味覚大人になったら味覚は変わる。だから、今食べれなくてもいずれ食べれるようになるかもしれない。だから、そう凹むな。小さい方の息子。
そう言って母が笑ってきたのはいつの事だったか。
ふと母親の言葉を思い出し、成程そう言うことは本当にあるのかと、そう感じたのはロケ先でのこと。
出された寿司に乗っていたワサビ。未だ一度も美味いとは感じた事がなかったそれ。
ロケ先はワサビの名産地、その流れで出されたのだろうが、思わず躊躇を覚えた箸先。
わさびはNG。そんな条件は出しておらず、それが翔の苦手な物だと知らぬスタッフは、食べてとカンペを見せてくる。
食べられないとは言えないし、避けて食べることも出来ぬ空気。躊躇し続けるわけにもいかず、意を決して口に運んで、そうして思い出したのが先ほどの母の言葉。
「食えたんだよ、ワサビ!」
「それは凄いね」
「いやー、もうすぐにお茶飲むつもりで手出してたんだけさ、その手を引っ込めてすぐ次の寿司を食っちまうくらい、平気で食ってた。むしろ、美味かった」
「それでこれですか」
興奮気味に語る翔に相槌打ちつつ那月が見る先には、テーブルの上におかれた涙巻きという巻き寿司。
「ロケ先のお土産?」
「いや、そこのスーパーで売ってた。今の俺なら食えるはずだと思ってさ」
今まで食べられなかった物が食べられるようになったのが余程嬉しかったのか、翔は満面の笑みでパックを開ける
「お茶入れましょうか?」
「後でいいって、とりあえず一緒に食おうぜ。ワサビが食える俺を見せてやる」
胸を張る翔に那月は僅かに瞬いて、すぐにふふっと笑みをこぼす。
「んじゃ、いただきます」
手に取った一口サイズの中巻。翔が嬉々として口に放り込むと同時、那月はそっと台拭きを翔の方にやりつつ立ち上がる
「っ!!!」
「使っていいですよ」
告げて足早に向かった台所。背後でガタガタと騒々しい音がするのが聞こえて那月は苦笑を零し、台所に入ると手早く水を用意し始めた。
「あー、無理……那月ぃ、お茶……水でもいい」
「はいはい、そう言うと思いました。ちょっと我慢してて」
「うぁぁ……」
聞こえる呻き声。那月は水の入ったコップと水差しを手に戻ると、翔にそれを渡し、再び台所へと戻った
テレビでは決して見せることができない姿。水で口を濯ぐようにブクブクと頬を膨らませ、ゴクリと飲んだかと思えば、再び水を口にいれ一気に飲み干す。
一杯で終わらないだろう、那月の予想は当たっていて、翔は水差しから水を注ぐとそれも一息に飲み干した
「っはー……あー……っかしぃなぁ」
翔が首を傾げていれば、ふわりと甘い香りを漂わせた茶器を手に那月が戻ってきた。
「ロケ先はワサビの名産地だったんでしょ?向こうのは平気でも、こっちのは無理だったんでしょうね」
「そういうもんかぁ?」
「作る場所によって味が変わるのはある事ですよ。あちらのワサビは美味しかったんですね」
「まぁな……あー、くそ、食えるようになったと思ったのになぁ。大人になったら味覚は変わるって聞いてたのに、まだまだかぁ」
はぁとため息こぼした翔に、那月は変わらなくてもいいんじゃないですかと肩をすくめつつ、淹れたばかりの茶を差し出す
「翔ちゃんの味覚が変わったら、また僕は翔ちゃんの好みを覚え直さなきゃいけなくなっちゃう」
「ん?……ぁ、うまっ」
「翔ちゃんが好きな割り方です。僕ほど翔ちゃんの味覚を知ってる人はいないと思いますよ?それがまた覚え直しですか」
「そんな大層な……あー、でも、お前に手間かけさせんのは可哀想だな、よぉしワサビが食えないままの俺でいてやる」
「ありがとうございます」
クスクス笑う那月に、翔は小さく肩をすくめて、わさび食えない舌のままでいいやと零して、那月が入れてくれた自分好みの茶に舌鼓を打った