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    さかえ

    @sakae2sakae

    姜禅 雑伊 土井利

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    さかえ

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    いずれ土井利になる話1の続き。若土と子利が交流を深めるの段。この時点ではまだ土利ではありません。
    土Tの過去に触れる箇所があります。苦手な方はご注意ください。

    #土井利
    toshiDoi

    いずれ土井利になる話2 いっこうに心を開く様子を見せぬ少年は、それでもたびたび土井のもとを訪れては(非常に不本意であるという表情をしながら、だが)何くれとなく世話を焼いた。そうして夜になると人が寝静まった頃を見計らって、そっと土井の懐にすべりこむのだった。そのたびに土井は利吉にその理由を尋ねたい気持ちに駆られたが、訊いたところで素直に答えてくれる相手では無し。気になりつつも問うことはできないまま、蓮の浮葉が水の上でついたり離れたりするような距離感で、二人の日々はゆっくりと過ぎていった。
     転機はほんの小さなものだった。
     ある時、利吉少年がいつものごとく病床を訪れて一通りのことを片付けた後、土井が横たわるふとんの傍で兵法書を読み出したことがあった。土井には聞こえないようにしているつもりなのだろうが、時折漏れる呟きの中に、耳に馴染んだ語句がいくつもあった。懐かしい、と笑みながら、土井はふとんに横たわったままひそかにそれに聴き入る。土井も幼いころは素読といって、訳も分からず読めと言われるままにとにかく口ずさんでいたものだった。それがいつか家のためになるのだと言われて――訳が分かるようになったのは、全てが手遅れになった後だったけれど。
    「百戦百勝は……善の、善なる者に……ええと、あらざる、なり……」
    「――戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」
     だから、利吉の言葉を継いでしまったのは、本当になにげない心からだったのだ。途端、利吉がパッと顔を上げて、信じられないという顔で土井を見る。
    「――わかるんですか」
    「まあ、ひととおり覚えたからね」
    「…………」
     利吉はしばらくあんぐりと口を開けていたが、まだ疑いを捨ててないとでも言わんばかりに目をキッと釣り上げたかと思うと、こちらを試すように、先ほどとは違う一節を取り上げた。土井はそれに難なく答える。見栄や冗談などではなく、本当にひととおり頭の中に入っているのだ。
     同じようなやりとりを幾度か繰り返した挙げ句、ようやく利吉は納得したらしい。こくりと小さく頷いた後、ぱらぱらと頁を戻すと、土井にすっと差し出して見せた。
    「……この……」
    「うん」
    「この字は、なんと読むのですか……意味も……」
    「ああ。これはね――」
     本を覗き込む土井に、小さなぬくもりがそっと寄り添う。「父上の命だから」ではなく、初めて子ども自身の意志で二人の間の距離が縮まった瞬間だった。警戒心の強い猫がとうとう懐いたような、そんな喜びに沸き立つ心を押さえるのに苦労しながら、土井は文字を声でなぞり始める。
     利吉は静かに土井の声に聴き入っている。穏やかな時間だった。
     
     以来、利吉は今までのつんとした態度が嘘だったように土井に引っ付いた。日々の世話もこれまで以上に甲斐甲斐しく焼くようになり、食事の介助はもちろんのこと、朝はひどく複雑に絡まった土井の髪を丁寧に梳るところから始まり、夕べには結い上げた髪をまた優しく解くのが利吉の役目となった。久しぶりに床を上げて行水するとなれば自分から背中を流すことを申し出て、母の手伝いをした後に空いた時間ができれば本を持って土井に教えを請いに来る。そうなると今度拗ね出すのは父の伝蔵の番で、おかげで土井は伝蔵がいない時には利吉の相手をし、利吉が母の手伝いで忙しい時には伝蔵の機嫌を取るという、なんともせわしない役回りを果たす羽目になるのだった。
    「利吉とこないだ話をしていて驚いたよ。あんたにずいぶん色々と教えてもらってるようだ」
    「飲み込みがいいのは親譲りでしょうね。早く父上のようになりたいと言って、なんでも積極的に学ぼうとするところは本人の素質でしょうが」
    「いいんですよ、別におべっかなんざ使ってもらわなくても。あたしゃなあんも気にしてませんから」
     ぴしゃりと撥ねのけられてしまえば後は苦笑いが出るばかりである。全くの嘘などではなく、利吉の言葉などはそのままなのだが、それを弁明するには今の空気は冷たすぎるようだ。くわばらくわばらと内心唱えながら冷気が去るのを待っていると、
    「ずっと気にしてたのは利吉のほうですよ」
     庭のほうへ視線をやりながら、伝蔵はふとそう呟いた。
    「――え?」
    「夜。あんたのところに邪魔してるでしょう。本人は気づかれてないつもりのようだが」
    「……はい」
    「厠の帰りにでも知ったんでしょうな。あんたがうなされていると言って、ずっとどうしたらいいか考えていた」
    「利吉くんが?」
     過去を夢に見てうなされること自体は珍しいことではなかったから山田家の面々に気づかれてしまっていても不思議はなかったが、利吉が土井を心配していたなどとは夢にも思っていなかった。そんな素振り、まるで見せたことがなかったではないか。
    「あんたを守るために、あいつなりに考えた結果なんです。まあ、あんたにとっちゃ邪魔かもしれんが」
    「そんなことはありません!」
     強く否定すると、伝蔵は「わかっている」とでも言うように肩を竦めて立ち上がる。
    「あんたはからっぽなんかじゃない。あんたを求める手はちゃんとここにあるんだ。それを忘れなさんな」
     伝蔵が去った後も土井はぼんやりとその言葉を反芻する。彼の言う通り、手の中からどんどん大切なものを奪われて、自分がからっぽになってゆく夢をいつも見ていた。『私にはもう何もない』と夢の中の土井は嘆いた。そうしてそれは現実の写し絵だったのだ。
     今でこそ雇われて忍者をやっている土井だが、元は摂津国は福原に土地を持つ豪族の生まれであった。十になる前に夜討ちに遇い、そのために父母を失い、家を追われた。忘れもしない、あの恐ろしく、悲しく、長い夜、土井は独りで暗い獣道を走り続けた。「お前だけは生き延びろ。だが何も恨むな、仇を討つな」という父の言葉だけが道連れであった。踏み出す素足を草が切り、石が傷つける――ひどい道程だった。恨むなと言われても恨み言は自然と口を突いて出た。仇を討つなと言われても憎しみは後から後から胸に溢れ出た。たった一晩で何もかもを失って、これからどう生きていけばいいかも分からず、この世の全てをのろいたくなる、そんな夜であった。本当にひどい夜であった。
     逃れた寺で両親の菩提を弔う日々は、土井の胸に煮えたぎる苦しみを多少は冷ましてくれた。しかし、溶岩が冷えた後にどす黒く固まるのと同じで、苦しみ自体が消えてなくなるようなものではなかった。土井はただ生きてゆくために学問を修め、鍛錬に励み続けた。生きてゆくこと自体に理由はなかった。父が生き延びろと背を押し、母が身を挺してかばってくれた命をむざむざ捨てる気にはならなかった、ただそれだけのことである。
     住職の知り合いに見いだされ、忍者として生きるようになってからも、冷えきった心は変わらなかった。むしろいっそう冷たく暗く濁ってゆくような日々の中、あの日の悪夢は陰のように土井の後ろをついてきた。調子のよい時はいいが、身体の具合がおかしかったり、気が塞ぐようなことがあるとすぐに悪夢は顔を覗かせた。たとえば血を流すような忍務の後などは、必ずと言っていいほど土井の心は揺らぐ。仕方がないのだと言いながら人を傷つけ、目的を達して。あの日邸を蹂躙していった夜討たちと今の自分とは、いったいどれほどの違いがあるだろう。そんな思いを悪夢はひょいと捉えて、最悪の形で土井に示してみせる。そうして土井は泣きながら飛び起きて、自分の手が血に塗れていないかを確認するのだ。
     そんな眠れぬ夜を幾つも数える内に、土井は次第に諦観を抱くようになっていった。自分はきっと、この苦しみと一生付き合いながら生きてゆくのだろう。そんな冷たい諦めを。
     それなのに、あのこどもは。
    「私を悪夢から守るため――」
     そういえば、山田邸で寝起きするようになってから、いつのまにか悪夢をとんと見ないようになっていた。土井はその理由を体調がよいためだろうと簡単に片付けていたが、思えばそれは、真夜中に褥へとすべりこむ小さなぬくもりを得てからではなかったか。
    「……利吉くん」
     名を呼ぶ声が震えていた。兵法を教わるため、初めて自分の意志で土井に寄り添ってくれたあの姿を思い出す。ここは、ここはと指し示すその指のなんと小さかったことか。
     けれども彼はその小さな手で、一生懸命に土井を守ろうとしてくれていたのだ。
    「ありがとう……」
     あたたかなものが胸を満たしてゆくのに従って、熱いしずくが強く握りしめたこぶしの上に落ちた。しずくは幾つも幾つも零れて落ちて、土井の全てを優しく包むのだった。
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