それは春のことだった 日差しが柔らかな昼下がり、イルセはベランダに立ち、吹き抜ける風に身をゆだねて外を眺めていた。
この町に来るのはこれで二度目だ。一度目は内見で、今回は引っ越し。これからはここが帰る場所なのだと思うと、少し不思議な気分だった。今まで生まれ育った町を出て暮らしたことがなかったし、そんな機会はないと思っていた。それで良いと思っていたのに、新天地へとやってきて新たな生活が始まろうとしている。
「なんだか、夢みたい」
「……うっとりしてる所悪いけどな、あんまぼんやりしてると風邪引くぜ」
そう言って来るのはイルセの婚約者のガミジンだった。彼は彼女の肩に自分の上着を掛け、隣に立つ。
「風が気持ちよかったから、つい」
「日も出てて温いが、それでもまだ春だ。すぐ寒くなる。また病院に行くのは嫌だろ」
「嫌です」
「じゃあ、あと5分したら中に戻れ」
「はーい」
それから互いに黙り込み、町を眺めた。穏やかな空気が流れ、どこからか子どもの声が聞こえて来る。こちらの窓からは見えないが、このマンションの後ろには山があって、歩いて10分ほどの場所に病院がある。
「……ここで良かったのか」
聞き流してしまえそうなほど、小さな声でガミジンが訊ねた。イルセが覗き見た彼の横顔は、どこか不安げで、痛いものに触れているような悲しさがあった。彼は、あの家からイルセを連れ出した負い目があるらしい。あそこで緩やかに、なんの変化もないままで過ごしていれば、きっと余計なものをイルセが感じることもなかった。それを悩み続けているのだ。
けれど、その痛みはイルセが望んだものではない。
「私に、新しい幸せをくれるって言ってくれたから、それを信じたんです。だから、ここが良いかどうかはまだわからない」
ガミジンはその言葉に、ハッとしてイルセを振り返った。傷付けたくない、苦しませたくない、笑って欲しい、彼がイルセにそう思うように、イルセもまた彼にそう思ってる。
「でもね、ガミジンさんが連れてきてくれる場所なら、何処だって良かったんです。どんな所にいても、私はあなたを信じてついて行くし、信じてます」
「イルセ……」
「だからね、ガミジンさん。今度は私が言います。『二人で』幸せになりましょう。ガミジンさんと私、お互いが笑えるように生きましょう。ここで……最期まで」
「……ああ、今度こそ、絶対に」
「はい、今度は一緒です」
イルセとガミジンの部屋の契約期間は3年、イルセに告げられた余命は2年、二人に残された時間は長くはなかった。