『たった一つのキス』(ワカ真)黒龍を結成してもうすぐ半年になる。
総長佐野真一郎のもと、若狭は特攻隊長をつとめていた。若狭の煌道連合と慶三の螺愚那六の元メンバーを吸収した黒龍は人数でも他の暴走族チームを圧倒している。
彼らの視線を一身に受ける真一郎は、若狭の目にも誰よりも輝いていた。
真一郎は涙もろくて女に振られてばかりいたけれど、若狭をはじめ皆の信頼を絶対に裏切らない男だ。自分がどれほど傷つくこともいとわない。若狭には細いその背中が誰よりも大きく見えた。
だから若狭は真一郎と友達にもなった。
集会に限らず、週末になれば二人きりで海沿いを走った。
秋の空気は澄んでいて、さえぎるもののない海の上には丸い月が浮かんでいた。
ザリを走らせる若狭の先に、真一郎の姿がある。
黒髪が風になびき、時々振り返る。その横顔が月明かりに笑っているのがわかった。
彼が全身で楽しい、と言っているのが若狭にも伝わってくる。
「オレもだよ、真ちゃん」
若狭は風の中で呟いた。
煌道連合では友人と呼べる人間はいなかった。いや、最後まで作らなかった。
生ぬるいなれ合いをしたくなかった、というのもある。
歳を重ねてチームを解散してしまえば、何のつながりもなくなってしまう。
それが嫌だった。何かに執着して、失った時の虚しさを味わいたくなかったから。
だから、こうして真一郎の背中をこうして追いかけている今が一番楽しかった。
「ワカーっ」
真一郎が若狭を呼ぶ。
彼は海岸沿いの駐車場へと下りて行った。若狭もそれを追う。
砂浜から少し上がったところにある駐車場にバブが停めてある。
車止めの後ろにある、腰の高さほどの鉄柵に真一郎は寄りかかるように座っている。口にはすでに火のついた煙草があった。
若狭もザリを停め、真一郎の隣に腰掛けた。
風に乗って煙草の匂いが漂う。
「ワカもなかなかバイクうまくなったじゃん」
真一郎は白い煙を吐いて笑った。
その脇を若狭は肘で突く。
「いてっ」
「オレにそんな口きくの、真ちゃんだけだぜ」
若狭がそう言うと、真一郎はシシ、と声を立てる。
「なんだ、ワカはもう諦めたのか?いつかオレを追いついてやるっていってたのによ」
それに若狭は首を振った。
「別に諦めたワケじゃねぇよ、でも……」
追いついたら終わってしまう気がする。
若狭の胸に不安がジワリと広がる。
黒龍を卒業してしまえば、いつか友達としての繋がりも終わってしまう。
本当はそれをわかっていたのに、真一郎と友達になってしまった。
今からでも遅くない。友達として付き合うのも諦めるべきかもしれない。
真一郎は若狭と違って友達も多い。若狭がいなくなったとしても、彼が一人になることはない。
「……なんでもねぇよ」
若狭が言うと、真一郎はわかんねぇ奴、と煙草をくわえたまま空を仰いだ。
月明かりに黒い瞳が光る。
若狭はぼんやりとその横顔を見て、何度か言葉をかけようとしてやめた。
波の音だけが聞こえてくる。
「…………」
若狭は自分の意気地のなさに嫌気がさし、うつむいてしまった。
月明かりに若狭と真一郎の影が駐車場のアスファルトを黒く染めている。
そこへ、ぽとりと短くなった煙草が落ちる。
真一郎のスニーカーが踏みつけて煙草の火を消した。細い煙を最後に上げて消えてしまった。
「……ワカ」
「ん……」
呼ばれた若狭はのろのろと顔を上げる。
すると、驚くほど近くに真一郎の顔があった。
「し……」
若狭が驚きに硬直していると、唇を暖かいものがかすめた。
すぐ側に真一郎の黒いまつげが見える。若狭の唇には、煙草の匂いが微かに残った。
唇を離すとあっけにとられる若狭を置いて、真一郎は柵から飛び下りた。
その時さび付いた柵がぐらりと揺れ、若狭はようやく我に返る。
慌てて、真一郎の背中を追った。
「真ちゃん」
若狭が呼ぶと、真一郎は黒髪を揺らして振り返った。
その顔に若狭は矢継ぎ早に尋ねた。
「今の、何なんだよ。何でキスした?」
「…………」
「真ちゃん」
真一郎はしばらく黙ったままだった。
若狭は焦れた。女とならともかく、こんなこと、なかったことにはできない。
すると真一郎はしょうがねぇなぁという風に、頬を掻いた。
「……ワカにオレのこと諦めてほしくなかったの」
「……はぁ?」
若狭が迫ると、真一郎はおどけて両手を上げた。
「それに、なんかオマエ可愛かったし、キスしちゃった」
「意味がわかんねぇ……」
冗談かと思って真一郎の顔を見たが、どうやらそうではないらしい。
動揺する若狭をよそに、真一郎はやけに落ち着いている。
いや、違う。こんなことは以前の若狭であれば、笑い飛ばしていたはずだ。
でも今日はできなかった。
真一郎の口づけが、若狭の中に踏み込んだ。そして無視できない何かに触れた。
「……もの欲しそうな顔してさ、オマエは何が欲しいの」
真一郎は夜風に髪をなびかせてそう言う。
黒い瞳がゾクゾクするほど綺麗に見えた。
若狭は思わず視線をそらした。
「……そんなの、わかんねぇよ」
「ふーん」
真一郎は若狭をよそに、ひらりとバブにまたがった。キーを回すとエンジンの音があたりに響く。
「わかんねぇなら、もう一回キスしてやろーか」
真一郎はそう言って、若狭に笑いかけた。
「そ……っ」
そんなもんいらねぇよ、と若狭は本当なら言うつもりだった。
しかし、頭の中が真っ白になって黙ってしまった。たかがキスくらいで、こんなこと。
真一郎を乗せたバブは、テールランプの軌跡を残して走り去る。
あたりが再び暗闇に戻るまで、若狭その残像を眺めていた。
その場から動くことができなかった。
「…………」
オマエは何が欲しいの。
真一郎の言葉が若狭の耳に残っている。
別にキスなんかが欲しいわけじゃないさ、と若狭は反駁する。
さざ波が繰り返し聞こえてくる。若狭はすっかり冷えてしまったザリの側に立つ。
煙草の匂いがかすかに残る唇を、若狭は指でたどった。
『オレのこと諦めてほしくなかった』
真一郎の言葉を思い出し、若狭は吐息をついた。
「ふ……」
あのキスは、真一郎からの特別なしるしだ。
そして若狭が一番欲しかったつながりだった。
「……そんな大事なモン、オレにくれんのかよ」
若狭はザリにもたれて一人呟く。返事をしてくれるのは波の音だけだ。
諦めてなんかいられない、若狭はザリにまたがった。
遥か先に待つ真一郎の背中を、若狭は流星のように追いかけた。
『たった一つのキス』完