本当に聡い少年だ。
いや、齢は30と言っていたから青年……の方が当てはまるのだろうが。
鍋からマグカップへとポタージュを移す姿を眺める。
身長の低い彼のために脚立を買ったが、鍋の中が見えていない。ふらふらと揺れている彼専用のキッチンでも作ろうかと家の設計に考えを巡らせながら口を開く。
「お前の助言で半導体レーザーの開発が軌道に乗った。感謝している」
「うん。五年前の特許申請から論文が出ていなくてずっと気になっていたんだ。誘導モーターの開発はどうだい?」
「軽量化に用いる触媒の目星がついた。くさびの素材を変更するとなるとどうしてもモーターの回転効率が低下していたが、お前が提案した触媒の比率ならば耐熱性や磁束の制御を容易に行える。完成したら……それこそブレイクスルーだろう」
「そっか。嬉しいよ」
彼の声が弾む。
アイザックは非常に優秀な科学者で、技術者でもあった。部門それぞれへの造詣も類を見ず、当然のように分野を横断した知識を蓄えている。
何よりも蓄えられた知識は全て彼の独学であるという点だ。
「お前の名も広く知れ渡る事になるだろう」
「それは……僕の名前も論文に載るということかい?」
「そうだな」
「ありがとうだ。でも、遠慮しておくよ。僕は助言しただけだからね。実際に手を動かした人に名誉を渡してあげてくれ」
「ふむ……」
「ほら、僕は兎人だからね」
彼が垂れた耳を動かす。
「世論が君に嫌疑的になるのは得策じゃない。今は可愛い兎のフリをして市民の同情を煽るべきだ」
「それは……」
そうだ。
代わりに何か褒美を、と続けようとしたが、少年がなみなみに満たしたマグカップを慎重に運んでいる最中で口を紡ぐ。
静寂の中、零すことなくテーブルまで持ってきた彼は満足そうに頷いていた。
兎としての本能か、アイザックは工作と耕作を好んだ。
ならばと乗りもしない高級車を展示していた地下駐車場と、維持費だけが嵩んでいた庭を与えると彼は四六時中モノづくりに励むようになった。
つなぎを着て、耳や鼻先にまで泥をつけ、せっせと種を植える姿は畑に現れたピーターラ ビットだ。もっとも、あちらは人参を齧ってしまうのだが。
日が暮れると次は工房に。
大人が寝転んでも余裕がある広さの作業台を与えてやったから、上に乗って図面を引いている彼を置いてシャワーを浴び、寝室に入ってベッドに横になる。
眠気が来ないのはいつもの事。
昔は身体を鍛え疲弊する事で気絶するように眠っていたが、最近では体力が付きすぎたのかめっきり効果を現さない。
それでも律儀に閉じる瞼に重みを感じた。
瞼を開く。衣一つ纏わない少年の顔がすぐ近くにあった。
「む……」
「起こしちゃった……かい?」
「いや」
「そっか……また眠れて眠れていないんだね……」
細い腕がデアンの頭を抱きしめる。石鹸の匂い。そこに混じる、あの女性のバニラとはまた違った彼特有の匂い。
デアンが深く息を吸うタイミングに合わせて彼がシーツの中に身体を滑りこませる。首元に埋もれる柔らかい温もりが身体を伝って手足の末端までを温めた。
暖かい。心も、身体も。
安心する。
「……」
「僕の抱き心地はどうだい? これでも色々なご意見番の愛玩兎をしていてね。ベッドのお勤めもそうだし、寝かしつけだってダクトにこなせるよ」
「ああ……そうか……」
「……うん。だから今はゆっくり休もうね、デアン」
項に彼の手が回る。鎖骨をなぞり、耳朶を擽り、更にその上へ。そうっと黒髪を撫でる指使いが気持ちいい。
安心する。
もっと欲しい。
夢見心地で小さな身体を抱き寄せる。
体格差によって抱き枕のようになってしまった彼は最初驚いた声をあげたけれど、すぐに きゃらきゃらと楽しそうな声を上げていた。
いいこ、いいこ。
よくおやすみ、可愛い子。
少年の寝かしつけは毎晩と続いた。百発百中で深い眠りに誘われ寝ぐせまでつけるデアンをアイザックが茶化すものだから一度眠気に抗って目を開けようとしたのだけれど、頭を抱きかかえられると柔らかい匂いに包まれ一分も経たずに眠り惚けてしまう。
その上アイザックは全ての目覚ましを事前に止めていたようで、昼前頃ようやく起きたデアンは頭を抱えてしまった。
辛くも昼の会合には間に合う時間は残っている。だが、こんな失態は初めてだ。
元凶のアイザックはころころと愛らしい声で笑い、手が震えて着替えもままならないデアンを手伝ってくれた。
いってらっしゃい。と首元に顔を擦りつけてもらってから車を出し、息を切らして会議室の扉を開けた時の部下の顔は忘れられない。
帰宅すると満面の笑みの彼が胸に飛び込んできてくれて、小さい身体を抱きしめると心地よい疲れを自覚することが出来た。
不思議な少年だ。安心、焦り、気恥ずかしさに安堵。彼が悪戯をする度に世界が色づいていく。
傍にいたい。一緒にいたい。自然と彼の傍にいる事が多くなり、休日はもっぱらアイザックの工房に二人で詰めていた。
心地よい空間にいつの間にか寝ていたようで肩を揺すられる。上体を起こした目の前には少年の心配げな表情があった。
「大丈夫かい、こんなところで寝てしまうなんて。疲れているんだろう? 寝室で寝た方がいいと思うよ」
「大丈夫だ、問題ない。ところで何を作っているんだ?」
「ふふん、それは出来てからのお楽しみだ」
緻密に書き込まれた図面を見てもデアンには見当も付かない。微かに理解できるのは筒状の物体と、それの土台。
アイザックが作業台の図面を片付ける。小さな身体で器用に自分の身の丈以上の紙を丸めた彼の服はだいぶほつれが目立っていた。
「アイザック」
「ん、どうしたんだい?」
「代えの服はあるのか」
「ええっと……うん。君から貰った服を作業服に下ろしたら充分だ」
「ではお前の私服はどうする?」
んーっと。
耳が揺れる。困ったように笑うから、
「暫し待て」
今日は天候が良い。ならば街に出てみるのもアリだろう。
幸い、彼を巡った騒動は既に鎮火している。彼を連れ出したとしても市民は彼に奇異の視線を向けはしない。
自分一人では外出など思いもしなかったが……アイザックは庭を耕すだけでも生き生きと輝いているのだ。外の世界に連れ出せば、彼はもっと喜ぶに違いない。
一度自室に戻って着替える。びしりとスーツを着込んだデアンに、アイザックはひくりと垂れ耳を動かした。
デアン、なにしてるんだい。戻ろう。
渋る彼を抱いて向かったのは大通りに面した兎人専用の服飾店だ。正装から寝巻、アウトドア用品などを多岐に取り扱っており、勿論セントラルアクシズの傘下でもある。
すぐに来賓室に通されどかりとソファに腰を下ろす。
きょとんと目を丸くしていたアイザックは数人のスタッフと、目の前に差し出されたメジャーにようやく自体を飲み込んで数センチ飛び上がった。拍子に……どこに隠し持っていたのだろう……ネジが複数本ばら撒かれる。
転がってきたネジを摘まみ上げるデアンにアイザックが声を張り上げた。
「で、デアン!? これは一体……!」
「服だが」
「服だね。……じゃなくてだ、デアン!」
「遠慮は要らん。好きな服を好きなだけ選ぶといい」
「豪快だなぁ!」
彼が伸びたメジャーから距離を取り、逃げた先はデアンの膝上だった。引き剥がそうにもシャツにしがみついて離れない。
「どうした、アイザック。採寸が出来ん」
「もしかしてだけど……今夜どこかでパーティでもあるのかい? そしてもしかしてだけど、僕を連れて行こうとしているのかい!?」
「いや……だがお前の服は傷みが激しい。作業服と外出着、幾つかを見繕うつもりだ」
「作業着?」
ぱたり、と動く耳を撫でてやりながら、
「今は設計図の作成に忙しいようだが……今後は防火処理がされたモノなどが、必要になってくるのでは? それに耳当てやヘルメットも必要になる。この際に揃えると良い」
「え、ええっ!」
今度は歓喜に飛び上がる。いいのかい、いいのかいと上目遣いの彼は愛らしかった。
「ああ。必要ならばお前が今欲している工具も手配しよう」
「ああ……そんな……悪いよ……」
「金なら幾らでもある。工具でも釣り竿でも、肥料でも好きにしろ。ただ、重機を買う際は納品の予定日を伝えてくれ」
「……」
もじりとする彼をスタッフに預ける。今度は大人しく寸法を測られていた。
胸を張って、腰の細さもメモして。身長も、体重も。
兎人の中でも、成人前に成長が止まった彼は愛くるしい。だからフリルやレースが付いた衣装もなんなく着こなせてしまう。スタッフたちも目の前の人形に完全に虜になってしまったらしく、白いワンピースまで持ち出した。
僕、雄だぞ。
アイザックはおたおたと逃げ腰だ。だが可愛いと絶賛されては逃げきれずにデアンに助けを求める視線を送る。
普段とは打って変わったしおらしい姿に悪戯心が湧いてわざと無視すると、たまらず彼が足でだんだんと床を踏み鳴らすから、靴のサイズを測る際は彼を抱き上げていた。
薄汚れたつなぎは回収され、白のスタンドカラーシャツに群青のベストと短パンを着せられた少年を抱き上げ退店する。
レディメイドだが、彼の碧眼と亜麻色の髪と兎耳が良く映えていた。
ひざ丈のズボンからはふんわりとした尻尾が突き出ており、時折ぴこりと跳ね上がる。
「すまないな。着せ替え人形にされて怒ったか?」
「う、ううん! 怒ってなんかないさ、むしろすごく嬉しいよ。兎人に特化したスパナとか、モンキーレンチだって買ってもらったんだ、感謝しかないよ! でも、その……みんな、下着とか、ランジェリーばっかりで……」
「成程、俺が夜会後に用いるラブグッズを買いに行ったと勘違いを」
「……君の好意を勝手に勘違いして……ごめんよ」
「失念していた。どうせならばそちらも合わせて買うか? ああ、あの白のワンピースも良く似合っていた、予備としてもう一着……」
「よしてくれよ! もう充分だ!」
慌てた彼が足をばたつかせる。
暴れるものだから下ろしてやるとズボンの裾を握りこまれた。
ありがとうだ。小さな、上ずった声。
夕日に染まった彼の表情は赤い。
そのまま帰るのは勿体なくて、二人の足は自然と近くのレストランへと向かっていた。