【司類】全部、太陽のせいだ焦げ付くような太陽の日差しを浴び、今にも自分の肌から湯気が出そうだと感じた神代類は、汗を流して走りながら、脳裏に浮かぶ使い古された古典的なイメージにくすりと笑みをこぼした。
(フフ、どうしてこうなったのかな)
いや、笑えてくるのは今に始まった話ではない。類はアスファルトの地面を蹴りながら、しばらく前から自分が置かれている奇妙な状況と類に背中を向ける見慣れた金髪の青年の後ろ姿に思いを馳せ、走る足を止めずに自分の手元を見る。決して痛みを感じるほど強い力は込められていないが、やすやすと振りほどけるほど弱くもない力で、類の手首は青年の、――天馬司の掌に掴まれ、全速力で走る司に類は引っ張られているというわけだ。
(今日は暑いな)
司の手に引かれ走る土手は空を覆うものなど何一つなく、上からも熱を吸い込んだ地面からも熱せられ、類は掴まれていない方の手で額の汗を拭って呼吸をする。司の着ている白いYシャツが日光を浴びて目に眩しく、しかしそれよりも強烈な光を放つ司の髪がきらきらと輝いては目をくらませるが、とはいえ司とともに走り続けている類は息を切らすということもない。類の心臓は、休日はしばしば登山で険しい道を歩いたり、ショーの演出の着想を得るためにアスレチック等のあるアトラクションや崖から飛び降りるバンジージャンプといった度胸試しに興じたりしているためか、比較的落ち着いたリズムのままで司の背中を追いかける。
今日はとりわけ暑かった。今朝は遅刻寸前だったため天気予報を見忘れたせいで正確な数字は定かではないが、おそらく今年最高の気温に違いない。類たちの頭上、雲一つない青空の色は深く青く澄み、類の額からひっきりなしに汗が噴き出しては類のシャツを濡らして、左肩にひっさげた学生鞄が滑り落ちそうになる。
そしてそれはきっと司も同じだった。むしろ類よりも司の方がよほど暑そうだ。数十分前、学校帰りに校門前にいた類にいつものように挨拶をして言葉を交わし、脈絡もなく類の顔を食い入るように見つめたかと思うと『行くぞ!』と類のひどく汗ばんでいる手をためらいなくなる取り、司はネクタイを振りほどいて走り出したのだが、今となってはシャワーでも浴びたかのように全身汗でずぶ濡れだ。司の足取りこそさすがの体力お化けと言うべきかまるで疲れた風もないが、類の手首を握る掌のあまりの発汗の仕方に類としては一抹の不安を覚える。
「司くん、大丈夫かい。もしかして、軽い脱水状態になっていないやしないかな。何のためにこうしているかわからないからあれだけど、僕の鞄にアクエリアスがあるから飲むといいよ。ほら、君は何だかんだ器用だから走りながらでも飲めるだろ」
類がそう背中に呼びかけると、黙って走り続けていた司は急に立ち止まり、くるりと振り返って「何っ!? お前、脱水状態なのか!? だ、大丈夫か!?」と慌てた様子で顔を青ざめさせる。
「ああ、僕は心配いらない。そうじゃなくて、君がすっかり濡れ鼠だからさ。ほら、自分の額を拭ってみなよ」
類が指で示してそう促せば、
「そんなことは……、本当だな!? まるでプールに入った直後のようじゃないか!!」
「自覚がなかったとはねぇ」
なおさら心配だ。類が微笑みを向けつつも謎の行動を取っている司に視線を送るが、張本人である司は「うおおお」と言って頭を振り、濡れそぼった髪の汗を弾き飛ばすと、ポケットからきれいなレースのハンカチを取り出して顔を拭った。
しかしその間も司の手が類の腕を放すことはない。その力は緩みこそすれ、依然として投げ出しはせず、類はぱちくりと瞬きをして、汗がにじむ腕に目をやる。類は司ほど汗をかきやすい体質ではないが、それでも司の手に触れられている箇所は熱を帯びて、まるで太陽のリストバンドでも巻いているかのようだった。
(本当にあつい)
「司くん、ペットボトルをあげるよ。僕はあまり喉が渇いていないからさ。だから」
手を放してもらえるかい。にっこりと笑った類がそう言いかけるのを遮って、司は「よし! お前の体力が大丈夫なら、もっと先に進もう!」と煌めく瞳で類を見つめた。
「司くん? ええと、だね。何から訊けばいいのかな。これは……そうだ。どういうことなんだい」
「どういうこと、というと?」
ますます謎が深まり面食らっている類に対し、ごく当たり前のことをしていると言わんばかりの司は、暑さで上気した頬で、類が何を言いたいか皆目見当もつかないというように、本当に不思議そうな顔をしてみせる。
「どういうことって」
それを言いたいのは僕の方なんだけどな。と、類が苦笑いを浮かべたとき、類の手を掴んでいない方の司の手がふいに類の額に伸びた。類がハッとして目を見開けば、司が類の前髪をかき上げて、その指の背で類の額からこめかみをなぞり、頬へと滑る。
(な、なにをしてるんだ。司くんは?)
司の無駄に丁寧な手つきに何が何だかわからず、類が動揺をあらわにして司を見据えると、ややあって司は「そういえば、肝心かなめの説明をしていなかったとは……くうっ、オレとしたことが!!」と今度は類に触れていない方の手でこめかみを押さえ始めた。
一体どうしてしまったのか。司がおかしいのはいつものことではあるが、今日はどう見ても、輪をかけて常軌を逸しているのは類の目には火を見るよりも明らかだ。これで司くんが『明日世界が終わるらしいから二人でここを離れるのだ』とか言い出したら担いで病院に連れていこう、と類が心に決めていることも知らずに、司は「あ、あのな。類」と口を開き、類は固唾を呑んで司の言葉を待つほかない。
すると、ややあって、司はふいに感情を抑え、真面目な表情をするや、
「オレは、……お前が心配なんだ」
「は?」
類は「は?」と思い、そしてそれをそのまま口に出してしまった。司は「な、何だ『は?』とは!!」と喚き、すかさず類は「君がそれを言うのかい?」と肩をすくめる。
「む!? どういう意味だ!?」
「そっくりそのまま返させてもらうよ。君の真意を知りたいのは僕の方さ。それだけ汗をだらだらかいておいて人のことを心配している場合じゃないだろう」
類が正論を語れば、司は大きく瞬きをした。そのまつ毛にも一粒の汗が浮かんで、また額から流れてくる汗の雫と合わさって堪え切れず落ちていく。
「オレの真意、というか。そんな大それた話じゃあない」
そうこうしている間にも、太陽はまだ飽きることもなく地面を、外気を、そして二人を真上から照らし出し、この時間にも二人の水分を勢いよく奪っていく。普段は六限まで授業があり、学校から出るころには少しは太陽が傾くが、土曜に限っては四限までで昼を待たずに終わるため、日差しには容赦や手心というものがまるでない。
「何でもいい。聞かせてよ」
司はいつになく真剣な表情でまっすぐに類を見つめている。その強くて深い琥珀色の、ぞっとするほど静かな眼差しに、類が思わず身震いしたのを押し隠し、続きを促せば、司は汗ばんだ指をくるりと返し、類の頬に指の腹で触れて「……座長として、オレは仲間を気遣う義務がある」と言うと、そこで言葉を切った。
(珍しいな。司くん、何かをためらっているようだ)
やけに迂遠な導入は、いつでも単刀直入に話をする司にしては稀だろう。司は眉を寄せ、うーともあーともつかぬ声を上げて、観念したように浅く息をつき、また口を開いた。
「……そうだとしても、お節介がダメなことくらいは、ちゃんと理解しているのだ。向き合うべきものは人それぞれだからな。そこに干渉してはいけないのも分かっているとも。ただ、……さっき校門に、お前が一人で立っていたとき、何かを……見ていたよな」
「ええっと……ああ、そういえば」
この晴天決行の地獄のマラソンのおかげで失念していたが、司に話しかけられるまで、確かに類の視界を流れていたものがある。そしてそれは類にとって、快いものとは言い難かった。
「うん、まあ。でも、大したことじゃない」
とはいえ、それは『少し不快』の域を出ないものだ。あのとき類の目の前をよぎったのは、他校の制服を着た、小学生時代の同級生の男だった。より正確には類の演出は無理だと言ったクラスメイトの一人だ。そして彼が小学生時代の面影がすぐに一致するほど印象深かったかと言えばそんな事情もない。家が近く、時折地元で顔を合わせることがあるから覚えているだけで、類は彼の家の表札に「川原」と書かれているから、彼の名字を知っているにすぎなかった。
「昔の知り合いが通りすがってね。1人だった頃のことを少し物思いにふけっただけだよ。ふふ、心配させてしまったのはそこかな。すまないね。彼に対しては……いや、違うね。『彼ら』のことは、本当に何とも思っちゃいないんだ」
類は笑ってそう答え、そしてそれは強がりではない、間違いない本心だった。
幼少期、類の周りを取り巻いた群衆の、下の名前さえ覚えていないような一人に、トラウマを植え付けられ立ち止まるほど類の精神は虚弱ではないし、彼らは確かに類の手を取らなかったが、それは類とて同じだったことを、類は重々承知している。類だって、彼らに背を向けて、自分の見たい夢を勝手気ままに描き続けた。それに少しも寂しさがなかったかと言えば嘘になるが、孤独な錬金術師でいるという選択をしたのは類自身に他ならない。それを他人のせいにすることは、ひいては自分自身の行動の責任を放擲する行為であって、類の信条に反する振る舞いだ。演出家としての誇りにかけて、類はそんな真似をするつもりはなかった。
しかし、そんな類に対して司が放ったのは予想外の言葉だった。
「うむ。その前を横切ったやつについては、心配していないぞ!」
「え」
また話が訳が分からないことになった。類が唖然とすると、司は「詳しく話すとな」と続ける。
「他校の人間たちが校門前を横切ったとき、お前はそれをじっと見つめていたが、顔色は静かなものだった。まあ、昨日の昼休み、全自動式床掃除マシン兼発雷装置兼FMラジオにオレが追い回されているのを眺めていたお前より楽しそうでなかったことは間違いないが、それでも普通に見えたぞ! だからいつも通り、オレはお前の肩を叩いて話しかけたんだからな」
「そうだったのかい、……」
類は、てっきり司が類の表情がうかがえない状態で、類が川原を眺めていたのを見て取り、ひと悶着遭った相手に遭遇したのだと思い込み、こうして遠くまで連れ出してきたのかと考えていたのだが、それは誤りだったらしい。
「なら、どうして」
「問題は、……振り返ったお前の表情だったのだ」
再び類が尋ねると、司は「説明が難しくてアレなのだが」と前置きしたうえで、さらに言葉を継ぐ。
「オレが声をかけた瞬間、お前は青ざめていたんだ。何だか、幽霊を見たような顔をして。……具合が悪いのかと思ったのだが、お前は普段通りに挨拶をするし、でもその笑顔はどう見ても引きつっていて、オレはお前に何か怖がられるような真似を!? いやお前にいつも怖がらせられているのはオレだが!? と混乱したぞ。
でもすぐに気が付いた。お前は、怖がっていたのではなくて、切羽詰まっているのだと」
「……僕が、そんなことを?」
思いがけない言葉の連続と、まるで自覚のない自分の姿に疑義を挟まざるを得ない類が首を傾げても、司は曇りない眼で「ああ」と返す。
「オレが話しかけるまではお前は慌てていなかった。ということは、慌てさせた原因はオレにあるんじゃないかと推測を立てた。
……でもオレには、肝心な理由がわからなかったのだ」
どうして類が、司のせいで焦っていたのか。その答えは類自身も初耳なくらいなのだから当然知る由もない。そんな類の考えを読むように、司は「お前は自分自身のことに少し無頓着なところがあるから、お前にももしかしたら理由は分からないのかもしれない」と呟く。
「でも、お前の……土気色の顔を見てよぎったのが、……覚えているか。去年ハロウィンの舞台を作っているとき、オレが奈落に落ちて気を失った次の日、お前と衝突しただろう」
「忘れるはずがないさ」
「そのときの、お前の顔つきと、どことなく似ているように見えたのだ」
「そ、んなことは」
司に肩を叩かれた時、自分が何を思いどんな表情をしていたのか、思い出そうとして類は鈍く頭が痛むのを感じた。そういえば、そう言われれば何か、おかしなことがあった気がする。それは多分物凄く些細な違和感だ。たとえるなら喉に引っかかった魚の骨のような、小さな違和感が類の目の奥で光る。しかしそれはただの光で何の星座を成しもせず、類の瞼で明滅するばかりで、何も教えてはくれない。
困惑が止まらない類の前で、司は困ったように微笑み、類の顔から手を放して、大きく息を吸った。
「……結局オレは今、ここまで来てもお前の気持ちがわからない。類とは短くない時間こうして共にいるのに、しかもきっとオレのせいなのに見当もつかないとは、お前の目は節穴かと言われても仕方がないな!! 甘んじてその汚名を受け入れるしかないだろう。……それでも、理由がわからなくても、責任は取りたい。とはいえ、お前は頑固だし優しいからな。弱音をやすやすと吐きだすような口の軽いタイプでもないだろう。だから、
……だから、オレは『お前の手を引いて走』ッゴッホゴホ!!」
司は『お前の手を引いて走る』とか何とか言いたかったようであるが、肝心の文末のところでその声は激しく裏返った。突然急カーブした話の展開も相まって、類は理解を超えた司の言動にめまいを覚えると共にひどく笑えてきて、覚束ない手つきでアクエリアスを笑いで震える手で浴びるように飲むと、司も「笑い事ではなーい!!」とカラカラになった喉でかすれた声で叫びつつ蓋のついた水筒を鞄から取り出し、お茶をとぽとぽと器用に注ぎ出す。司の、叫びのわりに繊細な動作はなおのこと類の腹筋を刺激し、「君は僕よりよっぽど変人だ。変人ワンツーのワンは君にこそふさわしい称号だね」ともはや笑いすぎて涙を浮かべながら司に言う。
「だぁから、笑い事ではないと言っているだろうがー!! お前が不安そうなのと、そんなお前を引っ張って走るのと、ちゃんと意味が繋がっている!!」
「じゃあ、どういう理屈なのかい。教えてくれよ、司くん。僕は全然わからないからさ」
類が尋ねると、司は「おうとも!」と元気に挨拶をし、水筒を鞄にしまった。そんな司の今一つ決まらない動作にさえ類は笑いがこみあげて、涙が目の際から流れていく。もはや汗か涙か、何が伝っているかもわからない水を払い、類は司の返答を待った。すると、水を得た司は強気な笑みを浮かべ、「ハーッハッハッハ! 完全復活だ!!!」と雄たけびをあげ、
「なぜなら!! お前の手を引いて走っている間、オレは背を向けている以上お前の顔を見ることができないのだから、お前は泣くも叫ぶも怒鳴り散らすも自由にやれる!! このうだるような暑さだ、通行人もいないのだし、思いの丈をいくら叫んでも大丈夫だ!! 面子を気にすることはないぞ! 好きに発散するといい!! そして、何より!! オレは、曇った顔をしているお前と、共にいられるのだ!! まさに一度で二度、いや三度以上おいしいだろう!? というわけで、また走り出そう!! さあ一緒に、さあ!!」
「あっはっはは……!」
こらえきれず類が大声で笑ってアスファルトのじりじり焼ける地面に膝をついて崩れ落ちれば、「何ィーーー!? どうして爆笑しているのだ類!! ついに頭がやられたか!? くっ、熱中症になったのかもしれない、すぐに救急車を」と司が119番通報しようとする。類はそれを腹がよじれる勢いで笑いながら「必要ないよ」と手で制し、訝しげに眉根を寄せている司に対して、「あのね、司くん」と涙をぬぐいもせずに呼びかけた。
「もうすでに、僕の悩みは解決されたんだ。だからもう走る必要はないよ。いやというほど、君のおかげでね」
「何っ!? そんなはずは」
「あるんだよ。あったんだな。僕も今気が付いたんだけどね。
君が僕といてくれるなら、それで」
「は……?」
司はぽかんと口を開け、目を剥いて固まっている。まるでさっきまでの類のような表情に、類はなおさら笑いが止まらなくなる。
(あっはは、そんな、簡単な、ことだったんだ)
類は笑えてならない。こんな暴力的なほどの晴天の下で類の顔を「曇った顔」と形容する司のセンスに。そんな顔の自分と一緒にいられることをメリットと言う司の感覚に。そして、――そんな司のことは、この先も失いたくないと思ってしまった類の渇望を、願う前に叶えてしまった司という存在に。
「っはは、ははっ、あーあ、これだから、太陽は……」
ああ、もう立っていられない。類が地面を転がり、芝生の傾斜を頭から滑り落ちていくと、司は「る、類―――――!?」と慌てて駆け寄って来る。
(その熱気で溶かしてしまうんだ。この気持ちごと。とうの昔に凍らせた心だって、君の前では溶けだしてしまう。そしてそんな心さえ、君は)
類の頭上に浮かぶ眩しい太陽光が司によって遮られるが、司が遥か彼方の太陽よりよほど類にとって目を眩ませるせいで、ますます類の目を細めさせる。司は類の顔を覗き込んで手を差し伸べ、それに笑う類の目じりから耳へ、ぬるい水の雫がこぼれていく。そこでやっと類が泣いていることに気が付いた司が大きく目を見開き動きを止めるのをいいことに、類は司の胸ぐらを両手でぐいと掴み、「君が好きだよ」と、へにゃりと眉を下げて笑った。