苦界にて君死に給え 教会の前のバス停で、人々が祈るようにスマートフォンの画面を見ていた。
その群衆の横を通った猫背で死んだ目をした黒髪の男は、革製の大きな鞄を手にしていた。細い通りに入ってゆく男のことなど誰も気に留めず、また男も周りの人間のことなど一欠片も見ていなかった。
黙々と男は人が少ない方へと足を進めてゆく。
やがて貧困とドブの臭いが溜まった裏路地の奥へと辿り着いた男は、何かが地面に落ちる音を聞いた。その音は聞き覚えがあり、暫く歩けばやはり大きな肉塊が地面の血溜まりの中に落ちていた。
しかし男は顔色一つ変えずに人生の幕切れをドブの中で迎えた人間を横目に、今回の仕事場へと早足に進み続けた。その肉塊の近くで煙草を吸う、腕の入れ墨を捲り上げたシャツから少し覗かせる男がにこやかに彼へ声をかける。
「角名先生、やぁ、久しぶり。景気はどうですか」
にこやかに笑う男は顔の左側にある大きな傷痕を引き攣らせていた。
「どうも。ぼちぼちだよ」
足を止めることもせず背中を見せ淡々と答えるだけの彼に、男は笑顔を崩さず機嫌を悪くすることもなかった。彼が無愛想なのは今に始まったことでないし、また闇医者の彼に治療をしてもらったこともある身としては些末なことであったのだ。
「……侑と治は、あの子供まだ飼ってるの」
彼が足を止めわざわざ口を開いたことを物珍しく思いながらも男は、“あの子供”に該当する唯一の存在を思い出す。
「直接見ちゃいないが、まだ飼ってるみたいですよ」
「あっそ」
短い返事だがしかし、彼が自ら気にかけた時点でそれが普通ではないことが察せられ男はその背に声をかける。
「ボスに連絡しときましょうか」
否定も肯定もない静かな間が流れて、それから返ってきた声に男も短く了承の意を告げる。
また静かな闇が戻り、そこには暫し微かに革靴の足音が響くばかりだった。
「おー、角名、なんや久しぶりやなぁ」
超が何個もついてもおかしくない高級マンション最上階で出迎えた金髪の男──宮侑に、角名倫太郎は「そうだね」と愛想のあの字もない返事をする。
侑は双子の兄弟である治とともに某反社会的組織の重職につく人間で、角名はフリーランスの闇医者である。腕が立つし口が硬いとまあまあ名の知れた医者ではあるが立場や力で言えば角名は侑と治に媚びてもおかしくない立場である。
しかし、そんなことは欠片も気にしない彼のことを侑は気に入っていた。
そして特に気に入られたいとも仲良くなりたいとも思っていなかった角名は、それを気に食わなく思っていた。
「……治は?」
「寝とるよ」
「ちょっと……俺の診療前に抱き潰すの止めてよ」
侑の返答に苦い過去の出来事を思い出し、角名は眉間にしわを寄せる。そんな闇医者を一瞥し反社会組織に所属する男は笑い飛ばして否定する。
「いや今回はほんまに時差ボケで寝とるだけや。最近海外出張多くてなぁ。つーかこの組織マジあかんわ。そろそろ俺らと翔陽くんの愛の逃避行先探さへんと」
冗談なのか本気なのか判断に迷う発言を聞き流しながら角名は今までにも何度か訪れたことの部屋へと近づいてゆく。途中、侑はキッチンに向かい角名は一人で部屋の扉を開けた。
扉を開けた向こう側は、おそらく誰もが羨むような金持ちの部屋だった。何度目かの訪れで既に見慣れていてもそれでも、貧富の差を思わず呪い世界の理不尽を体感するような部屋である。大きな窓枠の向こうでは、とても高く広い青空と果てのないような大海がどこまでも広がっていた。
「……スナ、さん」
「こんにちは、翔陽、久しぶりだね」
幼い顔立ちには相応しくない憂い顔とつぶらな瞳が角名をじっと見詰めていた。大きなベッドのせいで、その小さな身体はますます小さく見える。
「……少し痩せた?」
「ご、ごめんなさい。ご飯、頑張って食べなきゃって思ってるんだけど……」
「別に謝らないでもいいよ。今日も点滴と注射するから頑張ってね。チョコレート、持ってきてるから」
「うん……」
さすがに甘いもの一つでは笑い顔も見せなくなってしまった子供は、ちらりと扉を見遣る。開く様子のない木の板を散々注意深く見つめた後に、声を潜めて日向は角名に尋ねた。
「ねぇ角名さん、オレいつになったら……」
「……まだだよ。もう少し、頑張れない?」
角名の返答に、じわりと日向は視界を滲ませる。耐えようとして耐えられなかったようで、頬を濡らす涙がぽたぽたとシーツを濡らしてゆく。
がちゃん、扉が開いた音に日向の肩が大きく跳ねる。
「なんや、また泣いとるんか。鬱陶しいから泣くな言うてるやろ」
「あ……ご、ごめんなさい……」
「後で仕置きや。久々にキツく躾たるからな、翔陽くん」
侑の発言に日向の喉から小さな悲鳴が搾り出される。カタカタと凍えているかのように震える小さな身体
真っ青になった顔で大きな瞳は近づいてくる大きな男を見上げていた。
「ッ、ごめんなさ、ごめんなさい、侑さん! 許してください……!」
「フッフ、翔陽くんの泣き叫ぶ声たくさん堪能させてな?」
発言は全く以って人でなしだが、その仕草はとても甘やかに侑は日向の頬を撫でる。そして唇を奪うと文字通りその小さな口を喰らうかのように口に含み、侑は日向を弄び始めた。
息ができず苦しむ日向の頭が大きな手に掴まれ、地上に上げられた魚のようにその肩を跳ねさせるのを角名はただ静かに見詰める。
「それじゃあ角名、仕事終わったら言ってや」
ケホケホと、やっと開放された口で息を大きく吸い咳き込む日向の頭を乱暴に撫でる侑に対しても角名はいつも通り短い返事をする。
侑が出て行き静かになった部屋に、暫くしてすすり泣く音がひたひたと満ち始める。
「角名さん、オレ、早くここから逃げたい……」
「うん……分かってるよ。もう少し、頑張ろうか」
こくりと、小さく頷いた子供に角名はほぼ無意識で手を伸ばしていた。それに対して日向がびくりと怯え、角名の骨ばった大きな手を凝視する。
「あっ、えっと……」
自分がしようとしていたことにも戸惑っていた男の手に、小さな手が重ねられる。目を見開いた角名はされるがままその手を頭の上におかれ、結局そっとその橙色した明るい髪を何度か撫ぜることになった。
「ふふ、こんなふうになでてもらったの、スナさんがはじめて」
「そう……」
「……覚えてないけど、お母さんにもされたことあったのかなぁ」
「……」
「あったら、いいなぁ……」
「うん……」
まともな返事もできないまま、角名はただぎこちなくその手を動かし続けていた。
暫くして、身体検査と栄養補給のための点滴も終わり角名は広げていた僅かな荷物を鞄へと仕舞い始める。その様子を、酷く寂しそうに日向は見詰めていた。
「スナさん、行っちゃうの」
「うん……侑には殴らないように言っておくから」
「セックスも、やだ……怖いよ。侑さん、もうおもらししたくないって言っても止めてくれないし、白くてどろどろしたやつも苦くておいしくないのに、こぼしたらおしおきされるし……もう、やだよぉ……」
しくしくと泣き始めた幼子に、さすがの角名も心底同情した。目前の子供の、あまりの救われなさに。
あの宮兄弟がいっそのこと小児性愛者の異常者なら良かったのだが、残念ながらそうではない。別に彼らはショタという属性に興奮しているのではなく、日向翔陽という存在に執着しているのだ。新しく可愛らしい男の子を用意する気も、日向を手放す気も当然毛頭ない。
というよりも彼らが今までに何かに頓着したことなど角名は禄に見たこともなかった。自分達の命すらどこか他所事の節がある。
昨晩抱いた女すら記憶の片隅に残さず、一人だけだと面倒だからと愛人という名のセックス相手は無数に作っているがしかし誰一人の名前すら彼らは一切記憶に留めていない。自分だけにしろと何を勘違いしたのか迫って来た女を容赦なく蹴り飛ばしたこともあると、酒の席で角名は聞いたことがあった。
「……頑張って」
「……うん」
それ以外に言いようもなく気持ちのこもってない角名の言葉に、日向も暗い声を返した。しかし本当に、日向は救い難いのだ。
なにせ陽のあたる表側では、この子供は家事で焼け死んだことになっている。誰も探していない、世界の仕組みの中では存在していない人間なのだ。
「……また、ね」
「……うん、スナさん、また会ってね」
最後の荷物を鞄に入れて立ち上がった角名に子供は縋るようにその小さな手を伸ばし、真っ黒なシャツの裾を握り締めた。
その手首に残る縛られた痕を見詰めながら角名はその小さな手を片手で解き、またねと約束を囁いた。
部屋を出た角名はいつも通りに足をリビングルームへと向けた。部屋では煙草を片手に端末を弄る侑と、起床してシャワーを済ませたらしい治がいた。
「俺にも水ちょうだい」
冷蔵庫を漁っていた治の背に向かって声をかけ、飛んできたペットボトルを角名は受け取る。そして侑の近くの無駄に存在感のある黒い革張りのソファに腰掛けた。
「で、翔陽くんなんて?」
「……ここから、逃げたいってさ」
「は、そろそろ言った方がええやろか」
乾いた笑いをこぼした侑が、心底楽しそうに顔を歪ませるのを眺めながら角名はペットボトルに口をつける。
「最初から角名は味方やないって」
「…………そうだね」
冷えた水が、角名の胃袋の中へ静かに落下していた。
「……角名、今日は話もあって呼んだんや」
濡れた髪をタオルで拭いながら真面目に語るサイコパスからの真摯な眼差しに、角名は嫌な予感がした。
「俺ら専属の医者として契約しろ。それから、俺らが死んだら翔陽くんを苦しませずに殺してほしいんよ」
「あれは俺らのや。俺ら以外にも誰にも渡さん。死んでも、一欠片だって譲ってやらん」
本当に、救われない子供だ。角名はただ、そう思った。あの子供は本当に、否、日向翔陽という存在は本当に宮兄弟から愛されてしまったのだ。
心の底から、おぞましいほどに。
「……いいよ、契約しよう」
「お前ならノッてくれる思うたわ」
無警戒に了承するのが早すぎたかと、口にした後に角名は少しばかり反省したがしかし、肝心の相手は別に何も警戒しなかった。
「角名も、日向のことが好きやろ」
その言葉にぎくりとしたことに、角名は自分自身に言い聞かせるようにも淡々と返す。
「俺はショタコンじゃないし、それに、さすがに可哀想すぎて哀れんでるだけだよ。お前らに愛されたあの子がね」
「そこはどうでもええんよ。お前が裏切らんかったら、それでええんや」
煙草の火を灰皿に潰し立ち上がる侑から、角名は無意識に視線を逸らしていた。
「さてと、それじゃあさっそく翔陽くん躾けて遊ぼうかなぁ。フッフ、何しよう。サムも遊ばへん?」
「俺はちょっとジム行って身体動かしたい気分や。その後に日向と飯食ってセックスするわ」
「ほんなら翔陽くんベッド置きっぱでええ? 夜ちょっと出かけなあかんねん」
「別にええけど、あんま散らかすなよ」
狂った会話を日常生活の一端として普通に行うサイコパスを、角名は死んだ目をして眺める。
「あぁ、角名、お前の住処今日からこの一つ下な。俺らと同じワンフロア丸々部屋やから好きに使ってええで」
「ただし商売はすなや。客も呼ぶな」
「そこまで間抜けじゃねぇよ。つか荷物取りに行きたいし、今受けてる仕事の整理と顧客への連絡も済ませたいんだけど」
それもそうかと、指摘されやっと相手の事情を配慮した双子から部下を数名借りる約束をとりつけた角名は最後に「殴る蹴るはしないで」と鼻歌をこぼす侑の背中に伝えて家を出て行った。
教会の前のバス停で、人々が祈るようにスマートフォンの画面を見ていた。
それを眺め、そして角名は視線を上げる。銀貨三十枚で至った結果が、そこにはあった。
「お迎えにあがりました、先生」
黒塗りの車が止まり、ドアが開き声をかけられて角名は視線をいつもの場所に戻した。荒れたアスファルトに無機質な光沢の高級車。
「……」
美しい青空の下、誰もが何もかもに無関心である。
車に乗り込もうとして、穏やかな風が祝福のように流れ角名は笑ってしまう。雷一つない天は、誰の味方であろうか。
「それにしても、先生がボス達の専属医になるなんて意外でした。そういうの、嫌がるかと」
助手席の男が笑い「やっぱ金のためっすか?」とあけっぴろげに言い放つ。双子が手近に置く部下達はあくが強い奴らが多いので大して気にもせず、角名は何かを嘲るように笑いながら答えた。
「さぁ……なんのため、なんだろうね」
曖昧な返答がその闇医者の口から出てくること自体が珍しく、運転手も助手席の男も目を白黒させる。そんな彼らのことは無視して、角名は静かに目を瞑った。