その日、僕はお気に入りの木の下でいつものように本を読んでいた。天気の良い日はこの木の下で本を読むのが僕の楽しみだった。
時折通り過ぎる暖かな風を感じながら本を読み進めていると、前方に人の気配を感じたので顔を上げた。
そこには大柄の知らないおじさんが立っていた。僕を見て何やら嬉しそうに微笑んでいる。しかし、その目には全く光が宿っていなかった。明らかに普通ではないその人に、僕は何故か恐怖心よりも憐憫の情を抱いた。
「……あの、何か?」
「見つけた」
おじさんはそう言ってこちらへと歩み寄る。そして僕の腕を掴むとそのまま引きずるように歩き出した。僕を何処かへ連れて行くつもりなのだろう。おじさんの腕を振り払おうと抵抗してみたけれど彼の力はとてつもなく強く、僕が何をしようと歩調も、腕を掴む力も、そして表情さえも全く変わることがなかった。
そう、おじさんはずっと笑っていた。
長い長い時間歩き続けて日が傾きかけてきた頃、人里離れた小さな家に着いた。おそらくここがおじさんの住家なのだろう。家の中へ入ると、おじさんは元々この家に僕と住んでいたかのように接してきた。
「今日はたくさん歩いて疲れたな、ホメロス」
「えっと、僕の名前は……」
「さあ、この服に着替えるんだ」
渡された水色の服は、何となく見覚えがあるような感じがした。服を手に取っておじさんを見やると、おじさんはさっきと変わらず笑顔だった。しかしその笑顔には拒絶や否定を許さない威圧感があった。おじさんの機嫌を損ねるとどうなるかわからない……。そう思った僕は、ここで『ホメロス』として暮らし、逃げる機会を窺うことにした。
知らないおじさんと暮らし始めた僕は、毎日色々な事を強いられた。話し方、姿勢、所作、態度、勉学、剣技、朗読……。おじさんの言う通りにできると、おじさんはとてもとても喜んだ。
そしてそれは行儀の良い子にしようとしているというよりは、誰かに近づけようとしているように感じた。きっとおじさんは『ホメロス』という人を作りたいのだろう。
僕が完璧な『ホメロス』になれた時、おじさんはどんな反応をするだろうか。もしかしたらご褒美に解放してくれるかもしれない。僕はそう思って、おじさんの要求を全てこなせるよう努力した。その結果、どうやら僕は『ホメロス』を上手く演じられているようで、おじさんとの日々は思っていたよりもずっと穏やかに過ぎていった。
今夜もいつものようにおじさんに渡された本をベッドで朗読していたのだけれど、いつになく何度も詰まってしまった。大昔の英雄の物語は僕にはまだ難しい内容で、難しい言葉も多かったからだ。
すると、おじさんは段々と険しい顔になっていった。そして額に手を当て、残念がるように溜息をつく。
まずい、やってしまった……。
ここまで完璧にこなしてきたのに。勉学に励んで異国の言葉も覚えたのに。どうしてもっと難しい言葉を修得しておかなかったのか。
「ご、ごめんなさ――」
僕が言い終えるより早く、おじさんの手が僕の首を掴んだ。そのままベッドに倒され仰向けで首を絞められる。
「ホメロスはそんな言い方はしない!」
おじさんは見たこともないような形相で僕の首を絞めている。朗読で何度も詰まってしまった上に、焦って謝罪の言葉まで間違えてしまった。もうお終いだ。
「何故だ!こんなにも似ているのに、何故ホメロスにならない!?」
首を絞める手にどんどん力が込められていく。
「違う、違う!俺が欲しいのはこんな偽物ではない……!」
次の瞬間、首の骨が折れる音がした。それでもなお、おじさんは僕の首を絞め続けている。
はたと、顔に何か落ちてきた。それは僕の頬を伝って横へと流れていく。何度も落ちてきては流れるのを感じて、ようやくおじさんが泣いているのだと理解した。月の光を浴びて輝く僕の髪がおじさんの涙に濡れた目に映って、初めてその目に光が宿ったように見えた。
かわいそうに
さっきまでの恐ろしい形相と打って変わって、悲しみに歪んだ顔で泣いているおじさんを見たらつい、そんな言葉が出た。声にはならなかったけれど。
やがて目の前が真っ暗になって僕の命が終わりを迎えた。それと同時に僕の――、いや、オレの、かつての記憶が甦った。
あのバルコニーでの一件以来、オレの魂はグレイグと共にあった。
奴ならば一人でもやっていけると思っていたのだが、予想は外れ、邪神討伐から戻ったグレイグは見る間に心を病んでいった。片翼を失い地に落ちる鳥のように、闇へと沈んでいくグレイグの心。それを誰よりも間近で見ていながらオレはどうする事もできなかった。
やがて将軍を辞し国を出たグレイグは僻地を転々とし、子供を攫うようになってしまった。金の髪に金の瞳をもつ、オレに似た少年を攫ってはオレに近づけようとあらゆる事を強いて、それを完璧にこなせない少年たちは処分されていった。
病んだグレイグに寄り添うことも、繰り返される罪業を止めることもできず嘆いていると、同様に悲嘆に暮れていたのであろう大樹が堕ちた英雄を救うべくオレを転生させた。ああなってしまってはグレイグが求めてやまないホメロス本人以外に止められる者はいないと考えたのだろう。だが、上手くいかなかった。
殺されてわかった。ただ魂が同じだけの、何も持たないホメロスなどグレイグは求めてはいない。あいつが真に求めているのは、共に学び、共に成長し、共に将軍として歩み、裏切りと死の末にようやくわかり合えたという過程を持つホメロス。つまり、このオレだ。
少年たちはホメロスとして振る舞えないから殺されたのではなく、オレでないから殺されたのだ。
グレイグの狂妄による犠牲者はこの先も増え続けていくのだろう。オレには、地獄であいつを待つことしかできない。