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    yayosan_P

    @yayosan_P

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    yayosan_P

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    6年2か月ぶりの神速もふイベ、3年半ぶりの玄武くんと直央くんの共演、とても幸せでした。ありがとうございました。
    2019年1月に出した同人誌の全文です。玄武くんと直央くんが兄弟みたいに仲良くしていてほしい欲しかない作品です。
    10さんに描いていただいたイラストも是非見てください。
    https://twitter.com/yayosan_P/status/1335964737390006272

    #黒野玄武
    #岡村直央
    naoOkamura
    #SideM

    ふたり 歓声が身を包む。
     暗がりの客席を照らし出すサイリウムの光たち。思わずその輝きに目を奪われながら、黒野玄武は荒い呼吸を繰り返していた。やりきった。そんな思いが沸き上がる。

    「ありがとう、今日は最高のクリスマスだ!」
    「みなさんからのクリスマスプレゼント、しっかり受け取りました」
    「最後はみんなでしめようぜ、せーの……」

     メリークリスマス。曲を歌っている時とはまたちがった一体感と空気の振動が会場を包む。パンと小気味よい音が鳴り響くと同時に、クラッカーに見立てたキャノン砲から銀テープが舞っていく。
     また会いにきてくれ、俺たちも会いにいくから、またキラキラを一緒に見よう……。それぞれが口々に別れの言葉を発して、ステージ裏へと戻っていく。改めてライブが終了となった旨を告げるアナウンスが流れるその時まで、会場の歓声と拍手は続いていた。
     階段で待ち受けるスタッフたちに自身のマイクを手渡して、ライブを終えた仲間たちと手を取り合い、肩を組む。お疲れ、という言葉が自然と口を衝いて出た。

    「今日のみんなも最高だったぜ!」
    「お客さんも、みんなも、キラキラ! すっごく眩しくてきれいだった!」
    「はい、とても感動しました。……ボクも、ちゃんと会場を盛り上げられたのかな」
    「当たり前じゃん、自信もってよ、なおクン!」
    「立派な立役者だったぜ。中継越しの漣アニさんとの掛け合いも絶妙だった」

     スタッフから差し出された紙コップを手に、一足先に乾杯の音頭を取る。今日一日を振り返り、やれ誰の何が良かっただの、どうしたパフォーマンスが盛り上がっただのといった話で盛り上がった。じきに別会場で行われていたライブのメンバーたちとも合流し、互いの功績をたたえあう。いまだに、自分の身体と心があの会場のステージの上に取り残されているような、そんな浮ついた高揚感が抜けないままだ。それはきっと玄武だけでなく、この場にいる多くの人が同じなのだろう。頬を赤らめ、普段よりも饒舌に、それでいて熱の籠った言葉が空間を次々飛び交っていく。
     白熱していく会話から、ほんの少しだけ距離を取った。玄武とは違う理由だろうが、同じように輪から外れた人影をみつけたせいだ。とはいえこの場を離れるでもなく、元の立ち位置からほんの半歩だけ後ずさっただけではあるのだが。たったそれだけでも、耳に入る音はずいぶんと変わっていく。

    「……さっきも言ったが。直央はよく頑張っていたぜ」

     手を差し伸ばし、その頭の上に置く。それから少し屈んで目線の高さを合わせてみせた。触れた髪は整髪剤と汗のせいでとても触り心地が良いとは言えなかったが、それにも構わず彼の頭をそのまま撫でる。自信無げな顔を浮かべていた少年、岡村直央は少しうつむいたまま、しかし先ほどよりもどこか表情を綻ばせて玄武の手のひらを受け入れていた。

    「ありがとうございます。これも、みなさんがボクの背中を押してくれたおかげです」
    「いいや、そいつは違うぜ。直央がこのライブを成功させようと立ち上がってくれたからこそ、俺たちがお前の背についていけたのさ。パーティ会場でもライブを盛り上げようと誰よりも真剣に考えて、悩んでくれただろう。それが今回の成功の秘訣さ。誇っていい」

     難しいかもしれないが、直央はもう少し自信を持っていいくらいだ。自分よりも頭数個分高いところからの優しい声に、今度こそ直央は破顔する。そこに突如として割って入ってきたのは橙色の頭髪の青年だった。見た目こそは幼く見えるが玄武よりは年上である。
     彼、蒼井悠介は玄武の顔と直央の顔を交互に見る。そしてにまりと、悪戯っ気のある表情を浮かべて笑ってみせた。

    「なになに、何の話。げんぶ、今度は監督じゃなくてなおクンを独り占めするつもりだったの?」
    「だから、独り占めとかじゃなくてだな……」
    「はは、でもいいんじゃないか? 玄武と直央は次の仕事のこともあるしな」
    「独り占め良くない、みのり、言ってた! でも良い独り占め、ある?」

     すぐさま天道輝、ピエールといった面々も、二人が作った小さな空間の中に足を踏み入れだす。人の輪が最初と同じくらいの大きさに戻ったところで、玄武が再び直央の表情を盗み見た。相も変わらず、どこか居心地悪そうな落ち着かない表情はそのままだ。だけれども先ほどのような影はない。そのことに玄武は胸をなでおろす。

    「もしかして、輝アニさんのところにも話がいっていたのかい」
    「プロデューサーから少し相談されていたんだよ。万が一があったら困るから、未成年者略取に該当しないかどうか確認してほしいとか、そういう話をだな」
    「手間取らせちまって悪かった。粉骨砕身、その分精いっぱいできることをやらせてもらうつもりだ。なぁ直央」
    「は、はい! 頑張ります!」

     次に顔を見合わせたのは、ピエールと悠介だ。この三人が何を話しているのか、なかなか話の尾が掴めないでいるようで、「みせーねん……」「りゃくしゅ……」と新たに聞こえた単語をおうむ返ししながら頭上に疑問符を浮かべていく。

    「ああ、実はだな……」

     流石にこのまま二人を置いて話を続けるわけにもいかないし、そう隠すような話でもない。玄武は彼らに向き合って事のあらましを話すべく、数日前の出来事へと思いをはせた。






      * * * * 




    「俺に、ドラマ撮影のオファー?」

     玄武が目を丸くしたのは、彼が『番長さん』と日ごろ呼び慕う、プロデューサーから伝えられた仕事の内容に関してだ。
     クリスマスライブを近くに控えた身。一大イベントを任されたのだから、と。新規の仕事の話は極力入れないようにするとプロデューサーからは元々言い伝えられていた。だというのに何故このタイミングで話が来たのだろうかと玄武が疑問に思っていれば、心を見透かされたようにして「ライブが終わってからの方が良いと思ったんですが。先方の熱意や返事の期限を考えたら、早いうちにお伝えして今後の予定を決めた方がよいかと思いまして……」との説明が入る。加えてオーディションの案内であれば丁重に断るつもりだったが、先方からはわざわざ名指しで『この役を神速一魂の黒野玄武に頼みたい』との依頼を受けたそうだ。それならば無下にするわけにもいかないという気持ちも理解ができる。
     しかし、と。玄武はちらりと視線を横に向けた。仕事の話となれば、玄武の隣には彼の相棒――紅井朱雀の姿があるのが常だ。だというのに今日はその燃えるような赤毛の姿は見えず、代わりに黒みのかかった深い青紫色の髪を持つ幼い子供が座っている。玄武と同じ315プロダクションに籍を置き、『もふもふえん』というユニットのセンターを務める少年、岡村直央だ。
     直央は若干十一歳ながらも子役としての芸能界キャリアが長く、玄武をはじめとした事務所の多くの人間にとっては大先輩に値する。ライブであれば同等程度の場数を踏んでいるものの、演技をはじめとしたほかの分野では直央の方が経験も知識も豊富に持っていた。玄武にとって、彼は年下の子供でありながらも十分な敬意を払うべき相手に該当する。
     そんな彼と一緒にこの場にいるというだけで、おおよその事情は察せられた。

    「オファーは直央にも来ていたのかい」
    「そうなんです、直央には先に資料を渡して、確認をしてもらっています。ああ、そうだ。玄武さんもこちらをどうぞ」

     たしかによく見れば、直央の膝元にはわずかに厚みのある紙の束が重ねられている。真剣な顔立ちで書かれた文字を眺める直央の姿をいつまでも見ているわけにもいかないだろう。礼もそこそこに、玄武もまたプロデューサーからあずかった書類――俗にいう企画書へと目を通す。
     表紙に大きく印刷された番組ロゴには見覚えがある。一年ほど前に放送された、大衆からの人気が非常に厚かった医療ドラマだ。放送終了直後から続編を望む声が多くあがっていたと聞いていたが、視聴者たちがかつて抱いた夢がかなう瞬間が遠からずやってくるのだろうか。
     概要へと目を通せば、当時のキャストやスタッフの参加がすでに決まっていると分かる。放送は来年の夏。ちょうど半年ほど先のことだ。クリスマスだけでなく年末年始の仕事にも追われている身からすると、随分と先の予定になるだろう。
    この時点で玄武にとって不思議だったことが一つある。それは『どうして前作に登場していない俺たちにこんな話が』、という疑問だった。
     玄武と直央に求められている役柄についても、この資料には記されている。物語全編で活躍するような人物ではなく、ほんの数話にだけ登場するような役どころだ。どちらも同じ姓を冠しているところをみるに、おそらく兄弟役となるのだろう。
     作品全体を見れば出番こそは少ないが、それでも視聴者に大きな印象と衝撃を残すに違いない。そう思えるような設定を秘めた人物像だった。まだ本決定しているわけではないものの、登場人物たちの心情を大きく揺るがすことになるだろう彼らの運命の行き先を目で追っていく。
     なおもページを捲っていくうちに、ようやく玄武は合点がいった。最後に記されたスタッフ一覧の中に玄武が見知った名前を見つけたのだ。過去に彼が主演を務めた映画で、監督として現場を指揮していた人物がこの作品に携わっている。ならば、わざわざ玄武宛てにこうしたメッセージを残したことにも納得ができた。玄武の記憶が正しければ、この監督はもふもふえんが出演した映画にも一枚噛んでいたはずだろう。

    「クリスマスや年末年始もそうですが、春先にだってライブが控えています。ですが……今からスケジュールを組んでいけば、撮影やほかの仕事には支障が出ないと判断しました。お二人さえ問題なければあとは直央の保護者からも許可をいただいて、それから先方まで返事をする予定です」
    「俺は問題ないぜ。この監督からは結構しごかれた記憶があったんだが……それでも、こうしてもう一度作品に出てほしいだなんて評価を貰えていたのはまさしく感慨無量。寄せられた期待にはきちんと応えたいからな、むしろ是非ともやらせてほしい」
    「ボクもおんなじ気持ちです……! お母さんにも今度相談してみますね。この企画書って、家まで持ってかえっても大丈夫ですか?」
    「これは社外持ち出し禁止だから、直央には別に保護者宛ての資料と契約書を預けるね」

     あとの細かい作業は自分にまかせてくださいと言わんばかりに、プロデューサーは勢いよく自身の胸を叩く。その姿を視界に収めながら、玄武と直央は二人で顔を見合わせ、そうして小さく笑ってみせた。
     こうと決まれば早速資料を用意してきます、と足早に部屋を立ち去るプロデューサーを見送った後、位置のずれた椅子の存在が気になって立ち上がる。キャスター付きのそれを元の定位置まで戻しながら、「それにしても」と玄武はつぶやいた。独り言のような声量だったが、きちんと音を拾った直央がじっと玄武の姿を捉えている。

    「俺と直央が、兄弟か」
    「ちゃんと演じられるか、すごく不安ですけれど……でもボク、しっかり頑張りますね」
    「心配なのは俺の方さ。実在していて文献がしっかり残っているような人物であれば、背景も想像しやすいし演じようがあるんだが。海賊映画の時にも痛感したが、まるっきりオリジナルの人物っていうのはどうにも情報に乏しくて人物像を練るのが難しい。直央の方がその点は経験豊富そうだからな、ぜひとも指導と鞭撻を賜りたいもんだ」
    「いえ、そんな、ボクは……」

     言うなり、言葉を詰まらせて直央が黙り込む。自信のなさが起因して語尾が尻すぼみになっていくことは、直央にとってさほど珍しい姿ではない。お前なら大丈夫さ、自信を持てと、その背中を軽く叩いて励ましたい気持ちに駆られたのだが。彼に歩みよったところで、その不安の出所が玄武の想像していた場所と違うところにあるのだと気が付いた。
     うまくいかないかもしれない。そうした後ろ向きな気持ちとはまた違った感情だ。未知への恐怖と戦うような、表情の強張り方。玄武の目にはそう映る。

    「……何か引っかかるところでもあるのかい」

     わずかに青みがまさっている紫の瞳は、じっと一点、先ほどの企画書の人物欄に向けられている。直央の言葉の続きを待てば、「お兄さんがずっと一緒にいてくれる、この子の気持ちがよく分からないんです」、と告げられた。

    「子役としてのお仕事も、声優としてのお仕事も……だれかを演じる仕事っていうのは、何度もやったことがあります。そういう時に悩んだら登場人物の気持ちになりきるために、その人を身近な人に置き換えてみるんです。たとえばお母さんのことが大好きな子だったらボクもお母さんのことを考えてみたり、ヤンチャな男の子を演じる時はしろうくんならどうするかなって考えてみたり……。でも今回は、参考にできる人がいなくって。お兄さんをお母さんに置き換えたくても、お母さん、ずっと家にいるわけじゃないから……」

     続けられた言葉に胸が痛んだ。
     玄武は、直央の家庭環境を詳しく把握しているわけではない。それでもこの事務所にいる大半の人間が、別に本人の口から聞いたわけでもないのに『玄武は孤児だ』という生い立ちを知っていることと同じように、『直央には父親がいない』という情報を何かのきっかけで知っていた。
     過去にお花見会場で一緒に仕事をした時の記憶だが、手作りの弁当を目にして「いそがしいお母さんが」と泣いて喜んでいたはずだ。あの姿から想像するに、きっと母親からは十分に愛されて育っているのだろう。それでもお互いの仕事が関係して、すれ違った寂しい時間を過ごすことも多いと容易に想像できる。

    「分からないけれど、それでも、プロデューサーさんにはやりたいですっていったから。がんばらないと」

     小さな指が、ズボンの布地をぐっと掴んで皺を作り出す。寂しさと不安を内包したほの暗い表情を浮かべた子供を見て、玄武の脳裏には幼いころの記憶がよぎった。それ以上、直央が言葉を発さない理由。子供の精いっぱいとわかる強がりを押し通す理由。玄武にはその気持ちの出所が、胸中が、ありありと分かってしまう。かつての自分の姿が、どうしてもこの子と重なった。年の差は六つ。誕生日を考慮すれば、学年でいえば五つの差。ずっと身長の低い子供と視線が合うように、身を屈めてその瞳をそっと覗き込む。
     この子に、これ以上寂しい思いをさせるというのはどうにも忍びない。そんな気持ちが玄武の胸の奥で沸き上がった。

    「……もし、よかったら」

     しばらく、うちにくるか?
     思いを言葉として発してしまったのは、半ば無意識のことだった。自分でも驚くような提案だったが、彼にこの動揺を悟られないように気を取り直す。掛けられた言葉をきっかけに、弾かれるようにして直央が顔を上げた。零れ落ちてしまうのではないかと思うくらいに丸まった大きな瞳が玄武の顔をじっとみつめていた。

    「もちろん番長さんと親御さんの許可が下りないことには無理だが……。要するに直央に足りないのは経験だろう? 正式にこの話が決まったら役作りの一環として……学校のことを考えれば冬休みの間だけになっちまうが。うちに来て、兄弟みたいに、一緒に過ごしてみないか」

     元から薄く色づいていた桜色の頬が、一層血色よく色づいていく。
     玄武にとって、直央は何度か仕事を共演した仲間であったし、これから控えるクリスマスライブでも同じ会場でパフォーマンスを行うためにいっそう親交を深めようとしている相手である。それなりの友好的な関係を築けているという自負はあったし、慕われている様子もあったとはいえ、自身の外見が与える印象について考えてしまえば、内心怖がられているのではないかという心配が今まで拭えていなかった。
     それでも目を細め、とても楽しそうで良いとおもいます、と心底嬉しそうに返してくれた子供の姿には安堵した。

    「あっ、でもげんぶさんのご迷惑になりませんか? すざくくんとの約束とか、学校のこととか、げんぶさんにだって色々あるんじゃ……」
    「朱雀なら冬期休暇の補習に捕まるだろうし、そうすると暇でよ。形単影隻の暮らしにも慣れてきたが、昔はもう少し賑やかな暮らしをしていたから……冬になると、少し堪えちまう。直央がいてくれるなら、寂しくはなくなるな」
    「げんぶさんでも、寂しいって思うことはあるんですね」
    「人間ってのは、もともと群れを作る生き物だからな。本能さ」

     情けないって思ったか? 悪戯に笑って聞いてみたが、玄武の想像通りに直央は小さく首を左右に振って否定の意を示してくれた。

    「ううん、どちらかというと……安心しました。げんぶさんみたいに強くて格好良い人でも、そうなっちゃうんだなぁって」
    「うれしい評価だな。まぁ、まだ決まったわけでもないけどよ。仕事の話と一緒に、直央の親御さんに伝えておいてくれるかい。番長さんが戻ってきたら、番長さんにも伝えておこう」
    「はい!」

     直央の住まいは千葉、それに対して玄武は神奈川だ。単純な距離は相当に離れているものの、直央の学校が休みの間であれば、行き来するのは精々事務所くらいになるだろう。都内であれば、どちらの家からもそう移動時間は変わらない。
     強いて言うなら定期が使えなくなることがネックだが。役作りを理由に経費で落ちないものか、一緒にプロデューサーへと掛け合ってみようと玄武は決める。あとは直央の母親が仕事を休む日があるようなら、その日は彼を家に帰した方がいいだろう。母子が水入らずで過ごす時間は、幼いころの玄武が失ってきり手にすることのできなかった貴重なものだ。大切にしてほしいという玄武の意見に、直央は大人しく首を縦にする。

    「お母さん、きっとげんぶさんの提案を喜んでくれると思うんです」
    「そうかい? 自分で言っておいてなんだが、俺だったら自分の息子がヤンキーに預けられるとなったら心中穏やかでいられなさそうだ」
    「あはは……でもげんぶさんは良い人だって、お母さんも知っているから大丈夫ですよ」

     まっすぐな好意がくすぐったい。多くのヤンキーを束ねて総長だとまで呼ばれる身が『良い人』だと評価され、やり場のない感情が募って困惑してしまう。ごまかすようにして直央の頭を撫でてみたが、彼は一瞬だけきょとんとした顔を浮かべた後に、朗らかで柔らかい表情を形作るだけだった。

    「げんぶさんがお兄さん役で、よかったなぁ。ボクも弟役、しっかりできるように頑張りますね」

     十分に庇護欲が掻き立てられるような表情だ。玄武もつられて笑みを浮かべる。

    「心配しなくても、才能の片鱗ならもう見えているぜ」

     不思議そうな表情を浮かべたその姿が、玄武には少しおかしくみえた。



       * * * *



    「それじゃあみんな、お疲れさま~」
    「気を付けて帰れよ、特に未成年!」

     参加したキャストやスタッフの功績を称えあい、どれくらいの時間がたっただろうか。そろそろお暇しませんかと、お開きを示唆する発言を切り出したのはプロデューサーだ。会話に盛り上がっていた面々も現在の時刻を確認し、プロデューサーの提案に賛同する。残りは専門のスタッフが行うからと自分たちができる範囲の片づけと点検だけ行って、次々に帰路へ着く手筈を整えだした。
     車の手配は基本的にプロデューサーが行うことになっていたが、徒歩で十分だとして早々に帰ってしまった例や保護者家族が迎えに来たケースもある。また一部の成人はこの後に酒を交えた打ち上げをするようで、プロデューサーは苦笑をこぼして「ほどほどにしておいてくださいね」と釘を刺していた。
     一方玄武はというと。設備の一つであるシャワールームを先に借りてコンタクトを外し、汗と大量の整髪料を洗い流すと、セットされていないままの髪が落ち着かないとして指先で弄りながら時間を潰していた。本当はあまり人前でこの髪型を晒したくないと、玄武が唇を尖らせて主張していたことがある。確かオフショット――仕事とはまた違った日常の姿をファンに見せようという企画で、風呂上がりの姿をプロデューサーに激写された時のことだっただろう。今だって出来ることならもう一度髪を整えたいのだが、帰宅に公共機関を使うわけでもないのだから、あとはコストを顧みて我慢することに決めたのだった。
     そんな玄武は普段から使用している平たい鞄を小脇に挟み、数泊の旅行を想定したボストンバッグを長い腕に収めていた。水色の布地には幼い子供が好みそうなキャラクターがプリントされているが、当然彼の私物ではない。彼のすぐ傍には申し訳なさそうに玄武を見上げる少年の姿が確認できる。この子供こそが、本来の荷物の持ち主だ。
     彼もまた玄武と同様に、先にシャワーを済ませていたのだろう。コンタクトレンズは外れていて、トレードマークにも近い丸眼鏡が目元にかかっている。触れていないから分からないが、髪の毛も先ほどと比べればいくらか柔らかそうに見えた。

    「重たくないですか? やっぱり、ボクがちゃんと持ちますって」
    「これくらい軽いから、気にするな。どうせすぐに車に乗っちまうしな」

     玄武が提案した冬休みの間の共同生活だが、プロデューサーからは妙案だとして前向きに捉えられ、肝心の直央の母親からも快く了承をしてもらえた。あとはいつからこの生活をはじめるか考える必要があったのだが、クリスマスライブの日にも母親に夜勤が入っている話を直央から聞けばほとんど予定は決まったようなものだった。
     ライブの日の荷物こそ増えてしまうが、ライブが終わったらそのまま玄武の家まで行けば良い。計画の基盤が決まってしまえば、あとはとんとん拍子に話が進んだ。

    「俺たちの迎えは番長さんが担当してくれることになっているから、あと少しだけ待っていてくれ」
    「プロデューサーさん、いそがしそうですもんね。たいへんだなぁ……」

     直央の荷物の大半を玄武が預かる一方で、直央の両手には今も大きな箱が抱えられたままである。ライブが始まる前、最後の買い出しにと直央と玄武が外に出かけた際に直央が購入してきたものだ。PATISSERIE KUWANOと書かれた箱には、直央が毎年母親と一緒に食べているクリスマスケーキがおさめられている。とても美味しいものだから是非玄武にも食べてほしいと、直央と彼の母親が予約をしていたとなれば、玄武とてその厚意を断ることはできなかった。事務所主催のパーティでも東雲荘一郎をはじめとした製菓部特製のケーキを食べてはいたものの、胃にはまだ余裕がある。甘いものは積極的に食べる方ではないが、苦手というわけでもない。素直に楽しみだと玄武は漏らした。
     ライブ中にも軽食を取っていたものの、若干足りない分を帰宅次第補えばよいだろう。出来合いのものになってしまうが、チキンの用意も万全だ。

    「……あの、げんぶさん。じつはですね。ボク、誰かの家に遊びに行くって経験があまりなくって……緊張して、ドキドキしちゃっているんです」
    「奇遇だな。俺も朱雀以外の誰かを招く経験には乏しくてな、地に足がついていない心地がするぜ。まぁ、しばらく俺だけじゃなくて直央の家にもなるんだ。少しずつ慣れてくつろいでいってくれ」
    「はい、頑張りますね」
    「リラックスしてもらいてぇって面では、頑張らなくていいんだけどな」

     お互いの間に作られた距離は、そう簡単には縮まない。これが数日の経験でどう転ぶか、玄武にも直央にも容易に想像はできなかった。もしかしたら劇的な変化が二人の間にもたらされるかもしれないし、言うほど変わったところもないままに恙なくこの生活が終わる可能性だって十分ある。そのどちらであっても貴重な経験になることは間違いないだろう。玄武はもう一度時計を見て、それから直央の姿に目を向ける。

    「番長さんが来たら、車の中で寝ていけばいい」

     そこにはすでに大きな目を虚ろにさせて、眠りの世界に入りかけている直央の姿があった。
     すみませんと言いながら眼を擦ろうとしたが、長い時間コンタクトを使っていたこともあり、乾燥や刺激で目に傷がつくのも困るからと玄武がその行動を窘める。そうすれば眠気に対抗する術がないと、一層直央の表情がぼんやりとしたものに変わっていった。
     会場からは、一人また一人と徐々に人の姿が減っていた。すっかり閑散としてしまった場所で猶も待ち人のために時間を潰すのもそろそろ限界だろう。簡単に横になって休めるようなところでも探すべきだろうか。そう思案したところで、遠くから響く足音の存在に気が付いた。徐々に近づいてくるそれに玄武が期待を込めて振り返ってみたならば、待ち人の姿がようやく見える。安堵に玄武は胸をなでおろした。

    「……すみません、お待たせしてしまいました!」
    「お疲れさん、番長さん」
    「プロデューサーさん……遅くまで、本当にお疲れ様です」
    「いえ、それは二人もですよ。こんな時間まで付き合わせてしまって申し訳ありません。さぁ、帰りましょう!」

     疲労感や眠気に襲われている二人に対し、プロデューサーは今もやる気や気力、体力に満ち溢れているような表情と声色を浮かべていた。元気そうだなと玄武が思わずつぶやけば「これから車も運転しますし。これくらいパッションがないと」と笑われる。精根尽き果てたと言わんばかりの顔の人間の車に乗り込むのは、確かにいくらか不安が募るだろう。それもそうかと玄武は納得する。
     その音頭に導かれるまま車に乗り込み、お互いの荷物を下ろしていく。膝元ではケーキが熱をもってしまうだろうと、温風の当たらないトランクルームに置くことにした。
     座席に腰かけ、安全運転を心がけるプロデューサーの車の静かなエンジン音と振動に揺さぶられること数分。玄武の隣からは、穏やかな寝息が聞こえてきた。

    「……寝ちゃいました?」
    「寝ちまった。疲れていたもんな」

     両手は膝の上に置いたまま。頭を車の側面に預け、静かな呼吸を繰り返す少年をじっと見つめた。玄武でさえ心地の良い疲労感を覚えたようなライブだ。まだ幼い子供にとって、それは楽しくも非常に体力を消費したイベントになっただろう。会場から玄武の家までの移動にはまだまだ時間がかかる。それまで十分に休ませてあげるべきだった。
     玄武は自身の外套を脱ぐと、彼の膝元へそれをかける。重さが気になる場合もあるかもしれないが、いくらか防寒には貢献してくれるだろう。

    「玄武さん、こうしてみると本当に『お兄ちゃん』って感じですよねぇ」
    「役にもいい具合に反映できりゃあ良いんだがな」
    「できますよ、大丈夫です。私が言うのもなんですが玄武さんにはそういう才能があるというか。すでに世話焼きのお兄さん気質みたいなものが板についていますよ。……朱雀さんと一緒にいるせいでしょうかね」

     プロデューサーからの指摘に、玄武は静かに、しかし声を噛み殺せないままに笑ってしまう。つい数日前、同じようなことを直央に言った覚えがあったのだ。
     なるほど、そういう印象があるのならば番組制作側のキャスティングは的を射ているのかもしれない。玄武は一人で納得し、自己完結の末に幾度か頷き満足げな表情を浮かべていく。一方プロデューサーはというと、いったい何が玄武の琴線に触れたのだろうと首を小さく傾げていたが、ついぞその真相に一人でたどり着けることはないままだった。




     車を走らせ小一時間。交通量も多いこともあり、想定以上の時間をかけてようやく目的地まで到着する。ここからプロデューサーが自宅まで戻ることを考えると心苦しい気持ちもあったが、だからと玄武がプロデューサーのために出来ることはこれ以上何もないだろう。彼に今できることは、車の到着から再出発までの間の負担を減らすべく動くことだけだった。
     直央は今も眠ったままだったので、プロデューサーに様子を見てもらうことにして荷物の運搬を先に始める。自分と直央の荷物。自分と一緒に食べたいと口にして用意してくれたケーキ。それらをしかるべき場所に運び、先に暖房をつけて布団も用意しておいた。それからもう一度車内に戻るが、プロデューサーが直央を起こしたような形跡は見られない。おそらく二人とも同じことを考えているのだろう。

    「それじゃあ、お疲れ様。番長さんも気を付けて帰ってくれ」
    「ええ、玄武さんもお気をつけて。直央と仲良くしてくださいね」
    「任せてくれ。それじゃあ、また今度」

     言うなり、玄武が座席に手を伸ばす。自身の外套をそのままに、眠る直央の膝下と背中に手を差し入れる。
     重たくないですかと確認されるように聞かれたが「問題ない」とすぐに返した。羽のように軽いとは全く言えないが、それでも部屋の前まで歩いてドアノブを開ける分には差し支えないだろう。
     車が出るまで見送りたい気持ちもあったが、直央を寒空の下にさらし続けるのも忍びない。そのまま別れの挨拶を交わし、立ち去る車のエンジン音を背に受けながら、玄武は彼を家へと招いた。見る人が見れば多少の事件性を疑われてしまうのではないかという不安が脳裏をよぎったが、運よく同じ建物の住民とは誰一人ともすれ違うことはないままだ。
     先ほど電気をつけっぱなしにしておいた家の扉を開けるなり、寝室としている奥の部屋へと歩いていく。用意した布団はまだ冷たいだろうが、罪悪感を押し殺しながら体を横たわらせる。ライブの後、軽くとはいえシャワーを浴びていて良かったなと心から思う。そうでなければ、汗と整髪剤まみれの髪や体をどうにかするために心地よさそうに眠る少年を無理やり起こす必要があったからだ。
     本当は服だって着替えさせた方が良いとは分かっていたが、これ以上の干渉は難しいだろう。せめて寝苦しくないように首元のボタンだけ開けると、そのまま布団を肩までかける。
     空調の設定を弄り、玄武は静かにその場を離れる。明かりをできるだけ落としながら、自分は腹が減ったからと冷蔵庫の中身を物色した。寝室の扉を閉め切っても良かったのだが、目覚めたときに見知らぬ暗い部屋で一人ぼっちでいる直央の心情を思うと、あまりに心細いだろう。
     一人でチキンを食べる気にはなれなかったし、せっかく直央が選んできたケーキであれば猶更だ。時間がないときに弁当のおかずにでもしようと保存していた総菜数点を電子レンジに放り込み、作り置きのお茶を注いでスマートフォンに届いていた通知を確認する。
    『玄武たちのライブ、すっげぇ熱かったぜ!』という相棒からのメッセージの他、舎弟たちからも『総長最高でした!』という勢いに任せた感想が届いている。お前たちも会場に来ていたのかよ、と玄武が小さな苦笑をこぼした。ライブの座長を務めた輝からは、ブログの更新の連絡が入っている。既に多くのユーザーからの反応が残されているそれを眺めながら、加熱が終わるまでの数分間の時を待っていた。
     今はまだ、この家に自分ではない誰かがいるという実感が沸かない。
     相手も寝ているのだ。仕方のないことかもしれない。明日から何かが変わるかもしれないが、やはり何も変わらないかもしれない。
     何度目かになる堂々巡りの思考にとっぷりと沈み、それを振り切るようにして食欲を満たす。一つの欲が満ち足りれば、今度は別の欲が沸き上がってくるものだ。睡魔には逆らう理由もないとして身支度を整えるべく立ち上がる。案外、疲れが溜まっていたのだろう。気張る必要もなくなった今、自分が思う何倍も体が重たいような気がして驚いた。
     直央から一番近いところにだけ薄い明かりを残しておき、それから自身のベッドにもぐりこむ。寒くはないだろうか。逆に、暑くもないだろうか。ライブが終わったばかりで、喉を悪くしないだろうか。乾燥はしていないか。心配に思うところはたくさんある。そのいずれも、相棒が一緒の時ではさほど気にしない細かな事柄だ。
     プロデューサーは玄武へ『すでに兄らしい一面が出ている』と指摘していた。朱雀を引き合いに出していたが、きっとプロデューサーの脳裏にはまた別の玄武の姿が思い描かれていたのだろう。玄武が気にするかもしれない。そう咄嗟に判断して、おそらく相棒の名前を出したのだ。玄武は薄っすらとそれを察している。
     玄武と朱雀の関係性は、兄弟のそれとはずいぶん違う。年齢だけで言えば確かに差異があるものの、それでも生まれた年月の違いがほとんど気にならないほどに彼らは対等な関係を結んでいた。
     おそらくプロデューサーが想像していたのは、プロデューサーさえ知らない玄武の過去の一面だ。
     児童養護施設で暮らし、血の繋がっていない子供と一緒に過ごす日々。自分より年上の兄や姉のような人たちは、次々に独り立ちをして施設を出ていった。同じくらいの年頃の子供は、遠い親戚を名乗る人々や血のつながりのない新しい親に手を引かれて立ち去っていくことも多くあった。
     施設に残ったのは玄武と、玄武よりも年下の子供たちだ。弟や妹みたいに施設にいる間のほとんどの時間を一緒に過ごし、時には本気で嫌われるだけの喧嘩もして、時には本当の兄のようにして泣きながら縋られることもあった。玄武にとってその時間は――何よりもつらかった、と記憶している。
     同じ境遇に置かれた子供同士、手を取り合うことは大切なことだ。だけれどもそうして情が移ってしまった分、別れが苦しくなることを玄武は経験と共に理解していた。
     置いていく立場の子供はまだ気楽だろう。別れはたった一度で済むし、新しい環境に慣れていくことに精いっぱいだろうから。しかしいつだって残される側にいた玄武は、そうした別れを幾度も経験することになったし、同じような立ち位置に全く別の顔と名前の子供が当たり前の顔をして居座っていく不自然を何度も無理やり咀嚼した。こんな別れを繰り返したくない。それと同時に、自分と同じような思いを誰かにさせることも心苦しくて仕方がなかった。それゆえに、玄武の手は少しずつ子供たちから離れていった。反比例するようにして、本を手にそちらの世界へ没頭する機会が増えていった。
     施設時代、弟や妹のようにして可愛がっていた年下の子供がいたことは事実だ。
     だけれども、そうした子供を弟妹として認めて接することができていたか。それは今でも疑問が残る。ほんの少し、どこか心が拒絶を覚え、壁を隔てた付き合いばかりをしていたのかもしれない。
     そして今、直央に対して距離を縮めることができるのか。正直なところ自信がなかった。
     施設にいた子供と同じように、情をかければかけるほど心惜しい別れが待っていることは想像に難くない。直央はあの子供たちと違って同じ事務所の仲間であるから、実際にはそれほどに悲しむことはないのだろうけれども。それでも一度こうして他人を家に招いた以上、喪失感は付きまとうものだろう。
     直央は聡明な天才子役だ。きっとこうしてわざわざ時間を作らなくたって、『弟』という役を与えられたなら立派にその責務を果たすはずだった。自信がないと口にしていても彼には天性の才能がある。正しい答えを少ない情報から見つけ出し、それを遂行するための実力が十分に備わっていると玄武の目には映っている。
     どちらかといえば、玄武の方がこの機会を感謝して大切に過ごすべきなのだろう。
     だというのに、おぞましい数の弱い虫が自分の足元に群がっている。『兄貴風を吹かした他人』になるのではなく、ほんの一握りの勇気を以て『少年の兄』にならねばならない。考えれば考えるほどに、どこか息苦しさを覚えてしまう。
     くるしい。喉元から零れそうな言葉を必死に押し込んだまま目を閉じる。空調のおかげで部屋は暖まっているはずなのに、足元や指先の感覚がないほどに冷えていた。疲れのせいか、極度の緊張か、体も頭も重たくてうまく動かない。
     不安に押しつぶされたままの暗い夜。部屋には一人ぼっちではないはずだし、静かな空間もとうに慣れたつもりであったのに。人の気配があってなお感じる孤独というものは、あまりにも恐ろしいものに感じた。



      * * * *


    「……さん、……ぶ……ん」

     遠いところで声がする。身体に何かが触れていて、必死に揺すっているのは分かった。
     わざわざ起こさなくたっていいじゃないか。学校も、ないのだから。寝ぼけた声で玄武が言えば、口を尖らせた子供たちは『でもご飯食べられなくなっちゃうよ』『げんぶにいちゃん、遅くまで本を読んでるから』と心配と小言を混ぜた返しをしていただろう。

    「……ちょっと、失礼しますね」

     額に何かが当たる。自分よりも少しだけ体温の高い、やわらかい何かが触れていた。ううん、と悩ましげな声が自身の顔の近くで響くことに玄武は気付いたが、それが何であるか、誰であるのか、中途半端な覚醒しかしていない玄武の意識はなかなか捉えることができないままだ。

    「熱はないみたいだけれども……」

     唯一思い出したのは、幼いころの自身と家族の一幕。施設の誰かではなく、顔をおぼろにしか覚えていない母親とのやり取りだ。涙で視界がにじむほどに苦しい熱に浮かされた朝、母親がこうして手を伸ばして熱を測ってくれていたかもしれない。
    しかしこの家には自分しかいないはずなのに。いったい誰なんだ。覚醒と睡眠の間に意識を飛ばしながら、ふと考えがそこに至る。そこで玄武の目が一気に覚めた。
     瞳を開き、一気に身を起こす。ベッド脇に立っていた少年が驚いたような声を上げた。急に体を持ち上げたせいか鈍い頭の痛みを覚える。しかし玄武が気にするべきはそこではない。

    「直央……」
    「おはようございます、げんぶさん。あの……昨日は、すみません。眠っちゃって……ご迷惑おかけしました!」

     言うなり、直央が頭を下げる。まだぼんやりとした頭で、しかし慌てて直央に向かって「謝るな」と口にしてその頭を上げさせた。
     朝に弱いという自覚はあったが、その分翌朝の予定を考えて早めに起きて行動しようとする癖が身についていたはずだ。だというのに今日に関しては学校が休みであることとライブ明けの休暇で事務所に行く必要もなかったことが災いして、上手く目覚められなかった。小学生に起こされるというのはなかなか情けないのではないかと玄武は内心呆れてしまう。
     くぅ、という小さな腹の音が直央の身体から聞こえてくる。顔をぽっと赤くした直央を見て「待たせて悪かった、飯にしようか」と声をかける。思わず笑ってしまいそうになったが、それは彼に対して失礼だろう。直央が腹をすかせた原因は、早くに起きることのできなかった玄武にあるのだから。

    「本当に起こしてしまってすみません……」
    「いや、いいぜ。夜もあまり食ってなかったから、腹もすいただろ」
    「それもあるんですけれど、ええと……。ボクが謝りたいのは、げんぶさんを起こしちゃったことで……。本当はボクももう一回寝ようかなって思ったんですけど、うなされていたようにみえたので、ついつい」

     手探りで探した眼鏡をかけて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。うなされていた? 玄武が聞き返せば、はい、とおどおどとした態度をそのままに直央が言う。いやな夢をみていたのかなって、と。不安げな顔のまま続けてくれた。夢を見た記憶はないものの、魘された内容に関する心当たりはあった。なんでもない。気にするな。そうして距離を取ってしまうのが玄武にとっての常で、彼が一番気楽に済む方法だ。
     だけれども、今は。
     口元を緩め、弧を描かせる。そうして直央の頭を撫でた。まだ寝ぐせのついた、指通りの悪い髪の毛だ。後でよく梳かしてやろうと玄武は決める。突然の行動に驚いた直央が「わっ」と小さな声を上げた。

    「丁度夢見が悪くて困っていたんだ。ありがとうよ、お陰で助かった」
    「え……?」

     彼は施設にいるときの同じ境遇をした子供ではないのだから。少しでも、自分からも歩み寄らねばならない。玄武は腹にそう据える。
     おもむろに手を放し、さぁ飯の支度だと口にして立ち上がった。玄武の手のひらの温度を失った直央はしばらくの間玄武の背を見つめ、それから撫でられた頭にゆっくりと触れた。

    「……えへへ」

     一笑し、しばらくその余韻を堪能する。直央が玄武の後を追うようにして歩きだしたのは、彼に名前を呼ばれてからだった。


     寝室を抜けたのは、その時が初めてだったのだろう。キッチンと一体化になっているリビングを目にして、「わぁ」という感嘆の声を直央が漏らした。そうしてしばらく部屋を見渡し、感慨深げにこう呟く。

    「げんぶさんは、ここで一人暮らしをしているんですね」
    「おう。前はもう少し狭いし安い部屋だったんだけどな。自分で稼げるようにもなったし、家賃もいくらか負担するからセキュリティ面をどうにかしてほしいと番長さんから頼まれてよ。今はこんな具合の部屋に住んでいる」

     昨晩はプロデューサーの車に乗り込んでからの記憶がないはずだから、どういった場所でどういった建物で、といったことは把握できていないだろう。今日は直央にそういった情報を伝える必要があると玄武は考えた。

    「部屋の鍵だが、直央に持ってもらう予備がないんだ。出入りは俺と一緒になっちまうが、そう不便はしないだろう。あとはインターホンが鳴っても不用意に鍵をあけるなよ。覗き窓はお前の身長じゃ難しいだろうから、居留守を使うか俺を呼んでくれ」
    「はい、わかりました」
    「飯は基本的に俺が作る。食べたいものがあったら教えてくれよ」

     まぁ、今日は有無を言わさずトーストだけどな。買い置きの食パンを取り出しながら玄武が笑えば、直央もつられて笑ってみせた。食材の好き嫌いやアレルギーを聞き取って、特別問題がないことを確認する。麦茶は好きかと聞いてみれば、「お砂糖をたくさんいれたものなら」との予想外の返答がきた。そのままでは渋くて苦手と言うが、だからと毎回水分と一緒に多くの糖分を与えるのも面白くない。ひとまず今回は牛乳で手を打つことにして、今後のことはこれから考えていくべきだろう。
     あとは大切な子供を預かっているのだから、母親には逐一連絡をして安心させてほしい。玄武がそう頼みこめば、直央はさっそく二人での写真を母親に送りたいと提案してきた。セットをしていないどころか、寝ぐせまでついた状態での写真となれば、いくら公の場に出すものではないとしても常日頃髪型にこだわりを見せる玄武にとってかなり躊躇をしたのだが。最終的には根負けし、彼の携帯の画面に一緒に映りこむことになる。朝寝八石の損とは玄武自身がよくプロデューサーへと送っていた言葉であるのだが、まさにその通りだ。改めてその言葉を噛みしめた。

    「……ところで、げんぶさんには今日の予定とか、ありましたか?」
    「予定か、とりあえず体を休めようってことばかりであまり考えていなかったな。直央は何かあったかい」
    「その……もしよかったら、宿題を見てもらうことって出来ますか……? 学校の勉強も頑張っているつもりなんですけれども。お仕事のせいで授業を聞けていない時もあって、教科書だけじゃ分からないことも多くて……」

     昨晩玄武が家の中に運んだきりだった鞄の封が開けられて、着替えの他に数冊の問題集が顔を出した。ライブの翌日となればまだ疲れも残っているだろうに、それでも早めに終わらせたいのだと主張をされては、玄武とて彼の意思を無下にすることはできなくなる。

    「それくらいならお安い御用だし、得意分野だぜ。任せておきな」
    「ありがとうございます!」

     直央が宿題に向き合う間、自分も一緒に課題を行えばちょうどよいだろう。直央は自信無げに口にしていたが、この子が勉学においても非常に利口であることは事務所で交わす会話や宿題に打ち込む姿で理解している。朱雀を見る時よりもずっと気楽に様子をみることができるはずだ。

    「あとはおすすめの本も教えてほしいです。読書感想文も書かなきゃいけないのに、本を探す時間が足りなかったので」
    「それも面白い頼みだな。良いぜ、渾身の一冊を見繕ってやる」
    「それから……ううん、困ったなぁ。げんぶさんとどういうことをやりたいか、お願いしたいか、色々考えてきたんですけれども。たくさんありすぎて……」
    「時間はたくさんあるから、慌てないでいいだろう。一つひとつ、こなしていこう」

     トーストが出来上がるまでの間、冷蔵庫に残っていた葉物を中心としたサラダを和え、バターナイフと箸を用意する。食卓の支度が徐々に整う様子をみながら、直央が「そうですね」と相槌を打った。
     ほどなくして香ばしい匂いが鼻孔を擽りだす。そろそろ頃合いだろうとタイミングを見計らい、マーガリンを取り出した。一枚だけで腹が十分に膨れた経験がなかったのでもう一枚分を追加で焼く準備だけ整えると、食卓で待つ直央の元に焼き立てのトーストを差し出した。冷めないうちに食べちまおうと口にして一緒に手を合わせる。

    「あの、ケーキはいつ食べましょうか」
    「お前、俺に食べてほしいだなんて言っていたが……、本当は自分が食いたいだけじゃないのか?」
    「……そっちの気持ちも、実はちょっとだけあります」

     用意した朝食を半分も食べ終わらないうちから言われるものだから、流石の玄武も肩をすくめてみせた。平日と比べればいくらか遅い時間ではあるものの、それでも朝食後すぐにケーキというのも落ち着かない。少し遅めの昼食を取った後、昼間のおやつを兼ねて食べるのはどうかと玄武は提案する。直央からは賛成の言葉が出たが、肝心の昼食をどうするかはまだ一切決めていないままだ。
     ここしばらく、ライブの準備に忙しくて日用品も心もとないところがあった。直央を連れて買い出しにいくついでに、そちらの相談も進めていくべきだろう。
     実際にはいくらか変更点が出てくるはずだが、玄武の頭の中で今日の予定が組み立てられていく。その間に手元のトーストは姿を消し、代わりに次の一枚が焼きあがった音が聞こえてきた。立ち上がり、そちらを皿にのせて食卓に戻ると直央がじっと見つめてくることに気がついてしまう。寄せられた視線を一度気にしてしまうと気を反らすというのも難しい。どうかしたのか、率直に疑問をぶつけてみれば「ボクもたくさん食べれば、げんぶさんみたいに大きくなるのかなぁ」との声が寄せられた。
     それは食生活や睡眠周期、ホルモンバランスや遺伝などの情報すべてをひっくるめて『直央次第だ』と言いたいところではあるのだが。夢は大きく持たせるべきだろう。「そうかもしれないな」と笑って見せれば、ほんの少しのやる気と決意を胸に秘めたような顔をする。
     自分と同じくらい、もしくはそれよりも大きくなった直央。玄武は想像しようとして、それがうまく出力できないことに気がついた。愛らしい顔をした少年が背をめきめき伸ばしていくという様子が想像し難いというのも理由の一つである。だがそれ以上に、直央くらいの年齢の子が自分と一緒に成長する様子を間近できちんと見守った経験に乏しいというのも要因になっているだろう。

    「……早くげんぶさんみたいに大きく男らしくなって、お母さんを安心させたいなぁ」
    「そりゃあ成長が楽しみだ。俺も率先垂範を心がけて過ごさないとな」

     直央の言葉にしみじみとしながら言葉を返す。自分か相手がアイドルを辞めない限り、この子は成長した姿を自分に見せてくれる。何気ない会話が将来の約束にきちんとつながっていく現状。それがたまらなく不思議で、慣れなくて、同時にうれしいと。玄武は沸き立つ感情を噛みしめた。


     兄弟のように。生活の中でそう意識していくのは難しいのかもしれない。
     玄武個人としてはそう不安になることもあったのだが、プロデューサーが大丈夫だと背中を押していたように、案外傍目から見ればそれっぽく映るものなのかもしれない。
     二人連れ添って買い物をしていれば、玄武がよく顔を合わせる店員からは『弟さんがいたの?』と聞かれることになる。直央を知らない買い物客の老人からも『やさしいお兄さんがいて良いねぇ』と穏やかに声をかけられた。どうにもお互い嘘をつけない性分であったものだから、多少の困惑を胸に『それに近いもんだ、そのうち分かる』だとか『ええ、はい』だとか、曖昧な返事ばかりをしてしまったが。内心安堵に胸を撫でおろしていたのは玄武も直央も同じだろう。
     向かい合って食べたケーキは事務所の大人数で食べるものとも、相棒と二人、外で食べるものとも少し違う。美味いなと漏らして『はい』と返ってくる表情には、はじめに見たような暗がりの表情がすっかり消えていたようだった。


      * * * *


    「げんぶさんには、お正月から先の予定って何かあったりしますか?」

     直央が玄武の家に居候をはじめて数日。直央もすっかりこの家の空気に慣れたのだろう。縮こまって座布団の上に正座をするわけでもなく、床に寝そべって玄武が推薦した図書に目を通し続けている。玄武も暇だからと同じように事務所の人間から勧められた文庫本を手にしていたわけなのだが、不意に投げかけられた直央からの問いかけに顔を上げた。

    「正月? そうだな……いつも通り事務所で年を越すのも良いなとは思ったが。時間も遅くなるしな、直央が難しいならお前に合わせる。あとは特にないぜ……学校もまだ先だしよ、宿題も全部終わっちまった」
    「ボクもよかったら一緒に事務所に行きたいです。しろうくんやかのんくんたちと一緒に新年のおいわいをしたいので。……それから、その。もし予定がなかったら……」

     途中で直央が言葉を濁らせる。何か助け船を出しても良かったのだが、こういう時は彼が発するべき言葉を見つけるまで辛抱強く待つのも手だ。玄武はじっと直央の瞳を見つめるが、紫の瞳は右往左往とあちこちを彷徨ってばかりでなかなか言葉の続きを掴めないようだった。

    「……お母さんとも相談していたんですけれども。もし、もしも迷惑じゃなかったらの話になるんですが……」

     落ち着きなく指先が動き、手遊びを繰り返す。少しずつだが言葉を紡ぐ直央の姿に、うん、と玄武が相槌を繰り返した。かぁ、と直央の頬が赤く染まる。耳までを真っ赤に色づかせながら、勇気を振り絞ったその先の発言はこうだった。

    「みなさんとの挨拶が終わった後、げんぶさん、ボクの家にも来てくれませんか!」
    「……は?」
    「迷惑でしたよね、ごめんなさい!」

     矢継ぎ早に飛んできたのは直央のそんな言葉と謝罪だった。慌ててその言葉を制し、少年が今何を言ったのかを確認するべく玄武はもう一度問い直す。たった一度の勇気を二度も覗かせることは難しいのだろう。いやです、ご迷惑かもしれないから、聞かなかったことにしてください、と繰り返す彼に食い下がれるようになったのは、ここしばらくの生活で縮まった距離感の為せる技であったのかもしれない。
     直央が玄武の家に身を寄せるにあたり、約束した一つに『直央の母親が休みを取れるようなら、直央を家に帰す』というものがあった。一月一日から数日の間はそれに該当していたのだが、母親は夜勤の関係で朝にならないと自宅に帰ってこないという。帰ってから睡眠を取る時間も必要だろうとして、昼頃までは直央を玄武の下で預かって、それから事務所まで彼を送りしばらく別れる手筈になっていた。
     仮に事務所の初詣に参加する場合、日付が変わる前に事務所に集まり、皆で新年を祝福し、電車がなくなる前に玄武の家へと戻る流れに落ち着くはずだったのだが。そこの予定を変更して『二人で直央の家に行かないか』と聞かれているのだろうか。上っ面の情報こそ把握できたものの、何故かという疑問が脳裏を渦巻き、それ以上の理解を深められない。

    「……本当に突然の話で驚かせちゃったかもしれないんですけど。ボクのお母さん、げんぶさんにすごく感謝していて……。ボクもげんぶさんのことがだいすきなので、お母さんと二人でお礼をしたいなって思ったんです。それで、ボクたちの家にも来てくれて、一緒にご飯を食べたり、泊まってくれたりしたらうれしいなって……。あっ、でも! 人の家に行くのって結構気を使っちゃいますし、逆に疲れたりとか困ったりしちゃうようなら、無理はいいません!」
    「……いいぜ」
    「そうですよね、普通はやっぱり……。えっ、ええ?」

     呆けた表情を浮かべていた玄武を見て、『それは遠慮しておく』とでも断られると思っていたのだろう。断られた呈で話を進めようとして、時間差で耳に入った言葉を理解したようだ。先ほどの玄武と似たような、呆気に取られた表情が徐々に驚愕の色に染まっていく。その様子を見ながら玄武は口元を緩め、もう一度『いいぜと言ったんだ、聞き間違いじゃない』と念を押した。

    「直央も、直央の母親も、俺を招待したいって思ってくれているんだろう? だったらその厚意には応えさせてくれ。俺も大事な子供を預からせてもらっているから、お前のおふくろさんにはきちんと挨拶もしたかった。ちょうどいい機会だろう」
    「本当に、本当にいいんですか? ボクの家で、泊まる場所もたぶんボクの部屋になっちゃいますよ?」
    「直央は嫌かい」

     ふるふると首が左右に振れる。それから眉を垂れ下げて「うれしいです」と口にした表情に嘘偽りはないようだった。
     直央の家に行くとして、初詣が終わった後に千葉まで直行する形だと、家主である母親に挨拶をする前に泊まり込む形になってしまう。それは申し訳ないから、もう少し日時をずらせないものかと玄武が直央へ提案した。
     彼の母親は大みそかの夜から仕事に向かうのだという。それならば大みそかの昼頃に一度荷物を持って直央の家を訪問し、挨拶させてもらいたい。玄武がそう頼み込む。
     先に直央の母親と顔を合わせ、夜更かしに慣れていない直央には仮眠も挟んでもらい、その後に母親から見送られながら二人で事務所に向かおう。夕食は、おそらく事務所にいる料理上手の面々が何かしらの軽食をふるまってくれるはずだから、と。二人の間で次々に予定を決めていく。ある程度まとまった予定を文章でまとめると、それを直央は母親宛てに送ったようだった。

    「いいお返事、来るといいなぁ」

     そわそわとして落ち着かない素振りを見るに、本当に玄武の来訪を待ち望んで楽しみにしているのだろう。指摘すれば、意外にも素直に肯定された。

    「だってボク、友達を家に呼ぶことも少なくって……こうして誰かが泊ってくれるのもはじめてなんです。どきどきしちゃうなぁ」
    「それは……確かに、緊張する気持ちもわかるぜ。しかし最初が俺でいいのか」
    「いいんです、だって……げんぶさんはボクのおにいさんですから。おにいさんと家で過ごしたことがないのに、友達を先に呼んじゃうなんて、変ですよね?」

     口元で小さな弧を描き、直央の頭を撫でる。そうだな、変かもしれない。玄武がそう返してみたなら、自分から言ったことであるというのに直央が頬を膨らませた。


      * * * *


     三、二、一……。カウントダウンが始まって、賑やかな空気がしんと静まりかえっていく。その瞬間が訪れた時、周囲の人々が顔を見合わせて口々に同じ言葉を発しあう。

    「あけましておめでとうございます!」

     玄武は朱雀と、直央は志狼やかのんと。真っ先に新年を祝う文句を交わしあった。その後に事務所の面々とも顔を合わし、挨拶を続けていく。

    「朱雀さん、玄武さん。あけましておめでとうございます」

     その顔ぶれの中には彼らがプロデューサーとして慕う人間の姿もあった。直前まで仕事に追われていたようで、時間ギリギリになってから現地に到着していたところを玄武も朱雀も確認している。そのことを話題に挙げれば苦笑を浮かべ、すっかり時間のことを忘れてしまっていた……との言い訳を告げられた。どうやら彼らの他にもプロデューサーの遅刻寸前の集合について詰め寄るアイドルが多かったらしく、辟易した様子が見て取れる。

    「ところで玄武さん、ここ最近の生活はどうですか。直央とはうまくやっています?」
    「まぁそれなりにってところじゃないか。ああ、そうだ。そのことについて番長さんに一つ伝えておきたいことがあったんだ」

     身寄りがない玄武にとって今の保護者役を買って出てくれているのはプロデューサーだ。本来であれば未成年であるうちは育った児童施設の職員が受け持つべきなのだろうが、色々な理由が重なって今はその管理下を離れている。となれば今の玄武を最もよく見ている大人を頼るべきであったし、プロデューサーもそれを承認していた。そんな相手だからこそ、玄武にはきちんと報告をしておかないといけないことがある。

    「実はこれからしばらくの間、逆に俺が直央の家に邪魔することになったんだ。連絡は携帯だからそう不都合ないとは思うが、何かあったらそっちを訪ねてくれ」
    「はい、わかりました……はい?」

     涼しい顔で言葉を受け止めた後、数秒の間を置いてその内容の不自然さに気が付いたようだ。相当仕事に根を詰めて疲れていたと見える。玄武が苦笑する傍らで、朱雀もまた不思議そうな表情を浮かべて「聞いてねぇ」と詰め寄っていたのだが。直央の母親の多忙も相まって、話がきちんと纏まったのが今日――暦の上では昨日だったのだから仕方がない。
     直央とその母親からの提案であること。世話になるのはほんの数日だけで、またすぐに玄武の家に戻ること。学校が始まるころには元々の予定通り同居生活を終えること。今のところは何の弊害もなく毎日を過ごせていて、直央もリラックスした表情を見せることが多くなってきていること。そうした報告を重ねていく。
     最初こそは玄武の報告に驚いたものの、単なる思い付きなどではなくてきちんとした理由と保護者の承諾あってのことだと理解したならば、プロデューサーからは特に伝えることも確認事項もなかったようだ。楽しんでくださいとの言葉を受け、玄武は静かに頷いた。

    「あっ、げんぶさん、すざくくん。あけましておめでとうございます」
    「おっ、直央。あけましておめでとう」

     噂をすれば影ともいう。事務所の面々一人ひとりに顔を合わせて挨拶をしたいだろうプロデューサーを長い時間拘束するわけにもいかず、そうそうに別れの言葉を交わしてすぐだ。玄武の視線の高さよりも随分と下、それでもここ数日で慣れた距離から声がする。

    「大丈夫か、直央。玄武にいじめられたりしていねぇか」

     してねぇよ。すかさず玄武が呆れ顔で朱雀に対する茶々を入れた。声を掛けられた直央はというと、先ほどの玄武にもよく似た苦笑いを浮かべて「それは、だいじょうぶです」と口にした。良くしてもらっているとも続けられ、玄武の身体がくすぐったくなる。

    「げんぶさんは料理が上手だし、お話も面白いです。おかげでとても楽しく毎日過ごせています! あと宿題も見てもらっていて……冬休みの宿題、もう全部終わったんですよ」
    「ゲェ、オレぁまだだ……さすがにそろそろやらねぇとヤベェよな?」
    「ヤバいな。冬期補習も出てんだろ。ちゃんと先生方に教わって宿題片づけろ」

     玄武は教えてくれないよなぁ。朱雀がちらりと視線を向けたが玄武には取り付く島もない。直央を見習えと吐き捨てるばかりだ。
     それから玄武は自身の腕時計を確認する。新年を迎えていくらか時間が経っていたし、事務所の人々との顔合わせはある程度終わった後だ。電車が混んだり突然止まったりしてしまう可能性を考慮するとそろそろ動くべきなのだろう。

    「……朱雀の宿題のこともあるしな。俺たちはそろそろお開きにしようか?」
    「あんまり遅くなっちゃうと、帰るのも大変ですしね」
    「ま、玄武もいないなら帰るしかねぇよな……なぁ、にゃこよォ」

     いつの間にか居なくなっている三人のことを心配しないように、周囲の仲間たちへと改めての挨拶と連絡を済ませていく。その間も玄武はというと、朱雀から掛けられたような茶々を受けることが多くて。苦笑を最後まで浮かべっぱなしだった。
     最寄りの駅に着き、路線が違うからと朱雀とも別れる。千葉の方面はあまり電車で向かわないものだから、案内は直央に任せて人込みの中で逸れることがないようにそっと手を握り合う。
     帰りの電車に揺られながら、玄武が思い出していたのは直央の母親との対話であった。


     そもそも事の始まりとなる話が出た時、直央は『母親は玄武の提案を喜ぶ』と言っていた。玄武にはそれがにわかには信じられなかったのだが、母親との対面を経てその言葉が真実であると認めざるを得なくなった。緊張を原因に硬い表情で身構える玄武に対し、求められた握手。柔らかい表情。穏やかで友好的な物言い。ありとあらゆる要素が、玄武の警戒心を解くには十分足りていた。
     そして大切な子息を預からせてもらっていることについて、玄武が改めて話をしようとした時だ。彼女の方から『少しだけ二人で話をしたい』と切り出され、直央を彼の自室に帰すとたった二人で向き合う機会ができてしまう。
     先ほどの友好的な態度は息子の手前というだけであって、本心は違うのではないか。
     失礼であるとは分かっていても、同時にこの風貌では大人からの信頼を勝ち取ることが非常に難しいとも知っている身だ。そうした不安や疑念を拭えないままに彼女から切り出した話を受け止めはじめたのだが。そこにはある意味では想定内で、そして同時に想定外でもある内容が詰め込まれていたのだった。
     まずは玄武が想像していた通り、直央の母親は女手一つで子供を育てているため生活に苦労をしているようだった。職業柄今回のように夜勤を避けることはできないうえ、睡眠時間を極力減らして判断力を鈍らせることを許してもらえるような環境でもない。直央は天才子役でアイドルではあるが、収入を子供だけに頼る母親になるのも彼女のプライドが許せなかっただろう。それでも連続した休日を独りぼっちで過ごさせてしまうことや、せっかく一緒に家にいる時間に自身は睡眠を取らねばならないこと。様々な事柄が『息子に寂しい思いをさせてしまっている』として彼女の良心を傷つけていたようだ。そんな中での玄武からの申し出は、息子を孤独から救うための一筋の光明だったという。思いの他まっすぐ伝えられた感謝の言葉に、今度は玄武が戸惑った。
     玄武の心配とは裏腹に、彼は直央の母親からの信頼をとうの昔に勝ち得ていた。そんなことが、こんな身なりをした男にあっても良いものなのだろうか。沸き上がる不安がそのまま口をついて出ていってしまう。それを耳にした彼の母親は、口元に笑みを浮かべ始めた。

    『直央が、花見のときも香川へ行ったときも、嬉しそうにあなたの話をしていたから。怖がりのあの子が懐いて慕えるような人なら、何の心配もいりません』

     擽ったい気持ちが増していく。まいったな、と玄武は頬を赤らめて首筋の肌をひっかいた。
     彼女からの話とは、たったこれだけ。直央をわが子として大切にすると同時に、彼が考え決断したことを非常に尊重している母親だという感想を胸に部屋を後にし、先ほど直央が帰っていった自室の扉をそっとあける。
     玄武と母親が何の話をしていたのか、直央にとっても気になっていたのだろう。直央と目があうなり、早速どういった話をしていたのだろうかという疑問を率直にぶつけられた。

    『お前をよろしくって話さ』

     非常に短くまとめてしまったが、おおむね間違えたことは言っていない。それに対して直央はにこにこと笑って玄武のもとに寄り添うと、悪戯っぽく笑ってみせた。

    『えへへ、よろしくおねがいします。……ね。お母さんはげんぶさんが良い人だって知っていたでしょう?』

     お前のおかげでな。その言葉は飲み込むことにした。


     その母親も今は仕事だ。
     ただいまと直央は口にするが、誰も彼を迎えない。仕方なしに玄武が「おかえり」と返してやる。同じように「おじゃまします」と声を発せば、それには直央が返してくれた。はにかんだ笑顔で家に迎え入れてもらう気持ちは、正直なところ悪くはない。

    「お母さん、お風呂沸かしてくれていたみたいです。入りませんか?」
    「一緒にか?」
    「一人でも入れます! そうじゃなくて、お先にって意味で……」

     照れ臭くてくすぐったい気持ちを隠すように茶化してみれば、本気に受け取った直央の抵抗が見て取れた。悪かった、と頭をぐしゃぐしゃにしてやれば、もう、と文句をいいながら大きなため息が吐き出される。

    「……一番風呂は申し訳ないしな。直央が先に入りな」
    「だめです、げんぶさんが先に入ってください」
    「お前は家主の一人だろう」
    「げんぶさんをおもてなしするって、お母さんと決めたんです」

     じっと玄武をとらえる青紫の瞳。そこに宿る決意の色は深いようだ。
     玄武は短くため息を吐き、観念したと両手を上げる。途端に表情を綻ばして上機嫌になった直央に連れられるまま脱衣所へと案内される。一人暮らしを想定している玄武の部屋に対し、直央の住まいはファミリー層を想定しているためか、脱衣場は広いし風呂はトイレとのセパレート形式だ。こうした風呂に世話になるのはいったい何時ぶりになるのだろう。事務所や臨時で借りることのある寮にはシャワールームがあるだけだったし、仕事で温泉などに入る機会や大きな銭湯に朱雀と二人で向かう機会こそはあったが、こうした家庭に供えられた浴室でゆっくり湯船に浸かる、という経験は久しいものかもしれない。
     せめて手早く済ませようとも考えたのだが、トレードマークでもある髪型を整えるための整髪剤をきちんと落とすには時間がかかる。中途半端に残してしまえば髪に負担を与えるだけでなく、風呂の湯やタオル、寝具までもを必要以上に汚すことに繋がるのだと思えば、焦る気持ちに反して湯を借りる時間が長引いてしまう。
     肩まで湯に浸かるというのも少し久々で、外気にあたって冷えた体を一度温まり始めてしまえば、この湯と別れるのも口惜しくなってしまうから困ったものだ。身体の芯まで温まりたいという正直な気持ちと、直央も寒いだろうから早く出なければという気遣い。しばらくこの二つの心が玄武の中に渦巻いていたのだが、意外にもその先の行動を決定づけたのは直央本人の言葉だった。

    「げんぶさん、湯加減はどうでしたか?」

     扉越しに聞こえた声に「丁度良いぜ」と返す。よかった、と口にしたまま直央が脱衣所から立ち去る気配がしないので、不思議に思って声をかけた。

    「だって、げんぶさんったらすぐにお風呂を出ちゃいそうだから。もっとゆっくり体を温めてほしいので、ここでお風呂の番をしています。大事な眼鏡は預かっちゃいましたので、げんぶさんの身体があったまるまでお返ししませんよ」

     ある種の強硬手段だ。玄武はしばし閉口し、その先の言葉を失ってしまう。
     玄武が直央に対し、心を開かれはじめたと思ったこと。彼のことを少しずつだが理解できるようになってきたと感じていたこと。それと全く同じことを直央も思い、成長している。当たり前だがどこか失念していたことだ。
     玄武の思考を先回りして先手を打った彼には天晴だというべきなのだろう。

    「……百でも数えれば、納得してもらえるか?」

     それなら大丈夫です、との許しを貰ったことを確認する。一、二……。カウントダウンとはまた違う数字を紡ぎながら目をつむった。


     玄武に続いて直央も湯船に浸かったなら残り湯で洗濯機を回して、乾燥まで終わったものを母親がたたむのだ――というこの家における家事の回り方を直央から聞く。小学生だというのに母親の家事を十分手伝い、自分でも行えている直央は偉い。思った言葉をそのまま口に出しながら、玄武はドライヤーを片手に彼の髪を乾かす作業を続けていた。濡れてしっとりとした肌触りから、適度なうるおいを保ちながらもさらりとした指通りのものへと変わっていくのを確認し、「よし」と一息ついて風の強さや温度を調節する。

    「げんぶさん、髪の毛を乾かすのも上手ですよね、気持ちいいです」
    「他人のを構うのは久々なんだけどな。手は結構覚えているもんだ」

     その瞬間しまった、と言わんばかりに直央が表情を変えていく。はじめはその表情の変化の理由に気づくことができなかった玄武だが、しばらく経ってようやく合点が付いた。おそらく玄武は彼に気を遣われてしまっていたのだろう。

    「……いいか、直央。いい機会だからお前にはちゃんと伝えておく。俺は確かに施設の出身で、今こうしてアイドルをやっているのが筆舌に尽くしがたいほど幸せだとは思っちゃいるが……。だからといって施設の暮らしが苦だったわけでも、思い出したくないと願いたいわけでもないんだよ」
    「そう、なんですか?」
    「ああ。なかなか信じてもらえないものなんだがな、施設の暮らしだって悪くはなかったぜ。楽しいこともたくさんあった。……昔の経験もひっくるめて、俺は俺だ。だから下手に気を遣わなくても大丈夫だし、気になる昔話があれば聞いてもらっても大丈夫さ。言いたくないことがもしもあれば、その時はうまく躱してやる」

     言い終わると同時に髪の仕上げが終わってしまう。ドライヤーの電源を落とし、コンセントを引きぬいた。備品を元の場所に戻そうと玄武が腰を上げた間も、直央はじっと押し黙ったままである。
     身体が冷える前に布団に入って寝ちまおう。声をかけ、その背中を押す。はじめに彼から言われていた通り、電気を消してから彼と同じ布団にもぐりこんだ時だ。「あの」と。直央が控えめな声で話を切り出した。

    「どうしても気になっちゃって。一つだけ、昔のげんぶさんの質問をしてもいいですか?」
    「ああ、言ってみな」
    「げんぶさんをおにいさんみたいだって慕う子供は、多かったんですか?」

     その問いに玄武は逡巡する。どうせ近い将来別れてしまうような子を友人とも、弟とも、妹とも言えないような煮え切らない距離で接し続けて。彼らは一体この少し年上の、不愛想な男のことをどう思っていたのだろう。
     真実を濁したいわけではない。真実が霞んで、その姿がよく見えない。それ故にどうやって直央に伝えたらよいものか、玄武にはそれが分からなくなった。
     玄武の顔をじっと見上げて直央が笑う。眠気も相まってかとろんと溶けたようにも見える瞳は、部屋の暗闇によく馴染んでいた。

    「ボク、その答えを知っている気がします」

     あんなにやさしく髪の毛を梳いてくれて、親身になって傍にいてくれて。たくさん優しさと愛をふりまいてくれるのだから。こんなにも体があたたかいのだから。

    「きっと、たくさん、たくさん慕われていて。げんぶさんと同じくらい、みんなもげんぶさんのこと、好きだったと思います」
    「……そうかな」
    「そうです、きっと」

     だからそんな玄武の弟の一人になれてうれしいのだと、直央が言う。どうしてかその一言が胸の中でつっかえたのだが、その正体はすぐに知れる。

    「……直央は、大勢の一人じゃない。特別だ」

     環境が変わった所為もある。それでも玄武から手を差し伸べようと、きちんと向き合おうと、そう思えた数少ない人間であることは確かだ。
     玄武の言葉を受け、直央が笑った気配がした。その身に腕を伸ばして引き寄せると「少し暑いです」と非難の声を受けてしまう。

    「どうせそのうち寒くなるんだ」
    「そうかもしれませんけど」

     まったく、もう、と直央が折れる声がした。玄武は満足げに笑って、それからゆっくり瞳を閉じる。人の気配がこんなにも濃い夜だというのに。今晩は不思議とぐっすり眠れそうだった。


     寄り添いあったまま眠り、そのまま朝を迎えて。帰宅したばかりの直央の母親が二人の姿を見やる。
     まるで兄弟というより、一周回って親子のようだった。
     昼過ぎになり、彼女と顔を合わせて早々にそう揶揄されたことが妙に気恥ずかしくなったことはまた別の話だ。





      * * * *



     長身の男の手が伸びる。ベッドに横たわり、か細い呼吸を繰り返している少年の額に優しく触れ、浮かび上がる汗を拭う。少年の身体にはバイタルサインをチェックするためであったり、生命活動を維持させる処置のためであったりと、大小さまざまな管が伸びてつながっている状態だ。その姿を改めて見下ろして、しばらく躊躇った様に息を止めた後、彼はその少年の手をそっと取る。

    『いいか、死ぬなよ、死ぬんじゃない』
    『お前まで居なくなったら、俺は――』

     祈りのような声は少年の呼吸と同じくらいに弱々しい。頑張ってくれ、俺も傍にいるから。そう繰り返す青年の姿が液晶画面に映し出される。頬杖をついてその映像を見ながら、玄武はマグカップのコーヒーに口をつけた。自分の顔をした、自分ではない男。撮影映像のチェックも含めて何度も見たはずだというのに、やはりどこか見慣れないものがあって擽ったく感じてしまう。

    「な、な、直央は、直央はどうなっちまうんだ玄武よォ」
    「なおのやつ無事だよな、げんぶのあにき!」
    「落ち着け。ちゃんと最後まで見ろ」
    「そうだよすざくくん、しろうくん、ネタバレはだめなんだからね!」
    「あはは……どきどきしながら見てもらえて、ちょっと恥ずかしいけどうれしいな」

     両親を事故で失って、頼れる親族も居らずに二人で手を取り合っていきていた兄弟。兄は早くに学校をやめて生活費を稼ぐため働いていたが、ある日兄が家に帰ってきたところ横たわる弟の姿が見つかった、というものだ。かろうじて息はあり一命こそ取り留めたものの、いつ亡くなってもおかしくない。そんな緊迫感の中で物語が進んでいく。
     話としてはそれほど意外性も面白みもないかもしれない。それでも朱雀や志狼といった仲間たちがこうしてドラマへ引き込まれていることに、玄武は少し安堵した。自分は監督たちの求める演技ができていた。彼らの反応が、その証明につながるからだ。
     自分たちは物語の結末を知っているから、と。話の展開こそは伏せつつも「ここの直央の演技がすげぇんだ。本当に死んじまっているんじゃないかと何度怖くなったことか」「これから先のげんぶさんの剣幕、監督さんもすごく褒めていましたよね」と二人で和気あいあいと会話を弾ませる。
     しかし朱雀と志狼はそれどころではないようで、「これ以上何があるってんだよ……」「なお、大丈夫だよな……」と固唾を呑んで画面に食い入っているのが対照的だ。かのんは朱雀の愛猫、にゃん喜威の背を撫でながらテレビの話と四人の話を聞いているものの「おはなしがむずかしくて、わからなくなってきた」と膨れっ面をみせている。
     確かに子供にはわかりにくい話だろうが、朱雀と志狼にはわかるのだろうか。聞いてみれば、口をそろえて「なんとなくしか分からない」と答えてくる。玄武は呆れて、直央も苦笑を浮かべてしまったが、かのんは自分だけが話についていけないわけではないのだと少し機嫌を治したようだった。

    「な、げんぶのあにき。これ今なんの話をしてるんだ?」
    「ああ、直央の病状の説明だ。どうにも心臓に持病があったようでな。もしかしたら先に亡くなっていた親は知っていたかもしれないが、本人たちは把握できていなかった。昔の医療じゃ難しかったかもしれないが、今の技術はかなり発達している。もっと早くに知っていてきちんと治療を続けていれば、完治はしなくともここまで悪くはならなかったのになって言われているんだよ」
    「ってことは、そう重たい病気じゃないってことか?」
    「原因自体はな。ただ、もう手遅れだそうだ。予兆だってあったのに、仕事ばかりで弟とあまり一緒にいられなかった兄は気付けなかったし、弟は兄に申し訳なくて何も言えなかったのさ」

     朱雀の身体が固まる。なんだよそりゃ、と口にした声は震えていた。『自分が早く気づいていれば』『弟をもっと気にかけていれば』と自身を責める青年に感情移入をしてしまい、涙腺が決壊する寸前のようだ。
     ただ、そこに立っているのは決して黒野玄武ではないのだが。役名を覚えていないのか、あえてなのか、朱雀は「玄武もすげぇつらいだろうに」と零していく。玄武は訂正をすることもなく「そうだな」とだけ他人事のようにして呟いた。実際、確かにつらいものがあったのだ。


     初めての提案の時はお互いの家を行き来して十日間ほどを一緒に過ごしただけなのだが。その後も直央の要望でこの関係は続いており、週末や春休みなどの撮影に至るまでの小さな休みも一緒に過ごすことが多くなった。
     撮影に臨む頃にはすっかり打ち解けあえていて、互いを信頼しあう兄弟という姿を何の抵抗もなく演じることもできていた。だからこそ役に感情移入をしすぎてしまう傾向のある玄武にとって、今にも死にそうな直央の姿を見るというのは精神的に消耗するところがある。
     血相を変えて直央の元に駆け寄った玄武の姿は監督から非常に高く評価されたものの、玄武はというと直央に触れてその温かさを実感するまで心臓がざわついて生きた心地がしなかったのだが。朱雀にも、もちろん直央にも、その話はしていない。もしかしたら人の感情の揺れ動きに機敏な彼らはとうの昔に察していたのかもしれないが。


    『どうすれば助かるんだ、なんでもいい、出せるものは全部出す、俺にできることを教えろ……! こいつだけは、弟だけは生かしてくれ……ッ!』

     自分とよく似た声の怒号が耳に入り、玄武は我に返る。画面を見つめれば男が医師たちに詰め寄っていたところだった。弟のため、その治療方法を聞き出そうと躍起になる男。対して医師たちの持つ手札は非常に少ないのだろう。戸惑い、その先を告げるには何かが引っかかるようで、渋い表情を浮かべている。まさに藁にも縋る思いでもう一度男が『悪魔に魂だって売ってやる、可能性が低くてもそれに賭ける、言え……!』と口にしたところで、玄武が黙したままリモコンに手をかけた。

    「あ」

     朱雀と志狼とかのん、三人の呆けた声がそろって重なる。男が医師の胸倉をつかんだところで、その世界の時が止まったのだ。皆が振り返り、そして玄武の手にあるものの存在を確認すると途端にその姿へと集まりだす。

    「げんぶくん、なんで止めちゃうの~!」
    「そうだぜ、ここから良いところだろぉ?!」
    「ダメだ、そろそろ時間も遅い。子供は帰る支度をしな」

     取り付く島もなく玄武は口にすると、リモコン操作をする手を止めることなく、そのまま録画削除を行ってしまう。非難の声が悲鳴へとかわっていったが、玄武は眉間にしわを寄せるだけでそれ以上何も口にはしない。

    「馬鹿野郎、ここでお預け食っちまったら中身が気になって気になって……しょうがなくなるだろうがよォ!」
    「……あの後は、数日のうちに臓器移植の提供者を見つけられないと厳しいだろうって言われたんだが。奇跡的にドナーが見つかってな。主人公たちの医療チームの努力の甲斐もあり、手術を無事に受けられることになったんだ」
    「じゃあ、なおくんは無事なの?」
    「そういうことになる」

     よかったぁ、とかのんが胸を撫でおろす。朱雀もそれに倣って安堵の息を吐いた。
     志狼だけが納得のいかない顔をしていたが、仕方がないと玄武が肩をすくませ、降参だと口にした。

    「手術のシーンも結構リアリティがあってよ。かなりグロい映像や音が出てくるのを思い出したんだ。それをお前たちには見せられねぇなって思ったんだが……。そんなに見たいなら仕方ない、録画したデータを持ってくるぜ」
    「エンリョします!」

     先ほどまでとは一転、力強い否定の声がその口から上がっていく。玄武は「よし」、と頷くともう一度彼らの帰宅を促した。

    「なおは今日も電車か?」
    「あ、ボクはこれからげんぶさんの家に行くよ」
    「さつえいも終わったのに? いいなぁ、かのんも遊びにいきたい」
    「えへへ、お仕事は終わってもちょっと寂しくなることが多くなっちゃって……たまにこうやってお邪魔してるんだ」

     直央と玄武、朱雀を残してもふもふえんの二人が渋々といった具合に席を立つ。かのんの背中に「親の許可が取れたら遊びに来ても良いぜ」と声をかければ「ぜったいだよ!」と返ってきた。
     彼らが荷物をまとめるために扉の外に出たところで、ふぅ、と少し大きなため息が出る。どうやら玄武だけでなく、直央の口からも漏れたらしい。朱雀がじぃっと二人の顔を交互に見やり、何か物言いたげな顔を浮かべた。ようやく選ぶべき言葉が見つかったのだろう。しばらくたって、朱雀が発した言葉はこうだ。

    「最初から断っときゃいいのによ」

     朱雀の言葉に、玄武は何も返さなかった。
     彼が言いたいことは分かる。玄武はそれらしい言い訳と実力行使を元に、ドラマを楽しんでいたもふもふえんの二人に「続きを見るな」と暗に告げた。察しの良いかのんはすぐに身を引いてくれたが、志狼には若干時間が必要だったようだ。それでも玄武がこの先の展開を見せることを拒んでいると気づいてくれたようで、鑑賞の時間はちょっとした茶化した空気を混ぜつつ終わってくれたのだが。そもそもドラマを見ようという提案が昇ってきた段階で、玄武は様々な理由を付けてそれを回避すればよかったのだ。そうすれば、幼い子供たちに気を遣われることもなかっただろう。

    「きっと、思ったよりみんながドラマに見入っちゃったから……げんぶさん、この先の展開のこと心配しちゃったんですよね」
    「まぁ……そういうところだな」

     この作品の登場人物を、黒野玄武と岡村直央とは全く違う人物として楽しんでくれたなら。そうであれば玄武とて、このまま物語を流し続けても構わなかったのだ。途中で多少ショッキングな光景も混ざってくるが大丈夫だろうかとだけ聞くことはあったかもしれないが、こうした強硬手段に出ることもなかっただろう。
     問題は物語の半ば、起承転結の転に差し掛かっても『玄武が』『直央が』と現実の人物の名前を呼び、その心情にも共感をするような彼らがいたことだ。人物の境目が曖昧で、混合させてしまっているような彼らにこの先の展開を見せても良いものか。必要以上に、心を痛めてしまうのではないか。玄武はそうした心配をした。

    「朱雀になら、言ってもいいかな。あいつらと比べたら分別の付いた大人だしよ」
    「お、おとな……。そういわれるのはムズ痒いけどよ、展開が気になってしょうがないのは確かだぜ。教えてくれよな!」

     きちんと話を聞くためか、朱雀がソファの上で居直して玄武と直央の方へと向き合う。その拳が力強く握られているのを見て、玄武は肩の力を抜くように告げた。これから口にするのはあくまでフィクションなんだからと付け加えて。

    「兄はこの翌日、親と同じように事故にあう」

     あくまで淡々と、物語の筋書きを語りだす。
     玄武の演じる男は医師から治療法を聞き出した翌日、車にはねられる。頭を強く打って即死だと。それを聞いた瞬間に、朱雀の身体が震えたのを玄武は感じ取ったが、なおも話を進めていく。
     それは単なる偶発的な事故ではない。さらには兄弟の両親が事故で死んだことにも意味があった。その行為は、子供の命を救うための道具を用意するために必要だったのだ。

    「保険金と血縁者の臓器。それがあればあの子は助かる。同じ方法を思いついちまったことで、兄は両親の死の理由を知ってしまうのさ」
    「さ、さっき、直央が……あの子供が助かるって言ってたよな?」
    「頭を強く打ち付けての死だ。臓器は無事。そいつを弟に移植したのさ。血縁者、兄弟なら赤の他人よりずっと適合する可能性が高い。それに賭けていたんだ。臓器がダメでも金だけは弟の下に入るから、今よりずっと生存する確率も高くなるだろう」
    「ボクの演じた子供は、おにいさんがどうなったのか知らないんです。ただ、ボクの身体を治すためにおにいさんが頑張ってくれて、その関係でしばらく会えないよってことだけ伝えられて、この話は終わりです」

     後味が悪いですよね、と直央は苦笑する。二人の話を聞いた朱雀はしばらく茫然としたあとに、手を伸ばしてぺたぺたと玄武の身体を触りだした。そこにいる玄武の姿を確かめるような突然の行為に、玄武が少しうろたえる。

    「おい、やめろ、気色ワリィことすんな」

     だから死んだのは俺じゃない。呆れたような玄武は言うが、意外にも朱雀が浮かべているのは神妙で真剣な表情だ。玄武がそのまなざしの鋭さに息をのむ。

    「お前、大丈夫か」

     短い言葉だが、そこに秘められた意味はきっとたくさんあるのだろう。玄武は役を演じる時に役の感情や設定に飲み込まれやすい男だから、痛みや苦しみを今も抱えているのではないか。撮影をしたのはずっと前でも、映像を見て思い出すことでその時の気持ちに沿ってしまっているのではないか。普段よりもその身が冷たく感じるのは、血の気が引いている証拠なのではないか、と。雄弁な瞳に聞かれている気持ちにもなった。

    「……大丈夫だ。確かに当時は結構辛くも感じたし、今も思い出しちまったところはあるけどよ。俺も直央も見てのとおり無事息災、意気軒高に過ごしているんだからな。不安に思ったって仕方ない」
    「そうだけどよ。まぁ、なんだ、無理はするなよ。大変な仕事だったなぁ、おつかれさん」

     朱雀の腕が伸び、玄武とその隣にいる直央をまとめて抱き寄せる。二人でしばらく困惑した表情を浮かべた後、おとなしくその頼もしい男の体温を受け取った。



      * * * *


    「げんぶさんにあたまを撫でてもらったとき、ボク、本当に安心して……勇気が湧いてでたんです」

     直央が玄武の家に泊まりに来るのは久々のことだった。撮影が終わってからもこうして訪れる機会こそあったが、それでも一か月以上は間が空いているだろう。経験からか慣れたように荷物を下ろし、定位置のようにもなったクッションへ座り込む。それから直央が唐突に発した言葉に、玄武が首をかしげてみせた。最近、彼の頭を撫でたことがあっただろうか。

    「ドラマの撮影の話です。久々に見て、あの時のことを思い出しちゃって。ボクが酸素マスクとかいろいろつけて、横になっていたところの話ですよ」
    「ああ、あそこか……」
    「ずっと苦しい演技をしなきゃって思っていたんですけど。手を握ってもらえたのもすごく心強くて……ボクは大丈夫だって気が緩んじゃったんですよね」

     意識はないはずなのに、兄に触れられて一瞬だけ表情を緩めた少年の顔。それがまた兄弟の絆を感じる演出として素晴らしいと、たしか監督が絶賛していたはずだ。直央の名演技の裏にあった感情に触れ、玄武は今更擽ったいような気持ちになった。こんな表情を、たしか興奮した監督からの褒め殺しにあっている直央も浮かべていただろうか。
     役の上できちんとした兄弟を演じて数か月。日常においてもすっかりお互い気を許しあい、赤の他人とするにはいささか距離の近い関係として接するようになって半年くらいは経っただろうか。
     この体験を提案して、玄武には良かったと思ったことがある。孤独を寂しいと本人が吐露し、母親からも心配されていた少年を自分が救えたということだ。彼だけの、小さな英雄にでもなれた。そんな気持ちだ。玄武自身もまた、子供に対してどこか一歩引いてしまいがちだった自身の殻を破れたという感謝を直央に対して抱えている。お互いを尊敬し、それでいて欠点を埋めて高めあえた。これは大きな収穫だ。
     同時にこの体験によって、苦しく思ったことも少なからずあった。役を引きずる傾向にあるというのは玄武にとって長所であり短所だ。役を深く理解して憑依できる、多少のブランクがあっても当時と全く同じような演技ができる。その点においては優秀だ。だが、その分負の感情までをも長い間背負い込むことが多いというのはいただけない。表情に出さないようにしているが、今だってそうだ。玄武の脳裏であの時の感情がフラッシュバックする。弟が倒れていた時の胸騒ぎ。彼を助けるための手段を医師から聞き、その選択の狭さに目の前が暗くなった時の絶望。意を決して重たい脚を前に出し、鉄の塊が目の前に迫った時の不思議とすっきりとした、死を目前にした時の感情。
     そこに直央の手が触れる。玄武は驚きに目を丸くして、自分の手を握ろうとする柔らかくて暖かいてのひらと、それから照れ臭そうに笑っている少年の顔を交互に見る。

    「ね。こうすると元気がわいてくるでしょう?」

     そうだな、と。出した声は存外に落ち着いていたし、強張ってはいなかった。

    「……夕飯、何が食いたい?」
    「冷凍じゃなくて、手料理がいいです」
    「食材はないぞ。買いに行くか」
    「ドラマを見たって声掛けられちゃったら、どうしましょう」
    「雑誌のインタビューでも語ったんだ。俺たちの出番は終わったが今後もよろしくって番宣しておこうぜ」

     直央の手を握ったままゆっくりと玄武が立ち上がる。じっと自分を見つめるままの瞳が何かを言いたげで、そっと背を丸めて屈んでみた。
     自分と彼しかいないというのに。耳打ちをするように小さな声で直央が言う。

    「よかったら、今日はいっしょに寝てくれませんか」

     意外な申し出に玄武が目を丸めてみせた。困ったように眉を八の字に曲げた少年が言うには、『怖くなってしまった』らしい。

    「ドラマ、途中で止めてくれて助かりました。実は……車が迫ってくるシーン、一度もきちんと見られなかったんです」
    「ああ、あそこか……」
    「げんぶさんは大丈夫だって分かっているんですけれども。それでも、嫌だなって思っちゃって。少し心細いんです」

     自分だって同じだ。玄武は胸中でそう返した。演技で倒れた彼を見た時、どれだけ肝が冷え切ったことか。

    「……いいぜ、一緒にいよう。その代わり急に倒れたり、体調を悪くしたりはやめてくれ」
    「はい。げんぶさんも車には気を付けてくださいね」
    「分かっている。そいつはシャレにならねぇしな」

     明日は休みだ。事務所には顔を出しても良いかもしれないが、絶対に行かなければならないという用事はない。学校も同じだし、誰か友人と交わした約束も特にはない。
     その分ゆっくり休められるし、少し寝坊したところで咎める人間はいないだろう。あたたかい体温が隣にある。それだけで心が落ち着くことを知った身として、直央の存在はありがたい。

    「直央」

     もう一度外に出かけるため、軽く身支度を整える。そう手の込んだものではないとはいえ、すぐにアイドルの黒野玄武と岡村直央だと分からないように帽子や眼鏡を変えておいた。それから彼の名前を呼び、玄武は手を差し伸べる。今度は直央が一瞬だけきょとんとした表情を浮かべると、すぐに笑顔に変えてその手を取った。
     次に兄弟としてのオファーが来たら、その時は幸せな役もやってみたいなぁ。
     独り言かもしれない直央の言葉に、玄武は静かに頷く。

    「もしかしたら、親子の役が来ちまうかもな」

    顔を見合わせ、二人でひとしきり笑ってみせた。


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    yayosan_P

    PASTFE覚醒12周年おめでとうございます! 干支が一周した……。
    大昔に出していた、ジェロームとマークちゃんが兄妹設定の絶望の未来のお話です。
    DLCぜつみらのマークちゃんがドラゴンマスターでさ……私はさ……嬉しかったんですよね、へへ……ッ。
    10年以上前のお話ですが楽しんでもらえたら嬉しいです。
    【FE覚醒】いとしき望んだ世界の子 一人ぼっちにはなりたくない。
     それが、少女が口にした悲痛な叫びだ。
     ぱちり、ぱちり。
     数度、彼女はその大きな瞳の開閉を繰り返す。視界が一度黒に染まり、そして再び空を映せば、桃色の睫毛が揺れていった。
     横たえていた体を起こし、周囲を見渡す。
     広がる空は、青くはない。
     新緑の生い茂る大地もどこにもない。
     枯れ果て、痩せこけた、悲しい色をした世界。
     それを視界に収めながら、少女は何を思うでもなく。ただ茫然とその場に佇み続けるのだ。

     神竜ナーガの声を聞いた。
     それは、遠いようで、つい先ほど彼女が経験したばかりの出来事である。湧き上がる数多くの屍兵と戦い続け、命からがら生き長らえることを日常としていた世界にやっと見出す事のできた光明。それは、神竜ナーガに対してやっとの思いで捧げる事のできた、覚醒の儀のことである。
    25437

    yayosan_P

    MOURNING2020年10月10日開催の「お好み焼き祭」にて頒布した本の再録です。
    WEB再録二本 + 書き下ろし一本を収載した本でした。眩と利狂中心。読み手を選ぶ内容です。
    筆者は公式ではきっと全然そんなことない話を、あたかも事実であるように二次創作するのが趣味です。
    当時手に取ってくださった方はありがとうございました。また、今回初めて読んでくださる方も。ありがとうございます。
    パンドラボックス その壱、開けずの冷蔵庫

     我が家には『[[rb:開けず > 、、、]]の冷蔵庫』がある。開かないのではなく、開けていないだけだ。
     俺がその存在に気づいたのは暑い夏の日で、そう、教授の居ない時間に家の掃除をしている時だったはずだ。
     プライベートな空間だからという理由が七割、その先が魔境であることの想像が容易なので自分の精神衛生上目に入れない方が健康に良いと分かっているというのが残り三割。そんな理由で滅多に足を踏み入れもしない教授の私室を覗き見てしまったのは本当に単なる偶然だった。
     俺自身の名誉のためにいえば、好奇心でそうしたわけではない。
     暑さに耐えかねてかいつものずぼらかは知らないけれども、あの人が自室の扉を開けっ放しにして外出してしまったのが悪いのだ。不幸中の幸いは、その間に昆虫の類が脱走して俺との共同スペースなどを侵略することがなかった点だろう。
    7002

    yayosan_P

    MOURNING元々某支部に掲載していましたが、色々あって作品非公開にしたので。支部でしか読めなかった話を引っ張ってきています。
    眩くんがこの歳になってはじめて喧嘩できるだけの友達ができたというか人付き合いができたとかだったら三日三晩踊り狂ってしまうなと思った話。杁の兄属性に夢を見ています。
    家出少年は安息を知る「もう、いい加減にしてください!」

     腹の底から出した言葉はその内容こそ普段と変わらないものだったが、声色は怒りに震えたものだった。
     いつもと違う声を耳にして利狂が眉毛をピクリと動かす。力強く机を叩けば天外と溺は会話を止め、それぞれが眩に向き直った。
     はぁ、と呼吸が荒くなる。目が赤くなっていないかを本当は気にかけるべきだったかもしれないが、そんな心の余裕も無くなるくらいに頭の中が乱れていた。真っ白というよりも灼熱のマグマに覆い尽くされ焼かれていくような心地だ。眩は自身の内側から湧き出る衝動と感情に任せるまま、鞄と携帯を掴むと外に飛び出す。
    「くらむん」と、焦ったような溺の声が聞こえてきた。「やめなさい」という利狂の制止は果たして眩と溺、どちらに向けられたものだろう。「くらむん」、最後に聞こえた天外の声色は聞いたことがないくらいに寂しそうなものだったが、絆されてなるものかと強く、扉を閉める。
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    yayosan_P

    MOURNING6年2か月ぶりの神速もふイベ、3年半ぶりの玄武くんと直央くんの共演、とても幸せでした。ありがとうございました。
    2019年1月に出した同人誌の全文です。玄武くんと直央くんが兄弟みたいに仲良くしていてほしい欲しかない作品です。
    10さんに描いていただいたイラストも是非見てください。
    https://twitter.com/yayosan_P/status/1335964737390006272
    ふたり 歓声が身を包む。
     暗がりの客席を照らし出すサイリウムの光たち。思わずその輝きに目を奪われながら、黒野玄武は荒い呼吸を繰り返していた。やりきった。そんな思いが沸き上がる。

    「ありがとう、今日は最高のクリスマスだ!」
    「みなさんからのクリスマスプレゼント、しっかり受け取りました」
    「最後はみんなでしめようぜ、せーの……」

     メリークリスマス。曲を歌っている時とはまたちがった一体感と空気の振動が会場を包む。パンと小気味よい音が鳴り響くと同時に、クラッカーに見立てたキャノン砲から銀テープが舞っていく。
     また会いにきてくれ、俺たちも会いにいくから、またキラキラを一緒に見よう……。それぞれが口々に別れの言葉を発して、ステージ裏へと戻っていく。改めてライブが終了となった旨を告げるアナウンスが流れるその時まで、会場の歓声と拍手は続いていた。
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