【司類】終点駅はまだ来ない終点駅はまだ来ない
「君と出会うまではね、僕は365日、ずっと水底にいるみたいだったんだ」
ふいに口を開いた類は、隣に座る司を振り返って「そういえばね」とまるで昨日食べた夕食の献立はハンバーグだったんだと伝えるかのような気軽さで、司に向かってそう言った。
「む?」
司が首をひねると、まもなくドアが閉まります、ご注意ください、とのアナウンスが流れ、電車のドアが音を立てて閉まる。今回の駅でも乗り込む人は一人もいない。
「それは……ええっと、どういう意味だ?」
下りの電車は土曜の午後だというのに静まり返っていた。車両ごとにまばらに人がいる程度で、昨今話題のソーシャルディスタンスというものを実現している。電車が揺れ、司が両脚で挟んでいる学生鞄がそこから抜け出し、司がそれを戻そうと手を伸ばして身を乗り出せば、電車はちょうど大河の上に架けられた橋に差し掛かった。深い深い青色の水面に太陽の光が反射し、きらきらと光り輝く。
土曜は授業が午前のみだ。司と類は一度家に戻ることなく、学校帰りにこうして遠方の駅を目指している。用向きは、ワンダーランズ×ショウタイムじゃんけん大会(実施メンバー四人)で負けた二人に課せられた、罰ゲームとしての新開発の舞台装置のパーツとその他もろもろの買い出しだ。――と、いうことに表向きはなっているが、実際の主たる目的は女子へのホワイトデーのお返し選びだ。神山高校の近隣にはない、片道一時間かかる場所にある業務用スーパーでふさわしいものを見繕おう、というのが司と類の計画だった。
「僕は生きるのが下手くそだったってことだよ。まあそれは今も変わらないけれど、昔の僕はそれを認めることさえ拒んでいたから。どうしようもないよね」
類はさっきから司に話しているのか、自分自身に語り掛けているのか、よくわからない言葉で話す。鞄の持ち手を掴んだ司が類を仰ぎ見れば、類は窓の向こうの川を見つめ、台詞に見合わず吹っ切れた表情をしていて、司は「ああ」とうなずいた。
(そういえば、中学生時代は苦労していたと言っていたな)
以前、司は類からさらりと過去の話をされたことがある。とはいえ立ち入った内容ではなく、数回ほんの雑談程度に触れられただけだが、その話題を出すたびに類は苦い笑みを浮かべていて、よほど色々なことがあったのだろうなということは司にも想像に難くなかった。
司とて、類の過去について、決して詳細が気にならないことはない。でも、類はきっとほじくり返されることを望んでいないだろう。ならばせっつくのはいけない。話したいときに話せばいい! オレは来るべき時を待っているぞ! というのが、一連の話を聞いた司の選択だった。それが功を奏したか、それとも関係がないのか司にはわかりかねるが、類がすっきりした顔をしているなら事態は好転したのだろう。それが嬉しく、司は類に笑顔を向ける。
「つまり、今はいい方向に進んでいるということだな! なら何よりだ!! オレとしても喜ばしいぞ!」
胸を張って司がそう言うと、
「……驚いたな。司くんが察しが良いなんて」
「何だとーーーーー!? どういう意味だ!!」
類は目を見開いて司の方を顧み、司は我慢ならない言葉に魂の突っ込みを入れた。そんな司の絶叫も、がらがらの電車の中では眉を顰める乗客はおらず、ただ一人それを聞かされた類は「あはは」と笑った。
「でも、そうだよ。司くんの言う通りなんだ。いい方向に向かってる」
電車が川を渡り終え、また次の無人駅に着いて、ドアが開く。司はドアから風が入り込むのを感じながら、穏やかな表情で続きを急かさずに待った。
「これは例えなんだけどね。昔の僕は、……ひとりっきりだった僕は、海底にいることすら気付けなかった。岩ばかりが転がる場所で黙々と脚本と演出を考え続けて、真っ暗で光の届かない空間に自分が沈み込んでいるなんて、思いもよらずにいた」
「そうか」
類は司から視線を外し、少しうつむいて、少し痛ましい微笑を浮かべる。司はそんな類の横顔をやわらかく見つめた。
「……僕の人生が寧々とえむくんと君とワンダーランズ×ショウタイムを結成して、それまで想像もしていなかった大きな転機を迎えたことは、揺るぎない事実だよ。僕は孤独ではなくなって、かけがえのない信頼できる仲間が三人もできた。奇跡と表現することさえ過言じゃないよ」
「ああ」
「でも、僕の本質が変わったわけではない。僕は変わらない。僕という人間の核は多分ずっと変わらないままだ。……強情で頑固で不寛容で、きっと、他人にもあまり優しくないんじゃないかな。今も僕は海底にいる。そうだけれど」
類がふいに言葉を切ったところで、電車がまた動き始める。息を吸って吐く類が、遠くを眺めながら、かすかに唇を震わせて言葉を継いだ。
「でも今の僕は、この世界が生きにくいって事実を知った上で、生きていけるようになったんだよ。
……司くん、君のおかげでね」
「は!?」
唐突に話を振られた司が動揺のあまり穏やかな顔つきを崩してずっこけそうになると、類は「君らしい残念な反応だ。それでこそ司くんだねぇ」と苦笑する。
「そりゃ驚くだろうが! これまでの話のどこに『オレのおかげ』要素があった!? いや、ないぞ!! こんなのコナン・ドイルもビックリして椅子から転げ落ちる超展開だろうが!」
「自信があるのかないのか……指摘も痛快だなんてね。僕が座席シートから転んで腰骨を折りそうだよ」
「転ぶ話はどうでもいい!!」
「司くんが先に振ったんだけどな」
くすくすと笑う類に、状況がいまいち呑み込めていない司が「さすがに説明を要求するぞ!!」と続きを促せば、類は「わかったよ」と笑顔で答えた。
「君と出会って手痛い衝突を2回もして、僕はやっと自分の孤独に気づけた。僕はずっと息ができていなかったんだ。……君とぶつかってやっと、この世界が僕にとってまるで水中で、酸素を取り込もうとするたびに塩辛い海水を飲み込んでむせ返っては溺れていたことを知った。『世知辛い』って言葉はここから来てるのかな、なんてことを考えたりもしたっけね。ともかく僕が孤独で、かつその孤独におびえていたことなんか、君に出会うまでは知る由もなかった。一人でいることに慣れすぎて感じずにいられた孤独の苦しみは、君に出会って初めて自覚した。
でもね、それなのに僕は今が楽しくって仕方がないんだ。昔の比じゃないくらい。ワンダーランズ×ショウタイムがあって、えむくんと寧々がいて、それから、僕に孤独の痛みを教えてくれた君、他でもない司くんがそこにいるからだよ」
「そ……」
それが意味するところは、一体。返す言葉をどうしたものか司が迷っていると、ふっと目を細めた類がまた口を開いた。
「君はまるでお星さまだ。それも弱々しく輝くそれじゃなく、夜を照らす一等星だよ。君は眩しい人だよね。司くんの反応が面白くてついいつもからかってしまうけど、えむくんも寧々もきっとそう思ってる。君は強くて、純粋で、とても優しい人だよ。……ふふふ。君は僕が知らないと思っていただろうけれど、君が僕に僕の中学生時代の話を振らなかったのはあえてだろう? 本当の君は「話してくれ!」って言いたいところ、僕がかえって辛い思いをするかもって考えて、僕から話すのを待ってくれた。君は自分に関することについては豪放磊落だけど、他人に対してはけっこう繊細な配慮ができる人だし、もし配慮がうまくいかなくて相手を傷つけてしまったときは司くん自身に憤る。眩しくてならない、光のような人なんだよ、君は。僕の暗い海底に届くくらい、強くて眩しい星だ」
「いや、出し抜けに褒めすぎじゃないか!? 感謝はするが、でも」
「君が好きだよ」
つかさくん。――類は司の言葉を遮って俯かせていた顔を上げ、司に向かって眉をハの字に下げて笑いかけた。「え」と固まる司は、類の頬に乗った赤みに、ますます目を丸くする。
そんな司に、類は再び「君が好きだ」と言った。その声はかすれていて、司は類がよほど緊張していたらしいことを察する。
「僕は司くんが大好きなんだ。君を思うとふらついて、この生きづらい世界が『セカイ』みたいにキラキラ輝いて、過去の僕とは比べ物にならないほど目まぐるしく移り変わる毎日が本当に楽しい。君の恋をしてよかったなと心から思ってやまないよ。こんな温かい気持ちは、持っていられるだけで僕の人生にとってかけがえのない財産だ。僕と出会ってくれてありがとう。
……それに、いずれ僕と君との関係にも終わりが来ることが、今の僕には、苦しくて想像ができない。さよならのない関係なんかありはしないのにね」
フフフ、と類はいつもの不敵な笑みを浮かべたが、そこには隠しきれない切なさが滲んでいて、司は黙ったまま、ごくりと唾を飲み込んだ。と同時に、再度停まった電車が動き出して、次の駅へ向かう。窓に反射する看板には目的地の一駅前の駅名が書かれており、司と類の旅路の終わりを指し示している。
「ああ、もちろん返事が欲しいわけじゃないよ。そんな惨いこと君にさせたいなんて思っていない。でも、話したくなってしまったんだ。ほら、ホワイトデーが近いことだし。感謝を伝える一環ということで聞き流してくれたまえ。
……さて、もう次の駅だね。じゃあ『友人として』、買い出しに向かおうか」
電車に揺られながら、感情を切り替えた類がにっこりと笑い、自身の鞄に手をかけた。
――そのときだった。
「……だ」
ぱしり。司は類の手首をつかんだ。類が不思議そうに、
「何だい? すまない、電車の音がうるさくて聞こえなかった」
と言うと、司は、
「いやだ」
と、まっすぐに類を見つめた。
「……う、うーんと? 嫌だというのは」
まるで射抜くような、いつになく真面目で静かな眼差しをしてそう言う司の視線にたじろいだ類が、たまらずに困惑した様子を見せる。それでも司は視線を逸らさずに続けた。
「オレは、お前の言葉を聞き流したりしない。それに、オレは決してサヨナラなんか言わない。お前がオレにサヨナラを言うなら、何度だってこんにちは! を言ってやる。しつこく元気に、夢に見るほど溌溂とした挨拶をしてやるとも!!」
「司くん、それは」
司の心臓が早鐘を打ち始める。いや、それは今に始まっていたことではないのかもしれなかった。電車のうるさい音がうまく隠してくれていただけで、本当はずっと。――司は笑った。司の瞳に映る類は、ついさっきまでの司のように呆然としている。
(そうだよな、オレもそうだったから気持ちは分かる。でも、これで終わらせない)
どくどくと鼓動が早まり、顔が上気するのを感じながら、司は類に向かって、その手のひらを差し出した。
「オレは類が好きだ。
『恋人として』、共に行ってくれないか。類」
(……きっと同じことなんだろう)
この関係に、司と類を結ぶ絆に、改めて名前を付けたところで、きっとこれからの二人に何の変化も与えないことは、司とて百も承知だった。恋人になろうと友人のままでいようと、司と類は何も変わらない。これ以上近づくこともなければ遠のくこともないし、関係性は今のまま、ゆるやかに坂を上るくらいだ。
それでも、と司は思った。たとえ何も変わらないとしても、言霊には力が宿るという。その言霊こそが大事なのだと、司は知っている。
念押しがてら司が「……ダメか?」と尋ねれば、長旅を経て電車がついに目的地へとたどり着き、その扉を開く。
「それはずるいよ、司くん」
と、涙ながらに笑う類が、その手を取ったか否かは、推して知るべし。
END
?
*
この世界に存在するものに永遠はない。
星の寿命でさえそうだ。終わりは来るし、その終わり方はきっと想像もつかない。
司が類と出会うことを予想できなかったように、類が司と出会うことを予想できなかったように。別れもきっと、予想できない形で、二人の足元に忍び寄るのだろう。
(だが)
(でも)
息せき切って走り抜いて、その先が地獄でも、奈落でも、もしかしたら何もないのかもしれなくても、そうだとしても心臓の鼓動を弾ませて二人進む道は、きらきらと輝いて止まないから。
どうか、互いを信じて。どうか、時間が許す限り、俺たちは、僕たちは、脇目もふらず進み続けよう。
いまだ見えない、二人という路線の終点まで、ずっと。
END