鎖 夕暮れの繁華街に人の群れがあった。酒を片手に皆が見ているのは素人の路上劇らしい。ガミジンはほんの気紛れから素人芝居を冷やかす気分になって立ち止まった。
大まかにわかる筋書きは一人の女に入れ込んだ金持ちの男の破滅。男がどれ程愛しても、女は釣れない。それでも男は女に縛られることを望んでいた。まるで女がこの世のすべてであるかのようで、男は何を捧げることも厭わない。
「君のためならばこの命すら惜しくない」
大袈裟な台詞に、ガミジンは眉間にシワを寄せた。たかだか女に命さえなげうつ、その神経がわからなかった。
ただのヴィータだ。餌にもならない、金は搾り取られる。害虫にも等しいお荷物でしかないのに、なぜ自ら絡め取られようとするのか。
ヴィータは皆等しく何かに縛られることを選ぶ、家庭や法、社会やコミューン、金や雇用、そして女。
その気になればそこから出ていけるはずなのに出ていった先で新たな環境を得て、また自分を繋ぎ止める鎖に自ら首をはめる。
その鎖は自由を奪い去る忌むべきものだというのに、生殺与奪や略奪の自由だけではない、自らの生死さえも他人を考慮せねばならないものになる。煩わしいことこの上ない。
そして、そんなものに縛られている自分自身も煩わしい。ガミジンは背負った荷物の重さにため息を漏らして薄暗い裏通りへと姿を消した。
湿っぽくてカビ臭い空気が満ちたこの通りはヴィータ社会の底辺を表しているようだ。雨が降らない夜でもこの通りは誰かの体液や酒でで濡れている。顔を背けたくなるような悪臭に包まれながら、ガミジンはすがり付いてきた年寄りを振りほどいて進む。
マントのフードを目深に被り顔を隠しながら歩いていると足元から視線を感じたが、彼はそれを無視して歩き続けた。立ち止まれば酷い目に遭うことはわかっていた。
鬱屈として淀んだ空気を纏っていると、自分もまたヴァイガルドの底辺だと思い知らされて屈辱だった。だが、腑抜けた表通りにいるよりも遥かにましだと言い聞かせた。そんな風に思っていなければ尊厳を守れない自分はもっと惨めで、『負け犬』らしいと理解していた。
生きているだけで、彼は自分が自分である誇りを損なっていた。
いっそメギドであった頃を忘れられたならどれ程幸せだっただろう。こう考えるのも何度目か、気が弱くなっている自分を自覚して彼は舌打ちをした。
苛つく。ヴァイガルドも、のんきなヴィータも、ままならないこの体も、考えても仕方がないことを考える頭も、下らないことでまた暴れたくなる自分自身の闘争本能も、全てが彼を苛立たせた。
(早く依頼の報告に行かねぇと……また寝床がなくなる)
余計な感傷にふける余裕は彼にない。懐が寒い者にとって時間は貴重な財産なのだ。
薄暗いランプが吊り下げられたドアを押し開け、彼はその中に足を踏み入れた。
そこは酒場だった。表通りにあるものとは違い、客同士の殴り合いや賭けがそこかしこで催されていて姦しい。床には真新しい吐瀉物や血液がへばりついているせいで二歩進めば爪先が汚れる。
負け犬の掃き溜めと呼ぶには相応しい堕落ぶりだ。
ガミジンはなるべく息を殺してカウンターへと向かい、店主の目の前に陣取るように席に座った。店主は彼を見付けると無愛想に「おかえり」と声をかけた。
「首尾はどうだったね?」
店主の質問に対して彼は二つの腕輪を差し出した。
「例のゴロツキから預かった。もう暴れねぇってシルシだとさ、それとこいつも寄越してきた」
もののついでのようにカウンターに乗せたのは彼らが盗んだのであろう首飾りだ。高価なものだと一目でわかる豪奢なものだった。
「おや、案外手際がいいじゃないか。お前さんここらじゃ見掛けない顔だが、中々いい腕だね」
「そりゃどうも、報酬は?」
「それなんだがね、依頼主が直接あんたに会って渡したいとか言い出して……そっちの部屋で待ってるよ」
ガミジンは顔をしかめた。
「おい、んなことは聞いてねぇぞ。依頼達成の成果を渡したら即座に金が貰えるって話だったろうが。そういう条件だからこの仕事を受けたんだぜ」
店主は彼の言葉に対して申し訳なさそうに眉をひそめた。
「お前さんに依頼を勧めた身として申し訳ないんだが、向こうがそう言うんじゃ断れないのさ。悪いがそっちで話をつけてきておくれ。依頼主……ウルグス様がお待ちだ」
「……わかったよ」
悪態をつき、彼はカウンターの上に置いた成果物を手に店主が示した部屋へ向かった。そこは滅多に使われない個室で、身分を隠してここへ来る訳ありの要人などが通されると噂されている部屋だった。
(簡単だが割りのいい仕事だとは思ったが、妙な奴が絡んでやがったか……)
苛立ちを抑え込みガミジンは扉をノックした。するとほどなく中から若い男の声が聞こえてきた。荒っぽい依頼とは程遠い、妙に爽やかな声音だった。不信感を抱きつつ彼は扉を開けて部屋の中に入った。
部屋には酒瓶が並んだ戸棚と古びたひとりがけのソファが二つ、背の低いテーブルがソファの間に一つ置かれていた。
手狭だが扉も壁も作りがしっかりとしていて、ちょっとやそっとでは外に音が漏れそうもない。
「よぉ、オマエが依頼を受けてくれた傭兵か?アイツらには手を焼いてたんで助かった」
弾むような声音で気安く話し掛けてきた依頼主はガミジンと同じように目深にフードを被っていて、その下から覗く容貌はまだ青年のようだった。
「……アンタが依頼主のウルグスか」
「ああ……ところで、フード外してくれるとありがたいんだが」
「汚れ仕事を請ける傭兵のツラなんか見て面白いか」
「そんな卑屈なこと言うなって。個人的な興味だよ、どんな奴がこの依頼を受けてくれたのか知りたかったんだ。なんなら先にフードを取るよ」
そう言うとウルグスはフードを取り払う。改めて晒された彼の素顔はやはり血生臭い気配とは程遠い若々しい青年の顔だった。しかし、ウルグスがまとうマントに染み付いている他人の物であろう血の痕は彼が暗い世界の住人であることをはっきりと証明していた。
「ほら、俺は顔を見せたぜ。そっちもフードを取ってくれ」
ガミジンは少しの間ためらって、諦めたようにフードを取り払った。ウルグスは彼の顔を驚いたように見詰めた。
この反応がわかっていたからこそガミジンは顔を隠していたのだ。
フードの下から現れたガミジンの顔は、誰の目にも明らかな少年の面立ちをしていた。薄く日に焼けた肌は煤汚れと擦り傷が浮いていて、マントからのびる手足は大人の男のそれと比べればまだ未発達で細い。特筆すべきはその目だ。切れ長の薄紅の瞳はこの世のすべてに絶望しているように暗く光がない、その年頃の少年のそれとは思えないような深い憎悪を宿していた。
「……驚いたな。オマエ、いくつだ?」
「たぶん今年で14だ」
「若いとは聞いてたが……まだそんな歳か。立ちっぱなしにして悪いな、まあ座ってくれよ」
ソファを勧められたがガミジンは動かない。
「どうした?」
「……若いって聞いて俺に会おうとしたのか」
「そうだけど」
「……『ソッチ』の仕事は請けねぇって決めてる」
「なんかおぞましい勘違いしてんだろ」
「違うのか」
「違う!……話が進まねえからまず座れよ……『ソッチ』の趣味とか悪い冗談だろ。
……いや、そうか。オマエの歳ならあり得ない話じゃねぇのか」
「そういうことだ。悪いが警戒させて貰う」
ガミジンはソファに腰掛けながら獲物を手にしてウルグスに向き直った。ウルグスはさして気に留める様子もなく「その方が安心するならそれでいい」と言って話を始めた。