明け渡る この湯治場へ来たのは、冬の寒さに痛む古傷を癒すのにいいからと、宇随に勧められたからだった。
湯治など贅沢な気もしたが、折角の勧めを断るのは悪いと言う不死川に引っ張られ、やって来て十日あまり。失った右腕以外の傷にも効果はあったのだろう、ここに来て随分体は楽になった。そしてそれは、不死川も同じのようだった。
穴場の秘湯だという温泉は人も少なく、毎日は静かに過ぎていった。大きな宿もない湯治場は自炊が基本で、食事は毎食不死川が作ってくれる。軒を並べる部屋に逗留する他の湯治客からお裾分けを貰うことも多く、昔住んでいた下町の長屋での暮らしみたいだと不死川は楽しそうだった。
冨岡は湯に浸かる以外は詰将棋をしたり、本を読んだり、昼寝をしてみたりと、すっかり怠惰な生活が身についてしまった。これまで張り詰めた生き方をしてきたのだからそれもいいと、不死川は笑う。
湯治場に来て二人きりの生活をするようになってから、不死川はよく笑顔を見せてくれるようになった。鬼を狩っていた頃は怒鳴られてばかりだったから知らなかったが、不死川は笑うと随分優しい顔になる。つられて冨岡も笑うことが増えた。こんなことは、鬼殺隊時代には想像したこともなかった。
片腕の男を目にするのは居心地が悪いだろうと、冨岡は他の湯治客とは時間をずらして入浴することが多かった。今朝も夜が明けきる前に、寝床に不死川を一人残してやって来たところだった。
朝の空気は冷たく、吐く息は白い。下駄を鳴らして進む湯場への道の脇には、溶け残りの雪の塊が昇り始めた朝日を受けて煌めいていた。
板で囲ってあるだけの脱衣所で褞袍と浴衣を脱ぎ、大きな岩で囲ってある露天風呂に浸かる。外気が冷たいせいか、湯は寝起きの肌にいつもより熱く感じられた。夜のうちに冷えた体に、湯の熱がじわりと染み込んでくる。
しばらく熱さに耐えているうちに体が温まってくると、右腕の疼きも徐々に治まってきた。冨岡は小さく安堵の息をつき、左手で湯をすくっては右の肩から何度も湯をかけ流す。心地がいい。来てよかった、と改めて思う。
目を閉じて岩にもたれかかり、腹の底から息を吐く。太陽の位置が徐々に高くなっていくにつれ、瞼を透かして降り注ぐ光も強くなってきた。そろそろ人が起き出して、風呂にやって来るかもしれない。体も温まったし上がろうかと湯の中で身じろぎしたとき、聞きなれた声が耳を打った。
「またテメェは、何にも言わねェで来やがって」
目を開くと、不死川がいた。肩に手ぬぐいを引っ掛け、ザブザブと湯の中へ入ってくる。
「おはよう、不死川」
「おはようじゃねェ。ちゃんと声かけてから出かけろォ」
不死川は冨岡の左隣に肩を並べて座り、湯の熱さに呻きのような声を洩らす。
「よく寝ていたから、起こすのは悪いと思ったんだ」
「目ェ覚まして、横にいるはずの奴がいねェ方が心臓に悪いわ」
「すまない」
毎朝のことだからいいだろうと冨岡は思ってしまうのだが、不死川は声をかけろといつも言う。かけても寝ぼけた返事しか返ってこないので眠りの邪魔をするのは悪いという、冨岡なりの気遣いのつもりではあるのだが。
「こんな時間に、珍しいな」
不死川は他の湯治客と同じような時間に浸かりに来ることが多い。そこで年老いた湯治客の入浴の手助けなどもしてやっているらしい。初めは不死川の傷だらけの体に恐れをなしていた他の湯治客たちも、今は随分と不死川を頼りにしていると聞く。
「……こんな時間でなきゃ入れない体にしたのは、どこのどいつだァ」
湯のせいばかりでなく顔を赤らめて、不死川が冨岡を睨みつけてくる。冨岡はあぁ、と間の抜けた声を出すと、温まってほんのりと色づいた不死川の肌に視線をやった。
不死川の首筋にひとつふたつ、ひときわ濃い紅の痕が散っている。昨夜冨岡が自らの唇で咲かせた華だ。
療養目的で行くのだから体を重ねるのはなしだと、旅立つ前に不死川には強く念を押されていたのだが、毎日浸かる温泉の湯に磨かれた不死川の肌は艶めかしく、見ているだけでは耐えられなかった。
指先と唇で触れるだけだからと説き伏せ、人の寝静まった真夜中に浴衣の帯を解いた。ガスランプのおぼろな明かりの中、壁の薄さを気にして声を抑えるため手ぬぐいを噛む不死川の体をまさぐった。
しっとりと指の腹に吸い付いてくる質感に、理性の箍が外れそうになるのをこらえた。耳朶を咥え、首筋に舌を這わせると不死川はピクリピクリと小さく身を震わせて応える。たまらなく唇を押し当て強い刺激を加えると、調子に乗るなと手ぬぐいを吐き出した不死川から蹴りを食らってしまったが、冨岡は満足だった。
欲を言えばもっと深い交わりを体は求めていたが、この環境でそこまで望むのは贅沢が過ぎるというものだろう。
「虫に刺されたと言えば、何とかならないか」
「冬だぞォ今。虫なんざいるわけないだろうが」
「む、そうか」
「考えなしだなァ、テメェは」
呆れたような物言いも、気を許していてくれているからこそだ。
「冨岡」
「ん?」
「体の調子、どうなんだ」
「随分いい。腕の痛みも軽くなった」
「そうかィ」
湯の中で不死川の手が伸びてきて、二本欠落した指が冨岡の指を取り握りしめてくる。
「そろそろ、帰るかァ……」
独り言めいた口調で、不死川が呟いた。
屋敷へ戻れば、誰にも邪魔されることのない時間が戻ってくる。夜は月明かりの下、はばかることなく不死川と共寝もできる。不死川もそれを望んでいるのだと、受け止めてもいいのだろうか。
「昨夜のあれでは、物足りなかったか?」
試しにそう訊ねてみると、大量の湯が頭の上から降ってきた。空いている左手一本で跳ね上げたとは思えない湯の量だった。冨岡はしばし呆然となって、濡れた髪から湯を垂らしながらまばたきを繰り返す。
「……うるせェ」
照れ隠しに声を荒げる男なのだ、不死川は。単に怒りっぽいのだけだと誤解していたかつての自分に、教えてやりたい気分だ。冨岡はひっそりと微笑んで口を開く。
「帰ろう、不死川。俺は物足りなかった」
繋いでいない方の不死川の手が冨岡の濡れた髪を掻き上げて、頬を伝う湯を拭う。
「仕方ねェな……テメェがそう言うんなら」
不死川は渋々といった調子で相槌を打つ。いかにも冨岡の我儘に付き合ってやるんだという風情だ。不死川自身の望みでもあるだろうに、思いの外狡い男である。
「そうだ。仕方ない」
わかっていて狡さに乗ってやるのは、素直になれない不死川の性格をも愛おしいと思うからだ。冨岡は繋いでいた不死川の指を己の指で絡め取り、強く握り直す。手の届くところに慕わしい相手がいる、そのことが幸せでならなかった。
「宇随に土産を買って帰らなければな」
「竈門たちにもだろォ。お前が訪ねて行ってやったら喜ぶだろ」
「その時は不死川も一緒に行こう。炭治郎が顔を見たがっていたぞ」
他愛もない話を交わしているうちにも、あたりはどんどん明るさを増していく。人のやってくる気配はまだない。もうしばらくは二人でいさせてくれと心の中で願いながら、冨岡は降り注ぐ朝日の眩しさに切れ長の目を細めた。