写真の中の自分は少し緊張した面持ちをしている。おめでとうの言葉と一緒に係員から手渡された真新しいカードの表面を炭治郎はそっと指先で触れた。
「へへ。良かったあ。一発合格だ」
何度も試験を受けられるほど時間も経済的にも余裕がないので、一度で合格できて本当に良かったと思う。トイレから出てくると試験会場で隣の席だった青年と鉢合わせになった。互いににっこり笑って会釈し合った。彼も無事に合格した様子だ。
学生のうちに車の教習所に行こうと決めたのは夏の終わり、ちょうど少しずつ貯めていた資金の目処が立った頃だった。学業と家業の合間を縫って 学科と技能教習を進め、専門学校の卒業までに運転免許証が取れたらよいと頑張ったかいがあった。
「これで配達に行けるぞ」
学科はそれなりに自信があったが、実技となると自分の下手さ加減に何度も落ち込んだ。教官に前だけでなく周囲を見なさいと何度注意されただろうか。クランクやS字カーブが曲がりきれず、何度脱輪させただろうか。色々な失敗は、手の中にある運転免許証を得るために必要なものだったのだ。
「無くさないように仕舞っておこう」
財布のカード入れに免許証を押し込んでバッグの中に入れた。結果がどうなったのかと心配している家族にも早く合格したことを教えてあげたい。
炭治郎は早足で試験場の入り口へと向かった。朝にこの場所に来たときは緊張と不安でいっぱいだったのに、今は心が晴れやかだった。
試験場は少し交通の便の悪い場所にあるせいで、施設横の道路には試験を終えた者を迎えにきた車がずらりと並んでいた。その横を足速に通り過ぎようとした炭治郎はとても見覚えのある車があることに気づいた。
「あれ?」
ツヤツヤと黒光りするSUV車のドアが開き、ド派手な髪の男が出てきた。
「炭治郎!」
恵まれた体躯、整った顔立ち、どこにいても目を惹く人だ。その美丈夫が炭治郎に向かって手を振った。周囲の人々の視線が一斉に炭治郎に集中する。
「煉獄さん? どうしてここに?」
教職に就いている煉獄は今日は仕事のはずだ。なぜ煉獄がここにいるのかと炭治郎は駆け寄った。
「君の妹御に聞いて、そろそろ終わる頃だと知って迎えにきたんだ」
「えっ、でも授業は?」
「先日、用があるという冨岡と時間割を交換したから午後から休みになった」
「そうなんですね。びっくりしました」
いるはずのない人がいて、もの凄く驚いた。恋しさのあまり都合のいい白昼夢でも見たのかと思ったくらいだ。
「それで、炭治郎。結果はどうだった? 声の調子が明るいところを見るとうまくいったのかな?」
「はい。お陰様で合格しました」
「それはよかった。頑張っていたから当然だな」
破顔した煉獄は大きな手でわしわしと炭治郎の頭を撫でた。何だか嬉しくなって貰ったばかりの免許証を見せた。
「緑色のライン、懐かしいな。これで一年間、何事もなければ青色になるわけだ。頑張りなさい」
「煉獄さんはゴールドでしたよね。すごいな」
「教習所で習ったことをいつでも頭に置いて運転すれば到達できる。車の運転というのは己の心を映すようなものだと俺は考えている。焦りや怒りがそのまま運転に反映されて、それが違反や事故に繋がる。車というのは凶器だ。どんなに運転に気をつけていても過ちを起こすことがある。他人だけでなく自分の命さえも危険に晒し、人生を変えてしまうこともありうるのだと念頭に置いて運転しなさい」
「はい」
教官にも同じことを耳にタコができるほどに言われた。車というのは便利なもので、生活には欠かせないものだが、責任を伴うものでもある。煉獄や教官の言うとおり、どんなに気をつけていても事故は起きる。ただ、せめて自分が加害者にならぬように、細心の注意をしてハンドルを握らなくてはいけない。
「車庫入れが心配でもあるのですけど、たくさん乗ればスムーズに運転できるようになりますよね」
「ああ、運転をしていくうちにここだというタイミングが判るようになる」
「早く慣れて配達に行きたいです。そうしたら母さんが楽になるし」
休憩もろくに取らずに一日中走り回っている母に少しでも自分の時間を持って欲しかった。
「君は優しいな」
煉獄はふっと表情を和らげた。
「いえ、そんなことは」
車の免許を取ろうと思ったのは仕事で使うのはもちろん、煉獄の運転で出かけたとき、どんなに長距離でも途中で運転を交代することができずに申し訳ないと思っていたからだ。でもこれからはいつでも交代することができる。
「免許も無事に取れたことだし、早速運転してみるか?」
煉獄は炭治郎を手招くと運転席のドアに手を掛けた。
「ええっ?」
煉獄はたまに突拍子もないことを言い出すことがあるが今まさにそれが起きた。
「煉獄さんを横に乗せてドライブするのは夢でしたけど、だからと言って煉獄さんの大事な車を免許取り立ての俺が運転するなんて、無謀にもほどがあります。絶対にどこかにぶつけてしまいます。それにこんないきなりこんな大きな車を運転だなんてできません」
酸素不足になるのではないかというくらい全力で首を振ってピーピーと訴えた。
「とは言っても君の家で使っている配達用の車のがこの車よりも大きくないか?」
「自分の家の車ならぶつけても仕方ないで済みますから。とにかく無理です」
「残念だ」
炭治郎の頑固さをよく理解している煉獄は残念そうに溜息をついた。そして窺うように囁く。
「では今日は君を家まで送り届けることは許して貰えるだろうか」
「う……」
ここまで来て貰っておいて戻れと言うのは酷だ。
「お願いします」
「どうぞ」
ぱあっと笑顔になった煉獄が助手席のドアを恭しく開いてくれる。女の子ではないのだからと言おうと思ったが、煉獄がとても嬉しそうだったから何も言えずに素直に助手席に乗り込んだ。炭治郎がシートベルトを締めるのを待って車は滑らかに走り出した。
「疲れただろう? 寝ていてもいいぞ」
「いえ、大丈夫です」
暖房の効いた車内は心地よく悴んだ手足をぐっと伸ばした。馴染んだ匂いや振動も眠気を誘ってくる。朝から緊張の連続で正直とても身体が重かったが、自分だけが寝るというのは申し訳ない。
「煉獄さんは運転が上手いですよね。すごく参考になります」
眠ってしまわないように赤信号で停車したタイミングで煉獄に話しかけた。教習所に通う前は何も考えずに乗せて貰っていたが、あれやこれやと習ってからは意識が変わったと思う。例えば、周囲の車の動きだけでなく、歩行者や自転車の動きにも気を配るようになった。車を乗らないときも車の動きを観察したりして事故に巻き込まれないような行動をしている。
信号のない横断歩道の前に制服姿の女子中学生が立っている。煉獄は停止線の手前で車を停めた。女子中学生がぺこりと小さく頭を下げて横断歩道を渡り始めた。女子中学生が渡りきったのを確認して車が静かに発進する。
「皆が少しだけ気を遣って行動すればイライラすることもなくなるのだがな。なかなかに難しい」
「そうですね」
些細なことだけど双方がほんのり腹の奥が温まる。
「運転に慣れたら煉獄さんを乗せてどこかに行きたいですね。っても配達用の車では格好がつかないのですけど」
「君が運転するならどんな車でも高級車になるぞ」
「……っ、今ので目が覚めましたよ。業務用なので、この車みたいに座り心地のいいシートではないですよ?」
「構わないぞ。どんな高級車にも勝る。君と一緒にいられることが楽しいからな」
バックミラー越しの煉獄は楽しげだった。歯の浮くような台詞をよくも赤面もせずに言えるものだ。人生経験の多さの違いだろうか。
「あー、でもウチの車に煉獄さんが乗っている姿が想像できないや。早くお金を貯めて車を買います」
「一緒に住むなら車は一台あればいいだろう?」
聞き違いかと煉獄の顔を見た。
「それって……」
何かがぐっと来た。心音がうるさいくらいに高く鳴る。
ちょうど赤信号になり、車を停めた煉獄と直接視線が合った。
「う……あ……」
何だかじわじわと退路を塞がれているような気がする。そうなることが必然のように。だけど微塵も抵抗がない自分に驚いた。いつになるかは判らないが、そうであったらいいのにと心のどこかで思っていた。
「炭治郎?」
見透かされているのかと、まっすぐに前を見ることしかできなくて。
「車を買うときは一緒に買いに行きましょうね」
頬が燃えるように熱いのはきっと暖房のせいなのだ。