「日向小次郎──ただいま、帰りました」
ユベントス、練習場にて。
その日、日向は改めて、チームメイトの皆に挨拶をした。
──事の初めは日向がデビュー戦で完封されたところまで遡る。力不足を痛感した彼は監督とマッツの勧めでセリエC、レッジアーナにレンタル移籍をした。そしてその地で自らの体のバランスを矯正しつつ、レッジアーナのセリエB昇格へ貢献。自身もセリエCで得点王を達成し、マドリッド五輪でも多くの活躍をしたことで、晴れてユベントスへ呼び戻された。そして、今に至る。
彼を見るチームメイトの目は様々だ。マドリッド五輪での活躍を認めてくれて、既に日向に好意的な視線も届く。しかしそれと同じくらい、まだチームメイトとしては認めていないぞとばかりの、圧迫するような視線も目立った。
全員の前での挨拶を終え、さて練習に入ろうとチームメイトが歩いていく中、旧知の友が声をかけてきた。
「よお、ヒューガ。お早いお帰りだな」
日向はその声に安心して振り向く。
サルバトーレ・ジェンティーレ。かつてワールドユースでしのぎを削ったこのディフェンダーは、同時に日向にとっては、ユベントスのユース時代からの仲間である。
「遅すぎるくらいだぜ。もっと早く呼び戻してくれてもよかったんだ」
「相変わらずだな、その減らず口。……心なしか、イタリア語が上手くなったか? レッジアーナには随分と良い語学教師もいたと見える。おれが指導を引き継いでやろうか」
「余計なお世話だ! あっちで通ってたレストランの客たちと会話してるうちに、色々とな」
話しながら、日向は通い詰めたレストランへ思いを馳せた。
単なるレストランではない。レッジアーナのキャプテン、ユリアーノ・ゴッツァが経営する店だ。常連客は真摯なレッジアーナのサポーターでもあったため、日向を快く歓迎してくれた。そのうえ、ゴッツァは日向にタダで良い飯を食わせてくれた。語学だけでなく、食事でも随分世話になったものだ。
「へえ、随分といい環境だったみたいじゃないか」
「まあ、そうだな。レッジョの奴ら、おれを家族みてえに受け入れてくれたし」
そう思い出に浸りながら呟くと、ジェンティーレは声を潜めて笑う。
「だったら、ここに慣れるよう気持ちを切り替えるんだな。──レッジアーナとは違って、こっちはフォワードの層が厚すぎる。いつでもポジションの奪い合いをする気でいないと、また試合に出られない生活に逆戻りだ」
言われるまでもない。日向は、大きく頷いた。
「わかってる。この競争に勝つために、おれはレッジアーナで己を鍛えてきたんだ」
今なら、かつてのような辛酸を舐めることはない。日向には自信があった。この猛獣だらけのサバンナで、生き残っていける自信が。
ジェンティーレはその言葉を聞くと、肩を竦め。
「せいぜい、頑張れよ。……お前と組むのは悪くないと思っているんだ」
「そいつはどうも。葵とは随分評価が違うじゃねえの」
葵。ジェンティーレ永遠のライバルの名を出すと、彼は急にその表情を豊かに変化させた。
「あのサルはっ──ええい、それは今関係ないだろう! 行くぞ、練習だ!」
都合が悪くなったらしいジェンティーレは、さっさと練習へ向かっていく。日向は一人、笑いを噛み殺した。そして向かおうとしたところで視線を感じて振り返ると、そこにもう一人、よく見知った人がいた。
ダビィ。マドリッド五輪のオランダ戦で顔を合わせ、戦った男だ。
彼は視線に気づくと、軽く会釈してそのまま離れていった。
「……」
満員の観衆の中で日向に吹き飛ばされたダビィは、忸怩たる思いを抱えているかもしれない。そんなことが頭をよぎって、日向は自分から話しかけに行くことができなかった。
そうして、久しぶりのユベントスでの練習が始まった。
最初に感じたのは、とてもレベルが高いということだった。レッジアーナの練習を悪く言うつもりはないが、最新鋭の機器を使い、最高峰の選手たちがしのぎを削るユベントスの練習は、やはり別格だ。
今更ながら、日向は高揚を覚えた。この場所でまた練習ができる。そしてポジション争いができる。その日をどれほど待ち望んでいたことか。
そして、その中で日向は当然ながら、アピールしていかなければならない。試合に出るために。
日向の新たな戦いの場が、ここにはあった。
とくに──紅白戦は、日向にとって最高のアピールの場だった。
日向は自分で点を取ることに拘った。貪欲に、猛然と、ゴールへ向かう虎。
「ヒューガ、行け!」
今日もパスが来る。ボールが日向に渡ればこっちのものだ。そうだ、ゴールだ。あの場所へボールを入れること。今はそれだけでいい。
猛虎は突き進んだ。
「どけェ!」
ディフェンスを躱し、あるいは吹き飛ばす。今の日向にはそれができる──以前より、もっと確かに。視界が開ける。外さない、外すものか。この一球が、この一蹴りが、日向を次のユベントス公式戦のレギュラーへと導いてくれるはずなのだから。
「くらえっ、──タイガーショットォ!」
ごうと唸りを上げ、ボールはゴールネットへと突き刺さる。
彼はほとんどの紅白戦で、点を挙げて見せた。もちろんディフェンダーがレギュラーじゃない試合もあれど、その実力を示すには申し分なかったはずだ。
「ヒューガ! 今日もなかなか良かったんじゃないか」
「当然だ。決勝点はおれが入れたんだからな」
練習が終われば、ジェンティーレとそんな会話を交わした。
実際、調子は良かった。かつてのように右足の強さ一つで戦っていた時とは違う、大きな手ごたえを感じていた。ショルダーチャージにも強くなった。ゴッツァが鍛えてくれたおかげだろう。
そうして練習が終わり、夜を迎え、眠り──。
その生活は充実していた。
はずだ。
けれど、いつしか違和感を覚え始めた。
……なぜだろうか。
「今日も活躍したじゃないか」
ジェンティーレにそう言われても、日向はいつからか、素直に頷けなくなった。いや、活躍はしているのだ、スコアだけ見れば。紅白戦、負けはしたが日向は二点を取っていた。
「そう、だな。まあ、なんてことねえさ」
「……その割に、満足してないって顔だな」
ジェンティーレは流石に目ざとい。彼の言葉に、しかし、日向は首を左右に振る。この妙な違和感の原因がわからないので、日向は気のせいだと思うことにしていた。
「そんなことはねえよ。おれはこれでいいんだ」
「ふうん」
彼も日向の活躍を認めていたので、それだけの返事でその場は済まされた。
***
ふと気づけば、そんな日向をじっと見ている視線があった。……ダビィだ。
あまりに何度もその視線を感じるものだから、日向はあるとき、意を決して話しかけてみることにした。練習後、彼を追いかけて、静かな廊下でその背に声をかけた。
「ダビィさん。何か、用なんですか」
何のことかは言わずともわかるだろう。
すると、彼は振り返った。その視線が日向をとらえる。
「お前……変わったか?」
予想外の言葉に、日向は一瞬言葉を詰まらせた。
「おれが、変わった? ……どういう意味です」
「いや、前は、もっと──気のせいか」
直感的に、彼は自分の持つ違和感の正体を知っているのではないかと日向は感じた。聞き出そうとつい前のめりになる。
「ダビィさん! 教えて下さい、違和感ってなんですか」
しかし、ダビィはそれ以上教えてはくれなかった。
「さあな、おれにもよくわからん」
返答はたったひとこと。がっくりと肩を落とした日向に対して、しかし、続いた言葉はあまりにも──先ほどより更に──予想外だった。
「それより、ヒューガ。一緒に飯でもどうだ」
「……へっ?」
飯。
というと、あれである。ゴッツァの店で食べていたような──いや、レッジアーナでも、チームメイトとの食事というのは、珍しかった。特別な時に決起会で集まることは、多かったけれど。
「おれと、飯。……いいんすか、おれで」
ぼんやりとそう聞いてみると、ダビィは頷いた。
「ああ、そうだ。……おまえが嫌ってんなら、無理にとは言わねえが」
「そんなことはないですけど」
「でも、おれを避けていただろ?」
「え、いや」
実際には、逆だ。日向はダビィが自分をよく思っていないのではないかと考えて、あまり触れないようにしていたのだ。しかし流石にそうとは言えない。
「違うのか。じゃあ……行くか?」
日向は頷いた。
──連れていかれたのは練習場近くの、小さなレストランだった。
席についても、日向はそわそわと落ち着かない。なんたって、ダビィとチームの先輩として接したのは僅かな期間だったし、その後はマドリッド五輪でめちゃくちゃに火花を散らした仲だ。何を喋ればいいのかよくわからない。
そんな日向を見て、ダビィは笑った。
「なにかしこまってやがる。そういう性格じゃねえだろ、お前」
「それは」
「今はチームメイトだ。仲良くしようや」
「そうですけど。いきなりサシで先輩と食事する身にもなってくださいよ」
思わずそう本音を零すと、更にダビィは肩を震わせる。
「そんなの気にしてんのか、お前!」
そのからかうような笑いが癪に障り、ついつい日向もむっとして、口から勢い任せに言葉が飛び出した。
「ちょっと、そんなに笑うこたあないだろ、……でしょう!」
そこから徐々に、二人の会話はヒートアップ。
「だってよ、おれと対峙した時のぎらついた猛虎とは違いすぎて!」
「今のあんただって狂犬のきの字もないくせに!」
「おれの異名は試合中のことだけ! 普段はこうして面倒見のいい先輩なんだ、もっと敬ってくれていいんだぜ」
「はあ? おれが話しかけるまで遠巻きに乙女みたいに見てるだけだった子犬が何言ってるんすか?」
「おうおう、数時間前と比べて随分生意気な口きくようになったじゃねえか、次の紅白戦では覚悟しろよ!」
などと売り言葉に買い言葉の応酬は続き。言い争っているうちに、日向はだんだん、緊張が解れて普通に話せるようになっていった。
やがて食事が運ばれてくるころには、そわそわした感覚はほとんど消え去っていた。
「ったく、こんな風にあんたと飯を食うとは思いませんでしたよ」
そうぼやくと、ダビィは口端を吊り上げて。
「こういうのもいいだろ、たまには。それに、レッジョじゃこういうのが日常だったんじゃねえのか」
「あー……いや、レッジョの場合は、キャプテンが料理人だったからちょっと違うっていうか」
「あ? 料理人のサッカー選手?」
不審がられるのも無理はない。日向も最初はびっくりしたものだ。そこで日向は、ダビィにゴッツァの話や、レッジアーナでの話を語ることにした。
語っているうちに、日向は自然と頬が緩む自分に気が付いた。そうだ、あそこでのサッカーは、本当に──。
「楽しかったなあ──」
漏れた呟きを、ダビィが拾った。
「なんだ、お前。今は楽しくねえのか」
「え? ……あ」
日向は、間抜けな声を上げた。自身の発した言葉が、一気に、日向に纏わりつく得体のしれない違和感を氷解させたのだ。
楽しくない。
多分、その一言に尽きる。
もちろん日向はサッカーが好きだ。それは今も変わらないし、ユベントスに居てサッカーの楽しさは感じてはいる。ただ、何かが足りない。
「おいおい、図星か? ……ま、ここまで競争が激しいと、そうもなるかもな」
「それは、確かに……」
「こうしてポジションを奪い合うのは、初めてか?」
激しいポジション争い。日向にそういう経験があったかと言われると、難しい。もちろんいつだってエースストライカーの座を渡す気はないという競争心はあったとはいえ、どこか、全日本のエースストライカーは日向小次郎だという大前提の空気感は、いつもあった。もちろん脅かされたこともあるが、片手で数えられるほどで、期間も長くない。挑戦者だった時となれば、なおのこと。
「おれは……あんまり、争ってこなかったのかもしれねえっす。いつも、強大な敵は外にいて……当たり前のように、おれは全日本の九番を背負ってた」
「ほお」
「だから、慣れてねえんだと思います。きっと、それだけっす」
「だといいがな。ただ、おまえ、なんか──」
そこでダビィは言い淀んだ。日向はその先を待ったが、しかし、ダビィは口に出さなかった。
それからも他愛のない話をして、夜も更けたころ、二人は食事を終えて店を出る。
「じゃあな、ヒューガ! 明日遅刻するなよ!」
「あんたこそ!」
そうして最後まで減らず口を叩きあいながら、それぞれ、帰路に就いた。
ともかくも──日向は思う──今はこの違和感と、上手く付き合っていくしかないだろう。通年のポジション争いという、未知の荒波は自分の足で打ち砕いていかなければならないことだ。
***
その日の紅白戦は、ジェンティーレが敵にいた。
だからだろう。日向は、思わぬ苦戦を強いられた。なにせユース時代から共に切磋琢磨してきた男だ、日向の癖は良く知っている。
それでも、突破してやると果敢に日向は挑んだのだが──。
「甘いッ」
「──!」
ジェンティーレのタックルにやられ、ボールが足を離れる。これで何度目かわからない突破失敗だった。ワンツーも、ドリブル突破も、ジェンティーレの敷くディフェンスラインを破れない。
「……くそっ」
気が付けば、嫌な汗を搔いていた。何かがおかしかった。違和感は慣れるどころか強くなって日向を圧し潰そうとする。何をすればジェンティーレを抜けるのか、忘れてしまった。──忘れる? そんなことがあってたまるか。そうは思っても、厳然たる事実として日向はゴールを決められない。こんなことは初めてだ。
いや……、その兆候はあったのかもしれない。慣れないチーム内のポジションの奪い合い。それがどこかで、日向の歯車を狂わせ、狂わせ──ついに、明るみに出たのかもしれない。
珍しく前半を零得点で終えた日向は、ハーフタイムにベンチへ座り込むと、大きくため息をついた。
一番厄介なことは、日向の調子自体は悪くないことだった。動けているのだ──。己の身一つに限って言えば、レッジアーナでの特訓も功を奏し、確かな手ごたえを感じている。なのに、ジェンティーレの壁が高い。
思考が空転する。そんなさなか、日向は、声をかけられた。
「ヒューガ──交代だ!」
交代。
そんな、嫌だ。そう咄嗟に喉元まで出かかった日向の言葉は、しかし、続く言葉に遮られた。
「おれが入る!」
びっくりして改めて声の主を見る。もちろん知った声──ダビィのものだ。
「あんた、今日の紅白戦は……観戦組じゃなかったんすか」
思わずそう返すと、ダビィはやれやれと肩を竦める。
「監督に無理言って後半から出してもらうんだ、有難く思え」
「どうしてそこまで……」
「後輩がここまで不甲斐ないとな、入りたくなるんだ」
「それはっ、……」
ぐうの音も出ない。日向の前半戦は酷いものだ。しかし、ダビィが入ったからと言ってなんだというのだろう。そう思っていると、彼は近づいてきて肩を叩き、──囁いた。
「それとな。今日見ていてやっとわかったんだよ。お前に感じていた違和感の正体」
「っ! 本当ですか!」
日向は顔を上げた。それは一筋の光明だった。目の前の先輩は、不敵に笑って頷く。
「ああ。……おれと戦った時のお前は。もっと……、勝ちに貪欲だった」
「……っ、え」
もっと、勝ちに貪欲、だった。それは過去形だ。
その意味を考え、自問し、噛み砕く。
勝つ。──勝利。──。
そんな単純なこと。いつだって見据えていたはずのもの。
だというのに、ああ、きっとそれが正解だ。日向は拳を握り締める。
──なぜジェンティーレを抜けなかったのか。その答えはすぐそこにあった。
「どうだ、何か参考になったか?」
「……はい」
明和のサッカーは、必ず勝つサッカー。
ダビィの言葉に応じながら、恩師の言葉を今になってもう一度思い出す。
いつだったか、小学生のころ。夕暮れ時に、彼と二人でこんな話をしたことがあった。
「──勝てば官軍! 負ければ賊軍! そういうもんだ。知っておるか、小次郎」
「……要は勝てばいいってことですよね」
「そうじゃ。勝つ! それが、ワシらのサッカーじゃ」
「そんなの、当然のことだと思うんですけど」
「若い……いや、それでいい。ただ目の前の勝利に向かい続ける。それでいいんじゃ」
吉良監督はそう言って、笑っていたっけ。
あの頃は意味が分からなかった。勝ちにだけ固執する、それは本当に普通のことだと思っていた。そして日向はその教えを守り、誰よりも勝ちに貪欲な猛虎であり続けた。それは、ユベントスでデビューした時も、レッジアーナをセリエBに上げようという大一番でも、変わらずに。
その当たり前のような意識は、しかし、今の日向からは抜け落ちていた。それをはっきりと日向は自覚し、そして、取り戻す。
恩師の言葉を、日向は──幾日かぶりに、復唱する。
「おれのサッカーは……必ず勝つ、サッカーだ」
忘れかけていた、大事な大事な日向のルーツ。
ダビィが笑う。
「その目だ。おれがお前と対峙した時見たのは、そいつで間違いねぇ」
「ありがとうございます。後半は──」
「当然勝ちに行く。おれがお前に、点を取らせてやるよ」
ダビィの言葉は自信満々だ。彼のことは今まで中盤のダイナモ、葵のような存在だと思っていたが、今の姿からは翼のような頼もしさすら感じられた。
だから、内心ダビィの言葉に安心感を覚えながらも──しかし日向は、見栄を張って言い返す。
「違います。おれがあんたらのために、点を取ってやるんすよ」
「クソ生意気」
「どーも」
毒づくダビィを日向が笑う。そうやってへんてこな先輩後輩のコミュニケーションを終えると、二人はどちらともなく歩き出した。
もう一度、日向はグラウンドに立つ。
***
後半開始のホイッスルが鳴る。
日向は前を見据えた。なぜ前半、視野狭窄に気づかなかったのかと自問したくなるほどに、日向の視界は開けていた。
日向にボールが渡る。その瞬間、ダビィが日向へとアイコンタクトをしてくる。日向は確かにそれを受け取った。
ダビィという男の本分は、ボランチだ。中盤の底で獲物を刈り取るタックルやパスカットの鋭さ、しつこさは、戦った日向もよくよく知っている。しかし、それに加えて彼はゲームメイクもできる。ブライアンに対して見せた鮮やかなサポートの数々、忘れようもない。
だから日向は、ダビィを、信頼するゲームメーカー、翼のごとく認識した。
──点を取らせてやる。
あの宣言を、信じた。
「行くぜ!」
日向はドリブルで切り込んだ。ダビィがその後ろから並走し、サポート体制に入る。目の前にはユベントスの誇るディフェンダー、ジェンティーレの統率する高い壁がある。だが──先ほどまでとは違う。日向にはその壁の、全てが見えている。
「ヒューガ、おまえに自由にはさせん!」
容赦なくディフェンダーが日向の周囲を取り囲む。前半やり続けたような突破は、無謀──。
この土壇場で日向が思い出したのは、翼のことだった。
いつだって自由に、サッカーを。それこそが勝利への道と教えてくれた、あのライバルの姿を、脳裏に思い描いた。どんな技でも自分のものにするサッカー小僧。目に焼き付いたその姿を重ねた。彼のように、自由に。
そして日向はボールを置き去りにした。
「──っ!」
囲まれて突破を試みた日向の足に、ボールはなかった。囲む男たちの一瞬の動揺、その隙をついて日向は更に一歩踏み込み、ディフェンダーを引きはがす。
そして──フィールドに残され、佇むボールを、即座に拾ったのはもちろん。
「ヒューガ!」
ダビィが、取り残されたボールをふわりと蹴り上げた。見ている人からすれば、それはまさしくヒールリフトのような軌跡として映ったことだろう。即席のコンビネーションで、二人はその壁を破るのではなく、飛び越えた。
無理に壁を破る必要なんてどこにもない。ゴールを入れるのだって、結果論だ。勝つ。そのために最善の手を取る。それが大前提で──アピールになるかどうかは、そのあと考えればいい。
「そこまでだ!」
「!」
中へ切り込んだ日向へ、最後の刺客が襲う。ジェンティーレだ。
しかし、前半戦での凄まじい脅威は感じない。直線突破に拘っていた前半と違い、今の日向にはフォローに入るダビィがいて、日向もそれを認識できている。選択肢は無限にある。そのそれぞれの可能性を念頭に置いて戦わなければならないジェンティーレは、前半戦ほど日向の突破阻止だけに気を向けることができない。
──すなわち、抜ける。
「そこを──どけ!」
猛虎は、直進した。
「──させるかッ!」
ジェンティーレもさるもの。抜かせまいと、ショルダーチャージでボールを奪おうとする。しかし日向は押し通す。
屈辱のユベントスデビュー戦から、体のバランスを見直し、どれほど鍛錬してきたか。
すべては、このセリエAで戦うために。
──そして、僅かに競り勝った猛虎は、遂に超新星を抜き去った。
即座にシュートモーションに入る。勝つための一点。大切な点を、取る。今の日向の視界には、ゴールしか映らない。
日向はまだ体勢を崩しながらも、ボールの芯をとらえて蹴りこんだ。
「くらえ……タイガーショット!」
相手キーパーは跳んでいた。日向の豪速極まりないシュートに対して、見てから跳んでは決して間に合わない。だから、彼はシュートモーション中から飛び出していた。
そして、その飛び出しは功を奏す。日向にとっては不幸なことに、キーパーにとっては幸運なことに、その体が飛び出した位置はボールの飛んだ先と一致していた。ぶつかり、ボールが跳ね返る。
日向はそれを目で追う。体勢は崩れており、流石にこれをもう一度捉えに行くのは間に合わない。そう思い、諦めかけたその時だ。
「ちっ──」
日向の耳に、舌打ちが聞こえた気がした。
そして、そのこぼれ球に対してボレーに行く人影が日向の視界に映る。
彼は──ダビィは──思い切り、その足を振りぬいた。キーパーが体勢を崩し切った、無人のゴールへと、ボールは吸い込まれ。
得点を示す、ホイッスルが鳴った。
それは日向の得点ではない。アピールという意味では不十分なのかもしれない。それでも、それでも。
「ダビィさん!」
日向はいてもたってもいられずに、ダビィに駆け寄って抱きついた。
だってそうだろう。こんなに楽しいことなんて、こんなに嬉しいことなんて、そうめったにない。別にそれが自分のシュートでなくたって、構うものか。
ダビィはぐいっと日向を引きはがした。その顔は、ゴールを決めたというのにちょっと不機嫌そうにしていた。
「世話の焼ける後輩だな、おい。得点を取らせてやるっつったのに、なんでおれが決める羽目になってんだ?」
「おれに言われても困るんすよ、そんなこと! 大体、あれはキーパーがファインセーブしただけで、普通だったら入ってましたし」
「言い訳無用」
「んぐっ」
「それになんだ、さっきの抜き方は! 打ち合わせもなしにめちゃくちゃな連携要求しやがって!」
「や、ダビィ先輩ならわかってくれるかなって」
「こういうときだけ先輩呼びするんじゃねえ!」
べちん、と頭を小突かれる。
日向は頭を掻いた。悪い気はしない。彼はそれでも即席のコンビネーションを合わせてくれたし、それは、最高に気持ちよかった。
当のダビィは、はーっと大袈裟にため息をついてみせて。
「それに、喜ぶのは早いんじゃねえのか、ヒューガ。なんだっけ? おまえの座右の銘」
「……それは」
「言ってただろ、さっき」
そして二人は声を重ねた。
「「──おれのサッカーは、必ず勝つサッカーだ──」」
そうだ。まだこれで終わりじゃない。この点を守り切って、勝って、それでようやく日向の銘は実現される。
ダビィと日向は頷きあった。
***
紅白戦は、日向たちの勝利に終わった。得点は二対零。ダビィが一点を入れ、日向がそのあと一点を追加した形だ。
その試合は日向にとって、最高に充実した瞬間だった。もう彼の視野狭窄はなくなっていた。自由に、どこまでも発想の羽を伸ばし、フィールドを走り回るのは本当に楽しかった。
更衣室に戻って着替えを進めている間も、高揚の名残が全身を支配していて、日向の気分はことさらに良い。今日の試合がレギュラー奪取へのアピールになったかどうかは、この際考えないことにした。そういうのは二の次で良いと思えていた。
「ヒューガ。今日は……なんというか。凄かったな」
ジェンティーレの彼にしては歯切れの悪い賛辞も、日向は素直に受け取ることができた──以前とは違って。
「まあ、色々と吹っ切れたからな」
「吹っ切れた? 悩みでもあったのか」
「そうだな、ちょっとしたことだ。前半のおれ、酷かっただろ?」
するとジェンティーレは苦笑した。
「酷かった……とまでは言わないが。後半のお前が、ユースのころに見ていたような、いつものお前になったとは思ったぜ」
「そうか。ジェンティーレにもそう見えるんだな」
不思議なものだ。己の実力は何一つ変わっていないのに、心持ち一つ思い出しただけで、こうも変わるものか。しかし、そういう点を含めてサッカーは楽しいし、面白いと、日向は思う。
そうして解散し、帰ろうとしたところで、日向はそれを思い出すのに一役買ってくれた先輩に声をかけた。静かな廊下で、かつてそうしたように。
「ダビィさん」
彼は振り向く。鋭い目つきの顔が夕日に照らされている。
「なんだ?」
「……今日、おれの家に飯でも食いに来ませんか」
「へっ?」
素っ頓狂な声を出したダビィに、日向は笑う。前回のダビィと同じことを、いやそれ以上のことを提案してやったのだ。驚いてもらわねば困るというもの。
「聞こえませんでした? おれが、飯作って、ご馳走してやるっつってんですよ」
「いや、待てよ。お前の手料理⁉」
「食えるのものが出てくるのか、って顔するのやめてもらえないっすか? こう見えてもおれ、料理の腕には自信ありますから」
「いや嘘だろ……ええ……」
「そこまで疑われると流石に傷つくんすけど」
閑話休題。
「それで、どうですか。来ます? 来ません?」
そう言って手を差し伸べると、ダビィは少しの間逡巡し……そして、仕方なさそうにその手を取った。
「わかったよ、ここで断っても野暮ってもんだ、ご馳走されてやる。その代わり、まずいもん出したらぶっ飛ばすからな」
「ええ、任せといてください。必ず美味しいものを出してみせますよ」
「……そこまで言うなら、一応信じるけどよ」
戦々恐々、といった様子のダビィが面白くて、日向は更に笑ってしまう。すると、ダビィが不思議そうに呟く。
「それにしたってなんでまた、おれに飯奢る気になったんだ?」
何を言っているのだろう、この人は。
「そんなの決まってるじゃないですか。あんたがおれに、大切なことを思い出させてくれた──そのお礼、ですよ」
「そんな大層なこと、してねえつもりなんだがな……」
ダビィは照れくさそうに顔を背ける。
日向はそんなダビィの腕を引き、さっさと歩きだした。さて、今日は何をこの男にご馳走してやろうか。
──最高の練習があった日には、また、最高の夕食が待っている。