【司類】アンラッキーな俺の話 その1Prologue 繰り返しているよ
これが夢であることを神代類は知っている。それでもこの夢は、幻とはとても思えない密度と温度で類に襲い掛かってくる。類は瞬きをしながら、叫びたくとも喉が引きつりただの一つも言葉を紡げない口をはくはくと金魚のように動かして、目の前の景色を青ざめた顔で呆然と眺めていた。思考は既に止まっている。しかし地面についた膝は鮮やかな赤色の液体を吸い、わなわなと震える手には生塗感触が這いずる。類の鼻腔をうずめるのは死の香りだ。遠くのほうで名も知らぬ誰かの悲鳴がぼんやりと聞こえるが、鼓膜には膜が張られたようにうまく音を拾わず、ノイズが混じって言葉になってくれない。
「……」
ざわざわとうるさい脳内は徐々に狂気に侵食されていく。夢だということは理解していながら、類は自分の目の前で血だまりに沈む彼の、くすんだ物言わぬ瞳から目を逸らせなかった。きらめく金髪が見る影もなく血に浸されているその人に、類は恐る恐る手を伸ばす。破壊された思考回路はこの場に適した言葉をたたき出してはくれない。しかし、どうせ言葉が浮かんだところで類の心が何を叫ぼうと、もはや息をしない彼には届かないことを、類は知っている。
(それ、なのに)
類の震える膝から力が抜け、地面に座り込んだ拍子に、彼の流した血液がびちゃりと撥ねた。彼の胸はとうの昔に上下活動をやめており、その肌は青ざめて、開かれた眼球はますます濁っていく。
『……せいだ』
類が彼に何も言えないように、あるいはそれ以上に、彼は類に何も言えないはずだ。それなのに、類の頭は、彼の動かない唇の動きをいともたやすく読み取ってしまう。
『お前のせいだ』
『お前のせいで、オレは』
『お前が、オレを殺したんだ』
「ああ、……」
類のさ迷わせていた指先がようやく司の頬に届いたとき、司の肌は、汗で冷え切って温度を失くした類の手よりよほど冷たく、氷の像に触れているかのような感覚とともに痺れをもたらす。
「そうだ。……そうだ、そうだよ、そう」
そうだよ。類はうわごとのように呟きながら司の体を抱え起こした。類の両掌にはべっとりとついた彼の血潮がまきつき、そのまま腕へと流れて、類の体を締め上げる。
『お前なんかと、出会わなければ』
彼の開ききった瞳孔がぼんやりと赤く汚れた世界を映し出している。類はそのかんばせに自身の顔を近づけると、こらえきれずに小さく笑った。
『何がおかしい』
幾度となく見た同じ悪夢は、もうじきに終わりを迎える。類は「おかしいよ」と言葉を切り、そして強く目を瞑った。
「だって、司くんは、……」
――本物の司くんは、君なんかよりよほど残酷だから。
アンラッキーな俺の話
1.月曜日
「どわあああああ」という野太い悲鳴を上げながら天馬司が学校の階段に足を取られそのまま尻で八段落ちしたとき、通りがかった生徒は悲鳴を上げて飛びのき、またある生徒は「階段落ちまで派手じゃねーの天馬。なかなかやるな。大丈夫か?」としたり顔で頷き、またある生徒はその現場を目撃してはいなかったが、突如放たれた司の大声に驚いて教室ですっ転び顔面から机に直撃した。
「な、何が起きたのだ!? そこの君、ちょうど真正面から見ていただろう。オレに説明し……アダッ!」
それらの現象を引き起こした張本人である司は、しかし事の次第が呑み込めておらず、ちょうど近くにいた上履きに赤いラインが入った一学年下の生徒に対し説明を求めつつ立ち上がろうとして、足首にずきりと痛みが走ってバランスを崩し、また尻で着地してさらに患部を打ち付け「ぐえ」と潰れたヒキガエルよろしく力ない声でうめいた。
「くそ……オレとしたことが! 予期せぬタイミングでさえなければ華麗な階段落ちを決めてみせたものを……不覚ッ!!」
放課後の三階から二階へと続く北階段は、高い位置に窓があるものの日の辺りは悪く、カビの匂いさえしている。しかしこの階段の湿気の原因はそうした環境によるものではなく、司のズボンの後ろが不自然に濡れ、上履きも何やら汚れた水を吸っているあたり、きっとここの掃除当番が雑巾をしっかりと絞らないまま適当に掃除を終わらせてしまったせいだろう。司としても察しはついたが、司にとっては犯人捜しよりも階段落ちを得意技とする自分がそれをやり損ね、大事には至っていないものの尻を強打するという不始末をやらかしたことの方が大事件であり、司は悔しさに拳を握らずにはいられない。
「おい、大丈夫か?」
「ん? ……おお、武田!」
と、俯いている司の視界に緑のラインの上履きが映った。神山高校は学年ごと上履きの色が別れており、今年は赤を一年、緑を二年、黄色を三年が使用している。緑ということは同級生だ。司が顔を上げると、そこには見知ったクラスメイト、もとい武田が立っており、司に手を伸ばしながら「にしてもすげー声だったな。担架呼ぶか?」と声をかけてくる。
司はその手を取り、引っぱり上げてもらいながら、「ありがとう!いや、平気だぞ!」といつも通りの笑顔を向けた。
「捻挫した感覚がなかったから少し慌てたが、足首は少しひねっただけだからな。さすがオレ! ……まあ問題は尻だが、恐らく四つに割れているということはないだろう!」
「いや、そりゃ割れてたら大事件だな……」
放課後の北階段は、他の階段と比べて人通りは少ないものの、その場に居合わせた者や、司の大声を聞きつけた野次馬が寄ってきて、司の周りに集まり、ざわざわと喧しくなってくる。司が武田の助力で腰を浮かし、手すりをもう一方の手で握って立ち上がったその時、頭上で走り去っていく足音がして咄嗟に司が振り返るが、見上げた先の階段の踊り場には誰もおらず、もぬけの殻だった。
(む? ひょっとしてオレのファンか? フッ、おおかたオレを気遣って声をかけるタイミングを見計らっていたのに機会を失して逃げてしまったとか、そんなところだろうな! その気持ち、わからんでもない!!)
「ど、どうした天馬。急にドヤ顔しだして」
「何ということもない! オレには日常茶飯事だからな!!」
「あっそう……」
鼻高々に笑う司に、武田が「また始まったよ天馬節が」と言わんばかりのげんなりした表情を浮かべる。司は「おい! 失礼なことを考えていないだろうな!?」と返しつつ、ふと自身の足首に神経を集中させた。
実際、司の右足のくるぶしには違和感が残っている。しかし、先程感じたような痛みを感じるわけではない。例えば、けんけんぱをして無理やり右足に司の全体重をかけようとすればきっとものすごく痛むだろうが、そんなことをしなければ、司が歩くのに差支えはないだろう。
(とはいえ、念のため保健室に寄っていくべきだな……)
そうだとしても、処置をしておいて困ることは何一つないし、明日の夜は例のごとくフェニックスワンダーランドでショーの予定が入っている。多少の違和感とは言えど、精密機械を多数有するステージで事故を起こせば大変な事態を招きかねないし、第一司の目指すスターが、怪我を精神論で放置し悪化させるような無様を見せるなんて真似をするなど有り得ない。
「オレは保健室に向かおうと思う。助かったぞ! 武田!」
「おう。お大事になー」
司はクラスメイトに感謝を述べ、手を振って別れると、群衆を通り過ぎ、早急にアイシングをしてしまおうと、中央階段へ向かうため、廊下をいつもより慎重に歩いた。本来であれば司がずっこけた北階段を使った方が一階の保健室には早道だが、あのずさんな掃除の状況では一応避けた方が良いだろう。
(さて……)
一階までの階段を、同じ轍を踏まないようにさらに注意深く下っていく。途中隣を走って駆け下りていく生徒に冷や冷やとしつつ、何とか無事に地上へたどり着き、昇降口の前を通りかけたところで、司はさっき転んだ弾みに鞄を落としてきたのに気が付いて、がっくりと肩を落とす。
(今日のオレはツイてなさすぎではないのか……!? 何故だ……! オレはこんなにも公明正大に生きているというのに……!! お天道様め、オレから目を逸らすんじゃないぞ!!)
また階段を上らなければならないが、こうなったらもう仕方がない。今日はきっと厄日に違いないと喚きながら、ようやく到着した保健室のドアを叩き、「失礼します! 二年A組の天馬司です!」と溌溂な挨拶をしてから扉をがらりと開けると、そこには、
「ん? 誰もいない、のか……?」
「おや。保健室には珍しい顔じゃないか」
「む!?」
保健医の座席が空いているところを目にし、そこでようやく司がノックした保健室のドアに飾られていたカードが「離席中」になっていたことを思い出した司が保健室に踏み出した足を引っ込めようとしたとき、保険医の机の後ろ側からぬっと顔をのぞかせた紫顔の男、もとい神代類は、「やあ、司くん。どうかしたのかい」と笑ってみせた。
「類!? お前がなぜ保健室にいるんだ!?」
「しっ。司くん、声が大きいよ。ここをどこだと心得ているのかな?」
「……ゴホン。すまなかったな。体調でも崩したのか?」
「まあこの部屋は今は君と僕しかいないけどね」
「類!!」
いつもの調子でからかわれ、司が普段に比べてやや声量を落としつつも憤慨をあらわにすれば、類は薄く微笑みながら「緑化委員会の活動でね。今度保健委員会と提携して企画をやろうっていう話になっているんだけど、その資料の整理が終わったから先生に届けに来たんだ」と机上に置かれた紺色の分厚いファイルを示す。
「なるほどな。委員会も大変だな」
司としては、類という男はいつだって心のままに行動していると思っていたが、実際には真面目に委員会活動に取り組んでいるらしい。端的に花が好きだからという理由もあるだろうが、演劇以外の活動に注力する類が司にとってはもの珍しく、司が類の新しい一面を知ったなと手を顎にやって頷いていると、「そんなことより、だよ」と類は先生の座る滑車のついた椅子の背を掴むと、司のところまで運んできた。
「司くんこそ大丈夫じゃなさそうだね。その様子だと、歩くたびに痛むんだろう。ちょっと待ってね、氷嚢を出すよ」
「お、おい勝手にやっていいのか」
「緊急事態だから問題ないんじゃないかな」
はい、これ。――司が申し訳なさを感じながら椅子に腰かけると、類は手慣れた様子で小型冷蔵庫から氷嚢を取り出して司に渡し、さらに「湿布もあった方がいいかな……、あ、あった」と呟くと棚からするりと目当てのものを取り出した。
「いや、ありがたいのだが、お前少しは躊躇をだな」
「右足首か。上履きと靴下を脱いでくれるかい」
「話を聞かんか! ありがたいが!」
司の喚きをものともせず、類は「ほら、早くしてくれたまえ」と司が靴下を脱ぐのを促し、司はぐぬぬと唸りながらそれに従った。
「……ッ、痛いな」
いざ素足を晒してみると、司の右足首が赤く腫れているのは一目瞭然だった。視界に入れてしまえばよけいに痛みを自覚せざるを得ず、司は思わず顔をしかめる。そんな司とは対象的に涼しい顔をしたままの類は、「じゃあ貼るね」と言い、地面にしゃがむと司の足を持ち上げた。司のかかとに類の指が触れ、俯いた類の長い横髪が司のズボンの裾にかかる。
(ん? 類の手は、何か……)
「……本当に大丈夫かい。司くん」
湿布のひやりとした感覚に司が体を強張らせたとき、ふいに類がそう呟いた。そのひどく静かで深刻な声色に虚を突かれた司が咄嗟に、
「だ、大丈夫だぞ!! オレは鍛えているからな!!」
と元気よく返すと、湿布を貼り終えた類はぱっと顔を上げ、
「まあ、心配はしていないけれどね!」
とにっこり笑って司の足から手を離した。
「何おう!? まあ実際心配には及ばないが!!」
「そしてそんな体力の持ち主の司くんを見込んで、次に試したい舞台装置があるんだけど、もちろんやってくれるよね!」
「待て待て待て待てオレはけが人だぞ!? 少なくとも今は!!」
「わかっているとも。……完治したらね。よし、じゃあ僕はもう行くね。司くんはもう少し安静にしていくといいよ。氷嚢もあることだしさ」
「あ、おい!!」
「じゃあね」
「類――――!!」
類は例によってマイペースに会話を進めるだけ進めて立ち上がり、ひらりと手を振り、紺色のファイルを携えて司に背中を向けてドアを開けて出ていってしまう。と、入れ違いに養護の教師がやって来て、司を見るなり「天馬君、いくら怪我が痛くても勝手に保健室のものを漁っちゃだめでしょう」とため息をつかれた。まさに理不尽。かといって弁明の余地もなく、己に降りかかったさらなる不運にぐっとこぶしを握る司は、先生に椅子を譲り、複数人が座れる幅の広い座席に腰を下ろし氷嚢を足首に押し当てたところで、ふとあることに気が付いた。
(さっき、何か、……)
類が司の足に湿布を貼ってくれた瞬間、司は何かの違和感を覚えた。湿布の冷たさに気を取られて忘れていたが、あれは何だったろうか。ぎゅっと目を瞑りその時のことを思い出そうと頭をひねれば、司は思わず「あっ!」と声を上げた。
(そうだ。最初に驚いたのは、『湿布』の冷たさではなく、
……『類の指』の冷たさだった)
手汗に濡れた類の手が、ぞっとするほど冷え切っていたこと。それを思い出したとてどうということでもない。それを説明する理由はいくらも想定できる。そのはずなのに、どうやらこの出来事は司の頭からなかなか消えてくれはしないだろうという予感を、司の冷やされた足首の鈍化した痛みが、じわじわと司に伝えていた。
続く(序章~第1章 END)