一歩、また一歩と階段を踏みしめながら歩く。冷たい風が吹き付けるマンションの通路には、自身と冬の足音がこつこつと響いていた。冷風の中、迷いのない足取りで現実に歩を進めているのは、目的地が何度か招かれたことのある一室だからというだけではない。
「独人くん、大丈夫?」
「……あぁ……」
まだ朦朧としているのだろうか。自身の背中から、いつもの高慢さを孕んだ発言は返ってこない。
長身に見合わぬ軽さに驚きはしたとはいえ、彼はあくまで180cm越えの成人男性。子どもを背負って駆け回る程度はよくあることだが、成人男性を背負って自宅まで送り届けるというのは、アラフォーには文字通り荷が重いのかもしれない。それでも、急に倒れてしまった独人くんを冷たい床に捨ておくわけにもいかなかった。
「最近ちゃんと食べてる?って、まあ、食べてるか。……無理に寝ろとは言わないからさ、せめて、身体は休ませてあげてね」
「……」
そんなことを言いながら、夕暮れの静けさと心配をうやむやにした。
一瞬だけ足を止めて、彼がずり落ちてしまわないよう体勢を軽く整える。上着越しでもわかる骨ばった太腿の感触が、また少し心配を煽った。
「独人くん、着いたよ。ここだったよね。……鍵、これかな」
彼のカバンから覗いていたキーホルダーを見せると小さく頷いたので、迷わず挿し込み、手首を捻る。カチャリ、と小気味の良い音が鳴る。扉が開く。
その音が彼の耳に届いた時だった。独人くんの喉から急に、ひゅ、と音が鳴った。何か思い出すことでもあったのだろうか。独人くんはおれの背から離れると、腕を扉に移して言う。
「も、もう……大丈夫、だ。だから……今日は……その、世話を、かけた」
その言葉も虚しく、独人くんの身体はぐらりと傾いた。よく手入れされた建て付けの良い扉は、足元のおぼつかない彼を支えるには何とも頼りない存在であった。
「おっと。……大丈夫には、ちょっと見えないかも……ベッドまでは運ぶから、無理しないで。ね?」
彼の身体を支えてにこりと笑い掛けるが、独人くんは依然青い顔をしている。むしろ先程より悪くなっていた。このまま別れては玄関で倒れかねない。
「し、しかし……」
「廊下冷えるし、ここで動けなくなったらもっと悪くなっちゃうよ。こんな時くらい、頼りにしてほしいな」
そう言って僕は、半ば抱えるようにして独人くんを中に入れる。一旦彼を玄関に座らせ、靴を脱がせようとしている時にふと気がついた。ひとつの部屋から光が漏れている。
「……待って、くれ……」
まだ日が落ちていない時間だからというわけではない。夕陽とは明らかに違った白い光が、薄く開いた扉の隙間から覗いている。加えて、女性が淡々と話す声……ニュースキャスターであろう声が聞こえる。消し忘れだろうか?
「見るな、……」
照明どころかテレビまで消し忘れるほどぼんやりしていたとすれば、多少叱ってでも休ませるべきかもしれない。とりあえず照明は彼を寝室に運び込みがてら消しておこう。そう思って独人くんを支え直す。独人くんはまだ何か呟いていたが、その瞳はふらふらと僕の顔ではないどこかを見ており、視点すら合わないようだった。
「惣、太郎……!」
そんな彼をどう寝かせたものかと考えながら、居間の前を通った時だった。
「あれ、独人くん〜?おかえりー」
明らかにテレビから発されたものではない声に、思わず足を止める。
自分の知っている独人くんは、一人暮らしのはずだった。同居人がいるなんて聞いていない。聞いていたら、チャイムすら押さずに上がり込むなんてことはしない。
思わず居間の手を掛け、開く。耳元で自分の名前を呼び、待て、という言葉が聞こえた気がしたが、もう遅かった。その言葉の意味を理解した頃には、自身の瞳が虫のような大きな翅を捉えていた。
「……なに、これ」
独人くんの顔を見ると、薄く開かれた口からうわ言のように言葉が漏れ出す。
「……ちがう、これは……惣、太郎……一慶は……」
いっけい。その名前には聞き覚えがあった。
「……え、誰?」
翅を生やした目の前の男は、怪訝そうな顔でおれの顔を見る。彼が独人くんの言う“一慶”だとしたら。確か、独人くんが言うには────……
それを思い出す前に、あらゆる可能性が頭の中を巡る。
「独人くん。……彼、どういうこと?」
「……あ、……その……」
独人くんの返事を待っているうちに、翅の生えた男はソファからゆっくりと立ち上がった。自分を観察するような眼差しは、突然の来訪者をどこか警戒しているようにも見えた。しかしそれはこちらも同じことである。
「……ね、オニーサン、誰?」
こちらの警戒心も見透かされたのか、彼は改めて尋ねてくる。
「……君は?」
「俺?……桜庭一慶。同じく、独人くんのオトモダチ、かな」
そう言うと、彼はこちらに近付いてくる。
そこでやっと、彼の手が硬い何かに覆われ、到底人間とは思えない姿をしていることを悟った。
「独人くん、どうしたの?その人……なんでここに?」
一歩。
また一歩。
近付く。
近付いてくる。
大きな翅が、揺れる。
視界が、透明な翅越しの景色で埋められていく。
いびつに歪んでいく。
「……ああ、びっくりするよね。大丈夫大丈夫、取って食ったりしないから笑」
一歩。
また一歩。
思わず後退りをする。
「だから……もう大丈夫だよ」
彼の瞳は、既に独人くんの方に移されていた。そのごつごつとした醜い手は、独人くんにゆっくりと伸ばされていく。
おれの身体は勝手に動いていた。
独人くんを支える腕はそのままに、“化け物”の醜い手を振り払う。
「や、やめろっ!触るな!!」
続けてその手に力を込めると、人を────否、化け物を殴り倒すための形を作った。ただ怖かった。多分それは、守るための拳ではなかった。
それを振り上げ身体を捻った時、がくんと重心がおかしくなる。違和感の生じた方へ目を向けると、独人くんが己の半身にしがみついていた。
「ち、違うんだ、惣太郎!やめてくれ……!一慶は、っ、ちがうんだ……!一慶……」
その腕は小さく震えていた。なんでそんな顔するの、なんて、聞く余裕はなかった。自分たちに近付いてくる化け物の脅威からいかに身を守るかということしか、頭になかった。
「っ、離して……!」
とにかく体勢を立て直そうと、独人くんを引き剥がす。しかし彼は、振り上げたおれの腕を止めることに最後の力を振り絞っていたのだろうか?彼の身体はいとも簡単に離れ、その勢いのまま廊下に倒れ込む。倒れ込むというより、引き剥がした勢いのまま、床に叩き付けられる────そんな形になった。
「おい!!」
独人くんを助け起こそうとしたおれの身体が、びくりと強張る。翅の生えた男は僕をそう気圧した後、独人くんにぐんと近付いた。まずい、と思ったのは一瞬だった。
彼はそのごつごつとした手を、独人くんの顔へ近付ける。手が肌に直接触れないように、肩に優しく手を載せる。
その場にへたり込みそうになるのをなんとか堪えながら、独人くんの顔を見ると、独人くんはおれと翅の彼を交互に見ていた。困惑の中に、何かに怯えているような色が混じった表情で。それと同時にふと思い出した。うさぎの怪物を、児玉くんを殴り殺した、あの時の顔。
迂闊だった。おれは独人くんにそんな顔をさせたいわけじゃなかった。
そうだった。彼は、独人くんの────……
「……いっ、けい……」
「大丈夫?ケガしてない?……おっきー声出してごめん、独人くん」
「いや……私、は、その……」
「あは、俺、この人に嫌われちゃったかな〜……」
「!……っ、そ、れは……」
凍り付いたその場の空気を吸い込み、火照った息を吐く。そうして場の空気を溶かすように、言う。
「……ごめん。取り乱しちゃったね。少し、話をしたいんだ。……いいかな?」
僕は、彼の目をまっすぐに見つめる。見つめ返される。怖気付いている場合ではなかった。
彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに口角を緩く上げて頷いた。
「……ん。いーよ」
「ありがとう。……独人くんは……少し休んでもらった方がいいかな」
「ん〜、それ、2人きりのがいい話?」
彼は穏やかな口調でこちらに問い掛けてくる。
「……うん。とりあえずは、2人で」
「ふうん、分かった。……独人くんさ、ちょっと待っててもらってもいい?」
「……しかし、一慶……」
「てか独人くんフラフラじゃん、運んでもらった感じ?ほんとに休んだ方がいーよ、俺は大丈夫だからさ」
「……わかっ、た……」
「うん。……で、ソウタロウさん、だっけ?運んであげてくれる?俺、こんな手だからさ」
彼は独人くんの背に手を添えながら、穏やかな顔つきで促す。先ほど僕に向けた鋭い目付きが嘘のようだった。