「勝負するんでしょ、ダビィさん」
言われて、ダビィは思わず窓の外を見た。
窓の外はどんよりとした曇天だ。間違いなくこれから雨になるだろう。普段の練習ならまだしも、居残りでのプライベートな練習で、このあとずぶぬれになるのは御免こうむりたい。
が、しかし、目の前の日向はやる気満々なのである。
「ヒューガ、今日じゃなくて、後日に……」
「勝負しようって言ったのはそっちでしょ」
「まあそうだがよお」
ダビィは頭を掻いた。
勝負しよう、と言ったのはこいつがユベントスに戻ってきた日のことだ。それから毎日のように日向は、ダビィに勝負を仕掛けてくるようになった。それ自体は全く悪いことではないのだが。
「え、マジでやんの?」
とは、隣で聞いていたデレピの台詞である。横でジェンティーレが天気予報を確認している。
「あと一時間もしないうちに雨ですよ、二人とも。豪雨になるかも、って」
すると日向はにやりと笑った。
「わりいが、おれは嵐なんざ慣れっこなんでな!」
どこで身につくんだそんな慣れ。そうツッコミたくなったダビィであるが、しかし、続いて彼に挑発的な目を向けられて言葉に詰まる。
「やりますよねえ、ダビィさん?」
「そうまでして今日やりてえのかよ」
「毎日やりてえんすよ」
「お前なあ!」
まったく、こいつときたら。帰ってきてからというもの、いつもこんな調子だ。この男に付き合って、何度も何度もダビィは疲れ果てるまで練習し、死んだように眠った日を経験している。
しかも今日はこれから雨だと言うのに。こいつの闘争心ときたら、収まるところを知らないらしい。
「で、どうするんです、ダビィさん。逃げるんならそれでも構いませんけど」
日向はいつもこうして、ダビィを挑発してくる。乗らなければいいとわかってはいるのだが、ここで乗らないわけもなく。
「誰が逃げるって?」
……こうして、曇天の下で練習の延長戦が始まってしまった。
「おまえら、せめて雨が強くなる前に帰れよ!」
あんまり効果のないであろうデレピの忠告が、その場にこだました。
二人はもう一度グラウンドに出た。既に雨がぽつぽつと降り始めているが、そんなことは知ったことではない。
「さーて、やりますか」
やる気満々の日向がボールを投げやってくる。
ダビィもかなりスタミナに自信があるほうだが、日向もタフさにかけてはかなりのものだ。全体練習が終わっても、こんなことする余裕があるくらいには。
そういうわけで、二人は一対一に興じることにした。一つのボールを奪い合い、マッチアップを楽しむ。ある時は日向がダビィを吹き飛ばしてシュートを入れ、ある時はダビィが日向を躱し、或いはタックルし、……暗くなっても、延々とそれをやり続けた。
「これでおれの十勝目だ!」
「言ってろ! おれは十五勝してる!」
「あれ? まだおれ、九敗くらいだったと思うんすけど」
「おまえ! そこを忘れるんじゃねえよ!」
「あんただってサバ読んでるくせに!」
「ええい、だったらおまえ、あと十敗くらいさせてやる!」
ダビィがボールを蹴る。いつの間にやら、地面は水を含んでいた。二人ともそれに気づいているのかいないのか、ボールを蹴る足は止まらない。悪天候でボールの動きは鈍くなっても、そんなことはお構いなしだった。
──そんなこんなで、どっちが今リードしているのかもわからないままに勝負は続き。いつの間にか夢中になっていた二人は、もう体に纏わりつく液体が自分の汗なのか、それとも雨なのか、全く意識できていなかった。
雨がざあざあぶりになってきたことに気が付いたのは、ダビィのほうだった。彼はようやくストップをかけた。
「おい、ヒューガ! もう雨がすげえから、ここで終わりにしようぜ!」
「ん? 何言って……、あれ」
上を見上げた日向も、確かに降り続く大きな雨粒の群れに気が付いたようであった。
「すげえ雨じゃないっすか」
「そう言ってんだわ」
「仕方ないっすね、今日は終わりにしましょうか。おれの勝ち逃げですけど」
「あ? 何言ってんだお前? おれが勝ってるが?」
「はあ? おれの勝利のほうが多かったはずですが?」
「やんのかてめえ、数くらいちゃんと数えとけ!」
「それはこっちの台詞なんすよ!」
閑話休題。
ともかくこのままでは二人とも風邪をひくので、ダビィは日向を引っ張って室内に入り、タオルを投げやる。日向も流石に素直に受け取って、体を拭き始めた。明るい室内で改めて見れば、水も滴るいい男、というやつである。日本には日向ファンが随分多いと聞くが、こういうビジュアル面の人気も少なからずあるのだろう。
「何見てるんすか」
「いや。別に」
中身は可愛くない後輩なんだよなあ、と思いつつ、自分も濡れた体を拭くことにした。日向はと言えば、見つめられたお返しなのか、こちらの挙動をじっと見つめている。何を考えているんだろう。
「何見てるんだよ」
お返しに言ってみると、日向は肩を竦めて。
「あ、いえ、なんでもないっす。今日はこんな雨が降るまで付き合わせて、すいませんでした」
日向はあっさりと、そう謝ってみせた。こういうところではきっちりしているのだ、こいつは。それがどことなく憎めない理由でもある。
「いや、構わねえよ。夢中になっちまったのは、おれもだしな」
「そうですけど、言い出しっぺはおれですし。こんなに強くなるとは、思いませんでした」
言われて、ダビィは窓から外を見た。ジェンティーレの言った「豪雨」は誇張ではなかったらしく、窓に打ち付ける雨粒は凄まじい音を立てている。
「そうだな。ジェンティーレの忠告通りってか」
「全くですね。……今日はありがとうございました」
「どういたしまして。ところで、勝負結果だが、おれの勝ち越しだよな?」
「はい? おれの勝ち越しですけど?」
ほかのところでは素直なくせに、ここだけは譲らないあたり、やっぱりこいつは日向である。
「今度やるときはジェンティーレに見ていてもらおうぜ。数を誤魔化せないようにな」
「あいつ、そんなことに付き合ってくれますかね?」
「さあな、言えば来てくれるんじゃねえの?」
「だとしても、そのうち自分もやりたくなって割り込むんじゃないですか、ジェンティーレだし」
そうなったら三者三様に数を数えられなくなりそうな気がして、ダビィは頭を抱えた。いっそバッカスとか呼んでこようか。
「まあ、それは後日考えるとして……。ともかく、今日はさっさと帰ろうぜ。この後も雨はやみそうにねえし」
「うっす、そうしましょう」
そんなこんなで、二人はどうにかこうにか濡れ鼠になった体を拭き終わって着替えると、控室を出た。相変わらず雨は凄まじい音を立てている。
「そういえば、おまえ、車持ってたっけ」
「いえ、ないっすけど」
「だったら送ってやるよ」
このまま公共交通機関で帰ろうとしても、もう一度ずぶぬれになるのは目に見えている。そう思って提案すると、日向はぱあっと顔を明るくした。こういう素直なところが、本当に憎めない。
「いいんですか! ありがとうございます、ダビィさん!」
「おう、構わねえよ。行こうぜ」
車のキーをくるくると指で回しつつ、ダビィが歩き出すと、日向は後ろを従順についてきた。小動物みたいで可愛らしい。尤も、大きさはダビィを上回るが。
「そうだ、ダビィさん。それならうちに寄って行ってください、飯奢りますよ」
「あ? いいのか?」
「一人分作るのも、二人分作るのも、そんなに変わりませんし」
そういえばこいつは毎日自炊しているのだった。そういう生活的なところまで含めると自分よりタフなのでは、と思うことがある。
なんにせよ、今は日向との勝負のおかげで本当に腹が減っている。強い誘惑には抗えなかった。
「じゃあ、頼むぜ」
「っす、了解っす」
こうしてダビィは助手席に日向を乗せ、日向の家へと向かった。
雨がまだ降り続く中、ついたのはこじんまりした部屋だ。日向に続いて中に入る。そういえば、こいつの家に行くのは初めてだったか。そんなことを思い出してしまい、少しだけ緊張する自分がいた。
「ちょっとそこで寛いでてください、すぐ夕飯作りますからね」
日向はそんなダビィの気など知ってか知らずか、そう言ってキッチンに立つ。少し居心地悪くなりながらも待っていると、ほどなくして美味しそうな夕食が運ばれてきた。その料理に舌鼓を打ち、二人で食事を楽しんでいると、もう夜も更けてきた。
食事の片付けも終わり、そろそろ帰ろうかと思いながらダビィがソファに腰掛けていると、日向が寄ってきた。
「ふあぁ……」
少し眠いのか、大きな猫がそこにいるような雰囲気があった。
「おい、どうした。眠いならおれはもう帰るぞ」
「ん……そっすね……。今日はかなり動いたから、ちょっと疲れてるかも」
言いながら、その巨大猫は隣に座ってきた。その体が少し、ダビィのほうへと凭れかかってくる。こんなふうに彼が触れ合ってくるのは珍しい。多分こいつ、自分を保護者か何かと勘違いしているな、と思う。
「おうおう、しおらしいな。変なもん食ったか?」
「それ、おれが食ってたらダビィさんもじゃないっすか」
「そいつはそうだな」
少し日向の頭を撫でてみる。彼は拒否しなかった。そのままわしゃわしゃしていると、なんだか変な気分になってきた。こいつが随分可愛らしく見えてきたというか、なんというか。
「ダビィさんは、相変わらずタフっすね」
「それがウリだからな。おまえに負けちゃ、おしまいさ」
「絶対、いつかそこも追い抜いてやりますよ……」
「そんなとこは張り合わなくていいんだよ、おまえは」
頭を小突くと、緩慢に日向はその部分を擦った。本当に眠そうだ。その日焼けした健康肌、精悍なはずの顔が作り出すアンニュイな雰囲気の表情。いつもと違う日向の姿に、心が少し乱される。
「……おい、おれに寄っかかってないで、早く風呂入って寝ろよ。おれもそろそろ、帰って寝るから」
辛うじて乱れた感情が外に出ないようにそう言うと、日向は頷いて、立ち上がった。
「そうします……、すみません」
くしくしと目をこする姿がまた大きな小動物に見えて、ダビィは苦笑した。
こういうのを本人は無意識にやっていそうなのが、また面倒くさい。
「おまえさ、おれ以外のやつも家に呼んで飯食ったりしてんのか?」
少し気になって聞いてみると、日向は首を左右に振った。
「いや……、ユベントスのメンバーで、うちに呼んだのは、今日のダビィさんが初めてっすよ」
「ふーん」
頷きながら、ダビィは意外に思った。ということは、こんなぼんやりした日向を見たのは、ユベントスでは自分だけということか。なんだか名誉でも何でもない一番を貰ってしまった気分になる。
まあ、でも、それはそれで。
こんな姿の日向を独り占めするというのは、ちょっと面白い。
「それじゃあ、おれは帰るから。飯サンキューな」
「いえいえ、あれくらいだったらいつでも奢りますよ」
「あれくらい、か。まったく、家事能力だけは勝てる気がしねえな。……明日の練習に支障が出ないように、ゆっくり寝ろよ」
「はあい」
日向は気の抜けた声を返した。とはいえ彼はそういうところはしっかりしている男だ。明日にはまた元気な姿を見せてくれるだろう。
自分もちゃんと寝なきゃな……とひとり呟き、ダビィは車に乗り込み、家に帰ることにした。こういう日があるなら、毎日日向の練習に付き合ってもいいな、なんて思いながら。