ユベントスに現れた新たなゴールキーパー、ローマン・バッカス。彼の前にユベントスのフォワードたちは皆、シュートを決めることができなかった。バッカスが衝撃的なデビューを果たしたその日の練習を終え、日向は悶々とした思いを抱えながら控室に戻った。周りのフォワードたちも、どこか顔が暗い。
そんな日向を控室で待っていたのは──。
「よう! ヒューガ! 散々だったみてえじゃねえか」
この快活な声。ダビィである。
むっとしたが、散々だったことは確かだ。バッカスに向かって放った全力のシュートはあまりにも鮮やかに止められたのだから。
あまりダビィの言葉に応じたくなくて、日向は半ば無視を決め込むことにした。こういう時は反応しないに限る。ダビィだって、ほとんどのフォワード勢が彼からシュートを奪えなかったのを見ているはずだ。日向だけでなくデレピやトレサガもいる控室で、そうめちゃくちゃに煽ってきたりしないだろう。
……と、思った日向の期待は、秒で裏切られた。
「おいおい、だんまりか? シュートを散々止められて傷心ってか? ぜんっぜん似合わねえぜ」
「は? 誰が傷心だって?」
「おまえだよおまえ。さしずめ子猫ってとこだな、ははは! シュートの威力も子猫になっちまってるんじゃねえか?」
ここらへんで、日向の(とてつもなく脆い)堪忍袋の緒が切れた。しかしアンガーマネジメントは大事だ。六秒耐えれば、冷静になれるというもの。そう、六秒、静かに日向は黙り込み──。
そして口以外でやり返す方法を思いついた。ついでに補足すると怒りは収まらなかった。
着替えようとしていた手を止め、日向はダビィに向き直る。とびっきりの笑顔を見せて。
「ダビィさん。おれが子猫だってんなら、おれのシュート、止められますよねえ」
「……ん?」
ダビィが怪訝な顔をした。日向は言葉を畳みかける。
「子猫かどうか、証明してやりますよ! PKで勝負だ! あんたが一発でもおれのシュートを止めたら、一生子猫呼ばわりを受け入れてやる!」
「い、いやいやヒューガ? おれはゴールキーパーじゃないからな、そういうのは、ちょっと……」
言いつつも、危険を察したダビィがじりじりと後退する。そして、さっさと控室から逃げようとしたその時である。控室の扉のところに、別の人が立ち塞がった。
「うん、そうだな、ダビィはボランチだもんな。……というわけで、普通のPK位置よりも遠い位置から蹴るというハンデがあればどうかな? おれも、今日のヒューガが子猫と言われてしまうと──ちょっと、な」
そう言ってにっこり笑顔で退路を塞いだのは、同じフォワードのデレピである。
「お、おい、デレピまで何言って……」
「ヒューガのシュートは子猫なんだろう?」
「さっきそう言ったよな? PK対決なんて怖くもなんともねえはずだ」
「いや、その」
退路遮断し、完全に挟み撃ちの格好である。逃がすものかとじりじりと日向はダビィに詰め寄った。そして、返答に窮した狂犬が逃げ出しかけたその瞬間──。
「捕縛!」
「逃がすかあ!」
日向とデレピが腕を伸ばし、ダビィの腕を掴んだ。これでもう逃げられない。慌てふためくダビィに、遠巻きに見ていたジェンティーレが声をかけた。
「ダビィさん! キーパー用グローブをバッカスから借りてくるんで、ちょっと待っててくださいね!」
こいつも全く、助ける気がなさそうであった。
***
「おいおい、嘘だろ……」
ダビィはゴール前に立ち、キーパーグローブをはめながら、ぼやいていた。
目の前には日向がいる。ハンデで通常のPK位置よりかなり後ろに下がっているとはいえ、当然のごとくキーパーの経験などないダビィにとってはとんでもない脅威だ。
「やらかしましたねえ、ダビィさん」
にやにやして隣にいるのは後輩のジェンティーレである。こいつは完全に、この展開を面白がっている。いつもなら売り言葉に買い言葉で言い返すところだが、今はそんな元気もない。
なにせ、これから飛んでくるのは、あの猛虎、日向小次郎のシュートだ。
「子猫なんだから、そんなに緊張することないんじゃないですか」
がっちがちのダビィをジェンティーレがからかう。
「ならお前がここに立つか?」
「遠慮しますよ。おれはあいつを猛虎だと思ってるんで。……ま、その緊張具合だと、あんたも同じでしょうがね」
反論できない。日向のシュートを本当に子猫だと思っているならば、ここまで怖がったりしないだろう。この時点で日向は子猫であるという大前提の主張は崩れており、もうこの際勝負する必要もないんじゃないか? とダビィは思うわけだが、しかし、日向とデレピがやる気満々なのでどうしようもない。
そうはいっても辛うじて二人を止められるかもしれないジェンティーレに、一応、ダビィは頼んでみることにした。
「おい。それがわかってんなら、この状況、どうにかならねえのか!」
「まあ、さっきの煽りは紳士的ではありませんでしたからね。ヒューガのシュートを間近で見て、猛虎を再確認するのが良いと思いますよ」
「くそっ、おれに紳士的とか求めるんじゃねえよ!」
案の定、ダメ。ジェンティーレもこの状況を楽しんでいる人間の一人。どうしようもない。
「おーい、ダビィ! 準備できたか!」
日向のそばに審判面で立っているデレピが、声をかけてくる。
準備も何も、グローブをはめる以外にやれることもない。正直、もうちょっとのらりくらりしたい気もしたが、そんなことしても恐怖が先延ばしになるだけだ。仕方なくダビィは準備オーケーと返した。
そして、日向のほうは……と正面を見やれば。
虎がいた。
猛虎だ。
相手は素人キーパーなのだ、そこまでムキにならなくても──なんて、言いたくなるくらいには、闘志に満ち溢れたケダモノがこっちを見ている。まだボールを蹴る動作にすら入っていないのに、委縮してしまう。
「それじゃあ、三本勝負だ! 一回でも止められたらダビィの勝ち、全部ゴールしたらヒューガの勝ち! 一本目、開始!」
デレピが宣言する。そして、日向がシュート体勢に入り──。
「う、わ」
──戸惑うダビィの横を、豪速のシュートが突き抜けていった。
反応できなかった。凄まじい威力と速さ。キーパーとして手を伸ばさなきゃならなかったと思うのだが、そんなことをしても止められる気はしない。
「どうした、ダビィ! まずは止めに行かなきゃ始まらないぞ!」
デレピがそう言うが、そう簡単なことではない。全く、この場に一度でも立ってから言ってほしいものだ。
とはいえ、完全に棒立ちのまま三本勝負を終わっては流石にダビィとしても納得がいかない。次は、跳ぼう。幸いにPK位置より後ろから蹴っているおかげで、覚悟を決めれば反応できないわけではないと思う。
「それじゃ、二本目! 開始!」
デレピが叫ぶ。そして、日向がまたしてもシュート体勢に入る。
本来PKで見てから跳ぶなんてことは許されないのだろうが、辛うじてこの距離なら。ダビィは集中し、そして、日向のシュートが放たれた瞬間、反射神経のままに、跳んだ。
しかし、間に合わなかった。指先を掠めた程度で、そのシュートはまたしてもゴールネットに突き刺さる。
「クソッ!」
どうしようもない。ド素人ではこれが限界だ。
それでも、この二度目のやり取りはダビィの闘争心を擽った。諦めとはまた別に──このまま負けるのは癪だ、という思いがふつふつと沸き上がった。
どうにかして。どうにかして、あの猛虎の尾を掴めないだろうか。
そんなことを真剣に考えだす。
「どうしました、目の色変えて」
ジェンティーレが笑った。こいつはこいつで、よく気付く奴だ。
「なに……こうなったら、あいつを子猫にしてやろうかと思ってな」
言いつつも、ジェンティーレを見てふと思いつく。ゴールキーパーなんて柄じゃない。それならいっそのこと、いつものようにフィールドプレイヤーとして動いたほうが、経験と癖で反射的に動けるはずだ。どちらかというとディフェンダーの意識で、足を使ってシュートブロックする。日向のシュートを止める方法があるとしたら、それしかない。
「じゃあ、一つだけ良いこと教えましょうか」
方針を固めて日向を見据え、息を整えていると、ジェンティーレが横から口出した。ダビィは視線だけジェンティーレに向ける。
「良いこと?」
「ええ、あいつのシュートコース。二回とも同じでしたよ」
言われてダビィは目を見開いた。そして思い出す。最初のシュートはほぼ反応できなかったが、確かに、似たようなコースに飛んできていたか。
「あいつ、舐めてやがんのか?」
「むしろ、真っ向勝負であんたを倒し、正真正銘の猛虎だと認めさせたいんじゃないですかね」
「けっ……」
こちとら既にまごうことなく認めているというのに。わかっていない馬鹿があるか、とダビィは毒づく。日向をああやって煽るのだって、あいつを本当は認めているからだ。
だが、真っ向勝負がしたいというのならそれもいいだろう。内心はともかくあいつを一生子猫呼ばわりできる報酬は悪くない。
「そっちが望みなら、やってやろうじゃねえか──」
ダビィは目を細めた。試合の時のように、精神が研ぎ澄まされていく。
***
一回目はまるでついてこなかったダビィだが、二回目は触れられた。
そして、──正面のダビィの雰囲気が変わった。次は止めると言わんばかりに、その瞳がこちらを見据えて離さない。
距離はあっても、わかるほどに。決してゴールを許さず狩り取る、フィールドの狂犬がそこにいた。
「おい、ヒューガ。三本目も同じところに蹴るつもりなのか?」
デレピが少し不安げに声をかけてくる。日向は頷いた。
「そっすね。……あの人が気付くかは知りませんけど」
「ダビィはともかく、ジェンティーレが気付くと思うぞ」
「ははは。まあ、でも──止めさせませんよ」
バッカスに止められたシュートが、子猫だというのなら。素人キーパーのダビィが取れないコースに蹴りこむよりも、力で捻じ伏せ、己が猛虎であることを証明したい。これは日向のわがままだった。
「いいのか? 万が一止められたら、一生あだ名が子猫だ」
「万が一はねえっすから」
──とは言ったものの。完全に試合モードになったダビィは、今度は確実に反応してくるだろう。それが厄介だと思う一方で、どこか嬉しくて、ぞくぞくする。何をしてくるだろうか。その手で止めきるつもりか、それとも。
試合の時と同様の、緊張感と高揚感がそこにはあった。
ダビィと向き合うと、オランダ戦を思い出すせいか、どこか大切な試合をしているような、そんな錯覚に囚われることがある。今もそうだ。
「やる気満々って顔だな、ヒューガ」
デレピに言われ、日向は頷いた。
「当然っすよ。いつだって、本気ですから」
「そうかな。バッカスとやりあってた時より、もっとやる気満々って感じだ」
「……今日の練習より? そんなつもりはねえんですけどね」
あの時も、全力でやったつもりだ。確かに試合に似た緊張と高揚は今だけのものかもしれないが。
とはいえ、無駄話はそこまでだった。
「さて、そろそろ始めていいな?」
「はい、お願いします」
「よし。ダビィ! 準備できてるか!」
デレピがダビィに向かって言うと、彼は静かに小さく頷いた。雰囲気は研ぎ澄まされたままだ。猛獣がそこにいる。
「それじゃあ、三本目、はじめ!」
デレピの声。日向は位置につく。一度、深呼吸。
走り込み、そして──。
「くらえ──タイガーショットォ!」
ボールの芯を捉え、真っすぐゴールへと突き進む、野生の虎を解き放つ。
***
勝負は一瞬。
コースは確かにジェンティーレの予測した通り、三本目も同じ。ダビィは飛び出していた。足をのばし、ボールを弾かんと。
そして、それは上手くいったかに見えた。先ほど指先が掠ったのとは違う。確かに、その足はボールとゴールの間に割り込んだ。
勝った──。
そう、確信したその刹那。
「⁉」
凄まじいボールの勢いが、一気にその足に圧しかかる。足を差し込んだ程度では全く弾くことすらできやしないのだと、気づかされた時にはもう遅い。
ブロックに入った足は、刹那ののちに吹き飛ばされた。タイガーショットは壁を正面からぶち破り、ゴールネットへと飛び込んでいく。
完敗である。
言い訳のしようのない負けだ。三本勝負、三本とも日向にシュートを決められた。
ため息をつき、ゴールネットに当たって転がったボールを眺めていると、日向が近づいてきた。足が痺れて立てないダビィに、彼は手を差し伸べてきて。
「どうです、ダビィさん。これでもう、おれを子猫とは言わせませんよ」
「……けっ。最初から、子猫だなんて思っちゃいねえよ」
そう呟くと、日向は笑った。
「だとしても、これで改めてわかったでしょう?」
くそ生意気なこの後輩は、そんな台詞を自信たっぷりに吐いた。困ったやつだ。
「ああ、わかった、わかった! 今日のところは降参だ、もう子猫だなんて言わねえよ」
言いつつ手を借りて立ち上がると、その後ろからデレピが顔を出した。
「わかってくれりゃあいいんだ。なにせ今日の練習で、バッカス相手に一番筋が良かったのはヒューガだからな、あれを馬鹿にされちゃあおしまいだ」
「おまえはそれでいいのかよデレピ!」
「ははは、おれも次は頑張るさ、やられっぱなしじゃあ終われないからな」
「そうしてくれよ、ほんっと」
「それにしても──」
デレピが伸びをしながら、軽く呟く。
「──三本目は、面白かったな。二人とも、試合中みたいに集中してた」
言われて日向とダビィは顔を見合わせた。そして、にやりと笑いあう。
「まあ、そりゃあな」
「真剣勝負でしたから」
ヒューガとの真剣勝負は、楽しい。オランダ戦でのプライドを賭けたぶつかり合いがあって、認め合った仲だからこそ、練習でも本気で牙を立て合うような勝負ができる。
そうして会話を交わしていると、ジェンティーレが近寄ってきた。
「ほら、気が済んだならそろそろ上がりましょう、先輩方。グローブもバッカスに返さなきゃいけないんですから」
「ああ、そういやそうだった」
ダビィは気づいて、グローブを外した。ちょうどよくバッカスがこちらへ歩いてきているのが目に入る。三本目の勝負、日向の本領発揮のシュートを、果たして彼は見ていたかどうか、それはわからないが。
……こうして、何故か始まったPK対決は日向の勝利で幕を閉じた。
なお、この後ダビィがうっかりまた子猫呼びをしてしまい、日向とデレピにより約束を破ったとしてまたPK対決に連れ出されそうになったのは、また別の話──。
(了)