矢張り母の教えは偉大なのだと、後に理解した。今でも、忘れられない言葉がある。
母さんと一緒に買い物をした帰り。
そこには、ダンボールの中で、にゃあにゃあと鳴き続ける、猫がいた。
寂しいと、怖いと、そう言っているようにも感じて。
連れて帰りたいと、そう言ったオレに。
母さんは、悲しそうに首を振った。
汚れ方からしても、かなり長時間外にいた猫。
恐らくノミが沢山いるだろうし、もし連れて帰ったら、咲希の病気が悪化してしまうかもしれない、と。
まだ子供だったから、難しい話ではあったけれど。
それでも、できるだけわかりやすく、噛み砕いて説明してくれた母さんの甲斐もあって
オレは、その猫を連れて帰ることを諦めた。
ごめん、と何度も言いながら、泣きながら帰るオレに。
母さんは、優しく手を握って、言ってくれた。
「あの子は、助けてほしいと、家に行きたいと、そう思っている。」
「でも、うちのように、連れて帰っちゃったせいで、怖いことが起こることがあるの。」
「例え、猫ちゃんが、そうしたいと思っていなくても、ね。」
「自分が、そうあってほしいと思っても、その通りにならないことは、沢山ある。」
「それだけは、忘れないでね。司。」
現実は、思い通りにならないことが沢山あって。
自分の願った通りにならないことも。
差し伸べられた手を取ったことで怖いことがあることも、その時に知った。
こういったことを、誤魔化さずに言葉にして教えてくれた母さんには、本当に頭が上がらない。
でも、オレは。
できることなら救いたかったと。そう思わざるを得なかった。
今回は、咲希に被害が及ぶから、諦めたけれど。
これがもし、オレにだったら、例え悪いことが待っていても、手を伸ばしただろう。
救って欲しいと願う猫も。
救えなくてごめんと言う、母さんも。
双方に手を伸ばして、救えたら。
どれだけいいことかと、思っていた。
息を切らして、酷く泣きそうな顔で此方に向かってくる類を見て
それを、鮮明に思い出した。
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「……………………」
「……………………」
無言で手を動かす類に、オレはそっと様子を伺いながら、痛みで漏れる声を我慢する。
顔だけは絶対に怪我しないようにと庇っていた結果、腕やお腹といった箇所は軒並み痣だらけだ。
怒っているのか、しみることに一切手加減を見せない手当が無事終わり、ほっと息をつく。
そっと服を戻すと、類が真顔のままオレの正面に座った。
「さて。……ちゃんと、説明してくれるよね?」
にっこりと笑う、否、目は一切笑っていない類の表情に、思わず目をそらす。
「う……。……ど、どうしても、か?」
「どうしても、だよ。既に着ぐるみさんから聞けるだけ聞きはしたけど、司くんからも聞きたいことは沢山あるからね」
「いや、着ぐるみだけでも十分じゃ、」
「つ か さ く ん ?」
「………………はい」
類の声に気圧されるように、ため息を1つついてから、オレは口を開いた。
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事の発端は、数週間前。
ショーに関するアンケートに、目を通していた時のことだ。
誹謗中傷に値するようなものは上の人や着ぐるみの方で対処・処分してもらっている。
それ以外の感想や意見に関しては、それぞれ個人に割り振ったり、反省会の時にその意見を見るようにするため、オレが事前にわかりやすいように仕分けをしていた。
その時に、見つけたのだ。
類宛の、その感想を。
「…………これ……」
ぱっと見、類からの知り合いのように見えるそれは。
類の過去のことを交えた上で、こんなに変わるなんて、とか、また見に行きたいだとか、そんなことが書かれていて。
類の過去を知っている人が偶然ショーを見て、感想を送ってくれた。
そんな風に思うだろう。
"類のことを知らない人"が見たら。
オレはその文章を見て、思わず眉間に皺が寄った。
おそらく内容的に、類が神高に来る前の高校のクラスメイトからのもの、みたいだが。
類のことを知ってる人が見たらわかるような、遠まわしな言い方で、貶していることが見て取れた。
しかもその上で、「またショーを見に来る」「よかったらその時に話したい」「ショー終わりに時間を作って欲しい」などと書かれているのだ。
絶対に、何か仕掛けてくるのは明白だろう。
オレは、その一枚だけを別に置いておき。
仕分けが終わった後、着ぐるみに相談すべく、電話を取った。
全ては、類を守るために。
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「……それで、着ぐるみに根回しをしてもらって。最後まで残ろうとしていたそいつらに、別室に移動してもらったんだ」
「なるほど?それで座長直々に話をしにいったら、僕がこないことに逆上したそいつらにボコボコにされた、と。」
「や、あの、逆上は……正直想定外だったんだぞ?だから着ぐるみも別の着ぐるみを増援に呼んだのであって、」
「それを運良く僕が聞いちゃった、というわけだね。」
「いや、オレにとっては運悪く、だが……」
ふふ、と笑う類に、オレはがっくしと肩を落とした。
念のため着ぐるみもいる状態で、真意を知るべくオレだけで話を聞こうとしたのだが。
へらへらと誤魔化そうとするそいつらにオレが意見を言ったところ、逆上して襲ってきたのだ。
如何せん複数人いる状態だったのもあって、着ぐるみ1人では抑えきれず、オレはサンドバックされるような状態になってしまった。
正直、そこに類が来てしまったのは、本当に誤算だった。
過去に見知った顔が暴力を振るうところなど、見たくはなかっただろうに。
そう思っていると、類がオレの頬に手を添え、そっと上げてきた。
「…………類」
「それで?なんで、彼らと話し合おうだなんて思ったんだい?」
「………………」
「着ぐるみさんだけにお願いして、出禁にすることだってできただろう。」
悲しそうな類の表情に、オレは1つ息を吐いてから、口を開いた。
「そう、だろうな」
「なら、なんで」
「それは、オレ達の、未来のためだ」
そう口に出したオレに、類は目を見開いた。
「……み、らい?」
「ああ。着ぐるみに伝えれば、ここに来ることも、出禁にすることだって、できただろう。
でもオレたちは、いずれ世界を目指したりもするんだ。下手に近づかせないようにして、動向を伺えない方が危険だと判断した。」
「まあ、本来は話し合って、説得する形で済ませようと思っていたんだ。まさか自ら暴れて警察沙汰に持っていくとは思っていなくてな」
「こればかりは、オレの判断ミスだ。すまない」
そう言って頭を下げるオレに、類は泣きそうな声で、言った。
「判断ミスなんて、それは仕方ないよ。司くんだって知らない人なんだし。そうじゃなくて、」
「?」
「僕に対して発生したものなんだから、僕が対処すればよかったんだ。……司くんが、抱えるものじゃあ、ないんだよ」
ああ、泣かせてしまう。
そう思って、そっと顔をあげて、類の頬に手を添える。
「いいんだ。オレが抱えたくて、やったことだ」
「でも、」
「例え悪い結果になったとしても、オレがやりたかった。それだけだ。」
互いに、譲れないものがある。
類も、わかっているのだろう。口を閉ざして、俯いてしまった。
オレももう、言えるのは、これだけだ。
「悲しませて、すまない。類。」
オレの言葉に我慢が限界だったのか、類がオレの手を握って引っ張り、抱きしめてくる。
そっとその背中に手を添えると、類の頭が乗った肩が、濡れていく感触がした。
ぐすりと鼻をすする類の頭を、そっと撫でた。
やがて、落ち着いたのか。
顔を上げた類の表情は、何かを決意したような、そんな顔だった。
「司くん。…………やっぱり、僕は嫌だよ」
「……類」
「司くんの自己犠牲で未来が約束されるなんて、絶対に嫌だ」
「……………………」
「だから司くん。覚悟してね」
「………………え」
「君の自己犠牲の結果が、どんなものなのか。それを踏まえて、これからもやろうと思うのか。改めて行動に移させてもらうから、しっかり味わってほしいな?」
「……え。お、おい?」
「今回のことが、司くんが勝手にやったことなら。これも、僕の勝手でやるからね?」
にっこりと笑う類に、冷や汗が垂れる。
何が待っているのかと、考えるのが怖くなった。
その後。
家族は勿論のこと、寧々やえむ、えむに兄2人にもみっちり説教され。
単独での作業が信用ならなくなったのか、オレの作業に必ず誰かが着くようになり。
冬弥や彰人なんかにも話がいったのか、学校でも声をかけられるようになってしまった。
類は説教に参加した上で、怪我の治療の全てを賄うようになった。
その治療は遠慮がないのに、終わるととことん甘やかしてきて。
毎日デロデロになって、やめてくれと言ってもやめなくて。
オレがそれに耐え切れずに、できるだけ自己犠牲はしないから勘弁してほしいと頭を下げるまで、あと。