天使の子 中編少女が家名を名乗れば元も子もないだろうに。
送り出した船長のテンションが地を這う形で帰ってきたことに驚き、吐き出させた内容にペンギンは頭を抱えた。
感動の再会をしているに違いないと想像して涙腺が潤んだ時間を返して欲しかった。しかしこうなってしまったのならば仕方がない。
本人はどこがこの展開を予期していた節があるのか、納得しているような様子なのがまた悲壮感を漂わせている。
「しばらくはナミさん達が着いててくれるんでしょ。その間に腹を括るなり、どうするか決めてください」
「……」
先程からこの調子で、口元を手で多い窓の外をじっと眺めている。
帽子を被らせて行けばこんなことにはならなかったかもな、と冗談のような考えが浮かんで笑った。
「それとも、他人のフリをして送り出す方が気が楽ですか」
咎めているわけでは無かった。連れて行けないのなら期待をさせるべきでは無い、という考えは理解できる。
だが天涯孤独と言ってもいい己の船長がその最後の縁(よすが)まで手放そうとしていることが良い事とはとても思えなかった。
「別に今更フレバンスの生き残りだって周りにバレることが嫌なわけじゃないでしょ」
例えそうだと知ってもローを知る人物は誰も彼を軽蔑したりなどしない。それよりも四皇で海賊王と腐れ縁で、そっちの方が世界にとっては余程脅威である。
ローは口を開きかけて、大きく深呼吸をした。
「戦火の炎が、」
ペンギンは語り出したローの横顔をゆっくりと見る。その口から絞り出される懺悔に耳を傾けた。
「あの時の炎が熱かった記憶はある」
――白い街が一瞬で赤に変わった。煙と、肉の焦げる匂いと、ぐちゃぐちゃに混ざった空気が肌を撫でた記憶もある。
「同胞の死体が冷たかったことも覚えている」
緊張で温度を無くした手を擦り合わせる。
「だけど、全部遠い記憶なんだ」
悔しそうに顔を歪めた。覚えていないことが罪だと己を罰している。
十数年の間にすり減ってしまった記憶は鮮明さを欠いていた。
「父様と母様の、死に際の顔を……もう良く思い出せない」
世界の全てを壊したかった幼いころ、何度も繰り返し思い出したはずだった。
「あんな顔だっただろうか、これは俺の想像が補ってしまった偽物の記憶なんじゃないかと。妹を一人で行かせたことも。俺が都合良く見ている想像でしか無いんじゃないかと」
最初から今までずっと、忘却の恐怖に怯えている。
「妹が現実に現れてみて初めて、合わせる顔がないと思った。声をきいて、こんな声だったのかと驚いた。想像の中の声と全然違った。酷い兄だろ」
己を父だと勘違いした時、会わなくて良い理由に飛びついてしまった。
「妹はきっと覚えている。いや、まだ渦中にいるんだ。ついさっきまでの恐怖も、きっと怒りも。父様のことも母様のことも、小さな俺のことも」
「だから罪滅ぼしって?」
思わず言葉を奪う。
肝臓の一件を思い起こして、ペンギンは語気を強めた。
良くない考え方だと思っている。元から自罰的で、自己犠牲的で、恩人のためなら命を簡単に賭けて敵の懐に飛び込んでしまうような船長だ。加えて仲間のために自分の身も差し出せる。
「俺はあんたがただ一身に残された家族のために身を粉にすることを許容したのであって、贖罪の道具に自分の臓器切り売りすることを受け入れたわけじゃないですよ」
そうでなければ、ペンギン達もこんな考え方のために使わせなかった。やはり少し時間をかけてでもちゃんとしたドナーを探すべきだった。一度は納得したことを今更言ってもどうにもならないことだが。
「自分が今の今までのうのうと生きてきたのがそんなに疚しいですか。忘れていたことが申し訳ないって?そりゃそうでしょ、何年前の話だと思っているんですか」
ペンギンからすればこの十数年間、ローだってそんな安らかな生き方はしていないと思っている。
「そりゃあんたはコラさんに愛情注いでもらって、俺達っていう家族もいる。いくらあんたの性能の良い頭だっていくらでも上書きされますよ。でもね、これからはあの子だって同じ時間を過ごしていくんですよ。じゃあもう二人でこれ以上忘れないようにすることが一つの生き方なんじゃないですか。声を忘れていたって?じゃあ今すぐ引き返してきて沢山話しましょうよ。兄なんて名乗らなくていいですよ。先生と患者で、沢山話して来ればいい」
だから最後の砦を失ってほしくなくて、ペンギンはなおも畳みかける。
「それでも船長が申し訳なさとか、後悔とか、そういうもんが消えないのも分かります」
そういう性格だから。真面目だから。自分を裏切れないから。
だけど、とペンギンは奥歯を噛みしめる。
「そんなの、ラミちゃんからしたら知ったこっちゃあ無いと思いますけど」
コンコンコン、と扉を叩く音に二人は揃って出入り口を見た。
そこにはシャチが少し気まずそうに立っている。
「あ〜、お取り込み中、だったり?」
「いや、大丈夫だ。何かあったか」
まだ何か言いたげなペンギンを遮って返事をする。
シャチはあー、と頭を掻きながら二人を見比べて言った。
「麦わら達が他の珀鉛病の患者を見つけ出しました」
驚きで思わず立ち上がる。
ペンギンも空いた口が塞がらなかった。
かつての悪夢はまだ終わりそうにない。
彼らは復旧が進んでいない施設の奥、壊れた瓦礫と瓦礫の間に身を寄せあっていたという。
「ゾロが途中迷子になってよー、邪魔な壁壊したらこいつらがいたんだよな!」
元気よく申告するのは患者を纏めて運んできてからおやつもペロリと食べたという海賊王だ。
共に捜索に当たったとされる剣士や操舵手に視線を向けると、ルフィの言っていることは間違いでは無いのか特に言葉もなかった。というよりか最強の方向音痴である剣士を人命救助に解き放つのは中々厳しいものがあるのではないだろうか。
采配に訝しみつつも、改めて寝かされている十人にも満たない『珀鉛病』の患者を診る。
手足や顔には斑点のように白い跡があり、隙間から見える通常の肌は火照って赤い。この施設が破壊されたときからなにも摂取できていないとすれば三日は栄養補給が出来ていないからか唇はカサカサで目も虚ろだった。
「ラミと違ってまだ真っ白な肌の部分は少ないな。何人かは発熱症状がある。どっちかっていうと珀鉛病よりも発熱と脱水症状の方が危険だ」
チョッパーは片っ端から点滴を投与した患者たちを見下ろしながらカルテを書く。重症度はまちまちだが、点滴と解熱でどこまで症状を緩和できるかが勝負だた。
ローは彼らを静かに見下ろしていた。
不思議な気分だった。
ラミを皮切りになぜ十数年も前に根絶したはずの病がこうも出てくるのだろうか。
病気を兵器に転用するためか、巨万の富を産むためかの研究する施設だったとはいえ、珀鉛病は致死性があっても本来は感染症では無い。毒のような使い方をしたくとも、致死量に至るには一代の摂取では中々難しい。よしんば致死量を摂取できたとして効率的ではない。そんな病気なのだ。
そもそも原因物質である珀鉛が現在も沢山取れるかといえば、あの封鎖された国に赴かない限りは手に入らない代物だ。再現性の低い病、つまり研究価値をどこに付けるか分からない病気だった。だから珀鉛病が消えてから十数年、原因解明に乗り出そうとする研究者など表立ってはついぞ出てこなかった。もしくは乗り出したとて世界政府に握りつぶされてしまった可能性もあるが、やはりもう知名度も風化してしまった病気である。
それにローにはもうひとつ気になることがあった。
一人一人の顔をじっと見つめる。
そもそも目の前に寝かされている彼らは北の海の顔つきでは無い。というよりも人種にばらつきがあった。
一人の患者の側にしゃがみ込みじっと観察する。
腕を取り肌を撫でる。白い部分と通常の肌を触り比べて、ローは眉を顰めた。
白い肌は少しカサついていた。皮がポロポロ剥け、皮膚のバリア機能は失われている。
意識が朦朧としている中でも自然と掻きむしっている肌は強い掻痒感に苛まれているように伺えた。
たしかに見た目だけなら珀鉛病に見える。だが珀鉛が析出してきた白さとはまた違った症状に思えた。
「おい、麦わら屋。こいつらはあの子供と同じような機械に入ってたんじゃないのか」
「ゴールドスープってやつか?」
「コールドスリープだ」
万年欠食児童の海賊王に眉をぴくりと動かしながら、口をへの字に曲げて回答を待つ。
「いんや、別にこいつらは隅っこに倒れてただけだぞ」
「わしも確認したが周囲にそんな装置は見なかったのう」
ジンベエも続いて頷く。
「どういうことだ?」
チョッパーは訝し気にローへと視線を向けた。ラミは病気のまま十数年の眠りから覚めて復活した。根絶した病気が再び世に現れたのはそう言う理由だ。てっきり同じ理由だろうと全員が思っていた。
では彼らはどこからこの病気になったというのだろうか。
一つだけローが確信をもって言えるのは、彼らがフレバンス国民ではないということであった。しかも単一民族ではない。様々な土地から集められた人間が集団で同じ病気になっているのだ。
彼らは現代に生きる人間だ。
「っ……、ぅ……」
「!」
ローの傍らにいた男性患者が絞り出すように微かな声を上げる。点滴のおかげか多少脱水症状が緩和され混濁していた意識が戻ってきたのだろう。この中では比較的軽傷の部類だったのかもしれない。
ローは声が聞えやすいようにさらに身を屈めた。
「お、お医者さま、ですか。この施設の人じゃなくて?」
弱々しい声は懸命にローへと縋りつく。ローは握られた手をゆっくりと離し、患者の胸元へと腕を戻した。
「……ああ、医者だ。お前達の病気を診に来た」
「ほ、本当に?俺達を、助けてくれるんですか」
「……原因を特定したら治療に入る。今は安静にしているんだ」
医者だと聞いて少しだけ嬉しそうにした表情はすぐに暗いものへと変わった。
「で、でも俺達、珀鉛病なんですよね」
目を丸くする。
「誰かにそう診断を受けたのか?」
「ここの施設の方に、き、極めて危険な感染症だって言われて」
そうか、と返事をする。胃の底を重い錘が沈んでいくような、そんな焦燥感に苛まれた。
この施設の人間が珀鉛病の正体を知らないはずがない。
「自分がどこから来たか、答えられるか」
受け答えがしっかりとしてきた患者にローは続けて質問を浴びせる。
患者は深呼吸をして言葉を続けた。
「は、はい。自分はこの島から海流を一つ挟んだ南にある島の出身で、ここには出稼ぎで来ました」
「出稼ぎ?」
ローは顔を上げてチョッパーを見た。
他の患者も診ているチョッパーは首を縦に振った。そうやってこの施設にいた患者達は集められていたのだ。
「ここの島民ではないのか。ここにいる全員がお前と同郷か?」
「ち、違います……。多分、皆いろんなところから来てます。ここで初めて会った人たちばかりで、同じ部屋にいました」
男は泣き出しそうに顔を歪めて悔しそうに言う。
「お薬の治験だって、そういう募集で皆……」
「薬の治験、ね」
「お、俺、ただの風邪薬だっていうから参加したんです。地元じゃこんなにいい給料もらえないから、だから、家のために足しになればって」
酷く取り乱す男性に同情したのか、チョッパーがそっと肩を叩く。
「なんで今の症状が出たか分かるか?まさか風邪薬を飲んでそうなったのか?」
チョッパーの問いにふるふると顔を横に振る。
「う、感染ったんです」
「感染っただと?」
馬鹿な、と二人の医師は驚愕に顔を染めた。
「最初に俺達の部屋で発症した奴がいたんです。肌も白くなっていくし、熱で苦しそうで大変そうだなって」
そしたら、そしたら。ついに泣き出した男が言葉を詰まらせる。
「同じ部屋にいた俺達も段々似たように体調が悪くなって、いつの間にか肌も白くなってたんです」
周囲の人間も息を呑んだ。
「待て、それはここ数日の話か?」
鮮明に語る患者へローは続け様に疑問をぶつける。
「は、はい。何日か前に俺も体調が悪くなって……肌も知らない間に白くなって」
「……食事に変わったことはあったか。何か変なものを食べたとか」
「普通の食事だったと思いますっ」
珀鉛病は原因物質を摂取しなければ発症しない。感染症ではないことはここにいる医師二人が一番良く知っている。
かつてフレバンスでは採掘から加工、日用品にいたるまで珀鉛と接しない日は無かった。一番効率が良い摂取方法は経口だが、重度の中毒症状を起こしたのは長年の接触によるものも含まれている。
第一、正真正銘の白煙病ならばラミという前例がある。
ローは数秒じっと考え、そっと患者の肩を叩いた。
これ以上は精神的負担が大きい。
「色々聞いて悪かった。今はゆっくり休め。目を瞑って何も考えるな」
立ち上がったローはチョッパーと共に後ろで事の次第を見守っていた面々の方へと合流する。
「トラ男、どう思う。疑わしいのは薬だと思うんだ」
チョッパーの言葉にローは唸った。
患者本人は感染したと言っているものの、中毒である珀鉛病が同じ部屋にいたくらいで感染、発症するわけがない。だとすれば皆同様に摂取しているものを疑うのは当然であった。
ローは持っていたカルテで口許を隠すようにしながら答えた。
「怪しいとすればそこだが……、いや。おい、麦わら屋。こいつらがいた場所にはもう一度行けるか?」
輪の外で既に明後日の方向に意識を飛ばしていた海賊王は、きょとんとした顔でローを見る。
「おう、行けるぞ!」
「じゃあもう一度行ってきてくれ。シャチ、一緒に行って怪しい薬がないか探して来い。ついでにこんな大きい施設だ、ガスクロか液クロくらいあるだろ。使える状態のものが残っているか見てこい」
「アイアイ船長≪キャプテン≫」
控えていたシャチが二つ返事で立ち上がる。
そしてローはこの場にいる全員を見渡した。
「それから、ここより奥の施設の閉鎖を。今この場にいる全員を隔離する」
一瞬で沈黙が降りる。
今この場にいるのは麦わらの一味からルフィ、ジンベエ、ゾロ、チョッパー。
そしてハートの海賊団からはロー、シャチ、それから数名。
全員の視線がローへと集中した。
「おい、外にいる奴らでまだマスクしてないやつは全員着けるように電伝虫で伝達しろ。あとは物資の受け渡し以外一切こっちに近づくなとも念を押しておけ」
「アイアイ、船長。こっちにマスクと消毒液、それから保存食品も持って来るよう伝えます。他にいるものはありますか?」
すぐさま動いたのはハートの海賊団の船員だ。懐から電伝虫を取り出し指示を仰ぐ。
ローはメモを取りだして指示を書き込むとそれを船員に渡した。
「この患者達に接触したのはこれで全員か?ここから先は全員マスクをして、できるなら使ったものは消毒した方がいい」
その言葉に慌てたのはチョッパーだ。
「ちょ、トラ男!何を急に言い出すんだ!珀鉛病は感染症なんかじゃ」
「そうだ、だから別の感染症の可能性を考えている」
ローは静かに告げた。
「珀鉛病は紛れもなく金属中毒だ。それはあの子供が証明している。実際に肝臓に蓄積した珀鉛を取り除いて回復に向かっているはずだ」
少女の生体情報を見て中毒と判断したチョッパーはその言葉に頷く。
「……たしかに、ローの言う通りだ。あの子を見ているから先入観があったけど珀鉛病とは切り離して考えた方がいいのかもしれない。でもそしたらたまたま症状が同じだけの別の病気ってことか?」
「本人の自覚症状無しに珀鉛病を発症するまで短期間に珀鉛を摂取したと考えるのは難しいからな」
「ずっと前から少しずつ摂取していた可能性はないか?」
「あいつらは治験でこの島に来ていると言った。ならそんなにここには滞在していないはずだ。もし原因が珀鉛で一年かそこらの摂取で中毒が発症するならフレバンスの国民はとっくに中毒で全滅している」
ローの言葉にチョッパーは横目で患者を見て、蹄をぎゅっと握った。
「俺の考えではウィルス性の感染症か、そういった類のものだと思っている。基本的には飛沫感染だが今この場にいる全員がキャリアになった可能性も否めない」
話がよくわかっていない海賊王と剣士を除いて、事態を理解した者は一様に表情は硬かった。
「……もちろん、珀鉛病じゃないと完全に否定できる材料はない。珀鉛の摂取から発症までの具体的な期間が分かる論文があるわけでもない。だが今回の件で重要なのは最速での感染症の収束だ」
フレバンスの名医が書いた論文は闇に消えた。
かつての父の説を、そして己の身体を蝕んでいた病気のことを己の身分すら明かさず堂々と言えるはずもない。
能力で一人一人の状態を見ても、血液検査の結果と併用で判断しなくてはならない。
「トニー屋。これが人だけに感染するものならお前は感染者から除外されるが、念の為に病原の詳細が分かるまでは他の患者に接触しない方がいい。体力も落ちて免疫力も弱っている患者が日和見感染する可能性もある。特に手術をしたばかりのあの子供は人一倍感染しやすい」
「そ、そうだよな。でもそしたら誰が患者を診るんだ。おれ達二人が抜けたら……」
「この場に居ない残りの奴らで当たるしかない。幸いなことにうちの船員は皆それなりな心得がある。薬剤の指示や処置の方法を伝えれば問題なく数日間は凌げるだろう。病原の結果次第ではお前もすぐにそっちに合流できる」
それでもすぐには駆けつけられない歯がゆさを抱えていた。
少なくともローはこの病原の正体がわかるまで、そしてその潜伏期間を含めてここから出られないのだ。
ペンギンをあちらに残してきて正解だったな、とため息をつく。直前の言い争いが幸か不幸か人手を分散していた。
それから手術を終えてやっと回復に向かっているはずの妹を想う。
結局自分はどうやったっていい兄にはなれそうになかった。
「んー、つまりどういうことだ?」
能天気にも首を傾げながら海賊王が問う。
悩ましげに眉間を抑えたローは吐き捨てるように言った。
「しばらく施設の奥の探検でもしてろ」
「こんにちは、ラミちゃん」
ナミは出来るだけ明るい声で病室へと入る。意識を取り戻して丸一日、驚くべき回復力で少女は起き上がっていた。
長い間眠っていたものの体内時計が進んでいた訳でも無く筋力もさほど低下していないのかもしれない、とは愛すべき麦わらの船医の見解だ。案外早く病人食も卒業できるかもしれないと今からサンジも腕まくりをしていた。
一度は締め切られたはずの窓の外をじっと見つめる少女は、入ってきたナミへちらりと視線を向ける。
「……こんにちは」
警戒しつつもきっちりと挨拶をする姿に、きっと親御さんがしっかりしていたのだろうと微笑む。
「気分はどう?良く眠れた」
小さい頭でこくんと頷く。
ナミは「可愛いー!」と撫でたくなる気持ちをぐっと抑えて、お湯の入った桶を脇に置いた。
「気分が悪かったり、痛いところはあるかしら」
「……からだがちくちく痛かったところはおくすりで良くなりました」
「そう、良かった」
点滴で水分も取れているからか表情は昨日よりも良い。残念ながら珀鉛によって真っ白になってしまったため顔色の判別は付かないが、無事に回復に向かっていることに安堵した。
約半日前、この施設の状況は一変した。
酷く緊張した面持ちでハートの海賊団の船員が麦わらの一味に告げてきたのは、施設奥に向かった面々の隔離宣言であった。
両船長、そして船医が一人残らずこの場からいなくなってしまったことに、いかに医療の心得があるハートの海賊団の面々がいようとも、精神的支柱を失ってしまった不安は計り知れなかった。
風邪を引いたことがないというルフィやゾロの心配はしていないが、あちらにいるのは彼らだけではない。こちら側に病を持ち込むまいと全員があちらに残ることをその場で決めたのだ。その決意は相当なものだっただろう。
今は原因の究明と患者の治療に当たっているという。脱水症状で見つかった患者の容態も芳しくないらしい。
一体何がどうなっているというのだろうか。
少女と同じように珀鉛病の患者が見つかったと聞いていた。しかしそうではないという。
初めはこの施設と研究員達に憤慨していた。しかし今は次々と引き起こされる出来事に不安を感じている。
人間の醜さや邪悪さに晒されるという精神的負荷は思いのほか辛かった。
いけない。ナミはついつい暗くなる表情を引き締めて温かいタオルを片手にラミに話しかけた。
「お顔や身体をきれいにしましょう。痛かったら教えてね」
絞ったタオルを優しく少女の肌に当てていく。少女は痛みこそ無いもののむず痒いのか口をきゅっと結んでいた。
一通り綺麗に拭った後、チョッパーが調合した保湿剤を塗り込んでいく。
「これでよし。お疲れ様、ラミちゃん」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして!よく頑張ったわ」
えらいえらいと褒める。自分は妹だったため実際の気持ちは分からないが、きっと妹がいたらこんな感じかしらと想像した。
妹が欲しいと思えるような余裕のある幼少期は送ってこなかったものの、妹を可愛がるという行為に興味がなかったかと言われれば嘘になる。普段は麦わらの一味の中でも年少組に分類されてしまうため誰かを甘やかすということは案外少ないのだ。
タオルと桶を片付けるナミをそろりと見上げた少女は、恐る恐る口を開く。
「看護師さんなんですか」
あらかわいい、とまた心の中で呟いた。
「私はお手伝いなの。本当のお仕事は航海士よ」
「こうかいし」
「船に乗っている人のお仕事よ。昨日ここにいたトナカイさんがお医者さんなの」
そう言うとギョッとした顔をした。
「トナカイさんが?ここのお医者さんなんですか」
「うーん、なんていうか。私達はここをお手伝いに来ているの。普段はお船で旅をしていてね」
「船で旅……」
ぽかんと口を開けている姿は本当に可愛らしい。
本当は海賊であることが知られてしまえば泣かれてしまいそうだ。
「……もう一人いた男のひとは一緒の船のお医者さんですか」
それは少女が父と間違えたローのことだった。
無愛想な態度を取ったものだからナミが少し咎めたものの、少女の記憶にはばっちり残ってしまっていたらしい。
トラ男も意外とこのくらいの子供にいてもおかしくない歳なのよね、と考えながら少女の問いに答える。
「いいえ、もう一つのお船のお医者さんなの。とっても凄いお医者さんでね、ラミちゃんの病気を治してくれたのはトラ男先生なのよ」
「とらお先生……」
ナミはしばらくはここに来ない強面医師の好感度上げに勤しむ。
トラ男、後で感謝しなさい!と内心であのふわふわの帽子をぷすぷすと刺した。
ちょっと顔は怖いが、彼が立派な医者だということはパンクハザードの一件からずっと知っている。そして少し不器用な性格であることも良く分かっていた。
しばらく来られない間に面白おかしく彼の話をしてやろうかと画策していると、こんこんこん、と扉をノックする音が聞こえてきた。
この病室に来る可能性のある人物は限られている。律儀に返事を待つ姿にその正体に当たりを付け、ナミは少女の様子を窺う。
「ラミちゃん、いい?」
少女は頷いた。ナミが警戒していなかったことも大きいだろう。
「はーい、入って大丈夫よ」
入ってきたのはサンジだった。流れるような動作でベッドの横に跪き、胸に手を当てて朗々と挨拶をする。
「ナミさん、それに天使ちゃん、ご機嫌麗しゅう。愛のコック、サンジです」
女性とくれば老若関係なく鼻の下が伸びるコックは、まだ齢十にも満たない少女にもいつもの調子で話しかける。
やれやれと肩を竦めるナミの目の前では少女がきょとんとした顔で首を傾げていた。
「天使ってわたし?」
「そうだよ、可愛い天使ちゃん」
まんまるなお目目も長いまつ毛も、それから小さな口も全て少女の可愛さを強調している。
この世界に舞い降りた天使のようだと謳うサンジに少女は不思議そうに言葉を返した。
「私、天使じゃないよ。天使は神様のお話を教えてくれる人だよ」
おや、と目を見張る。サンジは殊更優しい声で言葉を続けた。
「ラミちゃん、物知りだね」
「……おにいさまと教会によく行くから」
ベッド越しにナミとサンジが目を合わせる。
ようやくそれらしい話が少女の口から出てきた。目覚めてからさほど時間が経っていないとはいえ、いまだ名前以外のことを教えてもらえていないのだ。
「おにいちゃんと仲がいいのね。おにいちゃんのお名前はなんていうの?」
その問いに少女は再び口を閉ざしてしまう。
どうやらそこまで教えてくれるほどまだこちらに気を許していないらしい。
「ラミちゃん、なにか食べたいものはあるかな。身体が良くなったら好きな料理でも、デザートでもなんでも作るよ」
方向性を変えてもう一度会話を試みる。
ケーキかな、美味しいジュースかな。と子供が好きそうなメニューをサンジが上げていくと思わずといった様子で少女の口からぽろりと言葉がこぼれる。
「アイスクリーム」
「! いいね。美味しいアイスクリームを作るから楽しみにしてて」
少女はさらにそわそわしながらサンジの様子を窺っている。
「コーンにのってるやつがいい……」
「もちろん!」
とびっきり可愛いものを作ろうとサンジは脳内で既に材料を並べていた。
よかったわね、と言うナミに少女は頷く。
「……」
もじもじしていた少女は意を決したように顔を上げ何かを言おうと口を開いた。
しかしそれは再度の来訪者のノックによって遮られてしまった。
三人の視線が扉へと注がれる。
「ペンギン配送でーす」
くぐもった声が向こう側から聞こえて、その正体が分かりナミは胸を撫で下ろした。
先ほどと同様ラミに入室の許可を伺い、外にいる男を招き入れる。
頭にペンギンのトレードマークを乗せた男は、重そうな本をいくつも抱えて部屋に入ってきた。
「なに、それ?」
思わずナミが怪訝な顔で問う。
「ハートの海賊団出張サービスってね。児童書とか必要かと思いましてお持ちしました!」
ペンギンはサイドボードにドスンと本を積み上げる。
わ、と少女はその多さに小さく驚く。
「よくそんなの用意できたわね。ハートの海賊団のものなの?」
「意外でしょー。うちにもこういう本あるんですよ」
「小難しい医学書ばっかりだと思ってたわ」
その言葉にペンギンはへらりと笑う。
「こんにちは、ラミちゃん。文字は読めるかな?色々本を持ってきたんだけど、良かったら読んでね」
人手不足で四六時中誰かが付いていられる訳ではない。空き時間の暇潰しとしてはこれ以上ない娯楽だ。問題は少女が一人で本を読めるかどうかだが。
「海の戦士ソラ……」
ぽつりと少女が呟く。
おや、とナミとサンジは目を合わせた。少女の琴線に触れる本があったらしい。
それも海の戦士ソラの話とは。縁が深いサンジはそうかと納得する。
フレバンスは北の海の国だ。北の海の子供達に馴染み深い海の戦士ソラは、心細い少女へにとって安心材料になるだろう。
一冊手に取って少女に渡す。少女はその本の表紙をじっと眺めながら手でなぞっていた。
多少読めない文字があっても、よく知っている話なら一人で読めるだろう。
「綺麗な本ね」
横から見ていたナミが感嘆する。
たしかに普通の児童向けの本にしては少々凝った装丁だった。
「よくぞ聞いてくれました!うちってほら、一度沈んだでしょ。だから本を揃え直そうってなったときにちょっと豪華盤を奮発しちゃったんですよね。俺達は北の海の出身だし、うちの船長も大好きな話なんで」
「トラ男が?意外ねえ」
「案外こういう少年心がある人なんですよー、あの人」
本人が聞いていたら間違いなくバラバラにされる発言をするペンギンにナミは苦笑した。この分だとナミが面白おかしく話をせずとも問題なさそうだ。
好きに読んでいいからね、と伝えると早速少女は本を開いて文字を追い出す。
あらあら、と微笑ましく見守っていたナミは船に戻るというペンギンと共に桶を片づけるため病室を出た。
人気が無い廊下まで無言で歩いていた二人はもういいだろうと口を開く。
「頭の良い子ね」
「ほんとですねー。俺あんな小さいときに本なんて読んでなかったですよ」
「そうね。……それに私達に対する態度も、よく考えているわ」
いまだ心を許してもらえていないナミは桶に入ったお湯に映る自分の暗い顔にため息をついた。
「どこまで伝えたんですか?」
ペンギンの問いにナミはゆるりと首を横に振った。
「ここには家族はいないってことは。ラミちゃんは治療のためにここにいるって話したわ。ここがフレバンスじゃないってことは最初から理解していたみたい」
「……そうですか」
「一度に沢山のことはパニックになっちゃうと思って、それだけしか伝えられていないの。だって十年以上も眠っていたなんてとてもじゃないけど信じられないと思うわ。あの子の年齢よりもずっと長い時間が過ぎてしまっているのよ」
ナミの葛藤をペンギンは理解できた。本当は嘘をつかずに全て教えてあげたい気持ちもあるのだろう。だがそれは簡単なことではない。
誰一人味方がいないと思っている状況でそんなことをすればますます心を閉ざしてしまうだろう。すべてが敵に思えるかもしれない。
本当は一番手っ取り早い方法を知っている。ただ一人残る家族が名乗り出ればいい話なのだ。それもまた現状では難しい話だとペンギンは知っていた。あちらはあちらで拗らせすぎている。喝は入れたので後は本人に任せるしかない。
「少しずつ気持ちの整理をつけてあげられればいいんだけど」
「そうですね」
ペンギンはどうか皆が自分の幸せを見つけられますようにと祈るしかなかった。
彼らがここに居られる時間は無限ではない。
少女の心を癒す時間があればいいが、と大人たちはため息をついた。
海流や気象の激しい海域では時折海軍の巡回ルートに難破船や海賊に襲われた船が出現する。
この日も大海原でぼっきりとマストが折れた船を発見した海軍は調査のため船へと乗り込んでいた。
「……なんでこんなことになってるんだろうな」
「スモーカーさん!これも乗り掛かった船ですよ!」
「……」
G5の基地長にしてこれまた海賊王と腐れ縁のような仲になってしまっている海軍本部の問題児こと白猟のスモーカーは新たに葉巻に火をつけて燻らせていた。
二人がなぜこんな場所にいるかというと、それは時を少し巻き戻したところから始まる。
荒れくれ者の行き着く場所、人材の墓場、窓際部署、五年連続配属されたくない支部ナンバーワンと名高いG5の今年度の予算を勝ち取るために本部の会議に出席していた二人は、なんと帰りの定期船の時間を間違えていたというたしぎにより危うく帰宅難民になりかけていた。
ここまでドジが突き抜けるといっそ悟りを開きたくなってくるが、何とか予定通りの日程に期間出来ない場合上官不在でG5の面々を野放しにすることになる。そうなれば始末書を何枚書かされるか分かったもんじゃない。
少しでも早く帰るためにどうにか別の船に乗りG5管轄の地域へ向かえないものかと頭を悩ませていたところ、巡回のついでに立ち寄ったというG2支部の巡回船にご厚意で途中まで乗せてもらえることになった。
これでどうにかG5への帰還は当初の予定通りに進みそうだと胸を撫で下ろしていたところに、難破した民間船の調査が入ったのだ。
彼らの本来の職務はそちらであることは間違いないし、G5管轄内で同じように遭遇すれば自分達も率先して指揮を執るだろう。当然巡回は即座に救命・調査任務に変わった。
だが今日ではない、今日ではないのだ。己の運の悪さに頭を抱えながらスモーカーは十手を担いで民間船に乗り込んだ。
この船の指揮官はスモーカーよりも階級が低く、酷く恐縮してしまいスモーカーへの指示出しは期待出来そうになかった。
ならば勝手に手伝わせてもらうと一言言って出てきたところで現在に繋がる。
こうなれば自棄だった。何が乗りかかった船だ。乗らなくても良かったはずの船に乗っているのである。
煙になってひとっ飛びで降り立った船は不気味なほど静まり返っている。あとから慌てて着いてきたたしぎもその物々しい雰囲気に口を噤んだ。
救助用ボートは一つ残らず無くなっており、既に避難が行われた後だということが分かった。
二人は逃げ遅れた人がいないかどうか甲板からゆっくりと見て回る。
一見してよくある貨物船であった。船が荒らされている様子は特になく、海賊等からの略奪行為が原因ではないことは長年の経験からよく分かっていた。マストや外観の損傷具合からもこの事故が天候によるものだと容易に想像できる。
それでも一応は確認が取れるまで調査を続けなくてはならない。
スモーカーの後ろには次々と乗り込んで来たG2の海兵達が調査を始めていた。細かいところは彼らに任せておけば良い。
スモーカーは万が一の時のために先陣を切って進んでいた。
船の中は慌てて逃げたせいか床に物が散乱している。食べかけの食品の乾燥具合からは、ここから船員が居なくなって丸一日間以上は経過しているだろうと推察出来た。
海賊の仕業では無いと分かれば事故として処理することになり、そうなればスモーカー達の出番はない。
やはり厄日だったかと肩を落とし踵を返したところで、不意に鼻にすえた匂いがついた。
眉をひそめて匂いの元を探る。同じくその匂いに気付いたたしぎが手で鼻を覆っていた。
職業柄この匂いの正体をよく知っていた。
「スモーカーさん、これ」
スモーカーも片手で口鼻を覆った。
匂いは下から上がってきていた。
視線を低くしてじっと床を観察する。
船室の奥、ぴっちりと覆われている絨毯をはぐると船底に続いていると思しき扉が現れた。
たしぎを下がらせたスモーカーはその扉に手をかける。
開けた瞬間の匂いで下がどうなっているのか、すぐに分かった。
漏れ出た匂いでたしぎは思わず涙ぐむ。
身体を煙にして器用に下を覗いたスモーカーはその光景に思わず息を飲んだ。
すぐに船底への扉を閉めたスモーカーは背後で顔を青くしている副官へと言葉を投げる。
「たしぎ、誰も下に入ってこさせるな」
「は、はい!」
副官がドタバタと駆けていく姿を後目に、スモーカーはなるべく口の中に煙を溜め込み再度船底へと降りていった。
眼前に広がる光景に顔を歪める。
口で息をしていても刺すような刺激があり、濁った重い湿気のようなものがスモーカーの全身を蝕む。
掲げたランプは船底の一部しか照らしていないが、似たような光景が広がっていることは容易に想像出来た。
なにより一番の特徴はその死体の外見だろう。
最初に見つけたのが自分で良かったとため息をつく。下の者では大騒ぎになってしまうだけだ。
何が貨物船か。海賊よりももっとタチが悪い。
無念さとやるせない気持ちに苛まれながら、スモーカーは電伝虫を取り出しとある番号へと掛けた。
眉間に皺を寄せたローは機械と見つめ合いながら口を開く。
「ただのビタミン剤だな」
ルフィ達やシャチによって発見された錠剤をローとチョッパーが片っ端から成分分析にかけ、出てきた答えがそれであった。
なんとなく想像がついていたローはその結果に納得していた。
しかし傍らでソワソワと待っていたチョッパーは「ええ!」と声を上げる。
「風邪薬ですらないのか!?」
治験薬だと思われていたものの正体に驚きを隠せない。
てっきり人体に悪影響のある物質か、もしくは全く未知の毒物でも検出されるかと思っていたのだ。
「プラセボ薬もくそもねえ。全部同じだ。所詮治験なんていいカモを見つけるための宣伝文句でしかなかったんだろ。形式だけ真似ただけで、ここにいる奴らも、外にいる奴らも体のいい実験体だ」
ローは舌打ちをする。
「じゃ、じゃあ病気の検査結果は!」
ただのビタミン剤で体調が悪化するはずも無い。
その上感染症に肌の白斑。かつての白煙病の悪夢の再来かのような出来事には説明がつかない。
ああ、とローはなんてことないように言う。
「インフルエンザだぞ」
その結果にチョッパーはぽかんと口を開けた。
「インフルエンザ」
「ああ、しかも人にだけ感染する型だ。良かったなトニー屋、お前だけは向こうに戻れる。これでようやくあっちの治療も開始できるな」
ローの言葉に固まっていたチョッパーは片手で頭を抑える。
「いや、ちょっと、待ってくれ。本当にインフルエンザなのか?」
驚くチョッパーにローは検査結果の紙を突きつけた。現状ハートの海賊団が保有するありとあらゆる検査結果で出た答えだった。
発熱も咳も、身体の倦怠感も全てインフルエンザから来るものであった。
結果を見ればチョッパーも納得せざるを得ない。
「インフルエンザで三日も飲まず食わずならよく誰一人死ななかったもんだな。瓦礫の間で直射日光にも当たらない場所が功を奏したか。気温も安定していたから一命を取り留めたんだろう。肺炎にまで進行している患者がほとんどだが、今のままなら十分回復は見込めるな」
「あの高熱と倦怠感はじゃあ……」
「同じ部屋にいたヤツらが次々の感染したっていうのも頷ける。なんの感染対策も無しに人間が詰め込まれていたらそりゃそうなる」
そして患者たちの間には同時に恐怖も感染していったのだ。
「でもインフルエンザであんな外見になるって聞いたことないぞ……、新世界特有の症状なのか?」
「俺もそれは聞いたことないが」
トン、とローは机を指で叩く。
「肌が白い状態はこれとは別件だな」
真ん丸な目がローをじっと見つめる。
「あの子供の肌を覚えているか」
「ラミのことか?」
「ああ」
チョッパーはあの白く可憐な少女の姿を思い出す。
初めて機械から彼女の身体を助け出した時、酷んはく小さな身体に恐怖した。白い肌はこの世の物とは思えず、美しいとさえ感じる。
白い街フレバンスの化身。
「珀鉛が析出した肌は陶器のような見た目で、少しザラザラしていて硬い。光を通さないから肌の血管も見えない」
チョッパーは頷く。
そして同時に気付いた。
はたしてあとから救出した彼らの肌は同じ白だっただろうか。
珀鉛病という先入観から肌の症状と身体の症状を同一の病だと捉えていたのではないか。
奇妙な胸騒ぎがチョッパーの胸中を占める。
答えはすぐに出た。
「こいつは病気ですらない。あいつらの肌は強力な薬品で脱色されている。人工的に引き起こされた白斑だ」
チョッパーは蹄を擦り合わせる。
「……調べたのか?」
「少し引っかかってな。インフルエンザと判明してからは別の病気として調べていた。そしたらこれだ」
本当は逆だ。ローはそもそもあの肌の色が珀鉛によるものでは無いとすぐに分かった。だから検査を絞って病原の特定に努めたのだ。
「恐らく患者が寝てる間に肌に薬液でもかけて脱色したんだろう。もしくはそうするために薬か何かで眠らされていた可能性もある」
「なんでそんなこと」
チョッパーの呆然とした呟きにローは考え込む。
病状はただのインフルエンザで、外見は治療してしまえば治ってしまう皮膚脱色。
見せかけだけの珀鉛病を作って彼らがしたかったこととは。
「随分と手の込んだことを。余程真似たかったらしいな」
「なんで。だってそんなことしたって本当の珀鉛病にはならないだろ!」
「そうだな」
奥歯を噛みしめる。
本物ですらない珀鉛病を平気で真似ようとする邪悪さに嫌悪した。
フレバンスの悲劇を体感した自分だからここまで違和感に気付くことが出来た。
こんなことを平気でやってのける人間が存在するという事実はいくらローでも堪える。なら麦わらの船医はそれ以上に平気でこんなことをやってのける人々に恐ろしさを感じているだろう。
「トラ男はもう分かっているのか?なんでこの施設でこんなことをやってたのか」
「……確信は無い。だが憶測を話して余計な混乱を招くのは避けたい。今は治療を第一にやれることをやるしかないだろうな。インフルエンザと言っても患者の体力が追いつかなければ簡単に命を落とす。あっちにいる患者たちも今は安定していてもいつ急変するか分からない」
深呼吸してをして感情を追いやる。医師としてやらねばならないことも、解決しなくては行けない問題も山積みだった。
「トニー屋、向こうに戻ったら一つ確認してほしいことがある」
不安そうに見上げるチョッパーにローは一つのファイルを渡した。
「これは俺の仲間が見つけてきた施設の患者リストだ」
いつの間に、とチョッパーは呟く。
ローはチョッパーと二人で解析している裏で自分の船員に指示を出していた。
「こっちにいる患者はすべてリストにチェックをつけてある。あっちに戻ったら残りの患者も全員いるかどうか確認して欲しい」
「まだ助け出せていない人もいるかもしれないもんな」
「ああ、まあそれもあるが……」
ローは言葉を濁した。チョッパーが首を傾げると、なんでもないと顔を横に振った。
「とにかく頼む。リストの患者確認はあっちに残っているうちの船員を使ってくれて構わない。あの子供以外にもトニー屋の治療が必要な患者は山ほどいるからな。……案外こっちにいた方が楽だったかもしれないな?」
「いや、早く戻って診てやらないと大変だ。おれ、トラ男達の隔離が終わるまでなんとかやってみるよ」
真面目だな、と肩を竦める。
連絡は電伝虫で、物資のやり取りはあれこれで。
少女の治療計画も含めて簡単に打ち合わせを済ませたチョッパーは、やはりまだ引っ掛かりを抱えているようであった。
「なあ、トラ男。なんでこの施設の人はそうまでして珀鉛病を研究したかったのかな」
「珍しい病気だから研究したかったのか、何かに使えると思って再現したかったのか、ろくな理由じゃないことは確かだ」
向こうに戻るためにトテトテと部屋の入口まで歩きながらチョッパーは呟いた。
「なあおれ、これが全部終わったら珀鉛病の真実をみんなに知ってもらいたい」
びくりとローの肩が跳ねる。
ローに背を向けているチョッパーはその事に気付かない。
「ずっと勘違いされたまんまなんてあんまりだ。珀鉛病が中毒だってみんなに知ってもらうべきだと思う」
チョッパーはこの数日間で体験した多くのことを思い出していた。
自身すら勘違いし初動を間違えるところだったのだ。それは世の中に間違った知識が蔓延しているからに他ならない。
「救出された人達だって珀鉛病が感染って死ぬんじゃないかって怯えてた。多分、おれ達がここに来る前だってみんないつ自分が発症するのか怖かったと思う。でもそれって勘違いされたままだからだ。ちゃんと珀鉛病が中毒だって知っていたら自分の身体にもっと疑問を持てたと思う」
チョッパーはくるりと振り返った。
「だからおれ、珀鉛病の研究結果をまとめようと思ってる。この施設に残ってる情報とか、ラミの治療経過とか、書いてみんながちゃんと読めるような本にしたい。もちろんその時はラミの手術記録とかも必要になってくるだろうから、トラ男にも協力して欲しい」
紳士に、誠実に、チョッパーはトラ男へ訴えかける。
患者を心の底から慈しむ。それは同情からではなく彼の高潔さから来るものだ。
「お前はいい医者だな、トニー屋」
かつてそんな医師がもう一人いれば、父の言葉は握り潰されなかったのだろうか。
かつてそんな医師がもう一人いれば、恩人は自分のために命をすり減らさなかっただろうか。
十数年経った今ではもう答えは探せない。
時を戻せないように、起こった事実も消えない。ローがどれだけ足掻こうとも。
ローの様子に気付かないチョッパーは、そんな褒めるなよ、と頭を搔く。
そうしてローの顔を見上げた時、その表情が喜びから来るものでは無いと知った。
「十数年前に滅んだ国の真実を、なんのために?」
「え?」
進んで応援をするような人間では無いと思っていたが、否定もされないと思っていた。
あの少女の手術をやり遂げたローなら一緒に出来るだろうと思っていたのに。
「施設は破壊された。最後の珀鉛病の患者ももう治療が終わった。もうこれで誰も珀鉛病に見向きもしなくなる。なのに本当にそんなことをするのか、トニー屋」
「なんでそんなこと」
ローのこれは八つ当たりだ。自覚はあった。
同時に老婆心からの言葉でもあった。
この優しい医師がかつての父のように打ちのめされるところは見たくなかった。
「あまり勧めはしない。……深入りしないことだ」
西日が少女のまろい肌を照らす。白磁の肌はオレンジに染まり、小さな唇は微かに息を漏らしている。
硝子のような瞳は先程からある一点に向けられていた。
少女は小さい手でその文字を撫でている。
「……ちゃん、ラミちゃん」
少し離れたところから聞こえる声に少女ははっと顔を上げた。
声の方へと視線を向けると扉を薄く開けた間からそろりと女性がこちらを見ていた。
「こんにちは、ロビンよ。ノックをしたのだけれどお返事がなかったから。入ってもいいかしら」
少女はこくんと頷いた。そして手元で開いたままにしていた本を慌てて閉じる。没頭するあまりノックも呼びかけの声も無視してしまっていたらしい。
お皿を持って入ってきたロビンはそんな様子にあらあらと笑った。
「そんなに慌てなくて大丈夫よ。本、読むの好きなのね」
少女はロビンの言葉に、思わず手の中にある本をサイドボードへと戻した。既に何冊もの本が積み上がっており、少女が戻した巻数は中盤のようだった。
ロビンはこのぐらいの歳の子にしては随分と本を読むのが早いなと感心した。まだ絵本を読んでいてもおかしくはない年頃だ。
勿論オハラで幼少期より様々な本に囲まれてきたロビンも例に漏れず本を読むのは早かったが、残念ながらそれは特殊すぎて比較対象にはならない。
焦る少女に、集中しているところを見られたのが恥ずかしかったのかしら、と内心で微笑みながら手に持っていたお皿を少女の前へと差し出す。
「はい。ラミちゃん、おやつにしない?」
少女は目の前のお皿を見て目を丸くした。
「アイスクリーム……」
それは少女が食べたいと言ったものだった。
お皿にはひんやりと美味しそうな白いアイスクリームが、そしてその上には逆さまにに小さなコーンが鎮座していた。
まだきっとコーンを持って食べることが出来ないだろう少女の希望をサンジなりに叶えた結果だろう。その細やかな気配りに、ロビンは自分のことのように嬉しかった。
こんなにも早く叶うと思っていなかった少女は嬉しさよりも驚きの方が勝っているらしい。ぽかんと口を開いてアイスクリームを見つめている。
「少しだけなら大丈夫って、さっきお医者様から許可が出たの。うちのコックさんのデザートはとっても美味しいのよ」
小さなスプーンをしっかりと手に握らせて、ロビンは嬉しそうに言った。
「……とらお先生がいいて言ったの?」
少女の言葉におや、とロビンは首を傾げる。
「いいえ、トナカイのお医者様の方よ。ラミちゃんは身体が強いから、きっとすぐに良くなるって言ってたわ。良かったわね」
しかしロビンの言葉に少女の顔はどこか憮然としていた。
ナミから聞いた話ではローとこの少女の邂逅はあまり良いものではなかったと記憶している。
彼、不器用だものね、とロビンは困ったように顔に手を当てた。
「トラ男先生が気になる?」
もしかしたら少女の心の中ではそれがよほど心残りだったのかもしれないと思案する。
たしかに自分達全員が好意的に接している中で一人だけ態度が違ったら子供は不安になるだろう。
そうなれば少しでも気にかけてくれているかどうか、自分のことをどう思っているか、反応を伺いたいに決まっている。
溶けはじめたアイスの上のコーンがことりと皿の上に落ちた。
「……怒らせちゃったから」
その言葉にロビンは驚いて声を上げた。
「まあ、そんなことないわ。絶対に」
少女の小さな手に自分の手を重ね首を横に振る。
あのローがこんな小さな子供に怒るなんて想像できなかった。
医者としての彼は顔に見合わず丁寧で緻密だ。たとえ目の前の少女が何かをやったとしても、彼が仕事に対して必要以上に負の感情を見出すとは思えなかった。
「トラ男先生は恥ずかしがりやなだけよ。ラミちゃんに怒ってなんかないわ。ちょっと顔は怖いかもしれないけど良い先生よ」
奇しくもナミが思っていたことと同じ言葉を口にする。
困ったわね、とロビンは眉間に皺を寄せた。
麦わらの船医であるチョッパーは先程戻って来たが、依然としてロー達がこちらに来る目処は立っていない。
ローが顔を出して少女と話すことが出来ればすぐに解ける誤解だと言うのに、このままならない状況が歯がゆかった。
「でも私、まちがえちゃったから」
「え?」
少女は蚊が泣くようなか細い声で呟く。
スプーンをぎゅっと握りしめて少女は言葉を続けた。
「おとうさまとまちがえちゃったから」
少女は本当に後悔している口ぶりだった。
ロビンはようやくこの事態のあらましを察することが出来た。
自分に非があるとずっと思い詰めていたのだろう。ようやくその言葉を口にした少女は今にも泣き出しそうだった。
「トラ男先生はお父さんと似ているの?」
優しい声で聞く。
本当は家族の話をするのは避けた方が良いのだろう。何故なら誰も少女の家族の話を返してあげられないからだ。
だが今、少女はロビンに打ち明けてくれようとしている。もしかしたらこれはずっと傍にいたナミが聞いてあげるべき話なのかもしれない。
だがたまたま少女の心のコップが溢れたのは今だったのだ。
その少女の心を取りこぼさないようにロビンは耳を傾ける。
「……おとうさまもお医者さんだったから」
「そう。トラ男先生と一緒なのね」
少女の聡明さや行儀の良さに合点が行く。
少女の年頃からすれば、医者然とした格好をしていたローを見て家族を想起しても可笑しくないだろう。
大人にとっては可愛らしい間違いで、少女にとってはあってはならない間違いだった。
「おとうさまも、おかあさまもお医者さんだった。フレバンスで一番のお医者さん」
「まあ、すごいわ。皆お医者様だったのね」
少女はうん、と頷く。
「おにいさまも、お医者さんになりたいって。だから私も……」
少女の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちる。
今まで張っていた緊張の糸がブツンと切れてしまったかのように感情が溢れ出す。
ずっと家族がいない場所で、誰にも答えを与えられないまま過ごしてきた少女の心がついに決壊する。
名前を呼んでしまったらもう後戻りはできなかった。
「おとうさま……おかあさま……、おにいさま……なんで」
なんでここにはいないの、そう泣く少女は年相応の子供で。
どうにもしてあげられない現実にロビンはただそばにいることしか出来なかった。
「おかえり、ロビン」
タオルやらシーツやら、洗濯物を抱えたナミが戻ってきたロビンを出迎える。
どこか暗い顔をしたロビンは空の皿を抱えたままだ。
「ねえ、ナミ」
「んー?」
皿を台へと置いたロビンは静かに話し始める。
「ラミちゃんのお家、病院だったそうよ」
「……そう」
その言葉でロビンがどうして暗い顔をして帰ってきたのか理解したナミは、洗濯物を一度置くと側に寄り添った。
「きっとそれでトラ男君のことお父さんと間違えちゃったのね。随分気にしていたから」
「罪な男よね、トラ男も。あんな可愛い子にそんなに思われるなんて、贅沢よ贅沢!」
わざとらしい大げさな物言いにロビンはくすりと笑う。
「……あの子にいつ言うべきか、もう言ってしまうべきなのか、考えていたの。いつかは言わないといけないって言ったのは私なのに。でも泣いているラミちゃんを見て、どうしても言えなかった」
同じよ、とナミは言った。
「私もずっと悩んでる。多分あの子は私達がわざと何も言わないことも気付いてる」
何か言いたげな眼差しも、口を開きかけては閉じる仕草も。
少女はその聡明な頭脳で大人達の空気を敏感に読み取っていた。
聞いたら最後、自分が望まない答えが出てくることは分かっているのだ。
「真実はあまりに残酷だわ。……一番残酷なのは彼女自身がその真実を目の当たりにすることが出来なかったことよ」
自分が眠っている間にすべてが終わっていたと知ったら、自分だけが世界に取り残されてしまったと知ったら。
もし彼女が惨状を経てなお生き残っていたのならば話は変わっていただろう。真実を受け入れるための心があったはずだ。
だが自分の無力感さえも理解出来ず、ただそこにある事実を噛み砕くことは困難だ。責める相手すらどこにも作ることは出来ない。宙に浮いたまま地に足をつけることもままならない。
「ラミちゃん、今はどうしてるの?」
「泣いて疲れて、溶けたアイスを沢山食べて寝てしまったわ。体力の回復は順調みたい」
「そう、よかった。空のお皿を見たらサンジ君喜ぶわね」
それでも前進していることは間違いなかった。
今回のきっかけが少女の心に大きな変化を齎すだろう。何故自分がこんな場所に居るのか、何故一人なのか。
警戒して閉じこもっていた心の殻が壊れ、もっと知りたいという欲が溢れ出てくるはずだ。
「……あの子が泣いて泣いて泣き疲れて、それでも知りたいと願うことが出来たのなら、話してもいいのかもしれないわ」
「その時は溶けたアイスじゃなくっていろんな味のアイスでやけ食いパーティーしなきゃ」
「ふふ、サンジなら喜んで作ってくれそうね」
自分達の心も前へ向いた気がして二人は顔を見合わせて笑う。
ロビンはそういえばと思い出した。
「あの本のことなのだけど」
「本?ああ、ハートの海賊団が持ってきてくれたやつ?」
「そう、それ。たしか海の戦士ソラ、だったかしら」
「そうそう、綺麗な本よね。それがどうしたの?」
最初はロビンが声をかけてもぴくりとも動かないので驚いたくらいだった。あの類の児童書は嗜んで来なかったため、そんなに面白い本なのだろうかと興味が湧いた。
「いえ、あの子随分熱心に読んでいると思って」
「北の海では子供の定番の本らしいわよ。私もさっき覗いた時に一生懸命読んでいるのを見たもの。よっぽど面白い話なのね」
「そうなの。私も読んでみようかしら」
それもまた少女が大人達に心を開いた要因の一つなのかもしれない。
両親は医者で、兄も医者を目指していて、きっと小さいころから本に触れあう機会が沢山あったのだ。彼女の口から出た家族を呼ぶ声は愛に満ちていた。
身近にあったものと同じものが少女の心に安寧を齎したのであればあれだけ執心するのも頷ける。
しかし続いたナミの言葉にロビンは首を傾げることになった。
「びっくりしたのはお昼に覗いたらもう最終巻を読んでいてね、感心しちゃったわ。本当に頭の良い子よね。御両親がお医者様って聞いて納得しちゃったわー」
「え?」
ロビンは思わず声を漏らした。
だってあの時少女は。
いいや、本を繰り返し読むことは可笑しいことではない。馴染み深い本であれば好きなシーンを繰り返し読むこともあるだろう。
「……そう」
ロビンはゆっくりとあの時のことを思い返した。
声を掛けても気付かないくらい真剣に見ていた少女は、あの時どこを見ていただろうかと。