天使の子 前編『ごめんなさい』
小さな子供の声だった。
ぐすぐすと鼻を鳴らしている可愛らしい少女の声。
小さな手をぎゅっと前で握りしめて、口をへの字に曲げている。
ああ、そんなに泣いたらそのまんまるの目が溶けて落ちてしまうのに。
『ごめんなさい』
少女は繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさいと。
そんなことを言わせるはずではなかった。
悪いのは自分の方だ。
彼女を一人で置いてきてしまったのは自分の方だった。
声も姿も記憶も、もはや薄く霞みがかったように朧げだ。
彼女はどんな子だっただろうか。どんな声で自分の名前を呼んでいただろうか。どんな笑顔を見せていただろうか。
目の前の少女は本当に自分の妹だっただろうか。
『ごめんなさい、にいさま』
何故自分は最愛の妹の涙を拭ってやることも出来ないのだろうか。
どうして彼女は、こんなにも悲しそうに。
起床の館内放送で目が覚める。朝の交代の時間だ。
思わず止めていた息をゆっくりと再開した。喉がひりつくように乾燥している。
部屋の外では既に船員たちが動き出しており、分厚い壁越しにくぐもった音が聞こえてきていた。
船長室は真っ暗だった。海を見渡せる小窓も水深五百メートルの世界では光はおろか生き物の影さえ映さない。
ローはもう一度ぎゅっと目を瞑ってから、ゆっくりと身体を起こした。
頭が重い。目も疲れている。喉はこびり付くように乾燥していた。典型的な寝不足の症状だ。加えて浅い眠りのせいか夢見も悪かった。
まだ子供の声が脳裏にこびり付いている。起き抜けで曖昧になっていく夢の内容の中で、あの謝罪の言葉だけは忘れられなかった。
家族の夢を、特に妹の姿を見たのはいつぶりだろうか。
家族のことを想わなかった日はない。しかしあれから随分と時間が経ってしまった。自分は恩人の本懐を遂げ、旧四皇討伐にも手を貸し、腐れ縁の海賊王就任までも見届けて、今や自身が四皇となっている。
仲間も沢山増えた。あの燃え盛る故郷から一人ぼっちで逃げ出し、一度は全てを失った。そんな自分が今では立派な海賊団の船長だ。
久しくその姿を思い描いていなかった。もう家族と一緒にいた年数よりも旗揚げと共に一緒に海を出た仲間達といる方が長い。あの平穏で豊かな日常は、もう遠い向こうの世界だった。
数度深呼吸をしてベッドから起き上がる。顔でも洗って気分を入れ替えるべきだろう。
船室から外へと続く扉を開け顔を出す。
「うわっ」
その瞬間、すぐ横からぎょっとしたような声が聞えた。
拳数個分下にある顔へと視線を降ろす。一番の馴染みの顔だ。
船長の幽鬼のような顔つきをものともせず、ペンギンは「もー!」と眉を顰めた。
「あんたまた睡眠時間削りましたね。今なら顔つきだけで島の一つでも滅ぼせそうですよ」
「そりゃお前もとんでもない船長を持ったな」
「ちったあ反省の色見せてくださいよ。医者の不養生なんて笑えないですよ」
口うるさい小言にローは頭を掻く。
「顔でも洗ってマシにしてくりゃいいんだろ」
「そのこびりついた隈が洗顔程度でどうにかなるならいいですけど」
でもまあ、それはちょっと待ってください。
そう言われてローは首を傾げる。そしてそこで初めてペンギンがその手に抱えているものに気が付いた。
はい、と電伝虫を差し出される。ハートの海賊団が所有する長距離用電伝虫、しかもあの腐れ縁海賊へ繋がるものだった。
「麦わらのとこの船医からです」
その言葉に素直に電伝虫を受け取る。
ペンギンはローへ電伝虫を押し付けるとさっさと向こうへ行ってしまった。元々これをローに渡しに来るために来たのだろう。
部屋へと逆戻りし、電気を点け椅子に座ったローは保留にしていた電伝虫を解除する。途端、良く知っている声が耳を突き抜けた。
『トラ男~!』
思わず受話器を耳から遠ざける。向こうがどの程度の時差の場所にいるかは知らないが、朝一に聞く声量ではない。
額を抑えて呆れたように返事をする。
「トニー屋、もう少し声を抑えてくれ」
『あ、わ、悪い!元気だったかトラ男!』
「ああ、まあ、それなりに」
先ほど寝不足を咎められたばかりのローは後ろめたさに曖昧に返した。
もう同盟相手でもなんでもない海賊相手にこんな挨拶をするのは彼らだけだろう。
「俺に用事なんだってな。どうした、珍しい症例にでも行き当たったか?」
麦わらの一味の船医、トニートニー・チョッパーが連絡をしてくるのは珍しいことではない。大抵は医学知識の交換だったり、珍しい薬草の発見報告だったり、新しい術式の話だったり。どうしても閉鎖的になりがちな潜水艦に新しい知識を芽吹かせることに一役買っている小さな医師はハートの船員達からは気に入られている。
『ああ、そうなんだ。ちょっとトラ男に助けてほしい患者がいて』
それならば珍しいことだ。意見が欲しいのならまだしも、自分の治療が必要だと望まれたことは多くない。
「外科的治療が必要な症例なのか?」
『……多分』
「なんだそれは。確定診断がついていないのか?」
歯切れの悪い物言いに訝し気な顔で聞き返す。
このトナカイ医は気弱なところがあるとはいえ、医者としての腕はローも知るところだ。そのチョッパーがこうもはっきりとした物言いをしないのは可笑しな話だった。そもそも彼の手に負えない疾患等早々無いだろうに。
自信なさげな、不安そうな声音で言葉を続ける。
『おれもこの病気は初めて見るんだ。とっくに根絶されたものだと思っていたから、この病気に対する知識も対処法も何もかも足りない。カルテはあるけど、それが治療に繋がるのかも判断出来ない。だからトラ男に連絡したんだ』
根絶。
その言い方に嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
『第一、おれはこの病気をずっと勘違いし続けていた』
「かんちがい」
奥歯ががちりと鳴る。
『ああ、そうなんだ。ずっと世間から勘違いされてきた病気なんだよ。それが違うって分かったんだ』
食道から胃に、胃から腸に。緊張が伝わってローの身体を内側から縛りつける。
心臓の音が耳のすぐそばで聞こえてくる中で、聞いて驚くなよ、とトナカイ医は静かに告げた。
『珀鉛病だ』
初めは麦わらの一味のいつもの冒険から始まったのだという。
上陸した島で案の定トラブルを起こした海賊王達は、あれよあれよとその島の中枢施設を半壊させてしまったらしい。
先に攻撃してきたのはあっちよ、とは優秀な航海士の言で、民間人も巻き込まれていたものね、とは博識な考古学者の言だ。
そこは世界政府が所有する研究施設がある隠れ島。パンクハザードを想起させる実験の数々を目の当たりにした海賊王達が動かないはずもなく、研究員たちをすっかり倒してしまったらしい彼らが見つけたのは怯える実験体達だったという。
『多分ここは世界中の病気を研究する施設だったんだ』
道すがら電伝虫で状況を伝えてきたチョッパーは悲しそうな声でそう言う。
『でも治すための研究じゃなかった。珍しい病気や、もう無くなってしまった病気を再現することが目的だった。病気を使って一時的に身体強化をするような実験もしていたらしい。健康な身体だった人達がある日突然病気にされたんだ』
だから助けて欲しいと。自分たちの手では全てを救い切れないとハートの海賊団へ連絡を取ったのだ。
震える声で進路の変更を告げた船長をシロクマのミンクは心配そうに見つめる。他の船員達には強がってそんな姿は見せられない。旗揚げ当時から共に歩んできた幼馴染だけが、その丸まった背中を知っている。
ベポはゆっくりとその背を撫でると、最速の航路を取るために 操縦室へと向かった。
存外近い場所にいたらしい麦わら達の場所へ辿り着いたのはそれから丸一日経ってからだ。
確かにこれは傑作だと、半壊になった施設とボロボロの港の前で乾いた笑いが出る。よくもまあこれだけトラブルを引き寄せられる。
船から機材を下ろすよう船員達に伝え、ローは一人島の奥へと進んだ。
建物の奥からトラ男ォー、と手をブンブンと振っているトナカイが見える。周囲には瓦礫を片付けている船大工や音楽家もいた。
この場に全員は揃っていないようだ。
「トニー屋、遅くなった」
「ありがとう、来てくれて嬉しいぞトラ男!」
硬い蹄の手でぎゅぅと手を握られて、ここに来るまでに緊張していた顔の筋肉をようやく動かす。
「あいつはどうした」
いつもなら自分を真っ先に見つけてすっ飛んでくる海賊王は今この場にはいない。そしてその両翼も姿は見えない。
「ルフィか?ルフィなら今ゾロやジンベエ達と一緒に施設の奥を見に行ってる。逃げ遅れた患者がいないか探しに行っているんだ。サンジは炊き出しの準備をしてくれているし、ナミとロビンは動けない人達の面倒を見てくれている」
そうかと頷く。
復興作業は他の島民達や動ける麦わらの一味が行っているらしい。
「うちのクルーにも作業に加わるように伝える。念の為物資は途中補給してから来た。足しにしてくれ」
「トラ男〜!」
「おい待て、抱きつくなよじ登るな、待て分かったから」
感激のあまり飛び込んできたチョッパーを両手で抱える。
仕方ないのでそのまま胸の前で抱っこすることになった。
「サンジも喜ぶんだぞ!」
「後で医薬品のリストも渡す。使えそうなものは多めに持ってきた」
チョッパーはローの腕の中で目を輝かせる。
彼の麦わらの一味では揃えられないようなものでも、数多の海を駆け医療技術に特化してきたハートの海賊団にとっては用意することなど造作もない。
ふわふわな毛並みの小さなトナカイ医を抱えながら、ローは意を決して口を開く。
「それで、俺に見てほしいって患者は」
ああ、とチョッパーは少しだけ表情を曇らせた。
「今奥の部屋にいる。診てもらった方が早いと思う」
「……珀鉛病だと聞いた。あれはもう歴史から消えた病気だろう。それがなんで今になって」
生き残りは自分だけだと思っていた。
運良くあの国から抜けられたとして、その後の迫り来る寿命をどうにかする術はないはずだ。
ローのように悪魔の実の能力者にでもならなければ。
「ああ、そうなんだ。初めは吃驚した。でも外見的特徴は完全に一致しているし、見つけた時も装置にそう書いてあった。だから珀鉛病なんだと思う」
「装置?」
思いもよらない言葉に首を傾げる。
「ああ、そうなんだ。見つけた時はあの子は機械の中にいて。えっと、これに関してはフランキーの方が上手く説明出来るかもしれない」
そう言ってそばにいたフランキーを呼ぶ。彼は会話を聞いていたのだろう、「オウ!」と二つ返事で二人の疑問に答えた。
「あれは冷凍装置みたいなもんだな。人を生きたまま保存するために作られた装置ってのか?連中はコールドスリープとも呼んでたな。よくもまあそんなことを考える」
「冷凍装置」
「おう、機械も実際バラして見たけどよく出来たもんだったぜありゃ」
フランキーの言葉を引き継ぐようにしてチョッパーは話を続ける。
「珀鉛病は十数年前に根絶されてるはずだった。あの子の歳じゃ当時生まれてすらいない。最初はこの施設で新たに珀鉛病に罹患させられた子供なのかと思ったんだ」
「……患者は子供なのか?」
声が震える。
「詳しい年齢は分からないけど、十歳はいっていないと思う。栄養状態が悪いから小柄で、随分と痩せていた。そのコールドスリープとかいう装置が本当に人間をずっと保存できるなら、もしかしたら彼女は成長すら止まっていたのかもしれない」
彼の言わんとするところを察して目を丸くする。
「まさか、当時の患者だとでも?」
「じゃないと説明できないことが多いんだ」
チョッパーは神妙に頷く。
まず第一に、と前置きをした。
「珀鉛病は中毒だった。これは事実で、歴史とは異なっている部分だ」
勘違いしていたと電伝虫越しに言っていた。なぜ今になって、この病気の真実が出てきたのだろうか。
「ずっとずっと、珀鉛病は感染症だと思われいて、おれもそう思ってた。珀鉛病は長い間体の中に珀鉛が蓄積することで発症する病気だ。原因物質をちょっとの間摂取した程度じゃ発病にまで至らない」
その子供は末期なのだという。
「多分あの子はその装置の中にいたから今まで生き残れたんだ。装置が機能を失った途端、酷い発熱や痙攣が始まった。今は薬で落ち着いている」
「なぜその装置は機能を失ったんだ?」
「ここの研究員たちが逃げていく時に主電源を落とした。腹いせだ。そうなればここにいる患者全員が困るって知っていて、アイツら施設の電源を落としたんだ」
既に麦わら一味随一の発明家と船大工が非常電源に切り替えたらしい。
しかし一度機能を失った装置の中で患者の時は再び動き始めてしまった。
だからローが呼ばれたのだ。
「最初はこの子が珀鉛病だと分かった時、どうしていいか分からなかった。感染症だと思っていたから、もうここにいる全員が感染していると思ったんだ」
不安だっただろう。致死率の高い感染症に、船員の衛生管理、 残された患者達。
最悪の事態も脳裏に過ぎったはずだ。
見捨てる覚悟を、置いていく覚悟を迫られたはずだった。
それが一味の命を預かる船医の仕事だからだ。
「でもルフィが、そんなの関係ないだろって。俺達が助けないで一体誰が助けられるんだって」
ローはチョッパーを抱く手の力を強めた。
「おれもそう思った。ここにはおれ達しかいなくて、あの子のことを知っているのもおれ達しかいなくて。それで見捨てたらおれはもう医師じゃ無くなってしまう」
記憶に過ぎったのは自分の肌を見て騒ぎ立てた医者達。
かつて嫌という程回った病院の数々。
「それで、なにか治療の手立てはないかってこの施設に残されたデータを漁っていたら、この子の生体情報に行き着いた。それで珀鉛病の真実を知ったんだ」
はは、と乾いた笑いが漏れる。当然だ、世界政府はそんなことをとっくに知っていて、だからこんな施設に感染対策も無しに堂々と患者を眠らせていたのだ。
「珀鉛病は、中毒だった」
もう一度チョッパーは噛み締めるように言う。
だから安心してくれ、トラ男。
そう言い聞かせられる。
珀鉛病は伝染らないと、治せる病気かもしれないと。
そんなこととっくに。
そうしてチョッパーに案内され辿り着いた部屋には一人の少女が寝ていた。
比較的被害を受けていないきれいな部屋で、かき集めた毛布やマットレスで作られた小さなベッド。傍らには点滴が伸びている。
肌も、わずかに震えるまつげも、波打つ髪の毛も全て真っ白だった。
末期も末期。まるで彫刻のように、恐ろしいほど美しい少女を目の前にローは早打つ心臓を抑えた。
十数年前に滅んだはずの病気に罹っているにしては、彼女は幼過ぎた。
もしかしたらあの教会ですれ違ったことがある子供の可能性も考えていた。
フレバンスの悲劇の当時にその年齢だったとしたら皆教会のシスター達にお世話になっていたはずだ。
「臓器不全を起こしているんだ。酸素投与や輸血をして今は誤魔化している」
横から渡されたカルテを奪うように受け取り、ローは素早く目を通した。
記憶の中の愛が訴えかける。
朧げだった幻想が形を取り戻す。
震えるように呟かれた言葉は音にはならなかった。
隣にいたチョッパーでさえも聞き取れなかっただろう。
ローは、もう久しく呼んでいなかった名前を絞り出すようにして口にした。
ラミ、と。
ゆるやかに動く胸に安堵する。
呼吸器の僅かに曇る蒸気に喜びが胸を占める。
人形ではない。死体でもない。生きた身体が目の前にあった。
どうして彼女が、それもあの時とまるで変らぬ年齢で。混乱と歓喜と、驚愕。沸いては出る疑問に蓋をしていく。
トラ男、頼む。
そう言われて我に返ったローは「ROOM」と呟いた。自分は今医者としてここにいるのだ。
「……たしかに、これは中毒だな。発熱、痙攣は中毒症状によるものだろう。重金属中毒は脳に影響が出やすい。引き続き酸素投与は継続していくべきだ」
「多分このままじゃ三日と持たないと思うんだ。薬物療法だけでは限界がある」
チョッパーは悲し気に少女を見た。
その見立てには同意できる。今は容態が落ち着いているように見えるが、中毒症状を起こしている身体ではいずれ子供の体力が負けてしまう。
「見たところ珀鉛が一番蓄積しているのは肝臓だな。装置から出て今まで意識が戻ったことはあったのか」
全体をスキャンし、臓器の状態を隈なく見ていく。十数年前の自分の状態と同じだった。
「はっきりと目が覚めた様子はなかった。ここに移動させたときに少し身じろぎしたくらいかな」
「……多分この状態なら肌は触られただけで激痛が走るはずだ。それで意識が一時的に覚醒したんだろう」
「そう、だよな……きっと痛かったよな。多分今も……」
つるりと白い肌は見た目ほど良いものではない。皮膚の本来の機能は失われ、ごわごわとしている。その昔、服と擦れて痛かった事を思い出して思わず己の腕を摩った。
自分に似て直毛だったはずの少女の髪は白く染まりふわふわとしている。鼻と頬と、少し赤く染まっていたあの可愛らしい丸い顔は陶磁器の人形のようだった。
「ロー、助けてあげられるか」
蹄をぎゅっと合わせ、祈るようにこちらを見上げる。深呼吸をした。
「……俺の能力で肝臓に珀鉛を集めてそこを切除するという方法がある。肝臓は再生能力の高い臓器だ。もちろんこれまでに小児の肝臓切除の経験はある。あとは子供の体力との勝負だが、十分に勝算は見込める。それから血中の珀鉛濃度も下げる必要があるが、これは追々やっていけばいいだろう」
まるで他人事のように話す。
「じゃ、じゃあ!」
「治せる」
生き証人である己の言葉に小さな船医は目を輝かせた。
ローは傍らに降ろしたチョッパーを一瞥し、そして少女に視線を戻した。
治せる、治せるが。
「手術に入る前に機材の準備がしたい。それから執刀メンバーの確保も。場所はうちの船の手術室でいいか」
「大丈夫だ!」
「止まっていた時計の針が動き出した以上、悠長なことは言っていられないだろう。三時間後にはオペを開始する。二時間後から術前カンファレンスを行う」
そう言って、辛うじて取り乱さずに病室を出る。
まだ残っている患者を見て回るというチョッパーを残してローは自船へと足早に歩く。
さっきも言った通りもう少女の身体には猶予はない。既にローが到着するまでに一日が経過してしまっている。
治療の計画書を作りメンバーへの周知も必要だった。なによりあのトナカイ医にも説明できるものを。
いや、そうではない。そんなことは後でもいい。
暫く歩いて、壁にずるずると寄りかかる。
我慢していた様々な感情が込み上げて、思わず口を手で覆う。
どうして、どうして彼女が。
「……ラミ」
生きていた。彼女はあの国から逃れていた。
あの時よりも病状が進行し姿は変わってしまっていたが、ローの小さな可愛い妹は生きていた。
歓喜していた。それと同時に混乱もしていた。
彼女はこの十数年、まるで成長していなかった。最後のあの瞬間を切り取ったかのように小さいその身体で懸命に病気と闘っていた。
冷凍装置と呼ばれていたものが彼女の時を止め、奇跡的に死の一歩手前の時間を繰り返し続けていたのだ。
その邪悪さに嫌悪する。誰かがあの戦場の最中珀鉛病の検体として妹を連れ出したのは間違いない。一体何のために。
ローは視線を彷徨わせる。
施設の広間ではここの実験体だったと思しき人々が毛布を片手にそこらかしこで休んでいた。
一人は全身に鱗のようなものが生えた男で。一人は鋭い牙を持ち角が生えたような女で。一人はまるで爬虫類のように骨格が変形し。一人は手足が倍に増えている。一人は、一人は。
博覧会の様な有り様に口を一文字に結ぶ。
彼らは既に麦わらの船医に診察され、命に別状は無しと判断されているのだろう。喫緊の課題は少女だが、ここにいる実験体達もこのままでいいとは思えない。
彼らと同じく妹はこの施設に目的を持って捕らえられていた。何かに利用されるために。
名前を付けるのなら、それは恐怖だった。忘れかけていた過去がローに押し寄せる。
病気の痛みと、迫害の辛さと、喪失感と。もう抜け出したはずの恐怖が妹の側で今も息を潜めている。
その悪魔の手が伸びる前に妹を救わなくてはならなかった。
「トラ男~!やっと来たのかー!」
ローははっと顔を上げた。
今度こそ聞き慣れた声ともう驚かなくなってしまった衝撃に仁王立ちで応戦する。
己の身体に巻き付けた腕を器用にしならせ飛んできた海賊王、モンキー・D・ルフィを目の前に、ローは緊張の解けた身体と呆れた顔で応えた。
「……相変わらず台風の目だな、麦わら屋」
「タイフウの芽?」
「……食べもんじゃねえぞ。トラブルメーカーだって言ってんだ」
正しく脳内で認識できていないだろうと突っ込む。
半壊の施設を見渡しながらそう言えば、ルフィが口を尖らせながら言い返してきた。
「シツレイな!ちょっかい出してきたのはあっちが先だぞ」
「そりゃこんな後ろ暗いことしてるところに海賊王が来りゃ攻撃もしてくる。施設の探索とやらはいいのか?」
「メシ!」
「そりゃ一大事だな」
食欲に欲求が振り切れてる男にローは肩を竦めた。
どうやらあちらこちらで煤を付けてきた海賊王の頬を手持ちのハンカチで乱暴に拭ってやる。
「わ、っぷ、おい!トラ男!そんなにゴシゴシしたら口が取れちまう!」
「このぐらいで取れるかよ」
阿呆みたいな顔で抗議する海賊王にふっと笑う。
顔をすっかり拭き終わって、ズレてしまった麦わら帽子を直す。
「トラ男?」
子供体温の両手がローの手を掴んだ。
首をかしげて頭一つ分大きいローを見上げている。
「……ここの患者を救うと言ったのはお前らしいな」
「おう!トラ男もそのために来てくれたんだろ?」
「そうだな。お前のところの船医に頼まれて、医者としての責務を果たすために来た。だが慈善事業をしにきたわけじゃねえぞ。この施設で使えそうなもんは駄賃として持って行かせてもらう。それが交換条件だ」
「ああ、そういうのはナミとかが管理してるからそっちに言えよ!あとでこの島の奥も探検しに行こう!」
「俺は治療のために来たと言ったはずなんだが」
憎まれ口を叩けば、まるで気にしていないとばかりにニカリと笑った。
「お前は……」
「?」
掴まれた手を振り払って視線を合わせる。喉まで出かかった言葉がつっかえる。
彼だけがこの状況でもいつも通りで、ローだけが誰にも言えない汚泥を飼っている。
「……本当に怖いもの無しだな」
珀鉛病や周りの患者たちを見ても揺るぎない精神性に感嘆する。あるいは勇敢さよりも無謀さが目立つのだろうか。
まるで向日葵のような、太陽の化身のような男が少しだけ怖かった。
死ぬかもしれない感染症と相対して、それでも全てをひっくるめて救ってしまおうとする生来の性。神様のような男。
いつかこの身を焦がされるのではないかと錯覚する。
「そんなことねーぞ?」
ローの心を見透かしたように言う。
「助けたいって本当に思ってたのはチョッパーだ」
ローが一体何に心を惑わされているか分かっているかのように続ける。
「俺たちはあいつなら出来ると思ったから託した。チョッパーは助けるためにお前に託した」
だからその目が恐ろしいというのだ。
「そんでお前もここに来ただろ?」
乾いた笑いが出る。
同じであるものか、そんな否定の言葉は口に出せなかった。
「……そうだな」
自分だけがこの恐怖に打ち勝てない。
「綺麗な子」
体を拭くためのお湯とタオルを持ったナミは、昏昏と眠る少女を見下ろして呟く。
チョッパーからは寝ていても痛みを感じると言われ、船から一番柔らかいタオルを持ってきた。
白魚のような手を取り優しく拭く。痩せて肉付きの悪い身体をタオルで撫でていく。西日が差し込み髪の毛はきらきらと反射していた。
天使のような少女。
かつては美しいおとぎ話のような国だったという場所で育った少女。
もう誰もいなくなってしまった亡国の少女。
綺麗なんて言うのはきっと彼女にとって酷なことなのかもしれない。
それでもきっと彼女を見た人は口を揃えて言うだろう。
その綺麗な白が災いの元だったとしても、その美しさだけは真実なのだ。
ロビンからフレバンスの事を聞いた時、最初は恐ろしかった。そしてチョッパーから真実を聞いた時に感じたものも恐れだった。
そんな嘘一つで国が滅んだのだ。
懸命に生きる小さな身体が横たわっている。
すっかり拭き終えたタオルを片手に、ナミは微笑んだ。
「大丈夫よ、ここにはすごいお医者さんが二人もいるんだから」
彼女がどのような経緯でここで眠ることになったのかナミは知らない。
この子はどんな目の色をしているのだろう。どんな声で話すのだろう。こんなに小さな子供はモモの助以来だから、どんな事をして過ごそうか。
ナミは目覚めた少女に会いたかった。
「早く良くなって沢山お話しましょうね」
だって、もうこの子には家族など残されていないのだ。
メシ、と飛んでいってしまった海賊王の背を見送る。
恐ろしいのは、あの頃感じていた怒りが風化していることだった。
世界を壊したいと願うほどに身を焦がした執念の炎が今の己には無かった。
理屈では分かる。脳の防衛本能が強過ぎる感情に対して忘却という手段をもって正常にしようとしたのだ。
彼女を目の前にした時、薄情な己に絶望した。
彼女にとってはまるで昨日のことのようでも、ローにとっては十数年の時を経た過去になってしまった。
そんな己が彼女を救って、どの面を下げて感動の再会をしろというのだろうか。
姿形も少女の知らない男になり、首には数十億の札がぶら下がっている。
故郷のために世界の破壊を願った心はもう既にあの雪の島で溶けてしまった。
恩人に救われ、恩人の本懐を果たし、仲間に恵まれ、そして今は誰もがトラファルガー・ローを畏怖する。
かつて迫害された忌むべき存在だった自分はどこにもいない。
もう何も残っていないと思っていた。
すっかり見えなくなってしまったルフィの気配を追うように視線を動かす。
──本当に助けたいと思ったのはチョッパーだ。
本当に助けたいと思っていた相手を救うことができるというのは、彼にとって二度と手に入らないかけがえのないものなのかもしれない。
助けたいと思った相手を失った慟哭を知っている。
義兄を失い我を忘れた彼を知っている。
窓ガラス一枚隔てたような気持ちで見ていたあの日の景色が自分に降り掛かる。
自分だって、あの子を救えるならなんだって。
「は、はは……」
ローは額に手を当て天を仰いだ。
彼女はいずれ知るだろう。
己の祖国がもうどこにも無いことも。愛する両親が無惨に殺されたことも。
薄情な兄が自由に生きていたことも。
全部全部全部。
波の揺れが直接身体に響く。
湿気の籠った空間は不衛生で居心地が悪い。
船底に身体を寄せ合い、震えて過ごしていた。
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。
何時間かに一度、雀の涙程度の水と食べ物が出されるだけで、体を拭くことは疎かまともな排泄すら許されない。
掻きむしった皮膚がひりひりと痛かった。
自分たちはどうしてこんな場所にいるのだろうか。
なぜこんな姿にされてしまったのだろうか。
初めは薬の治験と聞かされていた。ただ薬を飲んで安静にして、日に一度血液を抜かれる。
一月もすれば一年は遊んで暮らせる金を得ることが出来た。だから継続した治験を打診された時、誰もが了承したのだ。ただ寝て薬を飲むだけなんて、こんなに楽な仕事は無い。
「ねえ、喉が痛いよ。お水、お水が飲みたい」
まだ子供の域を抜けない青年がひくひくと震えながら呟く。
瓶の中に残された微かな水で唇を湿らせてやる。一人にだけ分け与える訳にはいかないのだ。
一人の泣き言が連鎖するように、そこらかしこで静かな泣き声が聞こえてくる。
喉が貼り付くように痛い。頭がぼうっとするくらい重い。関節の節々が痛い。体の芯は熱いのに、肌は凍えるように寒かった。
船は停ることなく進む。誰も自分達を気にかける者などいない。
自分達はいったいどこに連れていかれるのだろうか。
船底に押し込められ積荷のような扱いを受け、まるで出荷でもされるような。
「本当に手伝わなくて大丈夫か?」
心配そうな顔でチョッパーが治療計画書を手に覗き込む。
術前カンファレンスは予定通りの時刻に行われた。この場にいるのは執刀医のロー、主治医のチョッパー、そして助手として参加するペンギンだ。
「ああ、手術自体は能力を併用するからさほど人手はいらない。子供の身体への負担を考えて最短で終わらせるためにも慣れたメンバーでやらせてもらう。悪いな、トニー屋」
「いや、トラ男が手術するなら安心だな!」
チョッパーは屈託ない笑顔を向けた。
「……もし可能なら、手術後のケアに使う保湿クリームを作ってくれないか。痛み止めだけじゃ耐えられないだろうからな」
後ろめたさからローはそう言う。頼られた小さな医者は殊更嬉しそうだった。
「!そうだな、そうする!」
「それに、子供の手術が終わったら残りの患者たちの治療計画についても相談したい。いいか?」
もちろんだ、とトナカイ医は飛び上がる。
「まだ施設の探索自体は終わってないんだろ。逃げ遅れた民間人の捜索にはうちの船員からも人手を出す」
「トラ男~!」
医療従事者としての技術も高い面々が捜索に加われば百人力だろう。
こうしてはいられないと可愛い目を爛々と光らせ、チョッパーは立ち上がった。
「おれ、必要な薬を調合してくる!トラ男、手術頑張ってくれ!」
「ああ、お前も。またあとでな」
椅子から飛び降りたチョッパーが部屋を出ていくのを見送り、気配が完全に遠のいたところでローは大きなため息をついた。
悪いことをしたなと思う。
「……行ったな。ペンギン、その紙を寄越せ」
「へ?」
ペンギンが持っている紙を奪い取り、ローは能力でそれを手の中から消した。
「こっちが本物だ」
そう言って代わりに出現した紙を見せる。
「は?それってどういう……」
無造作に投げ渡された紙を受け取ったペンギンはその中身を読んで驚愕に染まった。
計画書から顔を上げ、何を考えているか分からない船長の顔を凝視する。
「あっ、んた!嘘でしょ、正気ですか!?」
「今できる最適な治療法を取っただけだ。いつもの事だろ」
しれっと言う己の船長にペンギンは口をパクパクさせ言い返せない。いつもの事であるわけがない。こんな、こんな。
「助手はシャチ、麻酔管理はお前だ。あとであいつにも話を通さないとな」
今は積荷の整理と手術室の準備で忙しいシャチの名前を上げてそう言う。
「……俺達がこの手術を承諾すると思ってるんですか」
「なんのためにトニー屋を手術メンバーから外したと思っている。こんなこと、俺達にしかできない」
「違うでしょ、俺達以外にバレるわけにはいかないからだ」
ペンギンが凄んでもローは聞く耳を持たない様子だった。
「問題は無い。今までだってこなしたことのある手術だろ」
これまで数多の手術を執り行い、ペンギン達もこの天才医師の側で沢山の経験を積んで来た。本職に勝てずとも、ローの助手としては右に出る者はいないと自負している。
しかしそんなことが問題なわけではない。
「っ移植だなんて、あんたの肝臓を使うなんて聞いてない!」
バン、も叩きつけられた紙の文字がローの視界に入る。自分で書いた文字だ。
『生体肝移植』
「あんた、自分の肝臓をくれてやるつもりですか」
震える声で己の船長へと問う。
先ほどまで打ち合わせていたのは「肝臓の病変切除」の手術だった。
肝臓の移植、ましてやそのドナーが目の前の男だなんて話は一ミリだって出てこなかった。一体何を考えているのだろうか。
「……あの子の肝臓はもう保たない」
怒りに打ち震えるペンギンにローは静かに語りだした。
「病変部を全て肝臓に移動させれば部分切除では足りなくなる。かといって少しずつ移動させて、何回にも分けて切除するには体力も時間もない。であるならば珀鉛を全て集約させて全部取り除いてから新しいものをやればいい」
ローは紙に描かれた肝臓の図を黒く塗りつぶす。
「あの子供の体格なら、俺の肝臓の左葉の一部で事足りる。肝臓は再生能力が高い。四分の一切除したとしても代謝に影響は出ないし、一年も経ちゃそれなりに元に戻る。術後も激しい動きをしなければすぐに動ける」
だがそれはドナーとレシピエントが揃って安全に手術を受ける場合の話だ。
「あんた、自分が何言ってるか分かっているんですか」
「……」
「能力で自分の肝臓取り出して移植するって言ってるんですよ。当然自分自身に麻酔なんか使えない。誤魔化しがきかないんです」
その昔、洞窟で自分の肝臓を取り出してメスを突き立てたことを思い出す。
肝臓には痛覚がないとはいえ、あの頃は手つきも覚束なく周囲の組織を傷つけてしまい悶絶した。
だが今はあの時の年齢の倍は生きた。そんなミスは犯さない。
「問題ない。俺の意識も確保して、最短最速で手術を終わらせる」
だから文句を言うなと目で訴えかける。それが譲歩するつもりのない姿勢であることはペンギンには良く分かっていた。
ペンギンはぐしゃりと握り潰した紙を机に置いてぽつりと零す。
「それは病気に対する説明であって、あんた自身の説明になってない。……なんで急にこんな無茶苦茶なこと言い出したんですか」
いつもならこんな性急に事を進めるようなことはしない。冷静沈着に、実現可能な手術を完璧に仕上げるのは死の外科医、トラファルガー・ローの仕事だ。
「珀鉛病の患者だって最初聞いた時、あんたのことが心配でした。こんなに時間が経って、祖国の同胞と再会して、精神的に負担にならないかどうかってずっと考えてました」
スワロー島で過ごしてきた仲間以外には見せられない姿を懸命に隠してここまで来たことを知っている。
「俺は船長が苦しんで来た日々を知っています」
もう幼馴染と言っても差し支えない年数を共に過ごしてきた。実の家族より余程一緒にいる。
「俺は故郷を失ったことがないし、命だってあんたに救ってもらってここまできたけど。ずっと隣で見てきたから、この病気がどれだけ心に影を落としていたか知っています」
敵わないな、とローは口元を手で覆った。
「故郷のことだからって、あんただけが罪滅ぼしみたいに犠牲になる必要なんて無いんですよ。今から急いで適合する大人を見つけて、うちのクルーからでもいい、安全に手術できる方法を探しましょう。あんたが言った通り、肝臓は再生力が高いんですから、適合者の中からドナーを見つけ出すことも難しくないはずです」
ねえ、と諭されてローは乾いた笑いが出た。
罪滅ぼしか、とペンギンに言われた言葉を転がす。
言い得て妙だ。
「あんたが適合するってことはこの子供の血液型はF型か、XF型でしょ。探せばきっと」
「いもうとなんだ」
ペンギンの言葉を遮るように言う。
ゆっくりとペンギンと目を合わせる。ペンギンの瞳孔がぎゅっと小さくなる。
しばらく沈黙が続いた。
ローの言葉の意味を理解して、追いついた驚愕に口を開く。
「なんで、だって、……子供なんですよね」
「そうだ。この実験施設で冷凍されて十数年間眠り続けていた。あの頃と全く変わらない歳で、病状だけが進行していた」
「そんな、ことって」
祈るように呟いた。
「助けたいんだ。もう一刻の猶予もない。他の誰でもない、俺が助けるべき患者だ」
他のドナーを探している暇なんてない。
ここに全てを差し出す覚悟の男がいて、そして全てを叶えることができる男がいる。
何を迷うことがあるだろうか。
「お前の言う通り罪滅ぼしだ。でももう二度とないかもしれないチャンスなんだ」
「……」
ペンギンだって家族を失う辛さは身をもって知っている。
ここにはいないシャチだって。
だから、そう懇願する己の船長を否定することは出来なかった。
全てを失ってからたどり着いた奇跡を失ってしまったら、今度こそ彼は。
頼む、と言葉をこぼす。
ペンギンは静かに手を伸ばした。
「……あんたがそう望むなら」
震える手を重ねた。
それしか出来なかった。
朝焼けが島を照らす。
鳥の鳴き声が空に響く中、ハートの海賊団の船員によって施設へと運ばれた少女を数名の麦わらの一味が出迎えた。
船員の顔付きから手術が良い結果に終わったことは誰もが理解していた。
「手術は無事終わりました。すみません、船長はこのまま休むそうです。多分昼過ぎには出てこられると思うんですが……」
「ありがとう、ゆっくり休むよう伝えてくれ!」
チョッパーはそう言うと少女が乗ったキャスター付きベッドの淵を代わりに掴む。
朝日に照らされている少女のまろい顔は穏やかな表情をしていた。呼吸も落ち着いており、上下する胸は緩やかだ。
ハートの船員は他の作業があるからと申し送りだけしてその場を去っていく。
残された面々はベッドを施設内へと移動させるために歩き出した。
「よかった、これでこの子はもう大丈夫なのね」
心配で朝まで一睡も出来ずに待機していたナミが胸を撫で下ろしながら言う。
そんな様子にチョッパーはまるで自分のことのように嬉しそうに答えた。
「ああ!油断はできないけどこれからは回復に向けて血液中の珀鉛濃度を下げたり、薬物療法をしたりって頑張っていく時期だ。肌や髪の色はすぐにはどうにも出来ないけど、組織の入れ替わりに伴って元の色を取り戻していくと思う。容態も落ち着いているから麻酔が抜ければ自然に意識は回復するんじゃないかな」
「んじゃまあ、この麗しいリトルレディが起きたときのために重湯を作る準備でもしようかね」
朝の仕込みから抜けて顔を覗かせていたサンジが晴れやかな顔で言う。
「ありがとう、サンジ!すぐには食事を取れる状況じゃないと思うけど、暫くは生ものや塩味は控える必要があるからあとでトラ男とも含めて食事の相談をさせてくれ!」
あいよ、とコックは手をヒラヒラと振る。
「フランキーが施設の外装を修理してくれたから、さっそく新しい病室に行きましょう」
ロビンも手をベッドに手を添える。
ここにいない残りの面子は建物の修理や片づけだったり、民間人の救出であったりと昨夜遅くまで働いていた。
だが全員がこの少女の手術の行方を気にしていた。下手をすれば自分の子供か、孫くらいの年齢でも可笑しくはない面々もいる。なにかと子供とは縁のある一味だ。
ローの腕前を疑っているわけではないが、全員が無事を祈っていた。
その中でも一等気にかけていたナミが酷く言いづらそうに口を開く。
「……ねえ、目覚めたらこの子に話すの?」
その場に沈黙が降りる。
何を、とは説明するまでもない。
彼女は今は亡きフレバンスの国民であり、十数年の時を経て目覚めの時を迎えようとしているのだ。
祖国の消失と家族の喪失、十年も生きていない少女にその事実の全てを伝えて、尚且つ理解まで促すことは残酷に思えた。
「……この子が起きたときの精神状態と相談だな。正直人間が十数年も成長せずに眠らされていた場合、記憶の連続性だったり、元の人格だったり、問題なく覚醒できる確証はどこにもない。その場合は故郷の事だけじゃなくてこの施設にいた事実も話すことは難しいと思っている」
「一番困るのは家族のことを聞かれた場合だわ。だってもう私たちには会わせてあげることができない」
「……このリトルレディ以外は、フレバンスの国民は全滅しているだろうからな」
サンジ君、とナミが咎めるような声で名前を呼ぶ。
しかしナミだって分かっている。感染をこれ以上広げないという名目で国が一つ滅ぼされたのだ。たとえ本当は金属中毒だったとしても、当時の国民や周辺国の恐慌状態からそのような状況が生み出されてしまったという背景は、納得できるかどうかは別として理解はできる。
「でも、いずれは私達の手を離れるわ」
そう静かに告げたのは麦わらの一味の考古学者、ロビンだった。
「今は私達がたまたま乗り掛かった舟だからこうして彼女や他の人たちに関わることが出来ている。けれどずっとこのままなんてことはない。いつかはなんらかの形で現実を話す必要があると思うの」
彼女は己の故郷をバスターコールによって失っている。この少女の歳と大差ない頃だったはずだ。
何故故郷が滅んだのか、何故敵意が向けられたのか。自分がこれから生きていく上で理解をすることは大切なことだった。
「ロビンの言う通りだと思う」
チョッパーが静かに答えた。
「でも一度助けると決めた以上中途半端に終わらせたく無い。この子が無事に生きていけるようになんとかしてやりたいなあ」
それがせめてもの、ここにいる大人達の役目だと信じている。
「そうね。それにこの子が強く生きていけるように、本当のことを知っても立ち直れるように目が覚めたら沢山お話をすればいいわ。そういうの、ナミは得意でしょう?」
「ロビン……」
少女を見下ろす。白銀のまつげに縁取られた瞼が動く気配はない。
だが彼女はこれからも生きていけるのだ。周りの大人が不安がっては仕方がないと腰に手を当てる。
「そうね!こんなくよくよしても仕方ないわよね!今から女の子が好きそうな本とか用意しなきゃ」
わっ、と皆で笑った。
少女がどうか健やかにと願うばかりであった。
ローが次に目を覚ましたのは、太陽が真ん中より少し傾いている時分だ。
からからに乾いた喉を潤そうと身を起こして、身体の違和感に眉を顰める。
当然だ、数時間前に自分の腹から肝臓を取り出して妹に移植手術をしたのだから。
能力と平行で進めた手術はローの精密な手技と合わせて完璧な成功に終わった。だがあまりの体力消費に妹の閉腹と同時に崩れ落ちてしまったことだけは記憶に残っている。
今頃あらかじめ打ち合わせていた通り少女は島の方へと戻されているだろう。
「起きたんですか」
顔を上げると、開けっ放しの扉に凭れ掛かるようにしてペンギンが腕を組んでいた。何かあってはいけないからと扉を開けた状態で寝ていたのだ。
水差しとコップを取ろうとしていたローを遮って水を用意する。
コップ一杯の水をゆっくりと飲み干したローは様子を窺うようにペンギンを見上げた。まるで兄に叱られる弟のような構図にペンギンは内心面白かった。
「まあ、今回のことは目を瞑ります。他の船員にも言いませんよ。知っているのは俺とシャチと、それからべポだけです。あと麦わらの船医への申し送りもうまいこと書いときましたから」
「……ああ、助かる」
「そこで謝罪でも出てきたら怒るとこでしたけど、あんたそういうところ本当に外さないよなー」
ふてくされた顔でそう言われ、ローは肩を竦めた。
「どのぐらい寝ていた?」
「大体七時間くらいですかね。たまにはこれくらい寝てくださいよ」
「今寝た」
「か、可愛くねー」
髭面の男に向かって言う言葉でもないだろうに、とローは呆れた。
だが実際手術後とはいえたっぷりと寝た頭はすっきりと冴えている。未だ気だるさは残るが動けないほどではない。既に麦わらの一味によって脅威が取り除かれている島では十分だ。
「とりあえずしばらく大人しくしててくださいよ。免疫力も落ちているだろうし、肝臓にいい食事を心がけてください。釈迦に説法ですけど」
ああ、と返事をした。
「今聞くのは卑怯ですけど、いつまでここに滞在する予定ですか」
「今回の要請の主な理由はあの子の手術だった。だがまあ、まだ手を必要としている状況だろうな」
なにも危機に瀕しているのは少女だけではない。命が切迫している状況ではないとはいえ、かつてのパンクハザードの子供達と同様、社会復帰に手助けがいるような患者が山の様にいる。その全てに付きあうわけにはいかないが、医者としての最低限の義理は果たさねばならないだろうと考えていた。
「トニー屋だけでは手が足りないだろう。珀鉛病に関しては文献もないだろうしな」
「と、思われている、でしょ」
「まあ少なくとも俺にとってはnが2だな」
「それから、妹さんの今後もどうするのかとか。色々決めなきゃいけないことが沢山ありますね」
無条件で少女を航海に連れて行けるだろうとは誰も考えていなかった。それを判断するには互いに背負うものも、降りかかるものも多すぎた。
「一応この島の経済状況とか、暮らしていけるだけのコミュニティがあるのかとか調べておきますよ。それから……この島の外の孤児院も」
ペンギンの発言を否定することはない。ローはコップの淵をなぞりながらこれからのことを考えていた。
「でも助かって良かったです。誰にも見つからずに間に合わない可能性もあった。そういう意味では、こんな奇跡二度とないですから」
「ああ、そうだな。俺もそう思うよ」
海賊であり医者であり、そして多くの繋がりがローにこの幸運を齎した。
ある意味では父の背を追ったことが最後の珀鉛病患者を救ったのかもしれなかった。
どたどたと廊下を歩く音が遠くから聞えてくる。
この足音は我らがふわふわの航海士であると、兄貴分二人はすぐにぴんときた。
「船長!あの子、目が覚めたって」
べポの言葉に二人は思わず顔を見合わせる。望んでいたような言葉であり、少しだけ恐れていた言葉だ。
「案外意識の回復は早かったな」
「……すぐ行きますか?」
「行った方が、……いいんだろうな」
執刀医が患者の経過観察をしないのも問題だろう。
それにキラキラとしたべポの眼差しの前に断るというのも気が引けた。
「ラミちゃん、喜んでくれるといいですね」
もう自分しか呼ぶことは無いと思っていた名前が誰かに呼ばれるのは久々の事だった。
帽子は舟に置いてきた。手術の時から外していたが、埃ぽい施設の中でなんとなく着ける気も起きずそのままだ。
代わりに医療器具の入った鞄を持ち、医者然とした格好で施設に乗り込む。
麦わらの船大工や狙撃手の努力の結晶なのか、多少は見られる形になった建物の中を闊歩する。
広間に蹲っていた患者たちの姿はどこにもない。きっと休める場所も確保できたのだろ。
こうしてみると大きな病院のような施設である。真っ白な壁に光を取り込む大きな窓。病人が詰め込まれていたのだから病院のような内装になるのは当然なのかもしれないが、本当の目的は悪意のあるものだったはずである。
どうしてか実家の病院のことを思い出した。こんな場所とは似ても似つかないが、もしかしたら妹がいる空間というものがそう思わせたのかもしれない。
途中で捕まえたコックから少女の病室を聞き出し、ローは重い足取りで歩いていた。
正直どんな顔で会えばいいのか、答えはまだ出ていなかった。妹を目の前にした時の時分の精神状態を信用出来なかった。
だからこうして医者のような恰好をして武装してきたのかもしれない。
少女の部屋の場所は麦わらの一味達が気を遣って島内の惨状がなるべく見えない位置にされていた。窓の外を青空が、少しだけ枯れた草木が、向こう側には海が見えるはずだ。今は薄い布のカーテンがそれを覆い隠している。
薄く開けられた瞳が揺れている。
傍らではトナカイ医が聴診器を少女に当てており、小さな手を航海士が握っていた。
二人共不安そうな表情をしている。
ローは小さな声で「トニー屋」と呼びかけた。
「トラ男」
チョッパーが顔を上げてローと視線を合わせた。そして少女へと視線を戻した。ローもまたベッドサイドへ立ち少女を見下ろす。
白銀のまつげが揺れている。中心にはローの瞳よりも幾分か明るいシルバームーンが収まっていた。
珀鉛で濁る世界を通して少女は呆然と大人たちを見上げている。
ローは小声でチョッパーへと問いかける。
「どのくらい会話したんだ」
「まだ意識確認程度しか……。だけどちょっとまずいことになって」
「なんだ」
「窓から景色を見て、フレバンスじゃないって気付いたみたいで」
ああだからカーテンが閉め切られているのかと納得した。
あの街はなにもかも白かった。工業も栄えていたし、こんな大人達は周りにいなかった。
「警戒されたってことか」
「名前も」
ローはじっとトナカイ医を見た。
「ラミって、それだけ。それだけ教えてくれて、」
賢い子であった。自分達には隠し名と忌み名がある。国内の人間に対してならいざ知らず、見ず知らずの大人に家名まで名乗ることはない。
それでも名前だけは名乗ったのはこのトナカイ医と側にいる航海士の真摯さによるものだろう。
頭の良い子だった。母に似て美人で、父に似て聡明で、自分に似ず天真爛漫だった。
少女と目が合った。段々とはっきりしていく意識がローを捉える。
その瞬間、ああ、駄目だと思った。
「……おとうさま?」
びくりと肩を揺らす。
期待するような声音だった。
それがもう駄目だった。ここにいられないくらい心臓が揺さぶられた。
二人の間に隔たれてしまった溝が浮き彫りになった気がした。
「……違う。お前の父親じゃない」
口から飛び出たのは酷く冷たい声だった。
少女は思わず体を強ばらせる。
「ちょっと、トラ男!」
ベッド越しのナミが咎めるように言う。
子供が朦朧とした意識の中、そばに居る成人男性を父親だと思うなんて可愛い間違いだと、そのくらいで怒るなと強い視線が飛ぶ。
ただでさえ目覚めたら知らない場所にいて、知らない大人に囲まれて警戒していたところに父と見間違えるような大人がいたら縋りたくもなる。
だがローだけはそれだけではない理由を知っていた。他人の空似などではないのだ。
「ごめんね、怖い先生じゃないのよ。安心してね」
ナミは優しい声で少女の布団をとんとんと叩いた。
「貴方の治療をしてくれたトラ男先生っていうの。もう大丈夫だからね」
少女に分かりやすいようにキャッチ―な名前で呼んだのだろう。
今だけはそう呼ばれたことに安堵した。
少女の目が他人を見る目に変わる。
彼女を目の前にして、兄だと名乗る勇気も、本当の名前を告げる勇気も持ち合わせていなかった。この場にいる誰もが何も知らないことを良いことに、ローはそれに乗っかろうとしている。
──島の外の孤児院も。
そうだ。そもそも初めから連れて行けるはずがないと分かっていた。札付きの危険な男と一緒にいさせるわけにはいかないと理解していた。
彼女にフレバンスの元国民以外のレッテルを貼らせるわけにはいかなかった。
噛み合わなかった歯車がローの中でガラガラと崩れていく。
少女はローを見ていた。白金の瞳に自分の顔が映っている。
そこにあったのは酷く疲れた顔で、あの頃戦禍で疲弊していた父の顔と重なった。