夢で会えたなら 心地好い風が頬を撫でる感触でガミジンは目を覚ました。
やわらかな日差しの温もりと少し冷たい風が深い眠りへ彼を誘っていたらしい。彼は身体を起こし周囲を見回すと、あり得ない光景に思わず立ち上がった。
そこはありふれた古い家屋の中だった。どこにでもあるような造りだが、その調度品に残る傷や窓から差し込む光が思い出させる既視感はとうの昔に二度と覚えることはないと思っていたはずのものだ。
「ッ……!!」
咄嗟に声が出ない。彼はその場に足りない一人のヴィータを探した。
見付かるわけがない、見付かる方が異常だ。そうは思っても、探さずにはいられない。
いつかこんな日があった。ガミジンが先にこの家に着いた時、彼女はまだ外から戻ってきていなかった。
あれは確か、まだ肌寒い春のことだった。そう思い至ると彼は咄嗟に家の扉に手を伸ばし、外へと踏み出した。
昼日中の強い日差しに一瞬目を眩ませ再び目を開いたその時、彼の目に写ったのは望んでいた一人の女の姿だった。
ガミジンに背を向け、頼りない細い身体で春の強い風を受けてそこに立っていた。見間違えるはずもない、たった一人だ。
「…………イルセ」
ガミジンの言葉に応えるように、女は振り返った。吹き付ける風に髪やスカートを弄ばれながらその場に立ち尽くし、ガミジンをまっすぐに見返して花のように微笑む彼女は、ガミジンが最後に見た彼女と寸分違わないイルセだった。
それを認めると、ガミジンは何も言えぬままに彼女のそばに歩み寄って彼女を見詰めていた。イルセもまた、ガミジンを見詰めていた。
長い長い沈黙の中、痺れを切らしたようにイルセが吹き出した。
「何か言ってください、気まずくなっちゃうじゃないですか」
ころころと笑うその声も、仕草も表情も、懐かしかった。何かを言おうとして喉を通った空気は何も奏でられないまま空に溶けた。
イルセは目を細めてガミジンを見上げ、囁くように呟いた。
「前よりも大人になりましたね」
その言葉にガミジンは思わず苦笑した。
「いい歳した男に、何言ってんだ」
「ふふ、そうですね。会った頃からガミジンさんは大人でしたね……でも、あなたの顔を見ればあの日からどれだけの時間が経ったのか、どんな苦労を重ねたのかわかります」
『あの日』という言葉にガミジンは眉根を寄せた。彼女が言う『あの日』とは、彼らが最後に顔を合わせた日の事だろう。あの日以来、二人は長い間会うことが出来ていない。それを思い知らされて彼は顔を俯かせた。彼女を見詰めることすら申し訳ない気がしてしまったのだ。
「……悲しい顔をしないでください、こうやって会えたのにガミジンさんが笑ってくれないのは寂しいです」
「……悪い」
「謝って欲しいわけでもないんです。ほら、私を見てください」
彼女の言葉に従って彼は顔をあげた。
イルセは最後に見たあの頃と変わらないままだった。それが彼の胸を締め付けた。もう二度と彼女の時は動くことはないのだと、そう思い知らされるようだった。
「またそんな顔をして……そんなに悲しいことなんてないじゃないですか」
困ったように笑うその顔を見て、ガミジンは自分の中で何かが音を立てて切れるのを感じた。
「悲しくないわけがねぇだろ……! なんでテメェがもうこの世界にいなくて、俺がのうのうと生きてるんだ……割りに合わねぇだろ、こんなの……」
堰が切れたように言葉を溢しながら、頬を伝っていくものを無視した。どんなに無様でも、彼女の前でならば構いやしない。
「この際だ、言いたいことは全部言ってやる。俺は……元々テメェに会うまで生きてくつもりなんざ更々なかったんだよ……ずっと、どこかでくたばれば良いと思ってた。もう何もしたくなかった、出来ないと思ってた……。なのに、イルセ……テメェに会ってから全部が変わっちまった。毎日、テメェに会うことを思えばこんな世界で生きていくことも悪くないと思えた。明日もイルセといられると思えば死ぬことなんて考えられなかった……一緒に生きていけたらなんて、思い上がっちまった……テメェに会ったからだ、そうでなきゃヴィータに生まれたことに感謝なんかしなかった……! テメェのために何か出来るなら、俺なんかでも何かを手に入れられるかもしれねぇと思ったんだ……」
視界が歪む。目の前に立つ彼女の表情が見えない、この視界から消してしまいたくないのに、その輪郭が捉えられない。
流れる涙もそのままに、ガミジンは言葉を重ねた。
「なのに……テメェは俺の前から消えた。俺が間に合わなかったから……もっと、早く動いてたら、もっと前から何かしてたら……こんなことにならなかったのかもしれねぇのに……俺が、俺がテメェを……」
とうの昔にケリをつけたと思い込んだ過ちと悔恨が喉奥にまで迫る。忘れられるはずもなければ、打ち克つことも叶わなかったのだ。至らない自分を自嘲して笑おうとした声は嗚咽になって漏れ出る。上手く笑えない、こんな思いを抱えて彼女の前では笑えなかった。
ガミジンは再び俯いて右手で顔を覆った。こんな顔を見せたくはない。
(何やってんだ、俺……こんなことを言いたいわけじゃねぇだろ)
言うべき言葉が、言いたい言葉があった。けれどもそれらは彼女を前にすると上手く喉から先へ吐き出すことができない。ずっとそれを後悔していたはずなのに、何も変われていない自分に彼は悔やんだ。
今、イルセの顔を見ることが怖かった。自分のせいで不幸にしたかもしれない女がどんな顔で自分を見ているのか考えられなかった。
重い沈黙の中、ガミジンが顔をあげるのとほとんど同時に、胸元に温かな感触を覚えた。
イルセが彼の胸に頭を預けたのだ。背中には手を回しているらしい。彼は戸惑いながら彼女に触れないように腕を浮かした。
そして彼女は話し始めた。
「……ガミジンさん、私、あなたに会わなかったら一人で死ぬはずだったんです」
「……俺に会っても一人だったろ」
「還る時はそうでした。でも、私の中にはあなたがいました。そこにいなくても、私の心にはあなたがいた……最期の瞬間にあなたのことを想っていられました。だから、救われたんです」
イルセが顔を押し付けている辺りがじわりと熱く湿り気を帯びる。
「もう先がないのに、考えても仕方ないことを考えて苦しまずに済みました。未来があるあなたのことを想って……自分のことばかりを考えないで、沢山の想い出に浸っていられました。もう一度あなたに会えないことは本当に寂しかったけれど、これまでの時間があったから私は最期まで幸せでした」
イルセは顔をあげてガミジンを見詰めた。ぽろぽろと涙を流しながらも、懸命に微笑んでいた。
「ガミジンさんが、いたからです。私と出会ってくれたからです。だから、悲しい顔をしないでください」
そう言って、イルセはガミジンの頬に触れた。ガミジンはその手に自分の手を重ねて下手くそな笑顔を浮かべた。
「私はもうあなたとおしゃべりも出来ないし、お茶をいれてもてなしたりも出来ない……それでも、私との想い出は忘れないでくれますか?
まだ、生きることを諦めないでいてくれますか?」
ガミジンはかぶりを振って答えた。
「テメェが話せなくたって俺が何度でも話すし、茶がなくても俺が酒を注いでやる……この先何回もそうするさ……俺が老いぼれになっても、イルセを忘れることはない」
彼の答えにイルセはまた涙を流して笑う。
「……嬉しい」
互いに見つめ合ったまま、二人は手を重ねた。そこから遠ざかることも、近付くこともない。
不意にイルセがガミジンに言う。
「……ガミジンさん、いつか私がいる世界へ還って、またもう一度会ってくれますか」
ガミジンは口をつぐんだ。メギドの魂がヴァイガルドに還ることなど出来るのか、あまりにも不確定で曖昧な未来だ。だが、それでも彼は願わずにはいられない。そうあって欲しいと思わずにはいられなかった。
「……きっと、テメェがいる場所へ俺もいく。それまで待っててくれ」
「……はい」
ゆっくりと形を失う世界の中心で、二人は互いの手をずっと繋いでいた。固く結んで離れないように。
「……きっと俺はここでテメェと話したことを忘れる。それでも、許してくれるか」
「生きていく限りヴィータは忘れてしまうものですから……代わりに私が連れていきます。そして、何度でもここであなたと話します。あなたが私の元へと来る日まで」
「ああ、連れていってくれ。今の俺がテメェに言った言葉も一緒に」
目映い光の中、二人は目を閉じた。
再びその目を開く時、互いはそこにいないと理解していた。それでも、もう目を開けることが恐くなかった。確かに繋いだ掌の熱が互いに残っていたから。
*
イルセの墓の前でガミジンは目を覚ました。
ひどく懐かしい夢を見ていたような、不思議な胸の温かさに満たされていた。
「……本当にテメェと話したような気分だよ」
ガミジンは笑う、少し赤い目を細めて風に揺れる銀色の首飾りを見つめて。
涙のような光が瞬いて彼の目に鮮烈な印象を刻んだ。