ボタンを押して、かぶりつくように画面を見つめる。歌い、踊り、そのあいだ忙しなく表情を変えていく鯉登の姿を必死に追いかけた。一秒足りとも見逃したくなくて、瞬きまで忘れて。けれど乾いた瞳を潤すように、気づけば月島の目からは涙が溢れていた。滲んだ視界でもう一度、何度も再生ボタンを押して、「いま」を生きる鯉登の姿を目に焼きつける。自由に、自分のために、思うがままに命を輝かせる彼の姿に、月島は言葉にできない感情を抱く。「他がため」に生きることを運命として受け入れた彼の姿を知っているからこそ、何にも縛られずに生きる彼の姿が、月島にはこの上なく眩しく見えた。
気づけば月島は他のMVや、彼のグループがバラエティ番組に出演したときの映像まで、動画のリンクを辿っては何時間も再生し続けた。そうして画面の中で年相応の無邪気な笑みを浮かべる「オト」を月島はそっと指で撫で、愛おしさを込めた瞳で見つめる。
——いつまでも、どうか幸せに。輝くあなたでいてください。
カーテンの向こうが白くなりはじめるまで動画を見続けた月島は、仮眠の直前、ひとつネットで買い物をした。それはオトが歌う「見つけた、私の一等星」というフレーズが耳に残る、新曲「一等星」が収録されたアルバムだった。
元々持ち物にこだわりのない月島は、ミニマリストさながらの殺風景な部屋に住んでいた。ところがそんな独身男性の部屋が、ある日突然出会ってしまった「推し」のグッズによって、華やいでいくのにそう時間はかからなかった。推しとはつまりオトこと鯉登音之進と、彼が所属するセブンスターズのことである。まずアルバムを手に入れた月島は、それが単なるディスクだけの代物ではないことに驚いた。なぜなら山のように「特典」が付いてきたからだ。フォトブック、トレーディングカード、ポスターにシール。何事かと思いながら開封したところで、月島はそれがランダム封入であることに気がついた。なぜなら何気なく開いたポスターが、オトではないメンバーのものだったからだ。そうして一度ランダムだと気づいてしまうと、次の特典を開けるのが怖くなる。もし鯉登閣下が出なければどうしよう。自身のくじ運にあまり自信のない月島は、恐るおそるトレーディングカードの封を開けることになった。
「来てくれ、頼む……」
しかし袋からカードを取り出した瞬間、月島は天にも昇る気持ちでカードを握りしめることになる。
「こ、鯉登閣下……いや、オト……‼︎」
トレカには、ツンとすました顔でこちらを見つめるオトの姿があった。月島は喜びのあまりいつにないほど顔を綻ばせながら、愛しい人の姿にため息をつく。
「家宝にしよう」
なんて言葉も、月島にとっては冗談ではない。彼は前世で鯉登にもらったお手製のメンコを、終生大事に持っていた男だった。
一度CDの特典としてグッズを手に入れると、なんだか歯止めが効かなくなる。月島はもっとグッズが欲しくなり、公式の追加情報に合わせて日々通販サイトを漁るようになった。例えばオトをモチーフに作られた動物のキャラクター「クズリちゃん」のぬいぐるみや、顔写真付きのうちわ、全身が写るアクリルスタンドは速攻で手に入れた。加えてランダムのトレカや缶バッチにも手を出し、推し(オト)を自引きする喜びも味わった。
そう、月島は人生で初めて、推しができることの楽しさを知ったのだ。SNSで推しの日常に頬を緩ませては、グッズを集めて部屋を賑やかにし、通勤中には曲を聴いて元気をもらう。職場の女の子たちがアイドルにときめく姿を見て首を傾げていた彼は、もう過去の存在だった。いまならわかる、推しの活躍は、すなわち自分の幸せなんだと。
鯉登がアイドルに生まれ変わったことを知った日から、月島はもう二度と彼が自分の恋人になることはないと理解していた。その代わりに彼が「オト」として自分の推しとなり、生涯自分の心の拠り所となってくれることを知ったのだ。推しと恋人は当然別物だけれど、前世でも彼が自分の「拠り所」であったことは事実である。そう考えれば前世も今世も、結局のところ鯉登音之進という存在に支えられている点で同じではないか? 月島はそんなことを考えていた。
ただひとつ違うとすれば、月島自身が鯉登を支えているか否かである。が、推し活だって、「財力」でもって立派に推しを支えることができる。特にそこそこ稼いでいる独身サラリーマンというのは、数多いるファンの中でも非常に強力な支援者だ。月島はいわゆる「太客」として、鯉登のグループを支えていこうという気概を持っていた。
そんなわけで、優れたコンテンツにきちんと対価を支払うという清く正しい推し活に勤しんでいた月島基だったが、ある日、先日購入したアルバムの特典を整理していたところ、「ツーショット撮影会応募券」が封入されていることに気づいてしまった。
「ツーショット撮影会……?」
意味がわからずネットで検索してみると、それはどうやら好きなメンバーをひとり選んでツーショット撮影ができるイベントらしい。もちろん倍率は高く、簡単には当選できないようだったが、ファンからすればメンバーと密に交流できる非常に魅力的な企画だった。
実際に参加したことがあるファンのブログを読みながら、月島は思わず手のひらで口元を覆う。これは紛れもなく、もう二度と画面越しでしか会えないと思っていた彼にもう一度近くで会えるチャンスだった。鯉登がもし自分と同じように記憶を持っていたら、それはきっと感動的な再会になるだろう。
「いや、でも……ダメだよなぁ」
前世の恋人だなんて、所詮は月島の頭の中だけの話で。鯉登本人が何も覚えていなければ、これは気の触れたストーカーの妄言にも等しかった。
「せめて善良なファンでいたい」
ただでさえ大多数が女性ファンの中で、自分は浮いてしまうこと間違いなしのおっさんだ。彼に迷惑はかけたくなかった。節度を持って活動を見守るファンでいたい。当然、もう一度恋人になりたいなんて思っているわけじゃなかった。彼がプライベートで何を食べ、どこへ行き、誰と遊び、誰を愛しても——それでも自分はステージに立つ彼の姿を、大事に愛している。いつまでも輝く一番星のような姿を見せてほしいと願っていた。
ではいったい、そんな自分といわゆる「普通のファン」とを違いたらしめるものはなんだろう。もし鯉登に記憶がなければ、彼にとって自分は単なる男性ファンのひとりになる。「応援しています」と純粋な気持ちで伝えて、写真を一枚持って帰るだけだ。彼に必要以上の接触を迫るわけじゃない、身体的な距離だってしっかり取るつもりだった。それが本当に——本当に、いけないことだろうか?
もしオトに「日頃の活動で元気をもらえている」と伝えたら。オトが、もし鯉登閣下と同じパーソナリティを持っているとしたら。想像ではあるが、彼はきっとファンから与えられるまっすぐな思いを喜び、真摯に向き合ってくれることだろう。相手がおっさんファンであっても、たぶん。
——だったら、自分にも参加する資格はあるのではないか。月島にはそんな思いが沸々と湧き起こっていた。
「それに、応募したってどうせ当たるわけない」
撮影会の枠は各メンバーたったの二十人だった。倍率は数千倍、あるいは数万倍かもしれない。くじ運のない自分が応募したところで、きっとサイレント落選するだけだ。
「は? 当選……?」
悩んだ末に期日ギリギリに応募してから数日後、月島のもとには見事当選メールが届いていた。新手の詐欺かと何度もメールを見返したが、撮影会の会場もきちんと記されたそれは紛れもなく本物だ。
「本当に会えるのか、オトに?」
未だ実感が湧かない中、月島はハッとする。そうだ、鯉登閣下はあの時代に珍しいほど美意識の高い男だった。二週間後の撮影会までにこちらも身だしなみを整えておかなければ、彼に「汚い顔しおって」あるいは「汚い格好しおって」などと思われかねない。
「服、髪……スキン、ケア……?」
何が必要だろうかと指折り数えて実践しながら、月島は慌ただしくも待ち遠しい二週間を過ごすこととなった。
結局のところ、人間はたった二週間でイケてる髪型にできるほど髪が伸びるわけでもなく、服のセンスが磨かれるわけでもない。大事なのは清潔感だと自分に言い聞かせながら、月島は自分にできる範囲の努力をすることとなった。撮影会当日の朝、いつもより丁寧に髭を剃り、よくわからないままにドラッグストアで買った保湿剤をカサついた頬に塗る。トレードマークの坊主頭は昨日刈り上げたばかりで、毛並みは整っていた。服は、迷った挙句にセブンスターズの公式グッズである黒のフーディを身に纏う。これならセンスとかそんなものは関係ないし、何よりグループへの愛が伝わるだろう。我ながら最適解に辿り着いたと満足しながら、月島は家を出た。
だが会場についた月島は、あまりの肩身の狭さに鍛え上げた身体をぎゅっと縮こまらせることになる。なんせ会場が本当に女性だらけだったからだ。当たり前といえば当たり前で、もちろんそんな想像もしていたが、実際に着飾った女性たちに囲まれるこの現実はなかなかパンチが強かった。
——気まずい、早く帰りたい。
鯉登に会う前からそんなことを考えるのもいかがなものかと思いつつ、それでも月島は、まずこの若い女性たちに不快感を与えないようにせねば……などと撮影会とは別の方向で気を揉むことになった。
とはいえ身分証を見せてから当選したメンバーの待機列に並び、撮影会開始のアナウンスがかかると空気は一変する。女性たちも、そしてもちろん月島自身も考えるのはただひとつ、推しのことだけだった。
——この列の先に、オトが、鯉登閣下がいる。
順番が目前に差し掛かってようやく、彼に会う実感が湧いてくる。すると同時に、ドッと不安が押し寄せた。あれ、俺いったい何を言おうとしてたんだっけ。というかもし向こうに記憶があったらどうすれば……いや、そんなわけないか。だって昨日初めて知ったが、事務所の社長は、あの人で——
「次の方」
係の案内が聞こえてきて、月島は覚悟を決めて一歩踏み出す。間仕切りを越える瞬間、幾度となく戦場で生き抜いてきた自分が嘘みたいに、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。
そうして仕切りの向こう側で待ち構えていた彼と視線がかち合った瞬間、彼は微かに表情筋を動かし、他所行きの笑みを浮かべる。
「初めまして」
——ああ、そうか。やっぱり記憶はなかったか。
そう確信した瞬間、月島はいい意味で吹っ切れたような気持ちになった。これで自分は思う存分、安心して彼のファンをやっていける。
「珍しいな、男性ファン。今日初めてだ」
「はい。おかげさまで、さっきまで相当浮いてました」
「ふふ、面白い。名前は?」
「月島です」
「月島、ポーズどうする?」
オトは新曲のMVで着ていた衣装を身に纏っていた。よく見ればうっすらとメイクもしているようで、整った顔の陰影がより際立たせられている。
「オトさんはサムズアップしてください」
「わかった」
そうして隣に立った月島は、手でハートマークの片割れを作った。彼はネットミームとして有名な「アイドルとハートマークを作ろうとして失敗したおじさん」を再現したかったのだ。ポーズを考えていた際に例の写真をネットで見つけた月島は「どうせおじさんなのだから、いっそウケ狙いに走ったほうがキモくないのでは?」というなんとも不健康な理由からこのポーズを選んだ。だが実際にできあがった写真を想像してみても、なかなかユーモアある仕上がりになりそうでこれはこれで良い。
良心的なこの撮影会は、スマホとチェキの二種類のツーショットを撮ってくれる。そのあいだ月島はいつもの仏頂面でレンズを見つめて、ひとりハートマークを作り続けた。オトと肩が触れそうなほど近い距離であることを、極力意識しないようにしながら。
撮影が終わると、少しだけオトとの歓談タイムが設けられる。だいぶ距離の近かった写真撮影から一転、月島は彼と適切な距離を取ろうとして一歩後ろへ下がった。
「いつも応援してます。新曲かっこよかったです」
「ありがとう。男性ファンは少ないから、そういってもらえて嬉しい」
「ライブも絶対行きます」
「うん、そのうちツアーも始まるだろうから。楽しみにしててくれ」
そこでスタッフから「終わりです」と声がかかる。「またな」と手を振るオトに会釈して、月島は名残惜しい気持ちのままブースを後にしようとした。
するとそのとき、彼はふと思い出す。——「男性ファンは少ない」と言ってたが、そういえば俺の後ろも男のファンだったな。
そうして後ろ髪を引かれたように(坊主頭なのはさておき)、月島は振り返ってしまった。わずかながらに、オトが他の男性ファンの前でどんなふうに振る舞うのかという好奇心も持ち合わせていた。
だが振り返った次の瞬間、月島は大きく瞠目する。男が突きつけた刃物の先が、反射的にのけ反ったオトの滑らかな肌を、左の頬骨に沿って切り裂いた。一瞬のできごとがまるで永遠のように感じられる中、月島は脇目も振らずに走り出す。
「——にやってんだ、クソが」
気づけば自分の足が、男の手を高く蹴り上げていた。そのまま横っ面を殴り相手が怯んだところで、相手の脚を掬うように自分の足をかけて地面に押し倒す。男に馬乗りになって首を絞めたところで、月島はようやくひと息つくに至った。しかしハッと視線を移した先のオトの足元には、鈍く光を放つナイフが血痕とともに落ちている。見上げると、彼の頬からは生々しく血が流れていた。
「オトさん、逃げてください」
だがオトは呆然と立ちつくしたまま、じっと静かにこちらを見つめていた。きっと恐怖と驚きで、身体が硬直してしまっているのだ。だがいつ男が反撃するとも分からない。もうひとつ武器を持っていれば、自分が先に死ぬ可能性もある。もしそうなったら、彼を守りきれない。
「逃げろ‼︎ 早く‼︎」
腹にありったけの力を込めて叫んだところで、オトは正気を取り戻したように目の色を変えた。ああ、きっともう大丈夫だ。急いでバックヤードへ引っ込む彼を見守りながら、月島は周囲に指示を出した。
「スタッフ、こいつを押さえるのを手伝ってくれ! あなたは警察に通報して」
そうしてオト同様硬直しきっていたスタッフたちがようやく動き出したところで、月島は安堵のため息をつく。趣味が筋トレと格闘技であったこと、そして前世が軍人だったということに、これほど感謝した日は未だかつてなかった。ただしオトの頬に滲んだ血の痕に、一抹の後悔も覚えていた。
結果的に、月島はたったひとりで鯉登に襲いかかった暴漢を制圧してしまった。そうして駆けつけた警察によって事情聴取を受けたのち、その日現場にいた一番偉いスタッフが出てきて月島に頭を下げた。
「本当にありがとうございました。オトもあなたに非常に感謝にしております。しかし申し訳ございませんが、安全のために彼本人をこの場に呼ぶことはできなくて……」
「当然です。オトさんには心と身体をゆっくり休めてもらってください。顔の傷も、早く治りますように」
それだけ告げて、あっさりと帰宅する。そんな月島の胸を占めるのは、「なんとか命は守り抜けた」という安堵であった。
事件はのちにニュースになり、ひとりの男性ファンがオトの窮地を救ったと大々的に話題になった。SNSでは若い女性たちが「お兄さんオトの命を救ってくれてありがとう」という涙の絵文字付きの投稿が散見された。だがSNSでのファンダムに疎い月島は、その事実をほとんど知らないまま、また元の生活へと戻っていった。
暴漢がオトを襲った例の事件は連日ニュースで報道され、月島も仕事の合間を縫ってはそのニュースをちまちまチェックしていた。そうして今日ついに犯人の動機が報道され、「フラれた元カノが夢中になっていたのがオトだった」ことから恨みを募らせたのが原因だったとわかり、月島は朝からやるせない気持ちで出勤するはめになった。
自分に振り向いてくれない相手がいたとして、その人の好きなものに嫉妬して誰かを傷つけたってなんの意味もない。傷つけられたその人にだって、大切な人がいる。オトさんの家族や、俺のようなファンがどんな思いで彼を心配して、不安になったか。そんなこともわからない愚か者が憎かった。
それに自分がもう少し早くあの不審な男の存在に気づいていれば、彼の綺麗な顔に傷は残らなかっただろう。前世と同じ場所についた生々しい向こう傷。今世の眩い彼には、一生そんなものは必要なかったはずなのに——
「オトさんを守りきれなかった」という不甲斐なさが、犯人への恨みと同じくらい、月島の中に鬱屈と溜まっていく。だがそんな思いを抱えながらも訪問した客先では、意外なほどスムーズに商談が進み、受注もほぼ確定というところまで話が進んでしまった。悪いことがあれば、いいこともある。月島は「オトさんにとっても、今日がそんな一日であってほしい」と願いながら、客先のビルを出て街を歩いていった。
新録の眩しい季節は、外を歩くのも気持ちがいい。月島は外出の合間のちょっとした気分転換が好きだった。穏やかで、平和で——そうして元来、自分はこういう素朴な暮らしのほうが向いているのだと気づかされる。オト——いや、鯉登閣下にもそう言われたことがあった。晩年になって、質素な家にふたりでこぢんまりと暮らしてようやく「いまの月島が一番幸せそうに見える」と彼は微笑んだ。そうして彼自身もまた、元来争いごとが好きな質ではなかったように思う。平和な世に生まれたなら、軍人という道は選ばない。そんな彼の選択に、妙に納得している自分もいた。
さて腹も減ってきたし、そろそろどこか飯屋でも探すか、と思ったときだ。
「待ってくれ」
突如、すれ違いざまに若い男から腕を掴まれる。ぎょっとして男を見やると、彼は目深に被った黒いバケットハットにマスクという怪しさ満点の出で立ちだった。「不審者だ」という思いが込み上げ、手を振り払おうかと思ったそのときだ。
「月島だよな?」
その声が、彼が何者であるかを物語っていた。そうして黒いマスクを外した下から覗いた顔は、頬に貼られた絆創膏をもかき消すほど美しく光り輝いている。——うわっ、オトだ。本物の鯉登音之進だ。そう思った瞬間、全身からドッと汗が吹き出し、初夏の気温と相まってだらだらと背中やこめかみを伝っていった。
え、なんでこんなところに? いや確かにこの辺は芸能事務所も多いと聞いたことはあるが。というか俺の顔と名前、覚えて……いやそもそもあんな事件があったばかりで、自分からおっさんファンに声をかけてくるなんてちょっと無防備すぎないか? この人は昔から人を信じやすくて警戒心が薄いところがあった。こちらが適切な距離を保ってやらねば——
結論からいえば、月島は他人のフリをすることに決め込んだ。
「いえ、人違いでは?」
「な、そんなはずはない! 数少ない男性ファンで、なおかつ命の恩人を見間違えるわけないだろう!」
「あ、すみません。電話がかかってきたので」
といってスマホを取り出し、そのまま話すフリをして駅まで逃げてしまおう。そう思った月島は、ビジネスバッグを漁りはじめた。だが先ほど客先に出向いた際にPCや資料を雑に突っ込んでしまったようで、スマホがなかなか見つからない。
「なあ、月島ぁん! どうして嘘をつく?」
そのときようやく指先が硬質ケースに触れた。「あった!」と大声を出しながら勢いよくスマホを引き出すと、同時に小さくてふわふわしたものがカバンからぽろんと飛び出す。
「ん?」
「あっ……!」
オトの足元に転がったそれを、彼が優しく拾い上げた。
「これは……クズリちゃんじゃないか」
それはオトを模した動物のキャラクターである「クズリちゃん」のマスコットぬいぐるみ(Sサイズ)であった。当然そんなものを持ち歩いているのは、オトの熱心なファンくらいである。
「貴様、やはり嘘をついたな?」
「いいえ」
「じゃあこれはなんだ?」
「……彼女が、ファンで」
苦し紛れの嘘をつきながら、月島はそっと視線を斜め下へと逸らした。
「いくら彼女がファンでも、自分のビジネスバッグに入れて持ち歩くやつはいないだろう。私のファンは大抵『クズリちゃんを仕事中に眺めて元気をもらってます』というんだ」
「……ええ、間違ってません」
「だろう?」
にやりと笑ったオトの顔は、にゅっと不自然に口角が上がっていて変顔みたいだった。なんだか煽られているような気がして、月島は推しアイドルの前だというのにぎゅっと眉間にシワを寄せてしまう。
「あの、それ……返してくれませんか」
「残念だが返せない」
「そんな」
「私の礼を受け取るまではな」
「……え?」
「この時間なら昼はまだだろう? 奢ってやるからついてこい!」
クズリちゃんのぬいぐるみを高く掲げつつ、オトは、まるでドラクロワの絵画みたいに前へ前へと進んでいった。月島は「面倒くさいことになった」と頭を抱えながらも、仕方なくあとをついていく。今世では彼に深入りするつもりなんてなかったのに、クズリちゃんを落とすなんてヘマをしたばかりに……。
ひとり肩を落とす月島は、そのときオトの仕立ての良さそうなシャツの後ろ姿を見つめて、はたと思い出した。——あれ? そういえばオトさんの実家は今世でも裕福で、確かお父様が社長だったような……?
あくまでネットの情報ではあるが、ファンのあいだではオトが「お坊ちゃん」であることはどうやら有名な話のようだった。
そうして「もす」と威厳深く呟く彼の父の姿を思い出しながら、月島はだんだんと青ざめていく。え、まさかとんでもない高級店に連れていかれたりしないだろうな? オトさん芸能人だし、個室の小洒落た料理屋でランチコースひとり二万とかだったらどうしよう——と思ったそのとき、「着いたぞ」と快活な声が聞こえる。
すると目の前にはいかにも高級そうなビストロ——ではなく、よくあるチェーンのサンドイッチ屋があった。緑と黄色の鮮やかな看板が眩しい。
「ここ、よく来るんだ」
「はあ……年相応で安心しました」
「む?」
「いえ、なんでもありません」
聞けば、やはりこの近所に彼の事務所があるという。それゆえ練習の合間に買いに来たり、事務所に寄るついでに昼食を取ってみたりと週一ペースで訪れているそうだ。しかもオトだけではなく、同じグループの他メンバーや、近所の他事務所のアイドルたちも御用達らしい。
——だから、そう易々とファン(しかもおっさん)に個人情報を喋るんじゃない……! 俺がもしストーカーだったり、SNSで拡散するタイプの節度ないファンだったらどうするつもりなんだ。
月島がやんわり「ファンに自分の出没情報を与えないほうがいいですよ」と窘めると、オトは「だが月島が私の行きつけの店まで追っかけてくるとは思えない」と余裕ありげに眉を釣り上げた。それは確かにそうである。だって自分は、嘘をついてまでオトから逃げようとしたのだから。聡い彼は、きっとその態度まで織り込み済みでこんな話をしたのだろう。
さてサンドイッチの注文へと移ったが、月島にはこの店のシステムがさっぱりわからなかった。もっぱら米派で、ファストフードは食べてもせいぜいハンバーガーぐらいな月島は、この店に来るのが初めてだったのだ。
「よくわからないので、同じの頼んでもらえますか?」
「じゃあエビアボカドと、あんこのやつも食べよう」
「あんこのやつ?」
よくわからないが、あんことマスカルポーネチーズがパンに挟まったデザートがあるらしい。それはちょっと美味そうだ……などと思いつつ、慣れた様子で店員と会話するオトを観察する。ああそういえば、昔もこうして彼についていっては、鶴見中尉にお出しする甘味を買ったりしたものだ。もしかすると、いまも彼があんこを好きなのは鶴見中尉の影響があるのかもしれない。俺だって、生まれ変わっても米が好きなのは変わらないし。
「あ、支払いは俺が」
そうして支払いに差し掛かったところで、月島は自分の財布を取り出した。なんだかんだいっても年上の自分が彼の分まで——と思ったところで、目の前のオトがさっとカードを取り出す。
「私が払うといっただろう? それともクズリちゃん、もういらないのか?」
脳内で、クズリちゃんが「月島ァ」とぴいぴい泣く。月島はそっと財布を下げながら「ありがとうございます」と深々頭を下げた。
「礼を言わなければならないのはこちらのほうだ、先日のことは本当に感謝している。取り急ぎのお礼がサンドイッチで忍びないが」
サンドイッチを齧る合間に、手を止めつつ彼はそう告げた。月島は「オトさん」と呼びかけたが、混み合った店内を見渡し既のところで思いとどまり、「鯉登さんと呼ばせていただきます」と付け加えて話し始める。
「サンドイッチで充分です」
「実は父も『もし庇ってくれた人を見つけたらお礼を』と言っている」
「そんなの頂けませんよ。サンドイッチだけで充分ですから」
「謙虚なやつだなあ」
「父は『庇ってくれた人にいくら出したっていい』と言っているのに」と唇を尖らせた鯉登を横目に、月島は無表情のままサンドイッチに齧りついた。酸味の効いたドレッシングが、鼻の奥をツンと刺激する。
「……私は、見返りのためにあなたを助けたんじゃありません。ファンとしてあなたを守りたかっただけです」
「しかし一歩間違えたら、月島が刺されていたかもしれないんだぞ」
「そんなことを考えてる余裕はありませんでした。気づいたときには、身体が勝手に動いていて」
かつて彼とともに戦場に身を置いていたときからずっと、月島の行動原理は「本能」だった。理性で何を思い何を考えていても、身体は彼を守ろうと勝手に動く。例えそれが、鯉登の意に反する形であったとしても。
「……自分の身を大事にせぇ」
優しさと、どこか不満も孕んだようなその声に、月島は静かに「はい」と頷く。そうしてふたりしてコーヒーを飲んだところで、鯉登はふと思い出したように「あ」と呟いた。
「ところで月島、連絡先交換しよ」
「ん、ぐ——っ」
そのとき喉奥にカサついたパンが詰まって、月島は息苦しさから自分の胸元をドンドン叩く。鯉登にアイスコーヒーを飲ませてもらって、なんとか一命を取り留めた。
「っ、あんたねぇ、ファンと連絡先を交換なんて」
「うちのグループのチケットが高倍率なのは知ってるだろう?」
「……それが、どうしたっていうんですか」
「VIP席に招待してやる」
ドヤ顔でこちらを見つめる鯉登に、月島は首を横に振りながら告げた。
「結構です、俺は自引きしたいタイプなので」
「ふん、釣れないやつだな……だがいくら頑張っても、取れないチケットはあるだろう? ライブだけじゃなくて、ツーショット撮影会、サイン会、ファンミーティング、番組収録の観覧、急遽日程が決まるような特殊なイベント」
「いいんです、別に。俺はそもそも全通を目指していませんから。仕事も忙しいですし、休みも融通が利くわけではないので」
「む〜……私と連絡先を交換すれば、父からの礼だって受け取ることができるんだぞ? その金でしばらく遊んで暮らしながら、私のライブを追いかけて全国を飛び回ったら一石二鳥ではないか」
「先ほども言いましたが、それを受け取るつもりはありません」
というかこの親子は、俺なんかのためにいったいいくら払うつもりなんだ……と、月島はげんなりした顔で嘆息した。
「じゃあもう、チケットも父のお礼のこともどうでもいい。私と友達になってくれ!」
「絶対嫌です」
「ないごてぇ!」
ぐんにゃりとイスにもたれて仰け反る鯉登に、月島はとつとつと語りかけた。
「もし俺が悪い男だったらどうするんですか。あなたを刺したやつみたいにストーカーになって、ある日突然あなたの家に押しかけたりするかもしれないんですよ?」
「たかがメッセージアプリだぞ? 住所は教えん」
「でも、おじさん構文のメッセージが届いたりするかもしれないじゃないですか」
「それは面白いから平気だ」
「……じゃあ友達だっていうなら、俺が食事に誘っても来てくれるんですか?」
「誘ってくれるのか? 月島の行きつけの店も教えてほしい」
「今日は私の行きつけを教えたからな」と自慢げに鼻を鳴らした鯉登に、月島は深いため息をつく。
「とにかくな、私はお前になんらかの形でお礼がしたいんだ。月島は私にとって、もう単なるファンではないから」
月島は思わず目を丸くする。揺らいではいけない心の奥底の地盤が、その言葉にぐらりと振れてしまった。
そうして鯉登はまっすぐに、月島を見据えて告げる。
「月島は、私の命を救ってくれた特別なファンだ」
ほんの少しだけ、「ファンではない」という言葉を期待していた心が、その瞬間見事に打ち砕かれた。——ああ俺は、なんて愚かな人間なんだろう。もう二度と眩しいあなたに触れることは叶わないと、何度も何度も自分の頭に言い聞かせてきたはずなのに。
「やっぱり、連絡先は……」
「じゃあどちらか選べ。いまここで連絡先を差し出すか、それともクズリちゃんを見殺しにするか」
鯉登は高級そうなバッグからクズリちゃんを取り出すと、それをむんずと握って月島に見せた。
「キェェェ! 助けてくれ〜、月島ァ!」
ヘタクソなアテレコをしながら、鯉登はクズリちゃんを左右に振る。鯉登の指でギチギチに締め上げられたクズリちゃんは、どことなく息苦しそうに見えた。
そうして鯉登を見やると、彼も眉根を寄せてなんともいえない寂しそうな顔をしている。なにもこんな表情をさせたくて、連絡先の交換を渋ったわけではないのに。
「鯉登さん、クズリちゃん返してくれませんか?」
唇を噛んだまま、濡羽色の瞳がゆらりと揺れた。——ああやはり、俺は彼の太陽みたいな笑顔を見ていたい。
「連絡先、交換しますから」
「……まこち?」
「ええ、QR読み取ってください」
メッセージアプリを表示させたスマホを差し出すと、彼はぱっと笑みを溢す。
「あいがと、月島ぁ!」
そうして月島の連絡先にも「音之進」が加わったところで、鯉登は「乱暴にしてすまなかった」とクズリちゃんを返してきた。
「いつもクズリちゃんを持ち歩いて、大事にしてくれてありがとう」
「いえ。こちらこそ素敵なグッズをありがとうございます」
「このどうぶつシリーズのグッズはなぜか人気があるんだ」などと話しながら、ふたりは食べ終えた包み紙をまとめて席を立った。そうして店を出ると、「これから事務所の練習室に行くから」と鯉登が手を振る。
「またな、月島!」
推しアイドルと一緒に昼食を食べてから会社に戻るなんて、まったく変な気分だ。しかしまだ夢を見ているみたいだと思っている月島のスマホの中には、クズリちゃんのアイコンをした「音之進」の連絡先がしっかりと入っていた。
* * *
子どものころから、なにをやっても抜きん出ていた。
「次、Bメロから振り確認します。ファイブ、シックス、セブン、エイト——」
身体を動かすのは得意で、かけっこはいつも一番。運動会で保護者のどよめきが聞こえてくるほど足が速かった。勉強も得意で、テストはいつも百点。仕事で世界を飛び回る父についていき、現地の学校に通って英語も習得した。
「ここの主旋律はオトが歌ってみて。……うん、いい感じ。高音も外さずよく出てる」
ピアノを始めたのは、母の勧めだ。おかげで歌うために必要な音感が身についた。他にも習いごとは数えきれないほどしてきた。剣道、サッカー、水泳、体操、絵画、そろばん、習字、その他いろいろ。そしてやってみればどれも、人並み以上に上達した。しかしどの習いごとも、バレエに始まり、ジャズ、ヒップホップへとたどり着いたダンスに勝るものはなかった。自分は競技として身体を動かし誰かと競うより、表現として身体を動かし誰かを魅了するほうが、どうやら楽しく感じる性分だったのだ。
「音は、音が好っなことをやりやんせ」
「音は、音じゃっで」
そんなふうに言ってくれる両親も兄も、本当に愛情深い人たちだと思う。それに加えてお金に困らない家に生まれたことが、世間一般と比べて非常に恵まれたことだと理解していた。
けれど思春期に差し掛かったある日、気づいてしまったことがある。
「平之丞、次ん出張には先方ん重役が……」
何をやっても抜きん出ていたはずの自分が、それ以上に優秀な兄には一生追いつけないという事実だった。父が自分に「好きなことをしなさい」と言い聞かせてきたのも、裏を返せば「期待がない」ことと同義だったのだ。兄は生まれたときから「鯉登家」を背負い、そしてそれを負い目に感じることもなく、まっすぐと、どこに出しても恥ずかしくない好青年へと成長していた。一方十三歳年下の弟である自分は、いわば「鯉登家のおまけ」のようなものだ。家族に愛され、可愛がられているのは充分わかっていたが、それでも思春期の心が「自分はいったい何のために生まれてきたんだろう」と悩みはじめるのを止めることはできなかった。
そんなある日のことだ。父の友人であり人気歌手である「鶴見篤四郎」のライブを観に行くことになった。初めはまったく乗り気でなく、しぶしぶ父に連れられての参加だ。「人気歌手といったって、どうせ大したことないんだろう」なんて生意気だった十四歳の自分は高を括っていた。だが彼が舞台に登場した瞬間、そんな穿った見方は一気に打ち砕かれることになる。
まず、纏うオーラが常人のそれではなかった。お世辞抜きに、いままで目にしてきた誰よりも光り輝いていた。たったひとりで舞台に立っているのに、その存在感は圧倒的だ。そして歌、ダンス、ピアノの弾き語りまで、どのパフォーマンスも「完璧」と呼べるレベルにまで仕上げられていて、一曲終わるごとに会場にいる全員がうっとりとため息をつく。公演のあいだ中、自分は幼いながらも「ものすごいものを見てしまった」という気持ちで胸がいっぱいだった。
そうして胸の高鳴りが治らないうちに、父が挨拶するためにバックステージへと連れて行かれる。そこで初めて、「鶴見さん」と対面することになった。
「鯉登社長、来てくださってありがとうございます」
ステージを降りてもなお光り輝いて見える鶴見の姿に、自分は思わず父の後ろへと隠れた。
「おや、そちらは息子さんですか」
「音之進ち申します」
父に紹介されて、一歩だけ前へ出る。
「さっきんステージ、感動しもした」
気恥ずかしさを堪えてなんとかそう伝えると、鶴見は「ありがとう」と優しく微笑んだ。
「実は音之進もダンスを習うてまして」
「父上!」
「へえ、それはそれは。もしよければ、ちょっと踊ってみてくれないかな?」
まさかの頼みに、手足にぎゅっと力が入る。
「えっ……」
「ほら、力を抜いて。いつものように。脱力した状態で踊るのが正しい姿だ」
緊張と、高揚と、そしてほんのわずかの認められたいという気持ち。それから根底にあるのは、見た人に楽しい、美しいと喜んでほしい心だった。
気づけば自然といつもの通りに身体が動いていた。腕も脚も自由に伸びやかに、けれど首の角度や表情など、細部にまで思考を巡らせながら——
「うん、ありがとう。いやこれは、想像以上の実力だ。筋がいい上に、よく練習してきたことが見てとれる」
まさかのお褒めの言葉に、思わず目を見開く。
「あいがとごわす」
「実は最近設立した私の事務所で、いずれボーイズグループをデビューさせたいと思っていてね。鯉登音之進くん、私のもとで腕を磨いてみるつもりはないかい?」
「……え?」
「いまはまだ粗削りなところもあるが、君の才能は磨けば光るダイヤの原石だ。いつかきっと、君のもつ輝きが私の戦力になるだろう。鯉登社長、ぜひ音之進くんを私の事務所に預けていただけませんか」
「いや、そげんこっをゆてん……ほんのこて音之進がアイドルに?」
「なれますとも。それも日本だけで売れるような並大抵のアイドルではなく、世界を狙うトップアイドルに。私が作りたいのは、世界を股にかけて活躍するアイドルグループです。そこで音之進くんの才能が必要になります。彼はダンス、容姿、そして歌まで、すべてが揃った一番星のようなアイドルになるでしょう」
鶴見との出会いが、鯉登に初めて「自分がこの世に存在する意義」を与えた。迷える思春期の心はその瞬間、道しるべを見つけたようにまっすぐと進み出す。
鶴見の事務所に入ることになった鯉登は、それから五年ものあいだ血の滲むような努力をした。グループメンバーの中でも最年少ながら「古参」となった彼は、鶴見のもとで鍛え上げた実力を武器に、いまでは曲のサビでセンターを任されるまでに成長している。まるで厳冬を耐え抜いた末に美しく咲き誇る木蓮のように、鯉登の華やかなパフォーマンスは多くの人を魅了していた。
だがいまでも、日夜練習は怠らない。仕事がない日や、あるいは仕事と仕事の合間であっても練習室に赴き、ダンスと歌の練習に励んでいる。時にはトレーナーをつけて指導を仰ぎ、足りないものを指摘してもらうこともあった。
今日はイレギュラーで、新曲の振り付けを振付師の先生に教えてもらったのちに、歌の先生に新曲のパート割りをしてもらった。ついこのあいだアルバムを出したばかりだというのに、もう次のシングルリリースが決まっているのだ。目まぐるしく移り変わる業界の動向に必死に食らいつき、そしてやがては自分たちがその動向を変えるくらいの影響力を持たなければならない。デビュー三年目というのは、そういう意味で非常に大事な年だった。決して大手とは呼べない事務所に所属しながらも、ようやくヒットチャートの一位を安定して取れるようになってきたことによって、最近徐々に世間の風向きも変わってきている。
あと少しで、自分たちは夜空に輝く一番星になれる。きっと世界でも脚光を浴びるグループになる。そのためにはもっと繊細に、そして大胆に、踊り続けて、歌い続けて、自分の限界を極めて限りなく「完璧」に近づけなければならない。——あの日見た、鶴見さんのパフォーマンスのように。
日中は先生から指導を受けて、夜には自主練を三時間。それでもまだ納得いく状態とは全然言えなかった。しかし一旦気持ちを切り替えようと思ったそのとき、自主練室の隅に置いていたスマホが光る。
「あ!」
休憩がてら覗きに行けば、案の定、昼間再会した「命の恩人」からメッセージが来ていた。
「ふふ、なんて書いてあるだろう……む? なんだスタンプ一個って。月島は本当に私のファンなのか?」
鯉登からすれば、命の恩人こと月島はなんだか変なやつだった。身を挺してこちらを庇ってくれたかと思えば、街中で声をかけても知らんぷり。クズリちゃんのぬいぐるみを大事そうに持ち歩いているかと思えば、連絡先の交換は渋る。そしてこちらから「月島、オトだ! よろしくな」とメッセージを送ると、そっけないスタンプ一個で会話を終わらせようとしてきた。
「ん〜……あ、こないだのツーショットを送るように言ってみよう」
先日月島が来てくれたツーショット撮影会は、チェキだけでなくスマホでも撮影している。鯉登は「一緒に手でハート作った写真送って」とメッセージを送信した。
返事はすぐに来た。だがそれは「一緒にハートって、なんのことですか?」という頓珍漢なものだった。
「あいつ……『一緒にハート作っただろう? ツーショット撮影会の時の写真だ』と」
「え? 俺、鯉登さんにサムズアップしてくださいって言いましたよね?」
「写真見返してみろ」
しばらくして届いたメッセージには「何が楽しくて俺とハートなんか……」という言葉とともに、月島と鯉登が手でハートマークを作っている写真が添えられていた。音之進は「ありがとう」と送りつつ、するするとスマホの画面に指を滑らせていく。
「だって月島の手は明らかにハートの片割れだっただろう? 本当はふたりでハートが作りたいのに、恥ずかしくて言い出せなかったのかと思ったんだ」
「いや、あの状態で正解だったんですよ! なにも男ふたりでハートを作った写真がほしかったわけじゃありません」
「別に男ふたりでハート作ったって変ではないだろう。男女問わず、他のファンから似たようなポーズを指定されることもあるし」
それにひと昔前に比べれば、男性が男性のアイドルを推すことだって一般的になってきている。そのあたりの感覚が少しズレている気がして、鯉登は思わず「月島は何歳なんだ?」と突っ込んだ質問をしてしまった。
「三十四ですけど」
「へえ、うちの兄と同じではないか」
「じゃあお兄さんにも聞いてみてくださいよ。男のファンと手でハートマークを作って写真を撮るのはどう? って」
鯉登は、画面を見つめて小さく嘆息する。
「……そんなに嫌だったのか、この写真が」
そのままメッセージを送ると、しばらくあいだを開けたのち、月島が真面目なトーンで返事を寄越した。
「嫌ではありませんよ。ですが心配なんです。ファンとの距離が近かったり、俺みたいなやつと安易に連絡先を交換してみたり。こんなことを繰り返していたら、いつかこないだみたいな事件がふたたび起きてしまうんじゃないかって」
そのメッセージに鯉登はつい「ふ」と声を漏らしてしまった。ああ、やっぱり月島はちょっと変わっていて、面白いやつだ。——彼は自分だけが「特別」だってことに、なぜだかちっとも気づいていない。
「月島だけだ、他の人にはしないから」
するとそこで、テンポよく返ってきていた返事が滞る。その隙に鯉登は、月島から送られてきた例の写真をひっそりとアルバムに保存した。自分と写る仏頂面のヒーローは、生真面目で実直で、おまけに少し心配性だ。そうして私のファンなのに、私に媚びるようなことは一切しない。その距離が不思議と心地よくて、彼とはやはりアイドルとファンというよりももっと別の——友達のような何かになれそうだと、さっきから鯉登の直感はそう囁いていた。
それからしばらく待っても返事が来なかったので、次のサイン会のチケットを融通してやるという話を送ろうかと思ったそのとき、月島から一通のメッセージが舞い込んでくる。
「頬の傷はまだ痛みますか?」
怪我をしてから三日、さすがにまだ痛みはあった。事務所にも「痕になったら大変だ」と事件後すぐ病院に連れて行かれ、単なる傷の治療以外に審美面でのケアもするよう言われている。鯉登自身はもし痕になってしまったとしても、自分自身はあまり気にならないような気がしていた。しかし一方容姿が重要な仕事であることも理解しているので、いつか絆創膏なしの顔を晒すことになったときのファンの反応が気になるのも事実である。
そのとき、もう一通メッセージが届く。
「お顔を守れなくて、すみませんでした。俺がもっと早く犯人に気づいていれば」
思わず目を見開き、じっと画面を見つめてしまう。
「月島のせいじゃない、気にしないでくれ」
そうして間髪入れずに、鯉登はそう返事をしていた。だって月島は全然悪くなかった。むしろあの場の誰もが唖然として動けなくなってしまった中で、彼だけが鯉登の無事を最優先に動いてくれた。その心が痛いほどわかるから、彼を責めようなんて気持ちは全く湧いてこない。
それよりも、ひとつ聞いてみたいことがある。
「もし痕が残っても、ファンでいてくれる?」
さて、なんて返ってくるだろう。
「もちろんです」
今度は月島から間髪入れずに返事がきた。それだけで、鯉登の心はぎゅっと暖かいもので満ち足りる。画面を見つめる顔からは、自然と笑みが溢れていた。
「ありがとう。ところで来週のサイン会だが、月島のことをねじ込めるかスタッフに聞いてみよう」
「必要ないです」
「ないごて〜!」
ああやっぱり、月島ってなんだか釣れないやつだ。と思っていた数日後、サイン会の会場には、なんと見慣れた坊主頭がいた。
「月島ぁ! いるじゃないか!」
「自引きできたので来ました」
意気揚々とサインしてやると、月島は心なしか嬉しそうに口元を緩ませる。ほんのわずかな変化だが、鯉登には普段の仏頂面との違いがありありとわかっていた。
「また……送るから」
「ちょっと、こんなところで。もう送ってこなくていいです」
「送るから、返事してくれ」
鯉登が頬の絆創膏を指差すと、月島はぐっと押し黙ってしまう。
「これからもよろしくな、月島」
その後も音楽番組の観覧、ミニライブ付きのファンミーティング、コラボカフェなどありとあらゆるチケットを融通してやるとメッセージを送ったが、月島はそれを全て袖にした。しかしイベントがあった日には必ず「行きました」という言葉とともに写真を送ってくれる。その塩対応とも甘対応ともいえない彼のリアクションがなんだかやみつきになってきて、鯉登はいくら誘っても月島が乗ってきてくれないと知りつつ、何度もイベントの誘いを持ちかけてしまった。
そんなある日のことだ。例の事務所近くのサンドイッチ屋の前で、たまたまばったりと月島に遭遇する。
「お、月島ァ! また会ったな」
鯉登が笑顔で近寄ると、月島は「まさかいるとは……」と後ずさる。なんだ、もしかして私のことを待ち伏せでもしていたのか?
「ストーカー行為は犯罪だぞ?」
「そんなわけないでしょう! 客先訪問の帰りですよ。あなたこそ未読のメッセージが十件溜まったら一旦追撃はやめてください」
「だって、月島そっけないから」
「仕事中は私用のスマホ見られないって言ったじゃないですか……」
「まあ、今日のところは一緒に昼食食べようじゃないか」
じっと彼の目を見つめてから軽く微笑めば、その瞬間、月島の圧がふっと和らぐのがわかる。——ああ、まったく面白い男だ。どれだけ意地を張ったって、本当は私のことが好きで堪らないくせに。
「行くぞ!」
背中を押すように店内に入ると、ちょうど聞き覚えあるBGMが流れてくる。
——見つけた、私の一等星。