湿気を帯びたぬるい風が吹いた。足に引っかかっているだけのサンダルを引き摺りながら、日が傾いているとはいえまだまだ気怠い暑さの中を歩く。ちらりと横を向けば同じ目線の青い瞳がまっすぐ前を向いていて、その眩しさに少しだけ目を細めた。楽しそうに紡がれる雑談へ耳を傾けつつ、密かにかけがえのないこの一時を噛み締める。
「……マンドリカルド? やっぱ乗り気しない……?」
「ん、いや。なんか足痒いなーと」
「あー刺されちゃったかもね。夕飯買って帰ったら薬塗ろ」
マンドリカルドが刺されるなんて珍しいなあ。咄嗟の誤魔化しにも彼は真に受けて心配してくれる。後で謝らないとな、と思いつつ、冒頭の指摘が実は三割程当たっていることには触れないでいた。
よくある夏の日。いつもの日々の一頁。しかしいつもと違ったのは近所で夏祭りが催されていたこと。夜何を食べるか決めていなかったこと。夕飯は夏祭りで調達しようと明るい声の提案に、つい苦い顔を返してしまったところが始まる。夏祭りといえば夏を謳歌する人達が集まり、自然と陽キャやらリア充やらが集うイベントという認識が強かった自分にとっては縁遠いもので。そんな場所にわざわざ赴くのならば、家でカップラーメンを啜るような選択肢を選び続けた人生だったから。
けれど今は違う。友人、を通り越してうっかり両思いになった立香という青年がいた。寂しくつまらない人生を歩む筈だったマンドリカルドという男の隣に。九死に一生を得るレベルの幸運に恵まれると、今までとは違った選択肢を押してしまうことだってある。慌てた顔で撤回しようとする青年を宥め、少しだけ祭りの中を二人で歩いてみたい、なんて。
(しっかし、怖気づいてるのはホントなんだよなぁ……)
混雑する時間帯を避けた夕方ならば人はそれほど多くない筈。そんな勢いでアパートを出て、気付けば祭りの賑わいが耳に届いていた。浴衣の装いの人も疎らに視認できる。あぁ、いかにも祭りの空気だ。サンダルの裏で砂利が不自然に音を立てる。
「……お祭り、何食べようか」
穏やかな声と共に右手にぬくもりが重なった。
「定番の焼きそばとたこ焼き、あとチョコバナナとかも良いよね」
ーー大丈夫だよ、と励まされている。今日は帰ろうと言うのではなく背中を押されているのだと気付いて、立香からの純粋な信頼に嬉しさが込み上げた。
「……ありがとな」
重なっていた指と指を絡め、周囲の人が多くなってきたところでゆっくりと離す。茜色が滲む空の下の青は嬉しそうに細められた。
夕暮れの時間でもそれなりに賑わっていたが、どちらかと言えば子連れや家族の姿が多く見られる。そのおかげで思っていたほど抵抗感はなく、祭りの名物であるずらりと並んだ屋台を見渡すことが出来た。食べ物の類はもちろん、よく聞く射的だとかくじ引きだとか、娯楽を取り扱った屋台も目立つ。小さい頃に戦隊ヒーローのカードを当てたくて親にお小遣いをねだったんだよね、と立香の昔話が添えられた。
「それにしても、店多いっすね……」
「同じ出し物でも値段や量が違うから、なるべくお得なやつ探そう!」
マジかぁ、と辟易しつつ表情も声も心做しか弾んでいる友人を見ればどうしたって口元は緩んでしまう。楽しそうな様子が見れただけでも夏祭りに足を踏み入れて良かったとさえ思った。
「……うわでかっ」
屋台を眺めていると感想がそのままうっかり声に出ていた。当然のようにマンドリカルドは屋台の人と目が合いいらっしゃいと声を掛けられ、蛇に睨まれた蛙の如く動けなくなる。相手に非は無いのだがもはや条件反射に近い。陰キャですみませんと謎の謝罪が頭の中で響き渡る。
テレビで見たことあるなと顔を出し颯爽と助け舟を出してくれた立香曰く、海の向こうにあるとある国にて話題になったグルメで、鶏肉を切らず平らにしてそのまま揚げたものらしい。
「ノーマルのやつ一つください」
「兄ちゃん達食べ盛りなのに一つで良いのかい?」
「屋台一周して戻った時、まだお腹すいてたら来ようかなって」
はは、頼むぜ。気のいい笑い声と共に揚げたての唐揚げと硬貨を交換する。唐揚げの屋台から少し離れてありがとうございます、と礼を言うと気にしないで彼氏を頼りたまえ、と軽口を返され思わず頬が緩む。自身も男故に否定したいような出来ないようなもどかしさは置いておいて、ちょっとした意趣返しのつもりで彼の手にある唐揚げを奪い取るようにひとくち齧った。衣はサクサクとしていて少しスパイスが効いていたが、中はジューシーで親しみのある味がする。
「ん。ごちそーさんっす、ダーリン」
「……ず、ずるい……二重の意味でずるい!」
屋台に囲まれて歩きながら食べるというのも、悪くないと思う。
手には二人で食べ切れるかどうかの戦利品を提げて、集客の為のイベントが始まった会場を後にした。暗くなり始めた道ではこれから夏祭りを楽しむであろう人と頻繁にすれ違っていく。混雑状況を考えれば自分たちが訪れた時間は丁度良かったのだと互いに顔を見合わせ笑った。
「結局、唐揚げもう一つ買ってたね」
「味付け気に入ったからな。立香こそポテト買い過ぎっすよ」
「だってフレーバー選べなくてさ」
歩き詰めで汗ばんだ肌に相変わらずぬるい風が吹いている。日が落ちても気温は下がらず、湿気混じりの蒸し暑さは体力をじわじわと削っていく。それが原因だったのかは分からないが、二人の会話はいつの間にか途切れていた。
無言のまま住まいにしているアパートに辿り着き、部屋に入って戦利品兼夕飯をテーブルに避難させていると、不意に後ろから抱き締められる。
「ちょ、飯食わねえんすか……?」
「もちろん食べるよ。でもその前に……夏祭りデート、楽しかった」
勇気出してくれて、ありがとう。穏やかに言いながらもしっかりとした力で腕を回されじわりじわりと熱が頬に集まっていく。軽い抱擁ではなく、意図を感じさせる力だった。汗ばんだ肌が触れて心臓が冷静さを忘れそうになる。ごくりと唾を飲み込んで、回された腕に自らの手を重ねた。
「……立香、ここ腫れてる」
「えっ」
指の先に膨らみを感じ、よく見れば腕に数箇所も蚊に刺されたような跡があった。
「うわ三箇所も刺されてる……だんだん痒くなってきた! 着替えて薬取ってくる……」
まるでお預けをくらった犬のような表情で奥へと引っ込んでいく青年を見送り、はぁ、と溜め息をこぼす。せっかく二人で買った夕飯が冷めてしまえば後で後悔するだろう。一度スイッチが入ればなかなか止められないのだから。
「……仕返しは寝る前だな」
とはいえお預けをくらった気分なのは決して彼だけではない。消えない火を灯されてしまった責任は後でしっかり取ってもらおう。そんなことを考えながら冷蔵庫にあった麦茶をコップへ注ぎ、燻る熱を誤魔化すように冷たいそれを一気に飲み干した。
これはよくある夏の日の、いつもの日々の一ページ。