いずれ土井利になる話(「春やむかしの」)の続き 初めて会った大川平次渦正は、誠、つかみどころのない人物であった。
「さて、ワシがこれからお頼み致しますのは、決してその名に宛てた仕事ではない……そこは分かっておられますな?」
大川は目尻を下げて利吉を歓待した後で、さらりとそんなことを言った。やられた、と利吉は即座に思った。先手を打たれるとはまさしくこのことであった。これがいくさばでの邂逅であったなら、今頃自分は心臓を一突きにされていたことだろう。それほど、大川の目は鋭かった。鋭く、正しく、しかも何気なく、大川は利吉が最も気にしていたところを――いわば一番の弱みを見事に射当てて見せた。そのことに背筋がざっと粟立つのを感じながら、利吉は一方で「なるほど」と納得してもいた。家にいた頃、学園長の話になるたびに父が「あの方は食わせ者だ。虚だと思えば実にして、実だと思えば虚にしてみせる」と評していた理由がわかったからだ。
――これは独り立ちしたばかりの若造が、心に迷いを抱えたまま対峙できる相手ではない。
それが分かっただけ収穫だった、と内心で己をなだめながら、利吉はくっと口角に力をこめ、笑みを作ってみせた。
「ええ。私は私の力で、お望み通りの結果を手に入れてご覧にいれてましょう」
それが利吉なりの、せめてもの矜持であった。顔を上げ、真っ直ぐ視線を合わせたままで言い切った若者に、老狸は満足そうに笑ってみせたのだった。
「では、こちらも準備がありますゆえ、しばし学園内でお待ちくだされ。……土井先生! 利吉殿のご案内を」
「はっ」
一通りの説明を終えた後、大川は廊下に向けて声を張った。すぐに返事があって、戸が音もなく開かれる。
「…………っ」
声を上げそうになるのをすんでのところで抑える。だめだ、まだ依頼主の前なのだから、情けない姿は見せられない――利吉が驚いたのは、人がいつのまにかそこにいたことに対してではない。はなから隠されてもいなかった気配である、プロの忍者なら気がつかないほうがおかしい。そうではなくて、その正体が思いもかけないものであったことに利吉は目を剥いたのだ。
「失礼致します」
はきはきとした挨拶の後、男が折り目正しく頭を下げた。すっと挙げられた顔は、やはり間違いではない。記憶にあるよりもいっそう精悍になってはいるものの、それでも土井半助のものだった。
「――どうぞ、こちらへ」
けれども半助は利吉のまなざしすら受け止めることもなく、ひどく他人行儀な言い方をしたかと思うと、さっさと先に立って行ってしまう。おかげで利吉は大慌てで大川に挨拶をする羽目になった。
「……半助さん」
半助はずんずんと先を行く。それなのに所作は品良く、音もほとんど立たないのがさすがであった――などと感心している余裕は今の利吉にはない。なにせ、小走りで追いかけながら呼びかけているのに、一顧だにされないのだ。もしや自分は何か彼の気に障ることをしてしまったのか。利吉はめまぐるしく思考を巡らせるが、なにぶん久方ぶりに再会したばかりなのだから、二人の間にわだかまりになりそうなものがあろう筈もない。
かと思えば、半助は後ろに目でもついているのか、分かれ道などではきちんと利吉のことを待っていてくれる。そうして利吉がそのことに礼を言うと、「……別に、たいしたことじゃないよ」と素っ気ないながらも返してくれるのだから、利吉とまったく話したくないわけでもないらしい。
「……半助さん」
戸惑いが如実に表れた利吉の声も、前をゆく半助の背にはきっと刺さってはいないのだろう。歩みが止まらないのがその証拠だ。
「あの、私は、」
「本当なら山田先生にご案内いただくところなんだが、生憎出張中でね。私が相手ですまない」
「そんなことは言っていません。ねえ、少しだけでいいから待ってください……半助さん」
明らかに話を逸らされて、利吉ももはや切ないというよりはじれったくなってくる。なんなのだ、半助のこの態度は。一見冷たいようで、けれども利吉を完全に振り払うわけでもない。そんな距離感は初めてで、どう対処したらいいのかわからない。
――利吉だって、別にたいした話をしたかったわけじゃない。彼の近況を尋ねて、上等な矢立をくれたことへの礼を言って、無事に元服を迎えたことを報告して、悩んだ末に利吉がフリーの道を選んだことを彼がどう思うのかを尋ねたりなんかして。後は、それから……いいやそれよりも、そのどれよりも。
きっと、利吉はただ、おのれがどんなに会いたいと思っていたかを彼に伝えたかっただけなのだ。会いに来てくれなかった三年間が利吉にとってどれほど寂しいものだったかを打ち明けて、それが彼も同じだったのかどうかを確かめたかった。そうして今でも半助が利吉を大切な存在だと認めてくれているのだと思い知りたかったのだ。
半助は、利吉にとってはほとんど家族のような存在である。父と思うように触れ合えない寂しさを埋めてくれる、母の役に立てないもどかしさを優しく溶かしてくれる、そんな兄のような男。
それだけでなくまた半助は、期間こそ短けれども利吉に兵法を説き、実戦経験を積む手助けをしてくれた師でもある。半助は優しくも熱心に、そして粘り強く利吉を導いてくれた。教え方に妥協は一切無く、時に利吉が泣き顔をさらしても訓練は続けられたし、素読は一字の間違いも許されなかった。けれどもその分、教えられたことを上手く活用出来たときにかけられた声が優しかったことを、抱きしめてくれた腕のぬくもりが嬉しかったことを、利吉は特別印象強く覚えている。
けれども、半助はそうではなかったのだろうか。所詮あの時の優しさは宿と食事を与えてくれた家に対する恩義によるものでしかなくて、あの山を一歩でも離れたら忘れてしまえるような、そんなどうでもよいものだったのだろうか。
だとしたら、仕事とはいえこうやって会いに来た自分が莫迦のようだ。想われてもいないのに想って、会いたがられてもいないのに会いに来て。思わず利吉は拳を握って立ち止まる。ひさしの向こうに広がる空は青く、そこに流れる雲は白い。
――あの歌と同じだ。
利吉は自嘲する。声をかけたいのに、かけられたいのに、思いは一つも言葉にならない。ただ、道化みたいに馬鹿げたことをするしかできないなんて。
「……ここが山田先生と私の部屋だよ」
促されるままに部屋に入る。お茶を用意しようと言われたが、ゆっくりと首を振って断ってしまった。ずっしりと心が重く、できるなら少し静かに休みたい気分だったのだ。
「利吉くん……」
それでも名を呼ばれれば、引き寄せられるように顔を上げてしまう。その未練がましさにいっそ笑い出したくなった。
「なんでしょう」
見れば、土井は不思議な表情をしていた。眉を寄せ、ぎゅっと口を一文字に引き絞って。けれどもそこにあるのは想像していたような冷たい視線ではなく、むしろ熱を感じさせるまなざしだった。戸惑うように逸らされ、持て余すように閉じられ、そうしてまた焦がれるように利吉を見つめる目の――火のようなその烈しさ。
「あ……、」
利吉は思わず気圧されて黙り込む。先程まであんなにもこちらを見て欲しいと願っていたはずなのに、今はもうその目から逃れたくて仕方がない。だって、逃れなければ。
「私は、」
逃れなければ、きっと、このまま。
「――土井先生!」
不意に、高い声が半助の肩越しに響いた。素早く振り返る半助越しに、利吉にも声の持ち主が見える。小さな身体を海松色の一揃えに包んで、ちょこんと立つ姿。これが忍たまか、と利吉は一瞬状況も忘れてしみじみと感慨に浸った。父からよく聞きはするのに、今まで一度も見たことも会ったことがなかった存在、近いようで遠い姿がそこにはあった。
「……お客様がいらっしゃったのですね。失礼しました」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げられ、利吉も慌てて会釈をする。上げた頬にかかる濡れ羽の髪を払う指の動きすら優美な、なんとも美しい子どもだ。
「いや、構わないさ。どうした?」
「小平太が塹壕掘りに夢中になって……」
「……またか」
途端に半助はぐっと顔をしかめ、頭を押さえた。その、見たこともない表情や仕草を、利吉はぽかんとして見つめる。つい先ほど懐かしさを覚えたことが嘘だったかのように、半助はまるきり利吉の知らぬ男の顔をしていた。
「わかった、すぐ行く」
「半助さん」
「君はここで待っているといい。そう待たされはしないだろうから」
言うなり半助は子どもを先に立たせ、またさっさと歩き出す。先程までのあの張り詰めた雰囲気の、そのなごりすら捨て去るように。
「……ッ!」
その時、ふと自分ひとりがここに置き去りにされてしまうような感覚が利吉の背をがばりと襲った。それからなんとか逃れようと、利吉は咄嗟に喉を震わせる。
『まつ』
――一瞬、半助が身を震わせたように見えた。けれども彼は振り返ることなく、ずんずんと先へ進んでいく。むしろそれに伴う少年のほうが利吉を気遣って、何度も何度も振り返っては会釈をくれたほどの勢いで。
見る間に遠ざかってゆく背中を見送りきって、利吉はようやく詰めていた息を吐き出して戸口の柱に寄りかかった。しかしすぐに足から力が抜けて、ずるずるとその場に座り込んでしまう。先程までとは違った疲労が利吉の全身を包んでいた。
半助に見つめられたあの時、利吉は「このまま頭から喰われてしまうかもしれない」と感じていた。父辺りに話をすれば何を妙なことを、と笑われるかもしれないが……まるで、けだものにでも見竦められたかのような気分だったのだ。
あの時、半助はいったい何を言うつもりだったのだろう。あんな熱いまなざしで、何を利吉にさらけ出すつもりだったのだ。忍術学園に来る道すがら、利吉は始終再会した時の半助の顔を想像していたけれど――あんな目、あんな声は想像のうちにはなかったではないか。
溜息をつくと、半助の熱がうつったように熱かった。柱に頬を寄せるとひんやりとして心地が良い。
「……『土井先生』」
呟いてみる。言い慣れぬ言葉はざらりと嫌な感覚を利吉の舌に残した。利吉は苦手なものでも食べた子どものように顔をしかめて、手を口元にやる。
『――まつ』
そのてのひらを、今度は鳥のさえずりのような吐息が熱くくすぐった。二人の信頼の証であるこの矢羽音にさえ振り返ってくれない半助がにくらしい。にくらしいのに――嫌いにはなれない。
兄の顔、師の顔、利吉はそれしか知らないのに、半助はまだまだ幾つもの顔を持っている。それはもしかしたら新しい居場所であるこの学園に来たからこそ得られたものなのかもしれない。
「――『土井先生』」
そう呼べば、あの人は自分にも振り向いてくれるのだろうか。
そんなことを考えれば考えるほどに、もうあの花畑には利吉ひとりしかいないのだということを思い知らされるような気がして、利吉はふるりと身を震わせると、その場から逃げるように目を閉じた。
確かにそこにある気配に、それでも利吉が起きようとはしなかったのは、心身共に疲労しきっていたからではない。起きる必要がないことが、ほとんど寝ているような意識のうちにも判断できたからだ。利吉は既にその気配の持ち主を知っている。厳しい鍛錬に、あるいは夜遅くまで続いた講義に疲れ果てた利吉がうっかりと寝入ってしまった時、いつも傍にいてくれた人だった。
優しいその人はいつも、少し待っても利吉に目覚める気が無いと悟ると、『仕方がないな』とでも言いたげにそうっと笑って、利吉のことを抱きかかえて布団まで運んでくれるのだ。
今もまた、利吉の背中と膝裏とに腕がさしこまれて、ゆっくりと持ち上げられる。ゆったりとした浮遊感と、優しいぬくもり、そうして嗅ぎ慣れたにおい。
『いま』
抱き寄せられるようにして近づいた耳元に、溜息のような囁きが落とされた。ずっと待ち望んでいたそれに、利吉の凝った心がほどかれていく。
「おにいちゃん……」
呟いた途端、利吉をかかえる腕に力が入った。どうしたのだろうかと思う間もなく浮遊感が消えて、そのまま床に尻が、足が付く。けれども背中を支える腕は離されないまま、むしろいっそう強く抱きしめられるのだった。
「君があんな文を寄越すから……」
要らぬ期待をしてしまった、と続ける声は苦い。意識がゆるりと覚醒へ向かいつつある利吉は、起きてその言葉の意味を問い質したいと思うが、目元を熱い手で押さえられてはそれもかなわない。
「まだいいよ。おやすみ」
あたたかな声とぬくもりに、また意識が底へと沈んでゆく。