どうしてライは保護者面をするのか「ライ、バーボン。あなた達にはお仕置きが必要みたいね」
ベルモットが艶やかに微笑む。けれどその目は決して笑ってなどいなかった。それもそうだ、ほんの数時間前にライとバーボンは彼女の指示を完遂し損ねてしまったのだから。
「データは確かに入手してきたみたいだけど。あなた達の連携が悪いせいで銃撃戦になったそうじゃないの。お陰でボスから目立ちすぎたとお叱りを受けたわ」
嗜めるようなベルモットの口調に、ライは大きく舌打ちをした。
「殺さなきゃデータが手に入らなかったんだ。仕方ねえだろ」
「とはいえ、そこをどうにか交渉してこい、という仕事ですからね。非は僕らにあるということだ」
隣にいたバーボンは、随分と殊勝なことを言いながらベルモットに頭を下げた。けれど視界の隅に映った拳の震えが、彼もまたライと同じく、不可抗力だったと考えているのがわかる。
ライはともかくバーボンの演技も、女優であるベルモットの前では子ども騙しにもならないようだった。彼女は大きく溜め息をついた後、隅に待機させていた部下に「例のものを」と指示を出した。
「二人とも、これを飲みなさい」
渡されたのは何の変哲もない水、のように見えるものだった。
「大丈夫よ。飲んでも死にはしないわ」
こんな組織の中で、一体誰がそれを信じられるというのか。けれどここで抗えば、組織内での居場所がなくなる。潜入捜査官としてどちらが正解なのか、ライはグラスを前にコンマ数秒だけ逡巡してしまった。
その間に自分の右側にいた男が動いた。流れるような動作でグラスを手に取る。
「あなたは飲まないんですか?」
「何が入っているかわからんのだぞ?」
動揺の一つもなくグラスに口をつけようとするバーボンに、ライは思わず眉を寄せた。普段あれだけ慎重派に見えるこの男が、得体の知れないものに平然と応じているのが理解出来なかった。
「だってベルからのお仕置きですよ。従わないわけにはいかないでしょう」
「この女が言うことなら何でも受け入れる気か」
「ライこそよく考えてください。ここで下手に歯向かって仕置きを他の幹部が担うことになったら、この程度じゃ済みませんよ。だったら大人しく「ごめんなさい」した方がいいと思いますがね」
「あらぁ、賢明な判断ね。バァボン」
「そこにいる男と違って、僕は今回の件について、それだけ反省しているということです」
これ以上抵抗したところで、無意味でしかない。ライはもう一度舌打ちをするとグラスを手にした。
「あら、ライも飲む気になったようね」
「他に選択肢を与えずよく言う」
ベルモットの合図で二人同時に液体を飲み干した。それはただの水だと言われても違和感のないような、無味無臭のものだった。少なくとも、ライにとっては。
「? これは、レモネードですか。随分と甘い……」
「あら、バーボンが当たりを引いたのね」
「どういう意味です? …………あっ! ぐっ……う……っ!」
突然呻きだしたバーボンの方をライが慌てて見れば、彼は胸を押さえ苦悶の表情を浮かべていた。落ちたグラスは幸いにして毛の長いラグのおかげで割れずにすんだようだが、そんなことに安堵している状況ではない。その場に蹲ったバーボンを介抱するべく手を差し伸べようとしたところで、ライは目を瞠った。
「体が……縮んでいるっ?」
シュウゥと音を立てる勢いでバーボンの体が縮んでいく。いや、よく見れば縮小しているわけではない。どうやら彼は若返っているようだった。それも異常な速度で。
急激な肉体の変化に苦悶するバーボンを、ライは為すすべなく見守ることしか出来ない。
ベルモットだけが優雅に微笑み続けていた。
衝撃の時間は体感よりも短かったようだ。おそらくは三十秒とかかっていない。その間にバーボンはどう見てもベビーとしか形容出来ないほどに若返ってしまった。自分で立ち上がることも出来ないのか、サイズのまったく合っていない服に包まれたまま床に寝転がって泣いている。
「さあライ、お仕置きの時間よ。その子が元に戻るまで、この部屋で世話をして頂戴」
「世話をしろって、こいつをか」
「そうよ。だって赤ちゃんはお世話してもらえなかったらすぐに死んでしまうでしょう? 試験薬だから半日か、せいぜい一日もしたら戻るわよ」
「赤ん坊なんて触ったことないぞ」
「ミルクとオムツは用意しておいたわ。あとこれは実験も兼ねてるから、監視カメラであなた達の様子は全て記録されるの。適当に済まそうなんてゆめゆめ思わないように」
泣き続ける赤ん坊を渡されても困惑しかない。けれどライの反論など端から興味のないベルモットは、さっさとドアの向こうに出ていこうとする。
「これはお仕置きだから、あなたに拒否権はないのよ。わかったら大人しく従いなさい」
扉を閉めたベルモットは、ご丁寧に外から鍵までかけたようだった。ガチャリという無機質な音が小さく響く。ライは額に手を当て溜め息をついた。たった一日程度とはいえ、まさか赤ん坊と二人きりにさせられるとは。
「おいバーボン、いつまでピイピイ泣いてんだ。早く起き上がれよ」
床の上で手足をバタバタさせながら泣いている乳児を見下ろしながらそれだけ言うと、ライはソファに座り煙草に火をつけた。けれど一口吸ったところですぐに火を消した。バーボンが泣きやまないからだ。
「おいおい、まさか意識も赤ん坊に戻ってるとか言わないよな」
嫌な予感に、ライはベルモットの言葉を反芻した。やはり目の前にいるのはいつものバーボンではなく、世話をしなければすぐに死ぬ生き物だということか。
ライは酷いスラングを発しながら煙草を仕舞うと、代わりにスマホを取りだして検索を始めた。「乳児」「世話」。
ベルモットの言葉を信じるならば、少なくともこの苦行は一日程度で終わるはずだ。ならば躾のような長期的なものは気にしなくていい。必要なのは最低限の世話が出来るだけの情報だった。
服の山に埋もれていたバーボンを抱き上げる。素っ裸というわけにもいかないだろうと、シャツだけはそのまま着せておいた。ベルモットが用意したらしいベビー服もあったが、嫌味かというほどレースとフリルがついたものだったので無視した。
抱っこしても泣きやまないバーボンをどう宥めればいいのか悩みつつ、三大欲求に基づいてまずは液体ミルクを用意する。常温のまま与えたがバーボンはもの凄い勢いで吸い付いてきた。もしかしたらスマホで調べている間ずっと泣かせていたから、喉が渇いていたのかもしれない。
哺乳瓶に入ったミルクを「んっく、んっく」と音を立てながら飲む赤ん坊を見ていると、これがあの口うるさいバーボンと同一人物なのかと疑いたくなった。もちろん変化の瞬間を見ているのだから信じないわけにもいかないのだが。
大人になった時以上に大きく感じる瞳は、さっきまで泣いていたからか僅かに濡れていて、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。ふわふわの髪も光に透けて美しく、まるで天使のようだった。
「バーボンにもこんな時期があったんだな」
ライはミルクを飲み続けるバーボンの腕をそっと指で押した。彼が自分で身につけたはずのしなやかな筋肉は、そこにはない。プニプニとした二の腕は弾力性こそ誇れど、ライが僅かに力を込めるだけで容易く傷つけてしまえるだろう。
何もかもを人にしてもらわなければ生きることの出来ない弱い個体。ライには殺す気なんて欠片もないけれど、うっかり落とすだけでこの子は死んでしまうのだ。
「元に戻れるまで、君は俺が守るしかないのか…参ったな」
ライの呟きを理解することの出来ない幼子は、ただひたすらに目の前のミルクに必死だ。
父性なんていうものとは無縁だと思っていた。少なくとも潜入捜査をするのには不要な感情だ。それがまさか、こんなところで刺激されてしまうとは。
やがてバーボンは哺乳瓶を咥えたままうとうとと微睡み始めた。どうやらお腹が満たされたらしい。ライはバーボンが起きないようにそっと哺乳瓶を外すと、用意されたベッドに幼い体を横たえさせた。
バーボンが眠っている間にライはもう一度ネットを調べた。最低限の生活ではなく、バーボンが多少はマシな状態を保てるようにするためだ。
とはいえ調べたところで新たに何かを調達出来るわけではない。ベルモットが用意したのはミルクとオムツとベッドだけで、オモチャは一つもなかった。これでは生命維持しか出来ない。嫌な予感がライの背中をぞわりと撫でた。案の定、目が覚めたバーボンは時間を潰せるオモチャがない分、ライが構っていないとすぐに不機嫌になった。
ベビーバーボンの主な移動手段はハイハイのようだがつたい歩きも出来るようで、目を離すとすぐにあちこち移動しては立ち上がろうとし、転んで泣き出す。それでいてライの姿が視界から消えるのも嫌なようで、煙草を吸おうと窓辺に移動するだけでも、バーボンがハイハイで追いかけてくる始末だった。これでは何も出来ない。ライはバーボンを抱き上げると、ふかふかのラグの上に転がした。ここなら転んでも怪我をしないだろうと思ったのだが、ふかふかすぎて動きにくかったようで、数分もしないうちにバーボンが愚図つきだしてしまった。普段のバーボンなら多少の困難でもソツなくこなすのに、今はラグ一つでも苦戦するのかとつい思ってしまう。仕方なしにラグに寝転んだライはバーボンを腹の上に乗せた。するとそれは気に入ったようで、バーボンは何度もライの腹に登ったり下りたりして遊びだした。バランスを崩した時にすぐフォローが出来るので、ライとしても面倒が少なくてよかった。
三、四時間もすれば空腹でぐずりだすのでもう一度ミルクをやり、オムツを替える。元の姿に戻ったバーボンがライにオムツを替えられたなんて事実を知ったら、きっと恥辱の極みだと大騒ぎするだろう。遠くない未来を想像するだけで疲れるが、今この場にいる赤ん坊は別だ。全幅の信頼をライに寄せているかのように、曇りのない笑みを見せてくれる。
「バーボンはベビーの時から人気があったんだろうな」
ふと彼が子どもの頃、変質者に声をかけられたりしていなかったのだろうかと心配になった。大人になった今でもその容姿に群がる者が後を絶たないのだ。幼児期に誘拐されかけていてもおかしくない。もしかしたら彼の腕っ節の強さは、彼によからぬことを企む輩からの自衛手段によるものだったのかもしれないとまで考えが及んでしまった。
「あー、うー」
「なあバーボン」
「うー?」
「お前は俺に世話されて、嫌じゃないのか?」
「んあー、あいっ!」
笑顔のバーボンに頬をペチペチと叩かれた。会話が通じている気配は微塵も感じられなかったけれど、この子の無垢な笑みを見られたのだから、それで十分なのかもしれない。
ライはバーボンの柔らかな身体をそっと抱きしめた。
ベルモットの言った通り、バーボンは丸一日も経たないうちに元の姿に戻った。
それはそれで大騒ぎだったのだが。
「どうしてライが横で寝てるんですか!」
ライの横で昼寝をしている最中に元の姿に戻ったせいで、目覚めたバーボンはライの腕の中にいた。それだけでも彼にとっては屈辱だろうに、一日近くをベビーとして過ごしていた、なんて知ったらどれほど叫ぶことか。しかもその間の世話は、全てライがしていたのだ。ミルクや寝かしつけだけでも「ライにされていた」なんて素直に伝えでもすれば発狂ものだろうに、現実はオムツまで替えている。
「……君は何も知らなくていい」
ライは自分の腕の中から跳ね起きた青年の頭を優しくぽんと撫でてやった。
それまで一度もしたことのないあやし方をしてしまったのは、ついさっきまでの幼い姿が意識から抜けていない証拠だ。けれど自分がどうなっていたのかを知らないバーボンは、まったく違う理由を連想したらしい。
「僕だって知りたくもないんですけどね! でも自分が何をされたのかくらいは把握しておきたいじゃないですか!」
涙目のバーボンがシャツの裾を引っ張って下半身を隠そうとしている。そういえばシャツ以外は何も着せていなかった。オムツも、元の姿に戻った時に苦しいだろうからと、さっき外してしまった。つまり今のバーボンは、随分と無防備な格好をしていて。
「おいちょっと待て、何か誤解をしてないか」
「別に何も誤解なんてしてませんっ! ライが僕を脱がせたんでしょう!?」
涙目のバーボンを前に、やっぱり誤解しているんじゃないかとライは額に手を当てた。
「ガキに手を出す趣味はない」
ライは自分の腹をアスレチック場として遊んでいた赤ん坊を思い出していただけなのだが、記憶のないバーボンには通じない。
「僕は成人してると何度も言ってるだろう!」
「違う、そういう意味じゃない」
「じゃあ何だって言うんです!」
真っ赤になってピイピイ叫ぶバーボンは、赤ん坊でなくても騒がしい。むしろ元の姿の方が騒がしいくらいだ。けれどライはそんなバーボンを見ても、今までのように雑に扱う気にはなれなくなっていた。
この子をどうやって宥めよう。抱き締めたら落ち着くだろうか、ベビーの時のように。
「なあバーボン、一旦深呼吸しよう。落ち着いたら、少し話をしていいか」
「……ライ?」
その後、ライとバーボンを組ませると、任務の成功率は桁違いに上がったらしい。急に連携が取れるようになった理由を知っているのは、ベルモットのみだ。少なくともバーボンは、ライが我を通しすぎずにバーボンの作戦をフォローするようになった理由を知らない。
だから今日もバーボンは両手を腰に当て、怒り心頭のままライにくってかかってくる。
「いい加減に僕を子ども扱いするのは止めてくれませんか! 不愉快なんです!」
「君を狙っていた暴漢を潰しただけだろう。何が不満なんだ」
「僕一人でもどうにか出来ました!」
「いやぁ、バーボン。怪我しなくてすんだんだし、そこは怒らなくてもよくないか?」
「スコッチは黙っててください! ライが妙に過保護なのが嫌なんです!」
「……反抗期のガキか」
「はっ!? 今なんて言った!?」
「もー、二人とも仲良くしてくれよ」
スコッチが両手を上げつつ匙を投げても、バーボンはライに噛みついていく。
おかげで組織内では「ライとバーボンは不仲だ」なんて噂が立ってしまった。
けれど真実は表に出ることもなく、ベルモットだけがそっと微笑んでいた。