魔術師でもないただの人間に出来ることはとても少なかった。人の身とサーヴァントを比べるものではないと分かっているけれど、血を流しながら前線に立つ彼らを武器と割り切ることはとても難しい。痛みを覚えながら大丈夫かとこちらを心配してくれる彼らの力になりたくて。少しでもより最良の状況に転じられるように。例え結果が焼け石に水だと承知の上で、ただの人間に出来ることを探している。
シミュレータの空は青かった。シチュエーションをおまかせに設定したら選ばれたのは見渡す限りの平野と眩い晴天で、草地に寝転がる己の視界は澄み渡る青空を映している。手を伸ばしても届かないほど広い空にちっぽけな自分は見下ろされているのだ、と頭の片隅で誰かが呟く。
(ダメだなぁ)
伸ばした腕がだらりと下がり視界を遮る。朝、定められた時間を知らせるアラームに気付かず寝坊して後輩を心配させた。午前中の模擬戦で何度も指示を誤った。積み重なる失敗で不調と判断されて、午後は休息という名を掲げた自由時間となった。所長や職員には働き過ぎだと注意されたけれど、休んでいる場合ではないと強迫観念に駆られて衝動的にマイルームを飛び出して。シミュレータで自主訓練をこなしていたら足首を挫いてこのザマだ。歩行に支障をきたす程ではないけれど、普段なら気にかけない時折訴えてくるような小さな鈍痛は今の自分にとって追い討ちであった。
「……くよくよしてもしょうがないか」
所長たちが忠告してくれた通り大人しく休息をとるべきだったのかもしれない。落ち込んでいても良いことが起きる訳ではないし、足の負傷を見咎められたらありがたいお説教を受けてしまうだろう。バレないうちに自室に戻ろうかと数秒空を眺めてから、上半身を起こした。
「マスター、」
ふと自分ではない人の声がして立ち上がりつつシミュレータの入口に視線を向けると、バスケットのかごを手に提げたマンドリカルドの姿があった。キッチンを預かっているサーヴァントの皆から軽食を渡すよう頼まれたのだという。
「ありがとう。シミュレータにいるってよく分かったね」
「あー……さっき部屋行って声掛けたんすけど、返事が無かったんで、もしかしたらここかなと」
こちらに歩み寄りながら取り出した敷物の上にバスケットを置く。お肉や野菜を挟んだ美味しそうなサンドイッチを視界に入れると忘れていた空腹感が顔を覗かせた。良かったら一緒に食べよ、と誘うとほんの少し目を丸くしながらいいんすか、と返される。目の前のサーヴァントがキッチンメンバーお手製のサンドイッチの美味しさを知らない訳が無いし、彼に頼んだということはメンバーの皆もきっと意図していただろう。一人では食べ切れない量のサンドイッチを前に腰を下ろし、二人で手を合わせる。
再び手を合わせると食べ終えた後の決まり文句を口にした。美味しかったね、と呟くと食を共にした騎士が満足げな顔をしながら頷いてくれる。自分は特にポテトサラダのサンドが好きで、彼は照り焼きチキンがお気に召したらしい。もちろんどの具材も美味しいのだけれど。
「バスケットは俺が返しに行くんで気にしなくていいっすよ」
「了解。ありがとう!」
美味しかったって伝言頼んでいいかな。お安い御用っす。空のバスケットを指に引っ掛けつつ立ち上がったマンドリカルドに倣って、何の変哲もない草地から腰を上げると。忘れかけていた足首の痛みを突然思い出し、ほんの僅かによろめく。
「……右足っすか」
「……う、ん」
僅かな一瞬でも目前の騎士は気付いたらしい。歩くのは問題ないよ、と説明するが向けられる表情から眉間の皺は取れなかった。その顔色に咎める意図はなく純粋に心配してくれているのだろう。平時であれば彼の観察力に感心するところだけれど、今の心情に限ってはほんの少しだけ居た堪れない気持ちに襲われる。
「午前中の模擬戦で?」
「ううん、午後の自由時間にちょっとね。……休めって言われてたのに余計なことしたからかも……この後、ちゃんと診てもらいに行くよ」
マンドリカルドから差し入れが無ければシミュレータから離れるつもりだったし、バレてしまった以上腹を括って医療班の世話になりに行く必要があるだろう。伝言だけお願い、と言いかけた言葉は空気に紛れて消え去った。眉をひそめていた騎士の表情が何か思い立ったように真っ直ぐこちらを射抜いていたから。
「マスター。今から少しだけ、時間貰っていいっすか」
「? 大丈夫だけど……」
唐突にそんなことを聞いてきた騎士は、手にしていたバスケットを退避させるとこちらに背を向けて地に膝を着けながら屈む。直感的に人を背負うような姿勢だと気付いたがその意図までは分からなかった。
「……乗っていいの?」
「うす」
地面を転がって足を捻ったのは事実だけれど歩けないほど負傷した訳ではなく、事情を聞いたばかりの彼が忘れているとは考えにくい。疑問符は消えないが何となく有無を言わさない空気を感じ、まぁいいかと深いことを考えるのは止めて、わざわざ大切な盾を退けてくれたその背にお邪魔する。背格好は自分とほとんど同じなのに、実際に触れてみると前線を張る戦士の体躯なのだと改めて実感した。
「大丈夫すか?」
「うん……突然どうしたの」
「じゃ、しっかり掴まっててくれ」
「うん……?」
珍しく会話が噛み合わない。いや時折マイナス思考が暴走する彼とすれ違いコントのようなやり取りはあったけれど。そんなことを思案していたらがくんと体が揺れ、頬を風が撫でる。いつの間にか視界には青がいっぱいに広がっていた。
「わ、ぁ!?」
体重を預けた騎士の脚は力強く大地を蹴って勢いよく風を切る。平野の疎らに生えている木を踏み台にして徐々に高い場所を目指していく。やがてシチュエーションの設定が変えられた、と思った次の瞬間、視界に映ったのは緑を無くした岩場で。転がる大岩を足場にどんどん天に向かって駆け上がっていった。
「ど、どこまで行くんだ!?」
「どこまでも、だ!」
表情は見えないが心做しか楽しそうな声が風と共に耳へ届く。自身を陰気と称する彼にしては珍しくテンションが高いらしい。普段の霊衣なのに夏のルーンでもかかっているのだろうか、なんて考えているうちに、振り回されている自分もこの状況を楽しんでいることに気が付いた。追われている訳でもなく目的地へ急ぐ為でもなく、ただ騎士の気分のままでたらめに宙を駆ける。信頼しているサーヴァントに背負われているのだから恐怖なんて感じない。呼吸するのに苦労しないスピードのおかげもあるだろうけれど。
(空に、手が届きそうだ)
草地に伏して見上げていた空と同じ筈なのに、驚くほど空が近く感じる。腕を伸ばして、しかしそれでも実際の青色はずっと遠くて、この手が何かを掴むことはない。
(……それでも、)
広大な空に見下ろされていた時とは違う。もやもやしていた霧が晴れたような、スッキリとした気持ちで空を見上げていると。風を切っていた騎士のスピードが緩やかになり、安定した足場にゆっくりと降ろされた。
「……怪我してるマスター背負って、無意味にあちこち走り回って、……余計なことでしたかね」
「! ……ううん、そんなことない」
隣に座ったマンドリカルドを見てハッとする。穏やかに問いかけたその表情はとても優しい。
「マスターが考えて行動したことを余計なんて思わないけど。……でも、余計なものこそ人間には必要だと思うっすよ」
「……もし、それが間違いだったら?」
「間違う前に声かける奴がいるだろうし、その後だって一緒に考えてなんとかすりゃあいいんすよ。その為のサーヴァントだ」
それと一応、俺もいるんで。小声で付け足された言葉に思わず頬を緩ませ、そこは大声で言って欲しいなぁと縮こまる背中を叩く。すんません頑張るっすとコミカルな顔で悲鳴が挙がる。それが、カルデアの召喚に応じたマンドリカルドが出してくれた答えだ。
「……ありがとう。後で医務室に行く時、肩借りてもいいかな」
「もちろんっすよ」
魔術師でもないただの人間に出来ることはとても少なくて、少しでもより最良の状況に転じられるように、と自分に出来ることを探している。そんな何でもない心に気付き、共感してくれるサーヴァントと一緒ならば、どんな空にでも手が届くような気がした。